「絡みつく鎖、きしむ絆」直後の話。
──温かい。
リオン・マグナスがまず感じたのは、柔らかな温もりだった。
不自然な体勢を強制されているのに、不快ではない。常に体が揺れているのは何故なのか、時折首筋を撫でる冷たさは何か……?
ひんやりとした夜風は、深い眠りについていた少年を覚醒へと導いた。
拭っても拭っても、首筋の冷たさはなくならない。それから逃れるように、体をすり寄せ──温もりの正体を知る。
「……な、あっ!」
「──ああ。お早いお目覚めで」
すぐ傍から発せられる、どこかぼんやりとした声。
ここ最近でずいぶん聞き慣れた声の主は、先ほど彼を見捨てたはずのフィオレのものだった。
それでも揺れは止まらない──フィオレの歩みは止まらない。
リオンは、幼子のように背負われていた。
フィオレが常日頃身につける外套で包まれており、わずかな柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
それが彼女が好んで使う香水だとわかった瞬間。どうしようもない恥ずかしさを覚えて、リオンは反射的に降ろせと叫んでいた。
「別にかまいませんけど、大丈夫ですか?」
「な、何が」
「ちゃんと足元、というか周囲を見ましょう。屋根の上とか、歩いたことあります?」
言われて、顔を上げる。
見回せば月が随分近くに感じられ、知っているはずの道が、地面が遠かった。
──そう。あろうことかフィオレは、高級住宅街の家々の屋根を伝いながら屋敷への帰路についていたのである。
「な、ちゃ、ちゃんと地面を歩け馬鹿者!」
「建国記念を祝して、王城の周囲も市街も人が多かったのでね。あなたを担いでいるところで絡まれても嫌だったので」
「この辺りなら、そんなこと──」
「あなたを背負ったまま、行きずりの強盗と立ち回りはできません」
つまり、屋敷に着くまで降りる気は毛頭ないらしい。
リオンは内心の狼狽を押し隠し、拗ねたふりをしてフィオレの背中に体を預けた。
隣接する屋根を伝い、時にリオンを背負ったまま跳躍し、フィオレは歩みを続けている。リオンにかからないようにとの配慮か、前に垂らしている三つ編みがその度に跳ねた。
手持ち無沙汰な両腕を動かし、目の前の肩を掴む。
どうにも座りが悪く、ちょうどいい位置を探して彷徨わせていると、フィオレが口を開いた。
「私の首に手を回して交差してください。間違っても、首は絞めないように」
言われてようやく、おずおずと腕の位置を固定させる。
フィオレとますます密着する形になってしまい、自らの意志とは異なる鼓動が伝わらないよう、祈るしかなかった。
当のフィオレは、彼の内心など一切構った様子はない。
「オンブに慣れていないようですね」
「……背負われた覚えなんか、ない」
「?」
「乳母役だった
「なるほど」
ぽつりぽつりと戸惑う理由を語るリオンに、彼女はただそれだけを答えた。
沈黙が再び訪れる。
細い背中だ。身を預けるのに不安が生じる程度には。しかし不安定なはずの屋根を歩くフィオレの足取りはしっかりとしており、彼女が優れた平衡感覚の持ち主であることを、まざまざとリオンに見せつけた。
少なくとも、彼は背中に人一人を乗せて屋根の上をこのように歩くことは出来ないだろう。
──どうして、こんなことにまで優れているのか。
剣術のみならず交戦技術の豊富さ、巧さ。
その在り方に一部の隙もなく、こうしてただ歩いている時もまるで気が抜けていないのだ。もしリオンがこの状態のまま刺そうとしても、彼女は即座に彼を振り払うことができるだろう。
長いとはけして思わない付き合いの中で、知りたくもなかった彼女の情報を嫌々ながらに知った。
物事に対する構え方は腹立たしくなるほど泰然としており、水鏡のような表情はほんのわずかな波紋程度にしか乱れたことはない。
先だってのような激しい感情の発露を、見たことが無いわけではない。彼女は笑いもするし怒りもする。しかしそれは、常に刹那の出来事だ。
気のせいかと思うほどに、夢であったかのように、スイッチを切り替えたかのように。表に出した感情を、彼女はけして引きずらない。
記憶を失っているはずなのに十分豊富に値する知識量に、彼の常識では理屈に見当すらつかない不可解な手品。
雑学なら尋ねればいくらでも教えてくれるのに、彼が本当に知りたいことは何一つ答えようとしない。
自分とそう変わらないはずなのに、なぜここまで余裕綽々であれるのか。
出会い、このときに至るまで。比べられているわけでもないのに、劣等感だけがどんどん育っていく。
認めがたい憧れも、これまでまったく見えてこなかった、彼女自身への興味も。
しかし、真っ正直に尋ねたところで、またはぐらかされるのは自明の理だった。
「無様でしたね」
苦い嫉妬の念から目を背けていると、不意にフィオレが口を開く。
叱責とは程遠い独白に近い調子ではあったが、それはまるで呪いのように、じわじわと彼の心を蝕んだ。
「まさか、単なる一般人の集団にあんな遅れを取るなんて思いもよりませんでした。怪我のひとつもしているのかと思ったら、そうでもないし」
「っ!」
それはつまり、彼女に自分の裸を見られたことを意味する。
羞恥で頬の血を上らせる彼などまったく気遣う調子もないまま、言葉は更に続いた。
「あの連中が手馴れていたのか、あなたが油断していたのか、あのド屑の命令だったのか……ああ、それはありませんか。あなたは命令拒否であのような仕置「やめろっ!」
声音は普段のまま、何の感情も込められていないからこそ、紛うことなき事実が浮き彫りになる。
それをそのまま突きつけられることに恐怖したリオンが怒鳴ると、フィオレはぴたりと口を閉ざした。
「なら何ができたというんだ。抵抗の末にヒューゴ様の配下を傷つけ、殺すのか? 命令が聞けない、と言う時点で僕に非がある。仕置きをされるのは、当然……当然に、決まって……」
「そんなわけありませんよね」
激昂した呼気荒い声音が、徐々に尻すぼみになっていく。
それに合わせて、フィオレはさらりと否定を口にした。
「私が同じ立場だったとしても、できたのは……逃亡くらいでしょうか。最も、私の主はあんな人でなしではありませんでしたが」
「……は?」
『ある、じ?』
さらりと零された言葉は、リオンとシャルティエを混乱の渦に突き落とした。
つまり彼女は、以前誰か、上流貴族か何かに仕えていた──
「まあ、そんなことはさておいてですね。以前から不思議でした。なぜあのような屑に仕えることができるんですか? この世からご退場願うのはまあ、最終手段として。武力行使を伴って何かしら訴えるくらいはできるでしょうに」
それを考える暇もなく、フィオレの質問が続く。
聞き捨てならないその言葉を聞き、リオンは意味もなく訂正を求めていた。
「……取り消せ。ヒューゴ様への侮辱は許さない」
「わかりました、取り消しましょう。なぜあなたは唯々諾々とヒューゴ様にお仕えするのですか? 親子だから、とか、跡継ぎだから、とか、あなたが望んでいることだとばかり思っていましたが、どうも違うご様子ですし」
「……お前には関係ない」
「そうですか。それもそうですね」
いつになくしつこいフィオレではあったが、リオンに拒絶され、未練らしい未練もなく口を閉ざす。
降り積もる沈黙の中で、再び音を発したのはリオンだった。
「……どうして、助けた」
リオンの知る彼女は、けして善人というわけではない。基本的には他人に無関心で、打算が絡まぬ場合は、助けるも見捨てるも気分次第の気紛れ屋だと彼は思っている。
殺生に関しては、無益にして無駄を好まない代わりに、容赦がない。
良心や仏心を容易に出さず、これまでためらうという素振りをリオンは見たことがない。
そして、滅多なことで嘘を言わない。ヒューゴに言った言葉も、彼女の中では事実なのだろう。
そんなことは百も承知のはずだった。
自分とて、嫌々ながらヒューゴの命令でフィオレより剣術指南を受けている。
見捨てられた、という思いは錯覚、言い知れない寂しさは気のせいだと、彼は自分に言い聞かせている。
ヒューゴの言うとおり、フィオレはあそこで出て行き、離れればそれで彼女の都合はついた。
それを曲げて、どうでもいいはずのリオンを助けた理由は──
「私はあなたを、子供だと思っているからです」
「……!」
その答えは、今のリオンを逆上させるに十分すぎる一言だった。
言われて、その言葉を理解した瞬間。頭の中が真っ白になるような感覚に襲われ、自分の腕に力がこもる。
その腕が、目の前のうなじを締め上げるその前に。
真下から吹き上げる風に気を取られ、リオンは咄嗟にフィオレにしがみついた。
「……ィスティア。緩衝材をお願いします」
それも刹那のこと。
トン、と硬い音が響いたかと思うと、彼は唐突に温もりから引き離された。
自分の足が硬い石畳に触れたことで、初めてフィオレが地面へ飛び降り、背中のリオンを下ろしたことを知る。
くるりと振り返ったフィオレは、ただ淡々と口上を述べた。
「訂正はしません。謝罪も。他人がどう思おうと、私はあなたを大人だと思っていないんです。そして子供を護るのは、大人の義務だと思っている。だから助けました。私の独りよがりな都合でね」
これといった感情も感じられないまま、再び口を閉ざす。
まるでリオンが訂正を求めて喚くのを待っているかのように静かに佇む様子が気に入らず、片方だけの眼を睨みつけた。
「……そんなことはわかっている」
苦虫を噛み潰したかのような、リオンの声音。それを聞いてほんの僅か、藍色の瞳は見開かれた。
以前からわかっていたことだ。
彼女の言動に不愉快を覚え、安易に不満をぶつけただけ、自分の幼さを思い知らされる。
それだけならばよかった。彼女が自分を子ども扱いするなら、勝手にすればいいと。
見目や功績だけで自分に対し熱を上げる、何も知らない令嬢や街娘たちに対するように、無関心であればよかったのだ。
それができなかった。理由は、わからない。
無視をするに身近すぎるからなのか、彼女を見ていて胸をかきむしりたくなるような焦燥感に襲われる、感情の正体が関係しているのか──
「……自覚しているなら話は早い」
僅かに見開かれていた瞳が、もとの大きさに戻っていく。
そんな些細な動作がわかるほどにフィオレを凝視していた自分に気付いたリオンの心境を知って知らずか、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「お励みください。私がヒューゴ様に解雇される日を、楽しみにしています」
「……お前に言われるまでもない。精々寝首をかかれないよう、気をつけるんだな」
対峙する二人を、夜風が撫でていく。リオンを包んでいた外套がはためき、即席の三つ編みがなびいた。
その拍子に紐が解け、月明かりに染められた髪がばさりと広がる──
「戻りましょうか」
不意の突風にさらわれた絹のリボンを惜しむことなく見送りながら、フィオレは歩き出した。