神の眼事変以前、あるいは十八年後は、そうでもないかもしれませんが。
全力疾走の末、神殿へと帰りついたフィオレは、そのまま神殿の周囲をぶらついていた。
神殿の周囲には巡礼者向けなのか、行商人が地面に布を敷いたり簡易天幕を設置するなどして、何やかやと売っていたりするのだ。
多くはミニチュアサイズのアタモニ神やその偶像が彫られた文鎮やら聖印、神殿関連のなんだかよくわからないグッズだが、中には武器防具を並べている商人もいる。
護衛にきた人間が不慮の事故で武具を破損してしまった場合を想定しての商売だろう。あるいは、神殿に住む僧兵対象か。
フィオレの目当てがまさにそれだった。
流れの行商人ならば、何か掘り出し物をおいてある可能性がある。
……もっとも、それはあくまでフィオレの勝手な推察であって、まったく的外れである恐れもあるわけだが。
この世界で刀は、とある島国特有のものであるらしい。少なくとも、存在しないわけではないのだ。
やはり駄目元で、フィオレは簡易天幕の中にいた行商人に尋ねた。
「片刃の剣はありますか?」
壮年の行商人は億劫そうにフィオレを見て、それから自分の前に並べてある商品に視線を走らせている。
「片刃の剣、ねえ……そういうのは扱っていないんだが、これはどうだい?」
行商人がどこからともなく取り出したのは、並べられていなかった一振りの細い棒状だ。
緩やかな弧を描いた刀身を包む白鞘拵えの長刀である。その鞘には不要なほど緻密な装飾が施されており、地味ではあるが目を見張るほど凝った作りをしている。その装飾が目立たぬようになのか、白鞘拵えのそれは黒く塗られ、艶も消されていた。
しかし、それはフィオレが注意深く観察した結果の話。
ただ見ただけでは妙に小汚い、ただの棒っきれにしか見えなかった。本気なのかわざとなのか、行商人はひどくぞんざいな手つきで長刀を扱っている。
「刃はついてないが、これならねえちゃんの細い腕でも振り回せると思うぜ?」
……どうやら、冷やかしか何かだと思われているらしい。
行商人の揶揄に取り合わず、改めてまじまじと棒状を見やる。
単なる木刀なら、こんな装飾はいらないはずだ。
ましてや、何かが収まっていることを示すかのような切れ込みはいらない。
「そうだな……財布まるごとでいいぜ」
「本当にいいんですか?」
そんな条件で、まさか購入するとは思っていなかったのだろう。商人は目を点にしているが全く気にすることもなく、フィオレは持っていた小さな袋を放った。
普段なら逡巡するところ、現在フィオレは先ほど狩った魔物が落としたものしか持っていない。レンズも入れておいたため、総額で五十ガルド強というところか。
もちろん商人は、財布の中身を見て機嫌を損ねていた。
「……しけてんなあ……」
「財布丸ごとでいいと言ったのはあなたです」
もはや商人にはとりあわず、初めて棒状を手に取る。
持った感覚は、やはり何かを内包する鞘だった。
「おいおい、そいつは……」
竹光でないことを祈りつつ、ゆっくり引き抜いたその切っ先は──
「……悪い冗談ですね」
しっとりとした鋼の輝き、それも幻想的な淡紫が刃を妖しく煌かせる。
もちろん、両刃だというオチはない。
「片刃の剣は、扱っていないなんて」
やはり行商人は、この刀を木剣と同レベルで管理していたようだ。刀身は艶やかなまでに美しいが、全体的に埃っぽいし、柄には泥すら付着している。早々に手入れをしなければ、刀が泣くというものだ。
音を立てて鞘に収め、くるりときびすを返す。
そのまま天幕を出たフィオレの背中を、商人の焦声が追いかけた。
「お、おい! 待てよ、嬢ちゃん!」
何気にねえちゃんから嬢ちゃんに年齢ランクが下がっている。
無視して神殿へ戻ろうとして、駆け寄ってきた商人に目の前を塞がれた。
「なんですか」
「俺としたことが、値段を間違えちまってな。後金を払ってもらうぜ」
とんでもない屁理屈である。
気持ちがわからないわけではないが、さりとて応じることはできない。
「そんな話は聞いていません」
「なら返してもらおうか」
じりじりと迫る行商人が、見た目から想像もできない俊敏さで突進を試みる。
しかしそれはあくまで見た目を考えればの話、見切れぬほどのものではない。
ひょい、とそれを避ければ、彼は通りがかりの司祭へ盛大に抱きついていた。
「きゃあああっ!」
不幸なことに、司祭は女性だったらしい。
若葉色の髪を注連縄のようなふたつのおさげにした、真っ白な司祭服に丸眼鏡の──
「って、フィリア?」
「フィオレさん、やっと見つけました」
慌てて離れた商人を押しのけ、フィオレのもとへ駆け寄る。
あまり男性と接したことがないらしい彼女にとって、今のことはかなりショックだったのだろう。もともと白い頬が、かなり青ざめていた。
「どこへ行ってらしたんですか。散策に出るといってなかなかお帰りになられないから、魔物に襲われたのではないかとわたくし、気が気でなくて……!」
どうも、彼女の顔色が悪いのは今の出来事だけが原因ではないらしい。よくよく見れば、眼鏡の奥のつぶらな瞳もかなり潤んでいる。
すみません、と謝る間にも、事態は更にややこしくなっていた。
「何事だ!」
悲鳴を聞きつけてきたのか、数人の僧兵が駆けつけてくる。
彼らはフィリアの姿を認め、小さく敬礼をしてから事情の説明を求めてきた。
「この人が、司祭に抱きつきました」
すかさず口を開いたのはフィオレである。
不名誉な事実を突きつけられた商人は、はっと我に返って反論を言い立てた。
「ちょ、ちょっと待て! 元はと言えば、あんたが金を払わないから……」
「人聞きの悪いことを言わないでください。渡したではありませんか。財布ごと」
泥棒呼ばわりに、警備担当の僧兵、並びにフィリアが気色ばむ。すぐさま反論を立てれば、彼は言い返せずに沈黙していた。
しかし、居合わせた者でもない限り、事実はわからない。
「フィオレさん。お金を払わないというのは……」
「つい先ほどのことです」
フィオレは素直に事の次第を説明することにした。
こういうとき、下手に隠し立てをすると疑われるのが世知辛い世の中である。
「財布の中身丸ごとで、商品を売ってくれるというので財布を渡したんです。そうしたら、足りないから後金を払えと言われました。払えないなら商品を返せと」
「確かに財布は受け取ったよ! だが、中身が五十ガルドしか入っていないじゃないか!」
「財布を丸ごとと条件をつけたのはあなたで、正確な額は言わなかったではありませんか。財布を渡した時点で、売買は成立しているはずです」
納得がいかないとわめく商人。応じられないと屁理屈を返すフィオレ。
往来で始まったゴタゴタに、ラチがあかないと僧兵が割り込んだ。
「あー、ところで。商品とは?」
「これのことです」
惜しげもなく、購入した刀を差し出す。
刀、と言っても手入れがされていないせいで小汚く、当たり前だが刀身は曲がっている。おそらくは変な木剣の類にしか見えないのだが。
僧兵は問題となっている商品を一目見るなり、行商人をなだめにかかった。
「ただの木剣が五十ガルドで売れたんだ。儲かった方じゃないのか?」
「違う! 俺もそうだと思っていたんだが、あれはただの木剣なんかじゃなかったんだ」
では何なのかと尋ねられ。彼はうろたえながらも、フィオレを見た。
「おい、嬢ちゃん。そいつを貸してくれ」
「……いいですよ。持ち逃げしないでくださいね」
ひょいっ、とフィオレから件の刀を手渡され、彼は戸惑いながらも柄に手をかける。
──しかし。
「あ、あれ?」
一生懸命、鞘から刀身を出そうとしているらしいが、刀は一向に抜ける気配を見せない。
当然といえば当然だ。
まっすぐな刀身の剣ならば、単に引っ張っただけでも──場合によっては、逆さにしただけで抜くことができる。
しかし、今彼が手にしているのは刀だ。
刀は緩やかな弧を描いているため、ただ引いただけでは抜けない。もちろん、逆さにしても簡単に抜けるものでもない。
努力すること、数分。彼よりも先に、僧兵が音を上げた。
「ほら、ただの木剣じゃないか。まったく、こんなもので若いお嬢さんからぼったくろうとするんじゃないよ」
商人から刀を取り上げ、フィオレへと手渡す。
幸いなことに、行商人が無茶をしていたにもかかわらず、刀に致命的な損傷は無い。
「待ってくれ!」
「あんまりつべこべ抜かすようなら、許可証を取り上げることになるぞ」
許可証とは、おそらく神殿の周囲で商売を行うことに対するものだろう。
更に僧兵は、この件はもう終わったものとして、違う事柄を聞きに回っていた。
「それとは別に、フィリア司祭に痴漢行為を働いたことに関して……」
行商人と僧兵が言い争う間に、二人は一人の僧兵によって神殿へと導かれていた。
年若い僧兵は心なしか、笑顔全開で二人に話しかけてくる。
「災難でしたなあ、お二方。フィリア司祭、お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫ですわ。少し驚きましたけれど……」
「まったく、司祭に抱きつくなど破廉恥極まりない! それにフィオレさん。神聖な神殿の周囲でも、ああいった輩はいるのです。これからも気をつけてくださいね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
フィリアと同じように、丁寧に応対すれば、僧兵は犬が尻尾でも振るかのようにぶんぶん首を振っている。
「迷惑だなんて! お二人に何事もなくてよかった。それでは!」
神殿の目前までたどり着き、僧兵は笑顔で警備に戻っていった。
僧兵を見送りながらも、フィリアは見当違いな心配をしている。
「あの方、お顔を赤くしていましたわ。風邪でしょうか?」
「さー。どうなのでしょうねー」
こじらせるようなことにならないといいのですが、とさっぱりわかっちゃいないフィリアの横顔を見つめつつ、フィオレは小さく嘆息した。
「そういえば、もうお勉強の時間ですわ。さあフィオレさん、まずは例文の書き取りを──」