やはりTS転生した僕は奉仕部の一員にはなれない。 作:だるがぬ
奉仕部の関係にメスが入ってしまいます。
あと雰囲気の落差が酷いです。たぶんこの先もずっと落差が激しくなると思います。
全7話前後とか言ってましたが、たぶん全8話になります。いややっぱ9かも……。
指。右手の人差し指。むに、という感覚が未だに残っている気がする。左手の人差し指と突き合わせて感触を確認する。彼の頬はこんなに硬くなかった……はず。
あーあーあーあー! 何考えてんだ僕は! ちょっと頬っぺたつついただけで! てか何でつついたんだよ!
悔恨の念は絶え間なく襲い掛かる。勢い任せに行動することを肯定したのは昨日の僕だけど、まさかあんなこっぱずかしいことをするとは思わなかった。なにやってんだよお前マジで。いや自分のことなんだけどね。
これが……トラウマか……。
他人と距離を取り続けたせいで、心が弱ることにさして耐性がなかった僕は、比企谷君の頬をつついたことに対しての後悔にノックアウトしそうだった。後悔したくないんじゃなかったのか僕は。
だって何あれ? 少女漫画のイケメンか美少女ゲームのヒロインにしか許されてないぞあんな行為。
恥ずかしすぎて顔から火が出そう。
ゴンゴンゴンゴン机にゴン。頭で軽く机をノックして脳ミソ虐めに精を出す。叩いてもバカは治りそうにない。いっそ死ぬしか…………。
「や、やっはろー。その、大丈夫?」
ここが教室でこの机が自席だということをすっかり失念していた僕は、その声でハッと顔を上げた。
上げた先には由比ヶ浜さんと……離れた席からこちらを伺う比企谷君の姿。ゴン。机の上の定位置に強引に頭を戻して、後からそのアホ頭蓋を両腕で囲い混む。
「……だいじょばないかも」
「あはは……」
由比ヶ浜さんの苦笑いが聞こえる。ただ、続く言葉はない。しかし席に戻るつもりも無いようで、まだ息遣いを感じる。吐息がやけに生々しく感じられ体が硬直する。耐えきれなくなって、目以上鼻未満を腕から引き出しながら口を開いた。
「まあ何でもないっちゃないから……」
「そっか……」
由比ヶ浜さんは追及する気はないようで、曖昧に笑った。それから眉を潜めると僕の耳に口を近付けた。かかる息がこそばゆくて、顔の温度が上がった気がした。潜めた声が続けざまに耳をくすぐる。
「なんかさ……ヒッキー、すっごいこっち見てない?」
僕は他人の視線にはとんと疎い。見られていると気付くにはこちらも見る必要があるわけで。比企谷君のことはそれなりに観察しているつもりだけど、お互い寝たフリをしながらだと頭を上げるタイミングが中々噛み合わない。
「そうかな? いつも通りな気もするけど……」
彼は既に顔を逸らしていた。だから僕が知ってる情報をそのまま告げる。むしろ、いつも通りじゃないのは僕の方だ。
由比ヶ浜さんはそれでも疑念を払拭しきれないようで、僕に何か言おうとした。しかし教室の一番賑やかなグループからの大きな声でその動きは止まる。
「そういや、サッカー部金曜休みだったよな。ズリぃよー寒いのに外で練習とかマジ勘弁だわー」
そう言っておちゃらけるのは確か野球部の大……大……大谷? 将来はメジャーリーガーかな。
冗談はさておき大和君の愚痴がサッカー部の二人へ向けて飛んだ。
「おいおい。野球部もグラウンドは平等に使ってるだろ? あとそれ、部の先輩の前じゃ言わない方がいいぞ」
葉山君が窘めるように言う。男子グループには笑いが生まれ、楽しそうな空気を作り出している。
ただ女子はそこに入っていない。
「金曜……」
由比ヶ浜さんが呟く。どうしたものかなと言葉を必死に検索していると、繕う間もなく声が響いた。
「金曜……」
まったく同じ台詞を放った三浦さんは、心まで抜けてしまったのか放心状態で葉山君を見ている。
いつもなら気を遣って話しかけるはずの由比ヶ浜さんもこの調子なので、残された海老名さんが必死に間に入っていた。
「大変! どっちの部が受けかで戦争が起きちゃう! サッカーの方が攻めって感じがするよね! ね、とべっち?」
「え、お、おう! いやーやっぱサッカーやるなら攻めっしょ! シュート打たなきゃ点は入らないっつーか?」
「そうだよね! 入れなきゃ入らないよね! 夜のPK戦はこれからだよね!?」
「え、いまのナイターの話だったん?」
なんか微妙に話が噛み合ってない気もするけど、重苦しい空気を蹴散らそうと海老名さんと戸部君が頑張っている。
三浦さんは止めることなくため息を吐く。ご機嫌を取ろうと、大和君や大岡君が奮闘していた。
一人だけ、どこか優しくいつもと変わらないように微笑む葉山君の表情に、ありもしない陰りが見えた気がした。
「由比ヶ浜さん。今日のお昼、一緒に食べてもいい?」
「え? あ、うん。いいけど……珍しいね」
由比ヶ浜さんはほえーっと妙な相槌を打ちそうな顔で僕を見た。
決して、葉山君の含みがありそうな顔が気になった訳じゃない。ただ僕は僕で出来ることをやろうと、そう思っただけだ。それに。
僕のやったことに意味があったのかどうか。その答えは今日の昼休み、明らかになるのだから。
そして、生徒会選挙の行く末もそこで決まる。
× × ×
「やっはろー、ゆきのん」
「お邪魔するね」
由比ヶ浜さんがガラガラと扉を開けて、僕が後から続く。雪ノ下さんは僕の姿を見て少し驚いていたが、すぐに何でもない顔に戻って挨拶をすると、小さめのお弁当を広げた。
僕も由比ヶ浜さんも鞄からお弁当を出す。
今日はたまのお弁当の日だ。というのも八千代母……いや、ママ……。間をとって八千代ママってことで。その八千代ママは遅番を増やしたらしく、朝はお弁当を作って見送るようになった。今後は、そういう日が多くなるらしい。何か心境の変化でもあったのだろうか。
作ってくれたお弁当だが、中々喉を通らない。ただそれでもせっかく作ってくれたものを残す訳には行かないと飲み込むように食べていく。
ガラッ──
唐揚げに手をつけたところで、その鋭い音と共に扉が開く。ああ、やっぱりか。
そこには比企谷君が険しい顔で立っていた。
由比ヶ浜さんは目を丸くして驚いたが、雪ノ下さんはただ冷たい瞳で見つめていた。
挨拶などもなく、比企谷君が口を開く。
「雪ノ下、お前が立候補するのか」
「……ええ」
雪ノ下さんはそっと目を伏せる。
由比ヶ浜さんがそんな彼女を見て困惑の表情を浮かべた。
確定だ。彼女はやはり、彼女自身が生徒会長になりたがっている。決して陽乃さんに発破をかけられたことだけが理由ではない。
「聞いてなかったのか」
比企谷君が由比ヶ浜さんの様子を見て呟いた。弁解するように雪ノ下さんが言葉をポツリポツリと拙く紡ぐ。
「……まだ、確定したわけじゃないわ。応援演説の人選は決まっていないもの」
僕のやったことにも一応意味はあったらしい。
その是非はわからないが、僕があの日割り込んだことによって雪ノ下さんの決断は少し遅れていた。
葉山君が承諾しなかったのか、それとも雪ノ下さんがまだ打診していないのか。おそらくは後者だと思う。
「てことは、推薦人集めは終わってるんだな?」
顔を上げられない雪ノ下さんに、比企谷君は容赦なく咎めるように言う。
何も答えない雪ノ下さんの沈黙を肯定と見たのか、比企谷君は頭をガリガリと掻きながら呟くように漏らした。
「他の候補の擁立って手もあるだろ」
「それを否定したのはあなたよ」
鋭く、雪ノ下さんの声が飛んだ。そしてそれはその通りで、葉山君に断られたとなると一色さんに勝てる候補の選択肢などない。よしんばそんな逸材が隠れていたとしても、残り一週間では選挙の準備が出来るとは思えない。事情を知っていて政策も立てている雪ノ下さんなら話は別だが。
「……そうかよ。それでお前かよ」
比企谷君がそう吐き捨てる。自分で否定した意見を他人に盾に使われていい気はしないだろうが、きっと彼が憤慨している点はそこじゃない。
ただもっと純粋に。
──雪ノ下雪乃に生徒会長をやってほしくない。
そういうことなんだと思う。
「でも、部活は……」
由比ヶ浜さんが小さく縋るように呟く。
「大丈夫よ。この部活はそれほど大変でもないし、生徒会の仕事もある程度理解しているから負担にはならないわ」
それは果たして本当だろうか。
雪ノ下さんが生徒会長をやりたい理由はさほど明確に語られていない。彼女が本当に部活と両立するつもりなのか、僕にはわからない。
俯き、思考に囚われた僕を見て彼女は薄く微笑んだ。それから矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。
「私がやるのが最善だと思うわ。一色さんにも勝てるし、それに傀儡ではないもの。行事の運営もスムーズに行える。効率がいいし……それに、私はやっても構わないわ」
効率がいい、という言葉に引っ掛かりを覚える。
その言葉を引用した結果、誰かを傷付けた愚か者がいた。自分の気持ちを偽り他人の理由を奪い、その責任すら満足に取れていないうつけ者がここに。
だからそうじゃない。比企谷君も僕も、そして雪ノ下さんも。効率なんていう独善的な在り方に囚われてはいけない。
注目すべき点はここじゃない。
「やっても構わないって?」
僕が口を挟んだことに雪ノ下さんは少し驚いていたが、用意していたようにすぐに答えを返す。
「ええ。私なら適任でしょう」
違う。適しているかなんて関係ない。
重要なのは意思だ。やりたいと思うのか。それはどうしてなのか。僕も由比ヶ浜さんも比企谷君も、彼女のそれがわかっていない。
「そりゃそうだろうが……」
比企谷君が呟く。納得が言っていないことは誰の目から見ても明らかだった。
雪ノ下さんがきつく、冷たい瞳で彼を見返して口を開きかける。
それを止めるため手で制した。なぜ、といった顔が僕に向けられる。
注目を奪うために、僕は口を開く。
「効率だけでいうなら、他にも手はあるよ」
いま必要なのは雪ノ下さんから言質を引き出すことだ。
生徒会長をやりたいという意思を引き出すこと。
そのためにまずは効率を否定する。
彼女から、分かりやすい理由を奪う。
生徒会長になるにせよならないにせよ。奉仕部が存続するにせよしないにせよ、本音を出せなければこの三人に進展はない。無意味な停滞だ。一見、僕の望む永遠の関係に見えるけれどそれは違う。
永遠とは終わらない道のりのことであって、道の途中で立ち尽くすことではない。
「これ見てもらっていい?」
僕は鞄から一枚の紙を取り出して、机に置いた。みんなが顔を寄せてそれを見る。
……出来れば、使わずに済めばよかったんだけどな。
「生徒会選挙の、アンケート?」
由比ヶ浜さんが不思議そうに呟く。
それは僕が昨日作ったアンケート用紙だった。
ゆっくりと雪ノ下さんが内容を読み上げていく。
「生徒会役員へ必要な資質は何だと思うか、どういう政策を立てて欲しいか、誰が生徒会長に相応しいか……。これだけ第5候補まで求めるのね」
「で、これの意味は?」
雪ノ下さんも比企谷君もパッと見ただけでは分からないようで、僕に説明を求める。重たい口をどうにか動かして、僕はこの用紙について語る。
「全校生徒に配って集計するんだ。でも必要なのは最後の項目だけで、他はダミーだよ。生徒会長に相応しいのは誰ってやつ。……その解答は、実質的な推薦になる」
わざわざ第5候補まで作ったのは票の集中を防ぐため。葉山君や雪ノ下さんだけに集まっても意味がない。
重要なのは、推薦される側の人間の数だ。
雪ノ下さんは僕の話を聞いてこめかみに手を当てて考え、それをブツブツと呟いた。
「推薦人集めをこれで……? でも立候補がいなければ結局同じ事……。他薦ということ? いえ、違う。まさかあなた」
答えに辿り着いた雪ノ下さんがハッと息を呑み、信じられないといった顔で僕を見た。そりゃそうだ。こんな意地の悪い考えを知ったら誰でもそんな顔をするだろう。
「ゆきのん……?」
由比ヶ浜さんは分からない様子で、雪ノ下さんを不安げな瞳で見つめる。
雪ノ下さんは僕をその鋭い眼光で睨み付け、それから苦々しく吐き捨てるように僕に向かって正解を突きつけた。
「このアンケートに書かれた人を、一色さんのように勝手に立候補させるつもりね」
「え……それじゃいろはちゃんみたいな人が増えるだけじゃ」
由比ヶ浜さんの驚きの声が部屋に響く。
すると比企谷君が補足をするように前に出て、その考えを引き継ぐ。
やっぱりか。そうだろうと思った。君ならこんな露悪的な方法も解ってくれると、いや──解ってしまうのだと。それはある種、残忍な信頼でもあった。
「そんな少人数じゃねえってことだ。10人もしくは20人。30人も立候補させられれば上出来だな」
由比ヶ浜さんが助けを求めるような視線で雪ノ下さんを見る。雪ノ下さんもきっともうわかっていて、僕に冷たい目を向け続ける。
「候補の受付は来週の月曜日の一日のみ。投票は木曜日よ。中二日、投票の当日を合わせても三日で数十人が演説を行うのは……現実的ではないでしょうね」
補足するように僕も付け加える。
「演説をどういう形でやるのか知らないけどね。外でやるにしてもマイクやお立ち台の数には限りがあるし、体育館で全校生徒集めてやるなら絶対に不可能だよ。そうすれば、選挙は延期になる」
雪ノ下さんもそれはわかっているのか、他の点で反論できないかを探しているようだった。
この作戦は穴だらけだから、すぐに見つかることだろう。
予想通り、一分も経たないうちに雪ノ下さんが僕を責めるように指摘を始める。
「いえ、まず選挙管理委員がそれを見逃すとは思えないわ。一色さんの一件があったのだから、本人確認は怠らないはずよ。それにこんな用紙を大々的にバラ撒いたら……」
ただ事では済まない。そう言外に告げていた。
停学なんかもあり得なくはない話だ。
僕が反論するより先に、比企谷君が割って入る。多分彼は理解しているのだ。この方法が最も効率がいいことを。
「それならなぜ一色は通したんだって話になる。というより……そもそも、別に受理される必要もないんだろ」
比企谷君は確認するように僕へ視線を向ける。その顔は雪ノ下さんよりもよっぽど苦渋に満ちていて、見ているこちらの胸が痛むようだった。
「……どういうこと?」
由比ヶ浜さんが消え入りそうな声でそう洩らした。
「目的は選挙そのものじゃない。大事にして学校を巻き込んで問題にしちまうことだ。そんな前代未聞の状況で選挙はできない。わざわざ紙で配るのも、多くの教師に認知させるためだろうな」
比企谷君は淡々と答える。まるで感情を押さえ付けるように。自分に言い聞かせるように。
この作戦の目的はそれだ。そもそも事の発端からして、一色さんのものは正当な立候補とは呼べないのだ。規約的に問題がないのなら、事を荒立ててその規約ごと問題視させてしまえばいい。
「ついでに言うと学校側のシステムが悪いんだから、そうおいそれと処罰もできないよ」
これは希望的観測にすぎないけれど、断言するとことで説得力を強めておく。
雪ノ下さんが俯いて、その姿勢のまま呟いた。影になって表情は伺えない。
それでも声音の冷たさだけは、骨身に染み渡るような鋭利な声色だけは確かに耳に入ってしまう。
「そんなやり方に……。壊して有耶無耶にして、先延ばしにするだけのやり方に、意味なんてないわ」
その言葉は僕に告げられているようにみえて、そうではなかった。ただ僕を通過して貫通して、彼を刺している。
比企谷君が頭を掻き毟って、それからズボンの裾を強く強く握りしめた。喉は震え、声を出すのも精一杯な様子で口の端は揺れている。
きっとそれは解ってるんだ。もう彼も解っている。それでも今までの自分を簡単には変えられなくて、否定する言葉を紡げなくて、こんなにも苦悩している。
「それでもこれが一番効率がいい」
だから僕のそんな言葉は、想像を絶する苦味をもたらしたのだろう。
だらんと腕は下がり、ただ力のない裏切られたような瞳で僕を見ている。今にも泣き出しそうなその目に映る僕はどんな顔をしていたのだろう。
「ヒッキー……」
由比ヶ浜さんが心配そうに呟いた。
しかし彼には届いていない。
本当なら、こんなことをしたくはなかった。
彼にも彼女にもズタズタと傷を付けるような真似をしたくなかった。それでも。
効率という言葉で、誰かが割りを食うことはあってはならない。それが他人を傷付ける悪手であることは僕が既に証明している。
これを否定しないと、前に進めない。
それこそ有耶無耶のままにしてはいけない。
必要なのは雪ノ下さんから言質を引き出すこと。
生徒会長をやりたいという意思を引き出すこと。
それはつまり効率や合理的な主義を否定すること。
そのために僕は机のアンケート用紙を手にとって──
「だから、この案は無し!!」
──両手で思い切り引き裂いた。
何重にも重ねて更に細かく千切っていく。
跡形も、塵一つも残らないようにビリビリと。
「はぁ!?」
比企谷君の理解不能といった絶叫が響く。理解が及んでいないようだった。まあそりゃそうだ。僕は、せっかく重ねた積み木をグチャグチャにぶちまけた。ワケわからなくて当然だ。
それは他の二人も同じようで、目をパチクリさせながら僕の奇行を眺めている。口はポカンと開いていた。由比ヶ浜さんはともかく、雪ノ下さんのそんな姿はレアだった。
紙片をそのままに、僕は雪ノ下さんに近付く。
ここまでは盛大な茶番劇だ。茶番ならいつも演じている。だから、気合いを入れるのはここからだ。
「雪ノ下さん」
彼女はただ呆気にとられたように僕を見て言葉の続きを待った。
かける言葉がわからなくて、詰まってしまう。
用意してきたはずの台詞は頭からするりと抜け落ちて空気中へ逃げていく。
どうにか捕まえて、でも殆どは取り逃がしていて。数も順序もバラバラなその語郡をツギハギに縫い合わせる。
「効率とか最善とかじゃダメなんだ。それは多分間違ってたんだと思う」
経験からそれを学んだ。自分の感情が何より重要なのだと知った。うまく伝えるには、どうすればよいだろうか。
表情の変わらない彼女に、それでもなお言葉を掛ける。
「雪ノ下さんがどうしたいのかを知りたいんだ……。だから、それを言って欲しい」
最も効率がいい手を示した。それを否定した。
だから動く理由をそこに求めることはできない。
残ったものがきっと答えだ。
内に秘めた意志があるのなら、それを伝えて欲しい。
僕は知っている。彼女が生徒会長になりたいことを。でもそれは知っているだけで理解とは程遠い。だからどうか、教えてはくれないだろうか。
雪ノ下さんは顔を上げて、それから僕に向かって微笑んだ。それは酷く優しい笑みだった。優しいからこそ距離を感じた。
「言えば伝わると……そういうのね」
彼女はそうして僕を見ると、比企谷君の方を見た。
二人は確かに共通する信念を持っていて、それは僕には無いものだった。
何も言わなくとも通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れない。
そんな愚かしくも綺麗な幻想を二人は持っていた。
今も彼は、それを持っているのだろうか。
「どうだろう、伝わってるのかな。でも言わなきゃ伝わらないこともあると思うんだよ」
僕も比企谷君の方を見る。彼に友達でありたいとそう言ったけれど、果たして彼はそれを素直に受け取る性格だっただろうか。
だけれども、言わなければきっと僕は伝えられなかったのだ。
僕の性別も思いも、汲んで貰えるなどとは思えない。だって中身に違う人間が入っていて、しかも男で、それも未来を知っているだなんて。荒唐無稽にも程がある。そんな異次元の存在を理解するのは不可能だ。
だから、言葉にする選択肢しか僕にはない。
「そう、なのかもな……」
比企谷君は小さく、それはもう小さく呟いた。
僕の性別を知っている彼は、それを身をもって知ったのかもしれない。
言葉は無力だ。言ってもまるで伝わらないことなんてことは多々あるし、間違った意味に変換してしまうこともある。それでも言葉にしたいと。やはり僕はそう思ってしまうのだ。これがきっと、僕の信念なのだろう。
「そう……やっぱりあなたが羨ましいわ」
いつか聞いたその台詞を、再び口にした。
それきり彼女は黙り混んでしまった。
由比ヶ浜さんも比企谷君も困ったように僕らを見ている。
やがて制限時間を告げるように鐘がなった。
「午後の授業、行きましょうか」
結局、彼女の口からは何も語られることがなかった。
「……そうだね」
沈黙に耐えきれなくなったように、由比ヶ浜さんがカチャカチャと音を立て弁当をしまい、鞄を持つ。僕もどうしていいかわからなくなって、力なく同じ事をした。
「私は鍵を返すから」
「……おう」
部室を出て、雪ノ下さんが鍵を閉めるとそういった。
比企谷君がその場から離れるようにトボトボと歩きだす。
「あ、まってよ!」
由比ヶ浜さんが後を追った。
残されたのは、僕と雪ノ下さんの二人だけ。
生徒会選挙の一件は白紙に戻ってしまった。
停滞どころか後退だ。僕のやったことにどれ程の意味があったのだろうかと常に考えている。
今もそれは変わらない。
「あなたはいいの?」
雪ノ下さんが視線で二人の方を見て、そう促した。だが僕が足を進めることはない。
「雪ノ下さんこそ……言わなくてよかったの」
そんな文脈を無視した言葉がつい溢れてしまう。
彼女はそんな僕を見て、また寂しげに微笑んだ。
「あなただって言わなかったでしょう……。私にも、由比ヶ浜さんにも」
その笑みはどこか優しげで、だからこそ残酷だった。僕だって伝えることが出来ていなかったのだと、彼女はそう言っていて、それに酷く動揺して立ち尽くしてしまった。
だから、そこに彼の名前が無いことに気付いたのは、彼女がもう僕の前から去ってしまった後だった。
× × ×
午後の授業。朝に由比ヶ浜さんが言っていたように、比企谷君の視線を確かに多めに感じるような気がして。そんな自分の自意識過剰ぶりが酷く歪に感じられた。
もう現国の時間は終わっているけれど、ひっそりとバレないようその教科書を開く。
現在の単元に目を向ける。そこにはでっぷりと太って外に出られなくなった間抜けな魚が書かれていた。
──────
山椒魚は悲しんだ。彼は彼自身の住み処から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて出ることができなかったのである。
『なんたる失策であることか!』
彼は岩屋のなかを許されるかぎり広く泳ぎまわってみようとした。人々は思いぞ屈せし場合、部屋のなかをしばしばこんな具合に歩きまわるものである。
──────
僕は、外に出られていなかったのではあるまいか。大手を振って歩いているつもりが、岩屋の中をグルグル回っているだけではなかったのか。
そんな疑念が渦巻いた。
山椒魚は孤独に耐えきれなくなって、カエルを騙して岩屋へと引きずり込む。これは僕ではないだろうか。
比企谷君だけに秘密を明かし共有したことで、彼を奈落へと連れ込んで、かつ縛り付けていたのではなかろうか。
ふと思い返せば、僕は彼との関係の修復と進展にばかりかまけて、他の人との関わりを疎かにしていたように思える。彼は優しいからそんな僕を、距離を置きつつも気にかけてくれていた。
そしてその彼は僕の言葉に賛同した。僕の『言葉の信念』に賛同した。だが果たしてそれは、彼の信念と相容れるものだっただろうか。
元は彼と同じ信念を有していた彼女は、それをどう受け止めたのだろうか。彼女が羨んだのは僕個人でなく、誰かと僕が想いを共有してしまったことじゃないだろうか。
悪い考えは止め処なく溢れ、僕の体を循環する。
カエルは結局外に出ることができず、最後は空腹で死んでしまう。
それだけは避けなければいけないのではないだろうか。彼だけでも、岩屋の外に出るべきではないだろうか。
生徒会選挙を取り巻く状況は大きく変化してしまった。
なれば、問題を設定し直そう。
前提が変わったならまた問い直そう。
僕の望む、壊れることのないどこまでも続く関係性はきっと彼らの三人の行く先にある。
だから、彼ら彼女らの関係を壊してはならない。
生徒会選挙の依頼のために。
奉仕部のために。
比企谷君と雪ノ下さんのために。
八千代知夜にできることは、なんだ。