やはりTS転生した僕は奉仕部の一員にはなれない。   作:だるがぬ

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生徒会選挙第2話です。
奉仕部の微妙な関係は大きく変わることはありません。が、それ以外がちょっとだけ進みます。



12.それは人類にとって小さな一歩だが彼には偉大な進歩である。

 今日は朝から嫌な夢を見た。多分、僕の昔の記憶……だった気がした。といっても、一度起きてしまえば夢は記憶から綺麗さっぱり消えてしまうものだ。もう詳しい内容は覚えていない。

 

 寝汗を拭き、学校へ行く支度をする。メイクやヘアアイロンはもう慣れたものだ。こちらへ来てから二週間ほど経っている。そのうち四日間は修学旅行に行っていたけれど、それは些末な問題だ。人間は適応するのが早い。ちょっと早すぎる気もするけど。

 

 食卓に並べられた朝ごはんをむしゃむしゃと食べる。八千代家の基本の朝食はトーストと付け合わせ。今日の付け合わせはベーコンエッグだった。ベーコンよりはウインナーが良かったなぁというのは、親に用意してもらった身として贅沢な気がする。

 両親は朝早く家を出るからいつも一人で食べるし、今日も一人だ。少々冷たい朝食だけど、気まずい食卓を囲むよりはよっぽどマシだ。生活には慣れても両親にはまだ慣れていない。家族とはいえ他人、とはよく言うが僕の場合は本当に他人だ。

 

「……ごちそうさま」

 

 一応は言っておくかとそう呟く。僕一人には余剰なスペースに声が響いた。食卓は広すぎる。いっそ四畳ぐらいでいい。いやそれは狭すぎる。

 アホな考えばかりが脳をグルグル巡る。あまり頭が回っていない証拠だった。

 

「いってきます」

 

 昨日の授業をサボったせいか、はたまた奉仕部の綱渡りな空気感のせいか。休み明けのような気だるさで始まる一日だ。

 新しい朝は絶望の朝だった。ラジオ体操のウソつき。

 

 家を出て学校へ。街路樹のある通りをただ歩く。大部分が枝のみになって痩せ細った木々は、嫌でも秋の終わりを実感させる。足元の落ち葉は既に色鮮やかな秋の装いから、枯れ果てた焦げ茶色へと姿を変えている。踏みしめると、ガサガサと乾いた音だけが聞こえてきた。

 昨日まではまるで目を向けられなかった冬の千葉が、そこにあった。

 

 学校の敷地に入り、足早に、しかし目立ちすぎないよう校内へと入る。そのまま教室へもスルリと入り込む。話し込むクラスメイト達とは正反対に、なるべく音を立てないよう自分の椅子を引いた。

 いつもであれば周囲の喧騒など睡眠のBGMに過ぎないが、今朝は少し違った。

 

「いや~でもやっぱもう冬だべ? 朝起きたとき布団から出たくないつーか?」

 

「それは戸部が怠け者なだけだろ?」

 

「いやそれな。むしろ戸部な」

 

 上から戸部君、葉山君、あと……何だっけ。大岡君だか大和君だか。どっちがどっちか忘れた。

 

「でもあたしもあるかなぁ。優美子は?」

 

「あーしの部屋ガンガン暖房効いてっからさー」

 

 彼らも彼女らもいつも通りだ。修学旅行以前から特に変わったところもない。いや、きっとそう見えているだけなのだろう。変わらないよう演じているだけなのだ。みんなで、何も無かったように振る舞っているだけだ。

 

 ただそれでも、あのグループにとって大きな意味を持つのだろう。例えそれがただの延命措置であっても。

 

 そこまで心配でもなかったが、葉山グループは表面上といえど崩壊していないとの結論が出た。

 その中でも一人、海老名さんの様子が気になったが、敷き布団の誘い受けがうんちゃらかんちゃらとかいって鼻血を放出する様子を見て安心した。いやこれで安心するのもどうなんだろう。

 

「八幡、おはよ!」

 

「おはよう。……結婚してくれ」

 

 そしてこちらの音声が誰かは、まあ言うまでもないだろう。こんな妙な挨拶の風景をあちらこちらで見せられても困る。ちょっと役得すぎて困る。

 ただ彼も、概ね日常に変化はないらしい。

 

「なんか普通に挨拶だね。八幡」

 

「へ? 今の……普通か?」

 

 たぶん。

 いややっぱり挨拶ついでに求婚するのは普通じゃないと思います。あとごちそうさまです。

 

 

 × × ×

 

 

 昼休み。授業を聞き流していたらいつの間にか昼だった。八千代家は弁当がある日とない日が半々ぐらいで、今日はない日だ。代わりにお小遣いが貰える日。

 教室に居づらいのでよかったと安堵しつつ、購買で適当にパンを買った。どこで食べよっかな。

 

 その時、廊下を駆け抜ける冷たい風に身を包まれて、あの場所を思い浮かべた。特定の時間に潮風が吹くその場所に彼はいるだろうか。いやこの寒さではいないだろう。

 そう思って覗いてみた。

 

 いた。なんでだ。寒いのに。

 少し迷ったけれど、意を決して曲がったその背中に声をかけてみた。

 

「こんちは。なんかあれだね。一昔前のギャルゲーみたいだね」

 

「うおっっ! っぶねメシ落としかけたわ……。急に後ろから話しかけんなよ。うっかり心臓止まっちゃうだろ」

 

 特定の場所(ベストプレイス)に行くと必ず会える、マップ選択タイプのゲームにいそうなヒロインこと比企谷八幡君が驚いていた。ていうかヒロインなんだ。

 比企谷君はこちらを勢いよく振り返って、それから落としそうになったご飯を慌てて掴み直していた。

 

「つーか何だよ今の。俺ときメモぐらいしか知らないからわかんないんだけど」

 

 表情にありありと困惑が浮かんでいる。伝わらなかったか。

 どうやらその辺の造詣は深くないらしい。ラノベやアニメにはあんなに詳しいのに……。材木座君が泣くぞ。すぐ泣くぞ。絶対泣くぞ。ほら泣くぞ。

 

「ときメモ? なにそれ。それより、ここでご飯食べていい?」

 

 比企谷君より知識があるのも何となく恥ずかしいので素知らぬ顔をしてやり過ごした。

 あと、ご飯は教室では食べづらいし、奉仕部に行くのも少し勇気がいるので聞いてみた。ここは丁度いい逃げ場所だ。

 比企谷君は露骨に嫌そうな顔をして口を開いた。

 

「ときメモ知らないのかよ……。あとここは別に許可がいる場所じゃない。食いたきゃ勝手に食え」

 

「でも一緒に食べて噂されると恥ずかしいし……」

 

「いやお前から言ってきたんだが? 上げて落とすとかさすがの詩織さんもそこまで鬼畜じゃないわ。てかやっぱ知ってんじゃねえか……」

 

 怒濤のツッコミを見せた比企谷君は、呆れと疲れのため息を同時に吐くという器用な真似をしてみせた。

 ちょっぴり楽しくなってしまった自分を隠すように隣へ座って、パンの袋を開ける。そのままガブリと、コロッケパンへ囓りついた。

 

「その炭水化物太るぞ」

 

 その打球消えるよ、みたいな口調で語りかけられた。ジトっとした目もセットで。いや比企谷君の場合はデフォルトの目かもしれない。

 まあまあ気にしてることを言われてムッと来てしまう。

 

「いやいや、美味しいものはノーカロリーだよ」

 

「トンデモ理論すぎるだろ。水素水が実在するって言われた方がまだ信じられるわ」

 

「いやあ水素水はちょっと。血液クレンジングぐらいのレベルの理論だよ?」

 

「それを同レベルって言うんだが……?」

 

 言葉のキャッチボールをしながら二人でご飯を食べ進める。朝食よりも美味しく感じられるのは、きっと気のせいじゃないだろう。

 

 僕よりも早く食べ終わったらしい比企谷君がボケッとテニスコートを眺めている。テニス部は昼練の最中らしく、風に乗って元気な掛け声が聞こえてきた。

 なんだか穏やかな時間だ。この時間がずっと続けばいいと思えてしまう。何が要因でそう感じているのだろう。彼の存在か、あるいはこの場所か、そのどちらもなのか。きっと暖かい春にはもっと居心地が良くなるのだろう。

 

 ただ、甘えてはいけない。

 こんな時間はただのボーナスタイムやロスタイムであって、本筋から目を逸らしているにすぎない。

 僕も彼も、目を逸らすのは得意分野だった。

 

「あのさ、一つ……聞いていいかな」

 

 食事を切り上げて、口のなかに残る食べ物を無理矢理飲み込んだ。代わりに本題を吐き出す。

 

「……何だよ。わざわざ改まって」

 

 僕の雰囲気が変わったことを察してか、比企谷君は声のトーンを落とした。正直怖いけど、聞かなければ前に進めない。そう思って口を開いた。

 

「昨日さ。何で僕の話を止めたの?」

 

 比企谷君は昨日、僕を咎めるどころか謝罪までしてきた。それはまだいい。きっとみんな、自分が悪いと思っているのだから。

 

「別に止めてはねーだろ」

 

「ううん。平塚先生が来て、止めたよ」

 

 でも平塚先生が来てからは違う。

 わざわざ、奉仕部と僕が話す機会を奪ったのは比企谷君だ。先生が出直すことをやめたのは、彼が構わないとそう言ったからだった。彼がその場を打ち切って、雪ノ下さんの疑問と僕の発言を封じた。

 苦々しい顔の比企谷君に、追い討ちをかけるかのように言葉を重ねる。

 

「……僕はまだ、あれを嘘だったって言えてないよ」

 

 あの戸部君への告白は嘘だったのだと、そう言えていない。現状それを明確に知っているのは比企谷君だけだった。

 

「察しちゃいるだろ。あいつらも」

 

 それはおそらく正解だ。でもその事実が、僕の首を真綿で絞めるようにジワジワと苦しめる。

 察しているだけだからこそ、踏み込めないのだと。

 怒ってくれた方が、ハッキリと感情をぶつけてくれた方がまだマシだった。どこか遠慮がちに触れられるよりは、よっぽど。

 

「それじゃ駄目だよ。みんなに、謝れないよ」

 

「いや、そもそも戸部や海老名さんの依頼に巻き込んだのはこっちだ。お前が謝る理由がない」

 

 比企谷君はまるで答えを用意していたかのようにそう言った。

 謝る理由が、まだ僕にはわからない。でもあの修学旅行からずっと罪悪感は消えてくれず、僕の中で未だに燻り続けている。

 僕は比企谷君や彼女たちを間違いなく傷付けていて、でもその傷口がどこにあるのかわからなかった。

 

「わかんないよ。でも……謝らなきゃって思う」

 

「じゃあ、あいつらに言うのか。お前の、その……性別のことも」

 

 比企谷君が初めて言葉に詰まった。きっと彼はこのことを言わせたくなかったのだと、僕はそう直感した。

 僕の性認識が男であることを言わせたくない。その理由を考えてみる。

 ああ、そうか。

 一度気付けば、それは簡単なことだった。

 

「旅行中、部屋も僕と一緒だったもんね。由比ヶ浜さん」

 

 素っぴんだって見てるし、お風呂上がりのあどけない姿や寝起きの姿だって見ている。

 もちろん目を向けないよう気を付けていたけれど、そんなの本人には知りようがないことだ。

 

 四日間の共同生活を送った相手が、内面だけとはいえ異性だったら。もっと端的に言うなら、女子部屋に実は男がいたら。

 いい気がしないなんてもんじゃない。

 おぞましいとすら感じるだろう。きっと。

 

「僕が由比ヶ浜さんに嫌われるって思った?」

 

 比企谷君はまだ苦い顔のまま頭をガシガシと掻いて、言いづらそうに声を絞り出した。

 

「……あいつは多分、そんなことでお前のこと嫌わない。でも……接し方とか、見る目は変わってくるだろ」

 

 結局は、朝見た葉山君のグループと同じだ。

 特定の誰かに深い傷を付けないために、みんなでそれを飲み込んで、平等に分配する。

 彼らにとっては戸部君と海老名さんの傷を、僕らは由比ヶ浜さんと僕の傷をそれぞれ分散した。

 

 いつも通りを維持しようと、停滞するための延命措置。核心に触れず蓋をするためだけの手段。

 それは僕も同じだった。

 僕だって、この場を取り繕っていた。

 

 あの寒々しい京都の夜のこと。

 なぜ嘘告白という手段を選んだのか。

 そもそも、なぜ僕が戸部君の告白を阻止したのか。

 それをまだ比企谷君に伝えていない。

 そんな僕に、彼を責める権利などなかった。

 

「それでも、いつかは言うよ。二人にも……比企谷君にも」

 

 僕は立ち上がって、スカートについた埃をパンパンと払って、膝下のタイツをキュッと上げる。

 比企谷君の何か言いたげな視線が刺さった。少し待ったが、言葉が飛んでくることはない。

 

「じゃあ放課後、部室でね」

 

 そう言って彼を置いて立ち去った。今の僕は、彼に真実を告げることはできなかった。それはなぜか。問いの一つは、答えがまだ出ていないから。

 

 どうして嘘の告白なんてやり方を選んだのか。

 その答えは既に出ている。

 彼のやり方を間違っていると、彼自身に伝えるためだ。

 

 ではそもそも、戸部君の告白を阻止しようとしたのは何故か。海老名さんを助けたのは何故か。

 ──比企谷君の邪魔をしたのは何故か。

 その答えを、僕はまだ出せないままでいる。

 

 

 × × ×

 

 

 寒々しさは外から午後の教室内にも押し寄せていて、そしてそれは放課後の奉仕部でも同じことだった。

 

 僕らは四人で集まっていて、そこに一色さんがやってくる。昼の様子からもしかしたら比企谷君が来ないのではと心配だったが、由比ヶ浜さんがしっかりと連れてきてくれたようだった。

 

「では一色さん。話を伺いましょうか」

 

 雪ノ下さんがそう言うと、空気がより一層冷たくなったように感じた。これは僕の被害妄想かもしれないけど。

 

「そうですねー。昨日も話したことなんですけど、私的には信任投票で落ちるのは嫌っていうかー」

 

 ゆるゆると間延びした声で一色さんが答える。そんな様子に由比ヶ浜さんは苦笑いをしていて、比企谷君はヒクヒクと引き笑いをしている。雪ノ下さんは終止真顔で見つめていた。

 

「え、えと何で嫌なのかな~ってこともいちおう、聞いときたいんだけど……」

 

 それが恐ろしいのか、場を取り持つように由比ヶ浜さんが一色さんに質問する。

 

「えーだって信任投票って勝って当たり前じゃないですかー? それで負けるって超恥ずかしいじゃないですかー」

 

 要は恥ずかしくない負け方をすればいいのだろう、と思う。一色さんのプライドを保てるようなそんな負け方を。信任投票の敗北ではその条件を満たせない。

 

「ではやはり、別の候補との決選投票にするしかないわね」

 

 昨日、僕も含めた四人で話し合った結論はそれだった。ただいくつもの問題点があって、それがこのやり方を進められない原因でもあった。

 

「候補は今のところいないんだよね?」

 

「うん。それはまだ……」

 

 僕の問いかけに由比ヶ浜さんが顔を逸らしながら答える。昨日はそもそもここで躓いていた。

 一色さんに勝つための本命候補がまだ存在していない。

 彼女の人気に勝てて、なおかつ手隙の人材などそこらに転がっているものではない。

 

「追加候補の最終受付っていつまでだ?」

 

「再来週の月曜日。といっても受付はこの日のみよ。投票はその週の木曜」

 

 比企谷君の疑問に、食いつくように雪ノ下さんが答えた。

 今日は既に火曜日の放課後で、つまり受付まであと二週間を切っている。

 とはいえ受付は月曜日のみで、だからこそ、その日まで立候補のするしないには融通が効く。

 

「それまでに候補見つけて三十人の推薦人集めて選挙活動ね……」

 

「時間がないことを嘆いても仕方ないわ。一色さん。あなたには出来ることをやってもらいます」

 

「え、あ、はい!」

 

 急に話を振られた一色さんが背筋を無理矢理伸ばしながら答える。すると、雪ノ下さんは一枚の紙を取り出した。

 

「これが私たちの候補に宣言させる公約よ。目を通してくれるかしら。一色さんにはこれと違う内容で演説をしてもらうわ」

 

 一色さんは伸ばした背筋を崩すことなく、ロボットのように固い仕草で紙を受けとるとさっと読み始めた。

 読み終わったあとは、回し読みするように由比ヶ浜さんに回り、僕に回り、そして比企谷君の手元へと向かう。

 そこには、公約としての条件が二つほど書かれていた。いずれも簡素な内容で学生としての本分を逸脱しない、優等生らしきものである。

 

「よく一晩でここまで考えたな。でもな……これじゃ傀儡候補だろ」

 

「それは……」

 

 比企谷君の厳しい視線を受けて、雪ノ下さんの言葉が詰まる。

 これじゃ……昨日の焼き直しだ。二人の、罵り合いに発展してもおかしくないこのヒリついた空気感。避けようとしても、結局はここに行き着いてしまう。

 

 室内に、しばらく沈黙が訪れた。

 やがて雪ノ下さんがその静寂を破ろうと、比企谷君を見返して小さく声を上げた。

 

「では……他にやり方があるの?」

 

 その声はどこか震えていて、どこかの物陰からこちらを伺っているような姿を想起させた。

 その質問に比企谷君がどう答えるのか。

 昨日も似たような問いがあった。だが今日も同じ答えとは限らない。それが怖くて、僕はただ下を向いて自分の弱々しい拳を見つめるほかなかった。

 

「ないことも、ない」

 

 それは肯定とも否定とも取れない答えで、僕らにのし掛かっていた重たい空気は、さらにその質量を増した。

 そのやり方がどういうものかは一色さん以外の全員が知っていて、その誰もがそれを否定する言葉を持ち得なかった。ただ一人、僕を除いて。

 

「比企谷君……。……嫌だよ」

 

 しかし言葉なんてものは無力で、本ばかり読んできた僕だろうとそれは変わらない。自分の気持ちを十全に表すことなんて出来やしない。まして僕には、耳触りのいい言葉をかけられる度量も器量もない。

 だから、こんな陳腐な言葉でしか表現できなかった。でもきっとそれがすべてだった。

 そんな僕の想いが伝わってか、伝わらずか。

 

「……わかってるよ。それこそ嫌ってほどな」

 

 比企谷君は昼のときのようにガシガシと頭を掻いて、それから深く息を吐いた。

 それを皮切りに、僕たちを覆っていた空気が弛緩した。由比ヶ浜さんも一色さんも、緊張で上がっていた肩はもう下りている。

 

 きっと、彼が今までの手段を取ることはないのだろうと。少なくともこの生徒会役員選挙ではそうはならないだろうという確信めいた予感があった。

 だから僕もどこか気が抜けていて、だからこそそのか細い声がよく聞こえてしまったのだと思う。

 

「あなたは、変わったのかしらね……わからないわ」

 

 ただ悲しげに呟くその声だけが、嫌に耳に残った。

 

 

 × × ×

 

 

「じゃあ、また明日ね」

 

 帰り道で三人と別れるのも、もう慣れたものだ。一本早い分岐路を使って一人の時間を確保する。嫌なこなれかただなぁと自分でも思う。

 

 今日一日の放課後を使っても、結論は現状維持だった。選挙の依頼も、奉仕部の雰囲気もそのどちらもだ。

 一色さんの方は、有力な候補を立てて選挙で負けることを目標にしたままだ。奉仕部の一触即発な空気は多少マシになったものの、元通りとは程遠い。

 

 原因は比企谷君にもあるのだが、主に雪ノ下さんだと思う。どこか物憂げな表情で、比企谷君から一歩距離を置こうとする。それがまた比企谷君の苛立ちを加速させているようだった。

 

 衝突しないことは、良いことなのだろうか。そう自分に問い直す。僕がやってることは、本当に正しいことなのかと。

 

「あーあ。わかんないことだらけだ……」

 

 そう独り言を呟く。最近増えてきた気がする。

 

 とりあえず選挙の解決法を考えてみた。

 まず原作通り一色さんが会長になる。

 その場合、雪ノ下さんの意思はどうなる? 

 では今度雪ノ下さんが会長になった場合。

 今度は奉仕部がどうなるかわからない。

 

「いっそ僕が会長になるか……?」

 

 だがこれもダメだ。これは結局のところ彼を模倣したやり方でしかない。修学旅行の二の舞だ。それを否定したのは、彼であり僕だった。

 

 あれもダメこれもダメ。昨日からまるで状況が変わっていない。これで本当にいいのか。何か一つでも希望はないのか。

 

「あらお帰り! 今日も遅いのね」

 

 どうやらまた考えているうちに家の前に来ていたらしい。ガレージの掃除をしている母親とバッタリ会ってしまう。

 また昨日と同じ状況だ。

 でも、それならば。

 

「うんちょっとね。ただいま……母さん」

 

 だからこそ、少しでも前に進むべきなのだろう。明日から頑張ると、昨日そう言ってしまったのならば。

 たった一日では変わらないこともある。ただ、変える必要もあると、僕は信じている。

 

「あらあら、家の外だからってそんなかしこまらなくていいのよ? たまに変なことするのよねー。このかわいい娘ったら」

 

 …………おい、いつも何て呼んでるんだよ。ママか? やっぱママなのか? 

 

 無視して家に入った。一歩進んだから二歩目はいいかなって。うん。さすがにこの年でママはちょっと……。

 

 手洗いなさいよーと外から声がする。しぶしぶ洗面所へ向かい、温水で手を洗った。

 鏡に映る自分の顔に視線が吸い寄せられる。

 今朝の顔よりも、ちょっとだけマシな顔色をしている気がした。

 

「おかえり。ほらママに挨拶は?」

 

 いつの間にか後ろにいた八千代家の母が絡んでくる。てか挨拶ならさっきしたじゃん。ただいまって言ったよね? 

 そんな視線を察したのか。

 

「母さん、じゃなくてママに挨拶してよ。ほらほら」

 

 こっちの気も知らないでそんなことを言ってくる。

 僕からしてみれば二週間程度の母親だ。でも今日の朝食は作ってもらったし昼御飯のお小遣いも貰ってる。恩はある。あーもう、自分の律儀な性格に嫌気が差す。素直になれない自分への言い訳を済ませて、もにゅもにゅと唇を動かした。

 

「ただいま。…………ママ」

 

「よく言えましたー! 偉いね~」

 

 柔らかく僕の頭を撫でてニッコリ微笑むと、母親とやらは外のガレージへ帰っていった。

 あーもう。ほんと。もう! なんだよ、もう! 

 弱ってるところにそんなんされたら、母性感じちゃうじゃんか! 

 

「あーもう……あとは野となれ山となれだ」

 

 ドタドタと自分の部屋に駆け込んで携帯を取り出す。こうなったらヤケクソだ。昨日やり残した宿題をやってしまおう。学校で何一つうまく行かなかった鬱憤を晴らすように、そうしようと決めた。

 

 携帯から、とある番号にコールする。その番号は一度としてかけたこともかかってきたこともなくて、社交辞令程度に先週交換したものだったけど、使う日が来るなんて思っても見なかった。

 

『……もしもし?』

 

 不審げな声が電話口から聞こえてくる。知らない番号ではないといえ、急にかかってきたのだから当たり前だ。

 彼女と会話したのはあの時が最後で、それからは一言も交わしていない。

 でも、それじゃいけない。昨日と同じではいけないのだと、マ……母親とのやり取りでそう感じた。

 

「もしもし。ね、今週遊びに行こっか?」

 

 修学旅行でも何でも、突拍子のない行動を取る僕だから、また突拍子もなくそんなことを言った。

 たぶんこれは後々の黒歴史になるんだろうと思いつつ、でも止める気にはならなかった。

 

『え、ちょっと待って。なんで私と、え、え?』

 

 困惑した声が聞こえてくる。彼女に通話をかけたのはこれが初めてだ。

 でもそんなこと、泣かせたことを忘れていい理由にはならない。責任を無視していい理由にはならない。

 

 強引に流れを持っていってしまおうと、ずっと言おうと思ってて言えなかったことを思い切り言った。

 

「あの時は、人の気持ち考えられてなかった。……ごめんね」

 

『え、あ、うん。でもそれは私もね』

 

 湿っぽい空気になりそうで、それが嫌だった。もう胃がキリキリするのは間に合ってる。一日分のキリキリマイを味わった後だから。

 話を封殺するようで、もしかしてこれはただの自己満足なのではと思ってしまう。それでも、僕はもっと仲良くなりたいと思ってしまったのだ。

 僕が傷付いたことを、泣いてまで悲しんでくれた彼女と。

 

「あのね、聞いて欲しい」

 

 だからもう一つ、思っていて言わなかったことを言うことにした。

 

「はち×とつ以外のカップリングはあり得ないから!」

 

『は?』

 

 ピキっと空気が凍った音がした。そして同時に、シュコーっとその空気が蒸発した音も。

 

『はあああああああああ!? ヒキタニ君は総受けのヘタレ受け以外あり得ないんだけど!?』

 

海老名さんの絶叫が響き渡る。

 もう、どうにでもなーれだ。

こんなことでも、少しぐらいは仲良くなれるだろうか。




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