※作中の異端審問は、「魔女狩りにおいて行われた異端審問」を意味しています。実際の異端審問とは異なりますのでご注意を。
『……お願い』
ふと、気付く。そんな声が聞こえたからだ。
『歪む世界を止めて。どうか……もとの道に……』
正直な感想がそれだった。
そもそも、どうして自分がここにいるのかさえわからないのだ。それさえわからずに、何故一方的な願いだけ聞かなければならないのか。
眼を開くとか、息をするとか、そんな感覚さえない世界の中で。
彼女はつらつらとそんなことだけを考えていた。
『疑問には、答える。彼らと、契約を結んで。あなたには、その資格が……』
途切れ途切れの声が、次第に明確な言葉を紡いでいく。
彼らって?
『この世界の守護者たち……彼らは人を通じてしか、干渉できない。あなたがいなければ、ただ見守ることしかできない。だから……』
世界──星の守護者ということは、精霊のような存在だろうか。
『アーステッパー、アクアリムス、フランブレイブ、シルフィスティア、ソルブライト、ルナシェイド。願わくば、彼らとの契約を。真実を知り、歪む世界を……』
何がなんだかさっぱりわからないが、応じない限り知りたいことは一生わからない気がしてならない。
ところで、この声は誰なのだろう。
ソルブライト、とは違うようだが……
『私……ア……』
「フィオレさん!」
ハッと眼を開ける。
いつのまにかフィオレは床に倒れこんでおり、悲鳴染みたフィリアの声が耳朶に突き刺さった。
弾かれたように起き上がり、彼女を見る。フィリアは柱によりかかったままで、ほっとしたように胸へ手をやった。
「驚きました。いきなり倒れられて……」
感じからして、それほど時間は経っていないらしい。
部屋の奥にある極大レンズから目をそらして、扉を閉めた。
「一体何があったのですか?」
「……詳細は、司教様に聞いたほうが良さそうです」
フィリアを背負い、一目散に大聖堂を目指す。
まずは救護室へ行ってフィリアの捻挫をしっかり治療してから、司教に話を──
というフィオレの目論見は、あっさり砕け散った。
何故なら。
「これは、どういうことなのだ!?」
半地下から大聖堂へ続く階段を駆け上がった途端、ぽっかりと開いた入り口を見つけておろおろしているアイルツ司教に遭遇したからだ。
「アイルツ様……」
おそるおそるその名を呼んだフィリアの声に、彼は実に素早く反応した。
しかしフィオレも、彼に尋ねたいことがある。
「おお、フィリア! それにフィオレくんも……君たちは奥で何を」
「司教、あれは何ですか?」
不躾な問いにフィリアが批難の視線を寄越すも、気にして入られない。
彼は酢でも飲んだような顔つきになって、フィオレを見つめている。
「……見てしまったのか!」
「私は。でも、フィリアは見てません」
なぜ半地下の入り口が開いているのかについて、正直に語った。
フィオレひとりならともかく、フィリアがいる以上隠し立てしてもあまり意味がない。
事の詳細を聞き終えて、アイルツ司教は「……何ということだ」と呟いた。
「あれは……あれは、この神殿における最高機密なのだ。女神アタモニの、ご神体なのだよ」
フィリアから聞いた話だが、通常レンズは手のひらサイズ、一抱えはあるもの、とにかく巨大なものと三種類に分けられていて、後者になればなるほど貴重であるらしい。
そこまで納得したフィオレだったが、この後で驚きに眼を見張る事態へと陥った。
「ご神体に近づき、あまつさえ眼にした部外者は例外なく異端審問にかけられてしまうのだ! ご神体を汚したと称されてな……」
「そんな! そんなの、あんまりですわ!」
異端審問という、穏やかな神殿に似合わぬ響きに対し、驚きに言葉を失くすフィオレ、批難の悲鳴を上げるフィリア。
フィリアは更に弁明を連ねた。
「フィオレさんはご神体を汚してなどいませんわ! だって、わたくしの見ている前で、扉を開けただけで……」
「声が大きい!」
衰えの見える老躯に似合わぬ一喝で、フィリアを黙らせる。
「幸いこのことを知っているのは我らのみ。……フィオレくん」
アイルツ司教に向き直られ、フィオレは迷いの見えるその瞳をしっかと見つめた。
何となく、その先は予想できるものだが。
「すまないが、今すぐ神殿を出てくれ。ここは私が閉めておこう。さあ早く……!」
「わかりました。フィリアを運んでから、すぐにでもお暇します。願わくば、事後処理に手を抜かないでください」
フィリアを担いだまま大聖堂を出て、一直線に彼女の部屋へと向かう。
突然の出来事で眼を白黒させているフィリアを寝台に座らせ、すぐにフィオレは自分のあてがわれている部屋へと向かった。
大概眠るか荷物置き場くらいにしか使っていなかった部屋から荷物一式を取って、フィリアの部屋へときびすを返す。
ノックをしてから部屋に入れば、彼女は事態を把握したらしい。寝台に座ったまま、おろおろしていた。
「ああ、どうしましょう。あの時わたくしが、扉の事なんか気にしなければ……」
「過ぎたことをくよくよ言っても仕方ありませんよ」
支給されていたローブを脱ぎ、懲りずに回った神殿周辺のバザーで購入した男物の被服を纏う。
最後にボタンが取れたまま繕ってもいない外套を着込んで、フィオレは荷袋をがさごそ漁りだした。
「これから、どうなさるのですか?」
「神殿を出ます。手近な村に寄って、落ち着いてから今後のことを決めようかと」
とにかく今は神殿を出ることで頭がいっぱいである。異端審問にかけられるなど、御免蒙るのだから。
やがて彼女は、自らの荷物袋から何かを取り出した。
ひとつは、小さな包み。もうひとつは──
「理論上なら、これでも発動するはずなんですよね」
一人でそんなことを呟いて、フィオレはそのままそれを握りしめた。
その唇が、かすかに旋律を紡ぎだす。
「命よ健やかであれ。心安らかな癒しを、あるべき姿を」
♪ Luo Rey Qlor Luo Ze Rey Va Ze Rey──
「これは──!」
輝く譜陣がフィリアを包み込んだ。足首の鈍痛が、見る間に消えていく。
立ってみてほしいと言われ、フィリアはおそるおそる、彼女の肩を借りて立ち上がった。
「まだ痛いですか?」
「い、いいえ。まったく……フィオレさん。あのときも、この歌を歌っていませんでしたか?」
「聞いてたんですか」
恥ずかしそうに答えながらも、返事ははぐらかす。
跪き、フィリアの足から短刀を回収して、フィオレはもうひとつの包みを手に取った。
「あとひと月ほど、先のことですけど」
何気なく手渡され、フィリアは首を傾げながらもそれを解く。
出てきたのは、珊瑚でできた髪飾りだった。
真っ赤なふたつの球状で、束ねた髪を留められるようになっている。
「フィオレ、さん──」
「生まれてきてくれてありがとうございます、フィリア。おかげで私、あなたと出会うことができました」
つぶらな瞳を見開き、驚きを隠さないフィリアに微笑みかけ。
彼女はただ一言、告げた。
「お元気で」
くるりときびすを返し、静かに扉を閉める。
「まっ……」
一歩踏み出しかけ、フィリアは初めて自分が裸足であることに気づいた。
フィオレが持ってきてくれていた靴は、寝台の傍らにある。
なりふり構わず追いかけることもできただろうが──それでは何事かと騒がせてしまうだろう。アイルツ司教の心遣いも、無駄になってしまう。
もう自分の思慮が足りないせいで、彼女に迷惑をかけたくなかった。
──でも。追いかけるだけの理由があるなら?
さ迷っていた瞳が、ある一冊の本に止まり、細い腕がそれを取る。
大急ぎで靴を履き、フィリアは今度こそ扉を開けた。
珍しく、神殿のエントランスに人はいない。
司教の忠告通り、足早に出て行こうとしたフィオレは、とある人物に呼び止められた。
「フィオレくん!」
先ほど聞いたばかりの声。見やれば、そこにはアイルツ司教の姿があった。
手には、小さな筒のようなものを携えている。
「何か?」
「きっと渡すことになるだろうと思って、準備しておいたものだ。受け取ってくれ」
筒の口を引き抜くようにして取れば、中には仰々しい書状が入っている。
中には、数行の文面といくつかの印が捺印されていた。
「これは?」
「簡易ではあるが、身分証明書だ。君の身分はストレイライズ神殿が保証する。アタモニ神の加護があらんことを──」
「って、それは信者の方にやってあげてくださいよ」
聖印を切ろうとして、本人に止められる。
いきなりのことで、彼女は多少混乱していた。
接触してきた謎の意識のことでまったく気にしていなかったが、いくらなんでも不自然な話だ。
「どうして、こんなにも気を使ってくれるんですか? 発覚した時点で僧兵を呼べば、それで済んだものを」
フィオレとアイルツ司教との関連など、ほぼないに等しい。保護された記憶障害持ちと、そこの代理責任者という関係でしかなかったはず。
あとはフィリアのお使いで幾度か顔を合わせただけで、直接会った回数は片手で足りる。
どうしてこんなにも、気にかけてくれるのだろうか。
「……君が来てからというもの、フィリアは随分明るくなった。両親を不幸な事故で亡くし、何年も塞ぎこんでいた彼女を君は励ましてくれていたんだよ」
もちろん、フィオレにそんな意図はない。
彼女と接する最中、こんなに可愛いのに表情が固すぎる、と勝手に心の中で難癖をつけたフィオレは、とりあえずフィリアをからかった。
時に冗談を交え、時に計算づくでからかって、笑顔を、怒りを、感情を引き出させた。
意図して行ったのは、それだけだ。
あとは面白半分にからかったり、とある質問を妙なところまで突き詰めて困らせたり、彼女が研究している事柄に首を突っ込んで混乱させてみたりと、そんな他愛もないちょっかいを出していたくらいである。
すべて理由は、フィオレの気まぐれだ。彼女を思いやってのことではない。暇があると途端に今の状況を考え込んでしまい、それを無意識に恐れたフィオレの
ともかく、この件に関して言えるのはひとつだけ。
「……単なる偶然です」
「偶然でも、あの子の心は随分癒されたよ。私もあの子も、それに感謝している。……できればアタモニ神の信徒となって、神殿で暮らしてほしかった」
いくら望まれても、心の中だけはどうしようもない。
礼を述べ、神殿出口へと向かった、そのとき。
「フィ……フィオレさ……!」
荒い吐息で切れ切れに呼ばれ、今度はなんだと視線を走らせて──フィオレは眼を見張った。
細い肩で苦しそうに揺れ、息が完全に上がっている。ずれる眼鏡もそのまま、小さな胸を片手で押さえたフィリアが、そこでようやく立っていた。
治ったばかりの足で、ここまで全力疾走してきた、というのが容易に想像できる。
フィオレの姿を認めて、覚束ない足取りで二歩、三歩と歩みかけるも、その膝はがくりと崩れた。
「フィリア!」
その体が床へ叩きつけられる寸前、全速力で駆け寄ったフィオレが抱きとめる。
脱力した手から、一冊の冊子が転がり落ちた。
「何をやっているんですか、もう──」
「……これを」
続くフィオレの言葉を遮り、フィリアは取り落とした冊子を彼女に差し出した。
息は荒いままだが、抱きとめられたその体を早くも自分で起こし、立ち上がっている。
「持っていってください。この辺りは不慣れでしょうし……」
受け取った冊子は、ほぼ全世界を描いた地図帳だった。
地域分けされた大まかなものから、地域別の詳細な地図まで各種。この世界の地形がさっぱりわからないフィオレにはかなり重宝する代物である。
「あ、ありがとうございます……」
「今度お会いするときは、誕生日を教えてください。私も、お返しに何かお贈りしたいと思います」
気丈な微笑みに見送られ、フィオレは今度こそ神殿を後にした。
やがてフィオレの後姿が小さくなり、ついに見えなくなる。
「フィリア……」
気遣うアイルツ司教の声が遠い。
微笑みはとうに消え失せ、こみ上げる思いが、心をきしませる。
押さえきれない涙を頬に伝わせ、フィリアは嗚咽を殺してただ、顔を覆った。
彼女が動けるようになったのは、まだ、もう少し後の話。