とある日の、午後のこと。
フィリアから任せられた雑事を終わらせ、自由時間をもらったフィオレはレンズの異常を感知した廊下まで来ていた。
思い返してみれば、左手が疼いたのはすべてこの付近だったような気がする。まったく見当違いな場所でも発生はしているが、神殿の間取りをよく見ればすべて大聖堂付近だ。
反対に、これまでバティスタやアイルツ司教と何度か接触しているが、それだけで疼いたことなど一度もない。つまり大聖堂と、左手のレンズは何らかの関わりがあるかもしれないのだ。
何となく嫌な予感がしないでもないが、虎穴に入らずんば虎児を得ず。慎重なだけでは何も手に入らない。
確認のため、一応レンズを確認しながら大聖堂へ近づく。
一歩進むごとに仄かな光を灯し始めたレンズは、やがてあの黎明の色を帯びはじめた。
「ビンゴ」
あとは一直線に廊下を進めば大聖堂、という地点でレンズを隠す。
礼拝は午前中で終わっているが、仕事などで参加できなかった神殿の人間がいる可能性が高い。その場合探索は後日になるが、考えてみれば大聖堂へは一歩たりとも足を踏み入れたことがないのだ。信者のふりをして、どんなところか見てくるのもありである。
意気揚々と足を踏み出したフィオレだったが、次の瞬間盛大に縮み上がった。
「あらっ、フィオレさん?」
すっかり聞きなれた、淑やかな声音が耳朶を打つ。
振り向けばそこには、経典を抱えたフィリアの姿があった。
相変わらず、質素で地味な格好をしているが、素材の良さはまったく失われていない。野暮ったいおさげをほどいて眼鏡を外せば、かなり見られる美人だというのに──
「そちらは大聖堂ですけれど、迷われたのですか?」
「いえ、私これまで大聖堂に行ったことがないので、ちょっと見学させてもらおうかと……」
「そうでしたか。わたくし、これからお祈りに行くところなんです。ご一緒しましょう」
……考えてみれば、フィリアは礼拝に参加できなかった信者筆頭である。生真面目な彼女のこと、フィオレとほぼ同時に時間ができたのだから礼拝を考えたところで、おかしなことは何もない。
いきなり探索計画を挫折しながら、それでも調査の下見のためにフィリアと同道することになる。
本日はよく人と鉢合わせる、と思いながら歩くうち、ふとフィリアが話しかけてきた。
「そういえば……フィオレさんは何か思い出したりはしていませんか?」
「いえ全然」
もとより記憶を失ってなどいないため、こう答えるしかない。
即答したフィオレに対し、フィリアは「……そうですか」と小さく返している。
妙に歯切れの悪い彼女に対し、フィオレはとりあえず慌てさせてみた。
「何かお悩みでも? ちなみに、胸を大きくするには牛乳の多量摂取ではなく、愛する男性に揉んでもらうのが一番かと」
「そっ! そんなこと、悩んでません! もうっ、フィオレさんたら……!」
「では便通をよくする方法ですが……」
「違いますったら! 便秘なんて患ってませんっ」
からかってワンクッションおいたところで「では、どうしました?」と本題に入る。
長い沈黙を経て、フィリアはうつむきがちに言葉を紡いだ。
「……わたくし、最近フィオレさんにとっては不愉快なことを、考えるようになってしまったんです」
「ふむ」
素直というか、馬鹿正直と言うか。何かを勘ぐる前に、そんな感想が脳裏に浮かぶ。
そこまで苦しそうに告白するなら、黙っておけばいいのにと考えて──それができないからこそ、フィリアがフィリアたる所以でもあると考え直す。
「私、何か粗相でも働きましたか?」
「いいえ」
フィリアは首を振って否定した。
おさげが首の動きに合わせて跳ねて、踊る。
「このままフィオレさんが記憶を取り戻さないで、ずっと神殿にいてくれればいいのに、って──」
「……」
純粋にして真摯な思いが、ぐさりと心に突き刺さった。
バティスタに勧誘されたことは、彼女に話していない。現在全面的にフィオレの世話をしてくれているフィリアがそれを聞いてどう思うのか、あまり考えたくなかったというのが大きな理由だ。
アイルツ司教がふと零した話によれば、フィリアは両親が神殿の人間であったために神殿生まれの神殿育ちで、それゆえに人見知りの激しい少女なのだという。
歳若い彼女が司祭という立場にいるのも、おそらくは生まれたときから信者であり、それなりの能力を有していたからだろう。
しかし外部から来た人間はそれを知らない。なぜこんな小娘が、と早すぎるフィリアの出世を妬み、嫉む人間も少なくないようだ。
それゆえか、生来の引っ込み思案か。彼女には気を許せる同年代の友人があまりいないのだという。
そういえば、フィリアが親しげに話しかけるのは専らバティスタや、親しげではあるものの敬意を払うことは忘れていないアイルツ司教に対してのみ。両親は、数年前の不幸ですでに他界しているという。
フィオレが来てからフィリアはいい方向へ変わりつつあると、いつかバティスタが言っていた。
だから残らないか、という説法を繰り出した彼の話はスルーしたが、本人の口からこんなことを言われると、実に心苦しい。
彼女はバティスタと違って打算も何もない、ただ自らの正直な思いを吐露しているだけなのだ。何とも返しがたく、フィオレが沈黙を余儀なくされたことを、フィリアは珍しく敏感に察知した。
普段は、他人の反応などあまり省みていないようなのだが。
「ごめんなさい、おかしなことを言ってしまって。フィオレさんだって、記憶をなくして大変なはずなのに……」
「正直なことを申し上げれば、あなたが大変わかりやすくお教えくださったおかげで、今はそこまで大変ではありません」
白磁のようなフィリアの頬が、うっすらと色づく。
その愛でたくなる初々しさに眼を吸い寄せられながらも、フィオレはあえて突き飛ばす、辛辣な言葉を吐いた。
「ですが、いずれ私は神殿を出ることになると思います。余計なことと存じますが、心の拠り所をひとつにするのは、あまりいいことではありませんよ」
心の拠り所をひとつだけにするのは、あまり苦しむことはない。選択の余地がないのだから。
しかしそれだけ拠り所に対する依存は激しくなり、いざ拠り所を失ったとき、立ち直れなくなってしまう。
それはフィオレ自身が体験した、ひとつの地獄だった。もしあの時、心の拠り所がそれひとつであれば、幼かったフィオレなど身も心も簡単に潰れていただろう。
「フィオレさん……」
「蛇足でしたね」
フィリアから眼をそらし、たどり着いていた大聖堂の扉を開く。広がった視界は思いの外明るく、想像よりも狭かった。
そういえば、ここよりもっと入り口に近い地点に広々とした礼拝堂がある。
おそらく聖堂が神殿関係者用、または特別な式典用、礼拝堂が平信者や参拝者向けのものなのだろう。差別かもしれないが、この聖堂には高そうな絵画や彫刻、使用されている燭台など高価なものが多い。下手に一般人を入れてトラブルを招いても大変だ。
趣としては、どことなくフィオレの知る宗教団体総本山の礼拝堂によく似ている。
現在大聖堂にいる他人が、経典を手に祈りを始めるフィリア一人であることをいいことに、フィオレは中の様子をつぶさに見て回った。
一心不乱に祈りを捧げるフィリアの様子を盗み見つつ、ちらりとレンズを確認してみる。
先ほどから疼きは収まる気配を見せない。一応そこらじゅう歩き回ってみたものの、黎明色の光が宿る、それ以上の反応は見込めなかった。
思えば、目を覚ましてからずっと張り付いているものなのだ。これの正体が掴めれば、何故フィオレがここにいるのかもわかるかと思ったが、そうそううまくはいかないらしい。
フィリアの手前、あまり露骨な探索を繰り返すわけにもいかない。
今日はここまでか、と祭壇に寄りかかった、そのとき。
──かち。
「!?」
妙に心地いい音が聞こえてきて、慌てて祭壇から身を離す。
しかし、時すでに遅し。
ゴゴゴゴ……
「きゃああっ!」
「フィリア!」
急に地響きがしたかと思うと、床が動き出した。
運の悪いことにそこにはフィリアが立っており、あまり運動が得意でないという彼女は、ぽっかりと開いた穴の中に落下してしまっている。
否、穴ではない。
礼拝用の長椅子を避けるように開いたのは、地下へと続く階段だった。
おそらく、床が動き出したことで平衡を保てなくなったフィリアは、そのまま足を踏み外してしまったのだろう。
思わぬ発見だが、フィリアを巻き込んでしまった。とにかく、救出せねばなるまい。
それほど長くもない階段を駆け下りるも半地下だけあって暗く、いかに夜目がきく彼女でも光に慣れた眼で歩き回るのはつらい。
できない確率が高いことがわかっていながら、フィオレは上階より降り注ぐ光に手を差し伸べ、そっと呟いた。
「……レム、欠片をください」
『それでは、駄目』
以前と同じように、
代わりに、頭の中で声がした。
感覚としては念話──チャネリングに近く、あの時の幻聴と同じようなものに聞こえる。ただし声質はまったく異なるが。
『誰!?』
『ここで光を統べるは私、ソルブライト。レムでは、応えられない』
同じく念話で誰何の言葉を放てば、幻聴──ソルブライトの意思が返ってきた。
その忠告に従い、もう一度挑戦する。
「ソルブライト、欠片をください」
今度こそ、
フィリアは、思いの他すぐ近くに倒れている。
「大丈夫ですか?」
「いたた……足を、挫いてしまいましたわ」
抱き起こせば、彼女は右の足首をさすって痛みを訴えた。
フィオレとしては、奥を探索したい。しかしフィリアをそのままにしておくわけにもいかず、探索は諦めて彼女を救護室へ運ぶことにした。
常に携帯している短刀を取り出し、即席の添え木にして破り取ったローブの裾で固定する。
「救護室までお連れします。背中におぶさってください」
背を見せてしゃがみこむも、フィリアは返事をしない。
いぶかしがって振り向けば、光球に照らされたフィリアは顔面蒼白で肩を震わせていた。
「フィ、フィオレさん、あれ……」
改めて、フィリアの見ているものを視界に映す。
それは、巨大な鉱石に見えた。質の悪い紫水晶のような色をしており、なぜかふよふよと宙を浮いている。
巨大鉱石は、まるで今初めて二人の姿を認めたかのように停止した。
次の瞬間、鉱石の中心が淡く明滅し、五回ほど繰り返された、そのとき。
「ЁЖЗИЙК……Я!」
巨大鉱石が一際大きな輝きを放ち、なんと火炎弾を打ち出してきたのだ。
鉱石のくせに生意気である。
そんなことを思いながら、怯えているフィリアを両手で抱え上げた。
「きゃあ!」
「失礼っ」
──身体強化の譜陣は肌から消失していたのに、極端な筋力低下がなかったことは確認済みである。
加えて彼女の華奢な体格ならば、長時間はともかくとして、少し移動するだけなら特に問題はない。
迫り来る火球は標的を捉えることなく、入り口の階段を焦がしている。
「これは……! まさか、晶術!?」
「しょ……? 何ですかそれは」
どうして譜術が、と口走りそうになって、フィリアの言葉を復唱する。
混乱していないわけではなかろうに、フィリアは滑らかに知識を引き出した。
「レンズに宿るエネルギーを使って様々な事象を引き起こす技術の総称です。通常、魔物が宿すレンズに含まれるエネルギー……一般的に晶力と呼ばれているのですが、ひとつひとつは本当に微々たるもので、一度晶力を引き出せば消滅してしまいます」
「ふむふむ」
「ですが千年前の技術では、そのエネルギーを束ねることができたり、あるいはエネルギー含有率の高いレンズを使って、人間でも晶術を扱っていたらしいんです。魔物はそもそも生命力、精神力ともに人間を圧倒していますので、少量のレンズでも晶術の使用が可能なんだとか」
「つまり、現時点であれを無力化するには、破壊するしかないと」
真面目に聞いた割に、単なる薀蓄の域を超えなかったフィリアの解説で出した結論に基づき、光球を操る。
フィリアを抱えたまま、彼女は半地下の奥──聖堂とは正反対の方角へ駆け出した。
「フィオレさん!?」
「あれを聖堂に出すわけにはいきません」
そんなことをしたら、聖堂を火災に導いてしまうだろう。
どのみち大聖堂では障害物が多すぎて戦いにくい。半地下の奥に開けた場所があるのだ。
奥にある扉が気になるところだが、それは後でよろしい。
「フィオレさん、後ろ!」
フィリアの忠告を受けて、真横へ跳ぶ。
今度は大根ほどもある氷柱が何本か、床に突き刺さっていた。
「其の荒ぶる心に、安らかな深淵を!」
♪ Toe Rey Ze Qlor Luo Toe Ze──
立ち止まったことをきっかけに【第一音素譜歌】
鉱石に耳があるとはどうしても思えなかったが、ものは試しだ。
譜歌は運良く相手はすべての機能を停止させており、中心の明滅も止まっている。
「……やっぱり」
ちゃんと発動している。ここが暗いから──闇が、存在するからだ。
あのとき【第四音素譜歌】
この先、発動にどれだけ必要なのかを調べておいた方がいいだろう。
そんなことを考えつつふたつ並んだ扉の前に到達し、そばの柱の陰にフィリアを下ろした。
「フィオレさん……」
「なるべく巻き添えにしないよう心がけますが、万一のことがあります。いざとなったらこの柱を盾にしてくださいね」
不安を隠さないフィリアの手を強く握り、柱から飛び出す。
譜歌は効いていたものの、バタバタと走る足音のせいで、巨大鉱石は瞬く間に奪われた機能を取り戻していた。
明滅が続き、再び火炎弾がフィオレに迫る。
それを避け、床に着弾したのを見てとったフィオレは、すかさず集中した。
闇があるから
「天界より降り注ぐは裁きたる白き雷。咎人を等しく薙ぎ払え!」
♪ Va Nu Va Rey, Va Nu Va Ze Rey──
虚空より生まれた輝きは巨大鉱石に容赦なく降り注ぎ、ぴしりぴしりとわかりやすいヒビを刻んでいる。
最後の閃光が収まった後、巨大鉱石は中心の核を覗かせ、今にも壊れんばかりにヒビだらけとなっていた。
これまで鞘に収めていた新たな武器・紫電を抜き放つ。
幻想的な淡紫が、闇の中でぼんやりと浮かび上がった。
「ЦЧШЩЪЫ……ЭЮ!」
どうもバリエーションに乏しいらしく、再び巨大鉱石は氷柱を三本ほど放っている。
追尾してくるならともかく、火炎弾も氷柱も動きは直線的なもの。避けられないフィオレではない。
「はあっ!」
詠唱の直後、硬直する鉱石に肉薄し、露出した核に刺突を見舞う。途端。
ぱぁんっ!
巨大鉱石は盛大に破裂した。
破裂する直前、一際強く輝いた核に気付いて、フィオレはその場を素早く離れている。
幸い、自爆したとかそういった類のものではなかったらしい。
巨大鉱石そのものは砕けて破片が積み重なっており、傍には数枚のレンズが転がっている。
紫電を収め、レンズを拾い、フィオレはようやくフィリアのもとへ駆け寄った。
「終わりましたよ」
柱の影に隠れて震えていた彼女は、フィオレの顔を見上げて、ホッとしたようにため息をついている。
「そういえばフィオレさん、あの扉は何でしょう?」
「さて、もう使われなくなった倉庫か何かでしょうか……?」
さて戻ろうとかと話した矢先。彼女の好奇心に従って、扉に近づく。
フィリアの手前、何もない素振りを貫き通したが、左手が疼きを通り越して燃えるように熱い。
知らず左手を握り締めて、フィオレは扉に手を伸ばした。
──バタンッ
「わ……!」
扉に触れた瞬間、まるで向こう側に誰かがいたように勢いよく扉が開く。
しかし向こうには誰もおらず、代わりに巨大な宝石のようなものが鎮座していた。
「これは──!」
黎明の色を有する極大レンズ、である。
何故そう思えるのか。何故なら、フィオレの左手の甲に張り付いているものと、感じる力がほぼ同一なのだ。
一体このレンズと、フィオレに張り付いてとれないレンズとの関係は──
狼狽するフィオレには、「どうしたのですか?」とかかるフィリアの声すら届いていない。
魅入られたように一歩、足を踏み出す。そのとき。
キンッ
『ようこそ、来訪者よ──』
脳裏にそんな声が聞こえて、フィオレの視界は瞬く間に白く染まった。