swordian saga   作:佐谷莢

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 ダリルシェイド・ジルクリスト邸。
「生じ始めた亀裂」の直後。



第二十七夜——きしみゆくのは歯車か、絆か

 

 

 

 

 

 夜のこと。

 

「明日は、いよいよリオン様のお誕生日ね!」

「私、お茶会用のクッキーを作ろうと思うの。リオン様、食べてくれるかなあ」

「私はねえ、新しいハンカチ! いつも訓練で汗をおかきになられるから、それで拭ってくだされば……」

 

 ──以前、リオンのファンだという街娘が、頬を赤くしながら手作りの菓子を彼に差し出した時。少年は一瞥もせず、何事もなかったかのように無視して通り過ぎた現場に居合わせた記憶が蘇る。

 クッキーが嫌いなのかと訊ねたところ、「何が入っているかわかったもんじゃない」と露骨に嫌そうな表情を浮かべていた。

 不必要なまでに大きな声で──差し出してきた街娘に聞こえるように、はっきりと。

 

「お前だって、贈られた花束を噴水に供えたり、拾得物扱いして詰め所に届け出たり、断ったりしてるじゃないか」

「私のことは関係ないでしょう。だったら顔見て断りなさい。嫌みったらしい方ですね。そういうところ、ヒューゴ様そっくりです」

 

 己の普段の行いは棚に上げて。

 すったもんだの挙句、仏頂面ではあるが「すまない、受け取れない」とだけは言わせた。

 対応の仕方は天と地ほどの差異あれど、他者の好意を無碍にしているのはフィオレとて同じ。出くわしたから思わず口を出してしまったが、介入するべきではなかったと、きちんと謝ってはある。

 過去に何かあったのか知らないが、とりあえず見知らぬ他人の手作り料理を嫌がる傾向にあるようだが。この場合は新米とはいえ、見知った顔の相手だから多分大丈夫だろう。

 ハンカチというか手巾(しゅきん)手巾(てぎれ)とも読むことから「手を切る」=「縁切り」別れを意味することもあるのだが。

 リオンがそれを知っているとも限らないし、明確な理由に基づく贈り物ならどのような代物でもマナー上ではセーフのはず。

 わざわざ教えたところで今更変えられないだろうし、気分を萎えさせることもないだろう。

 

家政婦(メイド)長は何を贈るのかしら? 被らないといいなあ」

「リオン様、ちょっとでも笑ってくださるかしら?」

「笑ってくれなくたって、喜んでくださるならそれでいいのよ!」

「明日、晴れるといいわね」

 

 かしまし……もとい、明日の一大イベントを話題に華やかな家政婦(メイド)たちの横をすり抜け、資料室を後にする。

 書物を返却し、自室へ向かっていたフィオレは、ふと廊下にわだかまる影を見つけた。

 影は扉にすがるようにしてその中を覗いている。あそこは確か、ヒューゴ氏の私室であったはずだが……

 通り道につき、徐々に影との距離は縮まっていく。

 次第に、音が聞こえてきた。

 まさかと耳を疑った直後、その声をはっきりと聞いて、影に素早く忍び寄る。

 ──嫌な予感は的中した。

 影の正体は明日誕生日を迎えるリオンであり、彼はフィオレが傍にいることにも頓着せず、じっと扉の隙間から部屋を覗いている。

 否、その体勢のまま固まってしまったというべきか。

 細い隙間である。

 フィオレがその中を見ることは叶わなかったが、先ほどよりも確実に、洩れた物音の正体が突きつけられた。

 

 寝台が断続的にきしむ音。

 女のむせび泣くような、嬌声。

 合間に響く、湿ったような吐息。

 

(こんな宵の口からサカってんじゃねーよ……)

 

 それらをなるべく聞かないように務めながら、フィオレは後ろからリオンの目を塞いだ。

 目隠しをされても、リオンは何の反応も示さない。

 何の用事でここにいるのか知らないが、このままここにいたところで、後々厄介なことになるだけだ。

 

「──子供が……他人が、見ていいものではありません」

 

 声をかけられたにもかかわらず、彼は身動きひとつしない。

 そんな彼を強引に担いでその場を離れようとした、そのとき。

 

「……うっ……」

 

 腕の中のリオンが、小さく声を洩らした。苦しげにして特徴的な音である。

 それを耳ざとく聞きつけたフィオレは、迷わず全速力で洗面所へ向かった。

 洗面所の個室に連れ込み彼を降ろせば、大体予想通りの行動をリオンは取った。

 そっぽを向いて耳を塞ぎ、口で呼吸を続けて終焉を待つ。

 げほげほと咳き込む少年の背中をさすり、終わったところを見計らって洗面台へ連行すれば、彼は促されるまま、大人しく口をすすいだ。

 再びリオンを抱え上げ──今度は胃を刺激しないよう横抱きして、洗面所を後にする。

 彼の性格を考えるなら、私室まで送って一人にしてやるのが一番いい。

 しかしそれはあくまで彼の性格を考えるなら、だ。

 彼の心に渦巻く、渦巻いているであろう感情を彼自身、あるいはシャルティエに制御しきれるだろうか。

 フィオレの独断と偏見と、わずかながらの彼らとの付き合いという経験に即して答えるならば、否だ。

 リオンはどれだけ少年らしからぬ殺伐とした思考の持ち主であっても、実質は大人ぶった子供に過ぎないし、シャルティエには物理的実力行使能力がない。

 

(……どうしたもんか)

 

 どうするべきか、はっきり定まらぬまま彼の私室へと至る。

 照明を灯そうとして、リオンの様子を気遣った。

 幼児のように抱えられていても、先程から暴れる様子もなかった──泣いていないことはわかっているが、それでも顔を見られるのは恥ずかしかろう。そしてフィオレも、今のリオンの顔を見たいとは思わない。

 寝台に腰掛ける気にはなれず、ソファに下ろそうにも、今のリオンと正面から向かい合いたくなどない。

 迷った末に、フィオレはそのまま壁際に座り込んだ。

 フィオレの肩に顔を埋めたまま、彼はぴくりとも反応を返さない。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 そんなわけがないとわかっていながら、ついつい口に出た愚問に、彼はのろのろと顔を上げた。

 かすれた声で、独り言のように呟く。

 

「どうして……どうしてマリアンが、ヒューゴ様と」

 

 ──やはりか。

 男女の秘め事を目の当たりにして、ショックを受けたのかと思っていた。あるいは、父親が明らかに母ではない女を抱いていることに対してか。

 ただ、普段動じることの少ない彼のこと。それでも戻してしまうほどのショックを覚えたということは、まさかとは思っていたが……彼女が関係していたらしい。

 彼がマリアンに対してどのような感情を抱き、向けているのか。憶測でしかないが、フィオレは知っている。

 親愛、愛情、思慕、恋慕……少なくともこれら全てが当てはまるだろう。

 彼の親に関する境遇としては、父親は存在こそするものの、生活の保証という最低限の役目しか果たしておらず、母親はすでに他界していると聞いた。

 そんな環境の中で物心ついてからの彼の世話役である彼女は、ほぼ彼の母であるに等しい。更にリオンは、マリアンを一人の女性として明らかに愛している。

 けして経験豊富とはいえないが、自分の中にある異性への愛情を、一人の男に捧げてきたフィオレだ。そのくらいのことなら気付くことはできた。

 母であると同時に愛する女性を実の父親に寝取られ、あまつさえ、その現場を目の当たりにしてしまったとなれば、その衝撃は計り知れない。

 真実を知らないフィオレには、推測しか話せないが。

 

「夜伽を望まれて、応じたから、では?」

「マリアンはそんな女じゃない!」

 

 当然のことながら、彼は激昂して喚いた。

 ただし、その激昂は見ている側が切なくなるほどに、弱々しいものだったが。

 

「推測ですからね。あなたの仰る通りかもしれないし、違うのかもしれません」

「何だと……」

「そんなに気になるなら、今からヒューゴ様の寝室に乗り込んで真相を聞き出してはいかがです? まだ間に合うと思いますよ」

 

 そんなことができるわけがないと知りながら、ついそんなことを口走る。

 言葉にした瞬間に後悔した──これではあの若年寄と変わらない。

 

「まあ、これは冗談ですけど」

 

 慌てて訂正するも、強張ってしまった少年の表情は揺らがない。

 余計なことを口にしたと反省しながら、フィオレは本題を突きつけた。

 

「何が起こったのか、あなたが何を見たのか、何が真実なのか。それはこの際どうでもいいです。問題は、あなたの気持ち」

「……気持ち……」

「あなたは彼女に、何を望んでいるのですか?」

 

 こればかりは、推測できても真実はわからない。愛の形は、気持ちと時間と共に変化していくものだ。

 フィオレは愛した男にありのままでいることを望んだが、彼もそうだとは限らない。

 人の心を察することはできても、真実だけは絶対に知り得ないのだ。

 少なくともフィオレは、そう信じて疑っていなかった。

 沈黙が漂う中、リオンは己の答えを探し当てたらしい。

 

「僕は、マリアンに……笑っていて、ほしい」

「自分の……もとい、傍にいることは望まないのですか?」

「常に傍にいることが、彼女にとっての幸せにはならないかもしれない……あの笑顔を、僕は失いたくない」

「──なら沈黙すればいい。そうすれば、何も変わらない」

 

 答えは出た。

 それならば、彼が見たことはすべて己の胸の内に留めておけば、それでいい。

 ただし、彼女と接するにあたって、これからリオンは死ぬほど苦しみ、葛藤を味わうことになるだろうが。それはこのことを知ってしまった彼に課せられた新たな試練で、フィオレの知ったことではない。

 フィオレの答えに納得してなのか、リオンはフィオレが言ったことを口の中で復唱しつつ、じっとしている。

 状況を忘れているのか、フィオレから離れようとしなかった。

 

 ──知ったことではない。その一言に尽きる。

 

 ただ、関わりがあるだけの赤の他人だ。世話を焼く義理などない。

 いくら弟子と同等の存在であったとしても、それは強制されたものなのだから。

 かつてフィオレと名乗る前に指導した子らとは違う。介入すべきではない。

 そう、わかっているつもりだった。

 

「本当に、それでいいんですか?」

 

 腕の中の少年が、びくりと震える。

 

「それでは何も、変わらないんですよ」

 

 言うべきじゃない。こんなこと、したり顔で説教できる立場にない。

 わかっていても、己の口を閉ざすことはできなかった。

 なぜなら。

 

「このままの関係は維持できても、あなたは何も得られない。望むものは何一つ手に入らない」

 

 まるで──かつての自分を見ているかのようだったから。

 理由は違えど、「すべては主のため」沈黙し、行動を制限し、成り行きに任せて流される笹のように動いた。

 そして行き着いたのは、それら全てが裏目に出る結果だったのだ。

 

 後悔はしないと誓った。

 だから後悔していない。

 

 その場その場で最善だと思う行動を起こした結果だと、受け止めるより他はなかった。

 拒絶すれば、今までの自分をすべて否定することになるから。

 ただ──それでよかったのかと思うことは、ただの一度もない。

 だからこそ、理性の制止を押し切って尋ねた。

 彼自身が、後悔しないために。

 

「……いい、んだ」

 

 しかし、それは愚問であったと、フィオレが思い知ることになる。

 

「何も、要りはしない。マリアンさえいてくれれば……僕は、何も望まない」

 

 その一言で、フィオレは確信した。

 これは、かつての自分が抱いていた盲目的な信条と同じものだ。

 愛情の種類に差異はあれど、それ以外はほぼ同じ。

 他者に何を言われようと、けして翻ることはない、と。

 

「……それがあなたの存在理由だとするならば、何が起ころうと貫き通してください。他の何を押し退けてでも、それが護れるように」

 

 それでも。

 大切な何かが唯一であるこの少年に、フィオレは危惧を抱かざるをえなかった。

 大切な誰かを護ること。それが唯一の望みなれば、さぞその想いは強固なものとなろう。

 しかし、人の想いはいつか砕かれる。

 どんな想いであろうと、生まれた以上は消滅もまた必然だ。

 果たしてそのとき、彼が立ち直るための「支え」は果たして存在するのだろうか。

 あるいは、その想いが砕かれた時。二度と立てなくなってもかまわないくらいに、思っているのかもしれない。

 そんな悲壮さを、フィオレは何となく感じ取っていた。

 そしてその姿に対して思う気持ちが、フィオレの腕に現れる。

 身勝手な想いだと思った。

 押し付けることになると、わかっていてやった。

 腕の中の少年をあらん限りのいたわりを持って抱きしめ、言葉もなく硬直する彼の耳元で囁く。

 

「つらいことですよ。知っているのに、何も言えないのは」

「……」

「ここで全部、吐き出してしまいなさい。私は何も見ないし、何も聞かない。溜め込むのは、毒にしかならな……」

 

 言い終わらないうちに、少年の腕が一層強くフィオレにしがみつく。

 服に噛み付き、嗚咽を殺して肩を震わせるリオンの頭を、フィオレは飽きることなく撫でていた。

 

 ──いつの間にか、ほんの僅かに開いた扉へ眼をやりながら。

 

 

 

 

 

 嗚咽がなくなり、肩の震えも止み。

 健やかな寝息が聞こえてきたところでフィオレは伏せていた眼を開いた。

 時刻は、夜半あたりか。触ってもいない扉は、もう閉まっている。

 嘆き疲れて眠ってしまった少年を寝台へ移そうとして、フィオレは困ったように眉を動かした。

 リオンの腕が外れない。

 これが普通の少年ならば多少強引にでも剥がすのだが、まがりなりにもリオンは剣士だ。

 現在フィオレの腕の中で眠っていることすら奇跡に近いのに、これ以上は目を醒ましてしまう危険性が跳ね上がる。

 さてどうしたものかと考えていると。

 

『──フィオレ』

 

 遠慮がち──おそらく主を起こしてしまわぬようにとの配慮だろう。

 囁きに耳を貸せば、それまで机に鎮座していた鞘入りのシャルティエが、淡くコアクリスタルを輝かせてフィオレに話しかけてきた。

 

『何が、あったの? マリアンが、ヒューゴ様とか何とか……』

『──夜、男と女が床を共にしていた。それを見てリオンが、激しく動揺しただけですよ』

 

 シャルティエの詳細な年齢は知らないが、それでも男女の秘め事を知らないとは思えない。

 図らずも聞いていたであろう会話の内容に絡めて簡潔に話せば、彼は一瞬の絶句を越えてまくしたてた。

 

『は!? マリアンが、ヒューゴ様と寝てたっての!? 何それ信じられない!? そりゃマリアンは、坊ちゃんの気持ちなんて全然知らないだろうけど……!』

『落ち着いてくれませんか? リオンを起こしたいなら、続けてくださってもかまいませんが』

 

 それもひとつの手段かと思っていたが、彼の眠りを妨げるのは気持ち云々前に成長によろしくない。

 ただでさえ背は伸び悩み、体格も同世代の少年たちより遥かに劣っているのだから。

 フィオレの咎めを聞き入れ、シャルティエはすぐにトーンを落とした。

 

『……そりゃ、家政婦(メイド)とご主人様じゃあ、断るに断れなかったかもしれないけどさ』

『まったくもってその通りだと思いますよ。私が見たわけじゃないので、勘違いの線がなきにしもあらずです。それに過ぎたことですから、下手につついてやぶ蛇にならないようにしてくださいね』

『わかってるよ、そんなこと』

 

 そこで、シャルティエからの言葉が途切れる。

 再び沈黙が訪れた中で、外れないリオンの腕をどうしようか、悩みだしたそのとき。

 

『ねえ、フィオレ』

 

 唐突に、シャルティエが口を開いた。

 

『どうして坊ちゃんに優しくしてくれるの?』

「……は?」

 

 ただそんな、マヌケな音が口から漏れる。

 しばらく何も言えなかったフィオレではあったが、次に出てきたのは答えではなく、質問であった。

 

『それ、本気で聞いてるんですか? 特にあなたは、あんなに文句言ってたのに。毎回の訓練で倒れるまでしごく私が、リオンに優しくしてる?』

『訓練の時はね。でも今は? 恋した相手の浮気……じゃあないけどさ、それに近いもの見て苦しんでる坊ちゃんを、慰めてくれたじゃない。それで坊ちゃんは安心して眠ってるんだよ。これを優しいって言わないで、なんて言うの?』

『打算です。訓練の時、痙攣を起こしかけたら即座に介抱するのと同じように、心が乱れてはどんなに優れた戦士でも戦いに集中できませんから。アフターケアでもいい』

『またまた、照れちゃって。フィオレったら、可ー愛いv』

『あなたがどう思おうが、これが事実ですよ。これから先、リオンがこのことで深く傷ついて心身ともに弱体化してしまったとしたら、困るのは私です』

 

 それだけ、だ。

 たとえ違っていたとしても、それだけでなければいけない。

 これから先、リオンと共にいるという未来はないのだから。

 すでに踏み込むべきではない領域に、自分は足を踏み入れている。これ以上進んだら、つらい思いをするのは自身なのだ。

 そんなフィオレの内心など、もちろん露知らず。

 シャルティエはからかうような調子で提案した。

 

『ふふっ、じゃあさ。せっかくだから、泊まってく? 坊ちゃんの腕が外せないなら、一緒に寝ちゃえばいいと『……それもそうですね。おやすみなさい』

『思うよ、って、ええっ!? マジ!?』

 

 睡魔の訪いにより、思考能力が普段の半分以下に低下していたフィオレは、シャルティエの提案に乗っかってリオンを抱えたまま寝台に潜り込んだ。

 横になり、自分に楽な姿勢を見つける。

 そのまま、フィオレの意識は遥か深淵へと落ち込んでいった。

 

『ホントに寝ちゃったよ……』

 

 そんなシャルティエの声を、脳裏に聞きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に昇りたての朝日が差し込む頃。

 リオン・マグナスはまどろみの中で、自分の傍に異物があることに気づいた。

 異物といえど、不快はない。ほのかに、嗅覚をくすぐる芳しい香りがした。

 手を伸ばせば柔らかくて温かな、心地のいい感触が返ってくる。

 その感触が気に入って、腕を回し、足を絡めて引き寄せようとした、そのとき。

 

『……坊ちゃん、朝からダイタンですね……』

 

 幼い頃より聴き慣れた相棒の声で、覚醒を促される。

 ぱっちりと開かれた切れ長の瞳に異物の正体が映った途端。

 

「!?」

 

 彼は弾かれたように起き上がり、まじまじとそれを見つめる。

 彼の寝台の上にいた異物。

 それはリオンの剣の師にして部下たる客員剣士見習い、フィオレと名乗る客人扱いの居候だった。

 リオンの枕を抱え込むようにしてうつ伏せになり、耳を澄まさなければ聞こえないほどではあるが、確かに寝息を立てている。

 

「ど、どうしてフィオレが、ここに」

『昨夜、なかなか坊ちゃんがフィオレを離そうとしないから、業を煮やして一緒に寝ちゃったんですよ』

「年頃の女がすることか、それは……」

 

 高鳴る鼓動を抑えて寝台から降りようとして、ふとリオンはあるものに目を留めた。

 枕の下に挟まっていたのは、あまり上質とはいえない生地で作られた白布の眼帯である。

 それは、フィオレが常に身につけているものと酷似していた。

 抑えたはずの鼓動が、再び高鳴る。

 つまり今のフィオレは、素顔なのだ。

 

『ぼ、坊ちゃん? どうしたんですか?』

「これを見ろ」

 

 急に停止した主を心配するシャルティエに、リオンは握った眼帯を掲げて見せた。

 はっ、とシャルティエが息を呑む。

 

『そ、それって……』

「そうだ。常日頃から不思議に思っていた。こいつの目がどうなっているのか……うまくすれば弱みを握って、念話のことが聞き出せるかも」

「──発想そのものは悪くないです。とゆーか、まだ諦めてなかったんですね」

 

 掲げていた眼帯が、あっという間に取り上げられる。

 可能な限り素早く振り返ったリオンが見たのは、すでに身につけた眼帯を頭の後ろで固定しているフィオレの姿だった。

 

「そんな悪巧みを企てられるということは、元気になったようですね。安心しました」

 

 起きたてでくしゃくしゃになっていた髪が、手櫛で軽く整えられる。

 つややかな長髪が揺れ動くたび、あの香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。

 

「さて、昨日お話したとおり今日は訓練なしです。しっかり骨休めしてくださいねー」

 

 そう言って。フィオレは大きな欠伸をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リオン・マグナス十六回目の誕生日当日、早朝のこと。

 図らずも朝帰りをやらかしたフィオレが廊下を歩いていると。

 

「おはようございます、フィオレさん」

 

 漆黒のつややかな長髪に、柔和な面立ち。

 昨晩ヒューゴ氏と一夜を共にしたと思われるマリアン・フュステルが、朝日もかくやと思わせる笑顔で一礼していた。

 声を聞いた途端、聞かなかったはずの艶やかなあえぎが耳の奥で木霊する。

 

「おはようございますマリアン」

 

 咄嗟にそんな返事を口にするものの、信じられないほど棒読みになっていた。

 無論のこと、マリアンは不思議そうに首を傾げている。

 

「フィオレさん、お声の具合が……」

「いえ何でもないですどうぞお気になさらず」

 

 言いつくろったところで、棒読みは直らない。

 これはいけない話題を変えねばと、本日の天気について話そうとした矢先。

 

「……?」

 

 彼女の奇妙な違和感に気付いた。

 目の前に立つ女性がマリアンであることは間違いない。

 間違いはないのだが、この違和感は……

 違和感は唐突に正体を現した。

 

「えーと、その格好は……もしかして本日は、休日なのですか?」

「いえ。私はお屋敷の住み込みではなく通わせていただいているので、出勤はいつも私服なのですが」

 

 前髪を押さえるのはフリルのついたヘッドドレスではなく、木製と思われるカチューシャ。

 昨夜ヒューゴ氏が堪能したと思われていた肢体を包むのは、茄子紺のワンピースに純白のエプロンではなく、ハシバミ色のカットソーに膝下のロングスカートである。

 リオンが見たらさぞかし瞳を輝かせるだろう新鮮な彼女の私服姿に、そして判明した事実に、フィオレは思考を凍結させていた。

 

「そうだったんですか……」

「ところで、どうしてこんなに早くからここに? 本日のリオン様の訓練はないのでは」

「普段の習慣ですよ。たまには自主鍛錬でもいいかなと」

「そうでしたか。それでは、私はこれで」

 

 心配げにリオンの訓練中止を示唆するその声に答えて、適当に流す。

 マリアンがその場を去り、ようやくフィオレの思考は解凍された。

 マリアンは住み込みではなく、通い。

 つまり彼女は夜に家政婦(メイド)をしていない。そもそも、夜屋敷にはいない。

 

(……じゃ、あれは誰)

 

 ならば、今までフィオレが接してきた『昼とは性格が真逆のマリアン』は誰だというのだろうか。

 最近は近づかないようにしているものの、彼女の顔が思い出せないわけではない。

 昼のマリアンと、顔の造詣はまるっきり同じ──

 本当に別人なのかもしれない。

 そんな、他人に聞かれたら即物笑いの種にされるであろう仮説が立つ。

 

「まさか──ね。さ、自主練自主練」

 

 フィオレ自身、そんな馬鹿なとあっさり消してしまった仮説だ。残業を課せられてイライラしていたとか、そんなところだろう。

 昨夜の件については、リオンが見間違えただけの可能性が高かった。長い黒髪の従業員(メイド)など、マリアンを除いても十人以上はいる。

 そんな風に己を納得させて、フィオレは私室へ寄った後に、屋敷の庭へと足を踏み出していた。

 いつもの──花壇や庭木の手入れをする庭師の邪魔にならないよう、裏庭で整理運動をしようとして。

 いつもの光景を眼にした。

 

「……リオン?」

 

 そう。この時間帯には誰もいないはずの裏庭に、少年が一人黙々と整理運動をしていた。

 傍らには愛剣のシャルティエが立てかけられている。

 

「本日は訓練なし、と言ったはずですが……」

「自主訓練だ。お前と同じ事をして何が悪い」

 

 ──どうやら、聞こえていたらしい。

 未だこちらに顔を向けないことをいいことに、フィオレは小さくため息をついた。

 マリアンに何を言われるかわかったものではないが、本人の意思ならば仕方がない。

 肩を回し、身体の筋を調整し、軽く身体をほぐしたところで、フィオレは屋敷の外へと赴いた。

 ──ダリルシェイド内をぐるりと巡るロードワーク。

 そのまま街の外へと出で道中魔物との交戦を繰り返しつつ海岸にて剣舞を行う。

 自主訓練をしているリオンも同じコースであるがために、自主訓練なのだが普段の修練と大差ない。

 本当に普段通り体を動かして、十分な汗をかいて。

 客員剣士の、あるいはヒューゴ氏の私兵としての仕事がない場合、ほぼ一日は修練に費やされるのだが。フィオレは普段通りの時間で剣舞をやめてしまった。

 

「さて……私はこの辺で切り上げますよ」

「そうか」

 

 つられてやめたリオンが短くそれを承諾し、フィオレに背を向けて再び自主訓練に戻る。

 ──やはり、マリアンと顔を合わせたくないのだろう。

 マリアンの話が事実なら、昨晩リオンが見たのも誤解なのだろうが。フィオレが口を挟める問題ではない。

 聞いた限りではリオンはただマリアンの笑顔に、彼女の平穏な日常の姿に変化がなければそれでいいと思っている。

 追及を受け恐れ戦くか、開き直ってアバズレ同然の発言をする彼女なぞ見たくないだろう。誤解ならそんなこともないのだろうが、誤解でない可能性もまた、なきにしもあらず、だ。

 体を動かしてもやもやが少しでも解消されるならそれでいいか、と判断して。フィオレは彼に背を向けて、立ち去った。

 そのまま特に寄り道をするでもなく、ジルクリスト邸へと至る。

 戻ってきた途端の、出来事だった。

 

「フィオレさん! リオン様はご存じありませんか?」

「今朝方からお姿が見えなくて……」

 

 マリアンを筆頭に次々と家政婦(メイド)達に声をかけられ、ありのままを正直に話す。

 リオンなら体がなまるといけないからと、自主訓練に出かけてしまったと。

 

「まさか、今日は教えないから自主訓練してなさいってリオン様に言ったんですか?」

「そんなことは一言も言っていません。ゆっくりしろと言っても聞かないんですよ。どうしたものでしょう」

 

 フィオレに絡んだ厄介事を起こして、家政婦(メイド)が一人解雇されたのはつい最近の出来事だ。

 それ以降、この屋敷で働く家政婦(メイド)執事(バトラー)達は厄介事を起こさないためにもフィオレには付かず離れず、それこそ客人に対してのように接してきたのだが……ことがリオンのことになると、話は別らしい。

 リオンが自主訓練に向かったのはフィオレに責任があるのでは、と言わんばかりに声を上げる年若い家政婦(メイド)達。

 表向きそれを支援はしないものの、内心ではどうなのか。家政婦(メイド)長たるマリアンはそれを止めないで、ちらちらフィオレを見やっている。

 彼女らの態度にすぐ辟易したフィオレは、屋敷でまったりすることをあきらめて街へと繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 宵の口とは深夜になりきらない時間帯のこと。
 投稿時間くらいだと思われます。
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