西部開拓時代、金ぴか時代も終わる頃のアメリカ。
オークが武術大会を開くという。大会に参加するため少年白蕾はテキサス州のフロンティアに来ていた――

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サムライ×ウエスタン×ファンタジー

 荒涼とした風が吹き荒び、まばらに生えた草莽が揺れる昼下がり。

 隠れ家である場末の宿に集まった男三人は、ソファに寝転がって新聞紙を読んだり、ハンバーガーを食べたりして、取引相手が来るのを気長に待っていた。

 部屋にはのんびりと時間が流れていた。退屈とも言えるほどに。

 普通ならば暇を持てあまして苛立つところだが、彼らはこの時間が嫌いではなかった。

 緩やかに過ぎる時間は、彼らに癒しを与えてくれる。

 闇商人なんて物騒なものをしていると、どうしてもゆっくりする時間が取れないから、こういうのんびりとした時間は貴重なのだ。特に、連日の取引で疲れた体には。

 至福の時。

 誰にも邪魔されることのない時間。

 このままこうして陽射しの中を漂っていたいと、そう思っていた。

 ところが。

 これを破るように、部屋にノックの音が響いた。

 近くにいた男がドアーを開くと、そこには珍妙な格好をした男女がいた。

「おはよう、諸君。調子は如何かのぅ?」

 最初に声を発したのは、女のほうであった。

 テンガロンハットにポンチョという、いかにもガンマン風の格好をしていた。

 二メートル、いや三メートルはあろうかという長大な体躯に、赤黒い鱗で覆われた手。人の物とは思えぬ赤髪。側頭部から一対の捩じれ角が伸び、後腰からは太くしなやかな尻尾が垂れている。それらは彼女が半人半竜であることを如実に示していた。

 もう一人は、極東の民族衣装らしい奇妙な服を着て、腰に細長い剣を差した少年だった。

 隣の彼女と比べてもなお小さな身体で、ぼさぼさの黒髪を首の後ろで纏めた彼は、腰に差した奇妙な剣……サムライブレードの柄を、苛立たしげに指先で叩いていた。格好からして、おそらくは極東の島国、ジャパンの人間なのだろう。

 部屋にたむろしていた三人の男たちは、全員がこの奇妙な客人に困惑した。

 彼らはこんな珍妙な二人組と取引したことはないし、そもそも見たこともない。何もかもが正体不明であった。

 男たちの困惑を余所に、半竜の彼女はうっすらと笑みを浮かべて、部屋を見回しながら間の抜けた声であいさつすると、少年と共に部屋に踏み込んだ。

「おっと、そのままで結構」

 ソファの男が思わず立ち上がろうと足を上げると、彼女は仲の良い友人に言うみたいな気軽さで、しかし有無を言わさぬ威圧を纏って、それをやんわりと制した。

 逆らってはいけない、下手を打てば殺される。

 本能的に危険を察知した男が、彼女に従っておそるおそる体勢を元に戻す。

 彼女はにっこりと笑って指で輪っかを作ると、テーブルでハンバーガーを食べていた男に顔を向けた。

 沈黙が場に流れる。

 ピリピリとした緊張感が肌を刺す。誰かの唾を飲む音が部屋中に響く。

 声が聞こえない。ただそれだけだというのに、男たちは何故だか、気が遠くなるほどに長い時間が経った気がした。

「わしらを知っとるか?」

 不意に、彼女が口を開く。

「儂らぁ”ゲートキーパー”っちゅうモンじゃ。お主らが何やらきな臭いことしとると、ちょいと小耳に挟んでのぉ。まさか、違うじゃろう?」

 ゲートキーパー。

 その言葉を聞いて、男たちは身体をこわばらせてしまう。

 つい先月、彼らはこれと関係する取引をしたばかりだった。とある開拓者のギャングから依頼されて、そこそこ貴重な品物を仲介屋を通して渡したのだ。

 まさか、そこからバレたのでは。

 三人は戦々恐々として、次の言葉を待つ。

「さて、ちょいとお主らに訊きたいんじゃが……仲介屋のトンクスという獣人。そしてギャングのウォーリー・ハグダット。この二人のことを、覚えとるじゃろうか?」

 取引相手の名前が出ると、遂に三人はそのまさかであることに気が付いた。

 仕事をするにあたって、彼らは細心の注意を払っていた。容姿、身元、声、使った銃弾の薬きょう、車のナンバー、アジト……あらゆる証拠を残さぬように徹底してきた。

 取引相手だってきちんと選んでいた。信用の置ける者からしか依頼を受けず、品物を渡さずを徹底してきた。

 先月の取引だってそう。

 開拓者のウォーリー・ハグダットは信の置けるヤツだった。

 西部に根を張るギャングの元締めで、ゆえに秘密や契約を守ることの大切さを知っていた。捕まってもこちらのことを話したりはしないと、契約書まで書いてくれた奴である。だから取引をしたのだ。

 だというに、こんなことになるとは。

 見誤ったと言う他にない。

「うむ、覚えておるか。ならば重畳よ」

 三人の反応を見て頷く彼女は、飄々と歩を進めると、ぴたりとテーブルの前で止まる。視線は食べかけのハンバーガ──―ポテト、それにラージサイズのドリンクがついたセットだ──に向けられていた。

「昼食の最中に申し訳なかったのぉ。何を食べておったのじゃ?」

 心にもない謝罪をした彼女は、実に興味津々といった様子で、テーブルに着いていた男に尋ねた。

「あ、あぁ……は、ハンバーガーだ」

「ハンバーガー! うむ、うむ。栄養満点の健康的な昼食じゃな」

 男が恐る恐る口を開くと、彼女は囃し立てるみたいに言って、また尋ねた。

「種類は?」

「……チーズ・バーガー……」

「ノンノンノン。店じゃよ、店。ワック・ド・ナルドか? エンデバーズか? それともマンモス・バーガーか?」

「り、リック・コナーバーガー」

「リック・コナーバーガー! あの本格ハワイアンの店じゃろ、ハワイ帰りのリック・コナーシェフの! あすこのバーガーは美味と聞くぞ。まあ、わしは喰ったことないがの。……どうじゃ、ウマいか?」

「あ、あぁ……美味いよ」

「ほう、そいつは結構。それ、味見しても良いか? 実は昼飯がまだでの、お腹がペコペコなんじゃ」

「あ、あぁ……どうぞ」

「おお、ありがとさんじゃ」

 許した途端、彼女は嬉々としてハンバーガーを手に取ると、ぱくりとハンバーガーを口に収めた。

 まだ半分以上も残っていたというのに、彼女はまるで蛇が卵を飲み込みたいに、たったの一口でハンバーガーを食べてしまったのである。

「ん~っ! なるほど、これはイケるな! これはまったく噂通りの味じゃ。お主もそう思うたろう?」 

 むしゃむしゃとハンバーガーを咀嚼する彼女は、満面の笑みを浮かべる。言葉とは裏腹に凄惨な笑みだった。

 間近でそれを目撃した男の心中は、言わずもがなである。

「わしはの、ジャンクフードっちゅうもんは好かんのじゃが、こいつはまったく別じゃよ。うぅむ、今度ハンバーガーを食う時はここで決まりじゃな」

 うんうんと一人頷く彼女は、口端に着いたケチャップを、その長くて真っ赤な舌で舐めとると、次にこんな問いを男へ投げかけた。

「礼に一つ、豆知識を披露してやろう。フランスでは、クォーターポンドのチーズ・バーガーを何と呼ぶか、知っとるか?」

 彼女の意図がわからず、男は口をまごつかせた。

 場を支配しつつあるというのに、わざわざこんな他愛のない問答をするとは、いったい何を企んでいるのか。

 彼には皆目見当もつかなくて、恐怖と当惑を堪えながら、彼女の問いに首を振るしかなかった。

「チーズ・ロワイヤルじゃよ。チーズ・ロワイヤル。何故そう呼ぶかわかるか? ん?」

 身をかがめた彼女は、男の顔を覗き込む。表情の消えた顔で、黄金色の瞳を見開いて、答えを促した。

「あぁ……その……メートル法を、使ってるから……?」

 男が震える声で言うと、彼女は大げさなまでに身体を後ろへ逸らして、わざとらしく驚いた顔をする。

 オーバーリアクション過ぎておちょくっているようでもあったが、しかしそれが逆に、この場では何よりも恐ろしい威圧行為に見えた。

「ほう! お主、悪党のクセに脳みそたっぷりじゃな。なかなかどうして、お利口なファック野郎じゃ」

 拍手と共に口汚い言葉を交えて彼女は男を褒めたが、男は恐怖を堪えて目を逸らすしかできず、何の反応も返せなかった。

「これは何が入っとるんじゃ」

 次に彼女が目を付けたのは、ドリンクだった。

 ラージサイズのそれを指さすと、彼女は気安い口調で問う。

「す、ストレイライト……」

「ストレイライトか、うむ。炭酸はわしも好きじゃ。特にレモンのやつはな。こいつで、今食ったハンバーガーを胃に流し込んでも構わんかの?」

「あぁ……どうぞ」

 手で薦めると、彼女は礼も言わずにそれを手に取って、ストローに口を付けた。

 一秒と経たずに、ズゾゾッ、と空気を吸う音が混じった。

 まだ中身が半分以上も残っていたというのに、彼女はジュースを文字通り一息で飲み干してしまった。

「んはぁっ……うまい! お腹いっぱいじゃ」

 カップをテーブルに投げ捨てると、テーブルナプキンを爪先でつまみ上げて、ゆっくりと、丁寧に、見せつけるように、時間をかけて丹念に手を拭く。

 まるで爪を研ぐ肉食獣を思わせるその様に、男たちはますます恐怖を自覚して、最悪の結末にならないことを祈るばかりであった。

「うむ。では本題に入ろうかの」

 そう言ってナプキンを放り投げたレズンは、テーブルに片手を突くと、男の瞳を覗き込み、懐から一枚の紙を取り出した。

 それは三人への逮捕状だった。

 罪状は”ゲート取締法違反”。

 政府の許可なしに異界への扉を開く道具、違法な”鍵”を取り締まる法律である。

「お主らには二つの道が残されておる。ひとつは大人しく縄に着くか。そしてもうひとつは、抵抗して無残に殺されるか。さて、どちらがお好みかの?」

 答えは、言うまでもなかった。

 

 

 一・オークのダミアン主催、種族混合武術大会。

 

 

 一九〇〇年、アメリカ。

 ゴールデン・エイジも終わり、ジャズ・エイジが見え隠れする時代。

 テキサス州が誇る大都会ヒューストンの片隅で、和服の少年”白蕾(はくらい)”は、相棒である白馬のと共に、大きな宿場町”ダミアンズ。ヒル”へ入った。

 夜というのに、通りは人……いや、人だけではない。ワーウルフや、ドワーフ、ゴブリン、リザードマンなど、多くの異種族でごった返していた。

 この街の町長であるオーク、ダミアンが主催する種族混合武術大会。その開催を明日に控えた町は、宴もかくやという様であった。

 酒を手に友と語り合い、バンジョーを弾いて往来を楽しませる。酒場から漏れ出る喧騒は祭囃子が如く。露店や見世物小屋の客引きも威勢良く、乱痴気騒ぎを助長していた。

 期待と不安で心中がまぜこぜになっていく。

 これまでの旅でも感じたそれに、白蕾の眉尻をほんの少し下げて、無意識のうちに腰に差した刀に触れた。

 少年の名は白蕾というのだが、これは幼名である。

 本来ならば真名たるを名乗る歳なのだが、彼は家を捨てている。この名でまかり通るのは実家から許されていなかった。

 そんな不義者である白蕾が、遠路はるばるこの地へ来たのにはわけがある。

 だがこれを話すには、まずこの少年の過去について、ほんの少しだけ触れなければならない。

 白蕾少年は故郷にて、時代に似合わぬ刀の才能を持つ子供として、畏怖を籠めて見られていた。

 木刀を握ったのは十にも満たぬ時であったが、その頃からすでに片鱗を見せ始めており、通っていた剣術道場の師範をして麒麟児とまで称されるほど。

 元服直前には御前試合では大人相手に百人抜きを達成し、もはや人間相手にはまったくの負けなしという恐るべき強さになっていた。

 あくなき強さと自由への渇望も相まって、彼は大成しなのならば、おそらくは稀代の剣豪となるであろうと予想されていたくらいである。

 ところが、悲しきかな。

 天は二物を与えず、彼の才を腐らせた。

 彼は物部の家においては庶子であり、嫡子よりも目立ってはいけない立場にあった。剣の腕を十全に鍛え揮う場はなく、しかして道場という檻の中で飼い殺しにされていた。

 それに加え、彼は惜しくも生まれの時期を失した。時代は明治。新たな姿へ変わりゆく世には、すでに廃刀令が敷かれていた。時代は刀を必要としていなかったのだ。

 もう二十年早く生まれていたのならば、幕末の剣豪として時代に名を残せたのであろうが、やんぬるかな。そうはならなかった。

 彼の才は平和に埋もれ、ただ消えてゆくのを待つのみ。時代に埋もれた英傑として、彼は時の波間に消えてゆく定めにあったのである。

 ところが、捨てる神いれば拾う神……もとい”鬼”もいる。

 己を正面から斬り殺せる猛者を求めていた”とある鬼”に、白蕾は武の才を拾われた。

 結果。水を得た魚の如く、彼は元服と同時に家を捨て、鬼を師と仰ぎ、武の研鑽に励むこととなったのである。

 そして現在。

 彼は修行の一環として、この地にて開催される武術大会に参加するため、極東くんだり一人と一匹でやってきたのであった。

 さて。

 馬上にて緊張の溜め息を吐いた白蕾は、まずは馬迅を問屋場に預けると、腹ごしらえでしようと酒場へ向かった。

 この町一番の酒場であるゴブリンの穴蔵は、名の通りゴブリンが経営する酒場である。非常に大きな店でありながら、良心的な値段でまあまあの料理を楽しめると評判の店だ。

 そして人外が経営しているだけあって、異国、異界の民に対して懐が広い。白蕾には入りやすい場所だった。

 分厚いスイング・ドアを押して中に入ると、暗闇から光の中へ出たような、不思議な錯覚に陥った。

 多くの種族でひしめく店の中は、確かに多くのランプが焚かれていて明るいが、それだけが錯覚の原因ではない。

 雰囲気だ。

 この店を包むもの。まるで夏の日差しのようにギラついた雰囲気が、白蕾にそんな錯覚を抱かせたのだ。

 多くの種族がひしめきあっているが、その誰もが笑みを浮かべている。それがこの店を殊更に明るく彩り、見る者にかような印象を与えるのだろう。

 物珍し気に視線を彷徨わせつつも、背の高いカウンター席によじ登って座る。

「ようこそ、旅の御方。ご注文をお伺いしてもよろしいですかな」

 タキシード姿の兎に問われた白蕾は、メニューとにらめっこをして少し悩んだあと、大盛のシチューとライ麦パンを頼んだ。

 シチューはこの店でもメジャーな料理で、種族を問わず食事として定番の品でもある。まずはずれを引くことはないだろう。

「大盛のシチューと、ライ麦パン。畏まりました」

 恭しく注文を繰り返した兎が奥へ消えると、同時に隣の席に座ってヴァンダミング社の新聞を読んでいた老年のゴブリンの男が、キーキーと甲高い声で話しかけてきた。

「よう、坊主。ずいぶんと珍しい格好してるが、どっから来たんだ?」

「……日本だけど」

 白蕾は、ゴブリンの吐く息の酒臭さに若干顔をしかめつつも、どこか平坦な声で答えた。すると、彼は大げさに驚いて見せた。

「ジャパン! そりゃまた、随分遠いところから来たもんだな。目的は? やっぱ大会か?」

「うん、そう。大会」

 是と答えれば、彼は大口を開けて笑った。

「そうかそうか! やっぱりな! お前さんが腰にぶら下げてるモン……サムライブレードだったか? そいつを見てすぐピンと来たぜ!」

 うんうんと何やら訳知り顔で頷いた彼は、勢いそのまま、朗々とした口調でこの町の歴史についてこくこくと語り始めた。

 曰く。ダミアン町長は元居た場所では腕折の武芸者で、骨断ちのダミアンという異名を取っていた。

 曰く。ダミアンはとある戦の折に足を悪くしてしまったため、療養のためにこの町にやってきた。

 曰く。ダミアンがこの町の長になったのは、不正や犯罪を許さない公明正大な姿勢が支持されたから。

 曰く。この武術大会は、住民のガス抜きを目的して開催されているが、ダミアンの憧憬も混じっている。

 等々……彼は実に多くのことを聞かせてくれた。

 その語り口は、酔っ払いとは思えぬほどウィットに富んでいて、まったく人を飽きさせない軽妙さがある。

 あんまりにも話上手なものだから、白蕾も我知らず話に聞き入ってしまった。

「おっと、来たみたいだな」

「お待たせしました」

 しばらくゴブリンの話を聞いていると、兎が頼んでいたシチューとパンを目の前に置いた。

 美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐり、腹の虫がにわかに騒がしくなる。

 ごくりと唾を飲む。ゴブリンの方を見ると、彼は笑顔で食べろとジェスチャーした。

「いただきます」

 さっそくスプーンを手に取ると、シチューをいただく。一口食べた瞬間、なんとも異国情緒あふれる味が、白蕾の口の中に広がっていくのを感じた。

 美味である。

 白蕾はここに来るまで何度かシチューを口にしたけれど、これほど美味いシチューは食べたことがなかった。

 様々な食材の旨味が凝縮されたスープは芳醇で、舌の上で転がせば複雑ながら絶妙なその味わいを披露してくれる。

 そしてスープのよく沁み込んだ具材。野菜は噛めばほろほろと崩れるほど柔らかく、ごろっとした肉は程よい歯ごたえで噛めば噛むほど味が出る。

 ライ麦パンと一緒に食べれば、酸味と硬さがちょうど良い塩梅となりシチューの美味さを助長するので、これがまた食が進む。

 故郷で師がよく作ってくれた”何の肉が入っているのかよくわからない妙な鍋”も、これの前ではきっと霞むだろうとさえ思ってしまう。

 気付けば白蕾は、シチューを五分と経たずに完食していた。

「美味かったかい」

「うん。すごく美味しかった」

 問われて、白蕾は間髪入れずに頷いた。

「そいつは良かった! ウチの味はジャパンでも通用しそうで、いや何よりだぜ」

「たぶん、人気になると思うよ」

「ほう! そうかい、そうかい! いや、そりゃいい話が聞けたぜ!」

 うんうんと頷く彼は、気持ちの良い笑みを浮かべて酒を煽った。

 と、その直後。

「決闘だ! 表で銃の決闘が始まるぞ!」

 騒がしい店内に、一人のヴァンパイアが怒鳴りながら飛び込んできた。

 決闘。

 すなわち、命の奪い合いである。

 男の言葉を聞いた途端、店内の者たちは決闘の様子を一目見ようと、我先と外へ雪崩出ていく。

 その様、さながら波濤の如く。

 出ていく客たちを眺めつつ、白蕾はさてどうするかと思案しながら、ぬるい水を飲み乾した。

 この街で決闘と言えば、一種の娯楽である。

 武術大会なんてものが開催されていることからもわかる通り、この町にはとにかく血気盛んな輩が多いゆえに荒事が絶えない。

 特に大会が近いこの時期は、どいつもこいつも気が立っているから余計にだ。

 普段は温厚な顔をしている奴もいるが、何かあればすぐ乱闘だ決闘だと暴力によって決着つけようとするし、やじ馬はそれを見せものとして楽しむ野蛮性を剥き出す。

 フロンティア・スピリットの表れと言えば聞こえは良いが、裏に隠された本性とは、はたして荒くれ者の粗暴と蒙昧でしかなかった。

 もっとも。その無秩序で自由な気風こそが、この地に吹く風の色なわけなのだが。

「お前さんは、見に行かねえのかい」

「別に。銃の決闘なんて、見たって意味ないし」

 ゴブリンに問われて、ハクライは肩を竦める。

 別に決闘を見に行っても良いのだが、見たところで銃での決闘。一瞬の勝負では面白くもない。剣や槍の決闘ならばまだ見られたのだが、詮無きことだ。

 見たところで己の糧になるようなものは得られないと彼は思っていた。

「へぇ、なるほど。しかしそれだと、ちっとばかし損ってもんだぜ」

 白蕾の答えを聞いたゴブリンは、ぴんと立てた指を左右に振り、楽しげな口調で言葉を続ける。

「ここの大会は、武術なら何でもありだ。剣、槍、弓矢、魔法……んでもんって、もちろん銃も。変に思うかもしれねえが、銃にだって専用の武術はあるんだぜ。対策がてら見に行ってみたらどうだい」

 ふむ。白蕾は腕を組んで考えた。

 確かに彼の言う通り、この大会には毎年、銃での参加者が一定数いる。

 多くは銃剣を使った武術である”銃剣道”を修めた者たちだが、中にはピストルの早撃ちで上位入賞に至った者もいた。

 何せ試合開始とほとんど同時に攻撃が完了しているのだ。近付く以前の問題である。相手取るのにこれほど難儀な武器もありはすまい。

 それを思えば、なるほど確かに、対策がてら見に行くのも否ではないと思えてくる。

 銃相手に負けるほどやわな鍛え方をしてはいないが、参考に見ておいて損はない。白蕾は頷くと、ゴブリンに決闘を見てくると告げて食事の代金を手渡した。

「そこまで言うなら、じゃあ見て来る。お金渡すから、払っといて」

「おっと、俺でいいのかい? 盗んじまうかもだぜ?」

 驚いた顔をする彼に、白蕾は首を振って見せた。

「そんなことする人……人じゃなかった。ゴブリンじゃないよ、アンタは」

 異国から来たらしい珍妙な格好の少年に気さくにも話しかけ、不安を解そうとこの町の多くを語った彼の優しき心は、確かに白蕾の胸に届いていた。

「ははっ、そりゃ買い被りってもんだぜ。けど、その褒め言葉はありがたく受け取っといてやるよ」

 代金を受け取ったゴブリンは、茶目っ気たっぷりにウインクして、サムズアップする。

 白蕾もそれに倣ってぎこちないサムズアップで返すと、椅子から飛び降りて店を後にした。

 外に出ると、すでに店の前の目抜き通りでは両者が睨み合っていた。

 片や無精髭を生やした金髪の男、片や髪を綺麗に剃り上げた恰幅の良い男。どちらも人間である。

 やじ馬の間で始まった賭けは、オッズだと四対六で剃った頭の男が優勢だった。

 白蕾は賭けには興味がないため参加せず、軒先にうず高く積まれた木箱に上って、事の成り行きを眺めるだけにした。

 喧騒轟々とする通りを見下ろす。

 両者の間にはレフェリーめいたワーウルフが立っていた。手には一枚の二十五セント硬貨を握っている。あれを指で天高くに弾き、地面に落ちた瞬間を合図とするのだろう。

 やじ馬が察して口を噤む。

 静寂が場を満たすと、満を持してレフェリーがコインを弾いた。

 くるくる、くるくると、泣き濡れたような夜の月明かりを受けながら、コインが宙を舞う。

 浮き上がったコインが重力に従って落ちていき、ついに地面と激突した瞬間、刹那の決闘が幕を開けた。

 とさりとコインが音を立てた。

 両者は同時に銃を抜く。

 奇しくも同じ型の銃であった。

 抜く速度に差は無く、しかして構えに遅れなし。いわんや勝負を決めるのは、撃鉄を下げ、銃爪を引くまでの速さのみ。

 決着は一瞬であった。

 極限まで引き伸ばされたコンマ数秒の中で、勝利の一撃を放ったのは金髪の男だった。

 撃鉄を下げ、銃爪を引く。立った二つの動作をほぼ同時に、少しのずれなく順番に行うその手は、常人からしてみれば手ブレの域にしか見えなかったに違いない。

 彼の早撃ちは正しく早撃ちだった。目にも止まらぬ速さとは、すなわち彼の銃捌きを言うのだろう。

 白蕾は銃を侮った己を恥じ入ると、謝罪の意味を籠めて、目抜き通りの中心で腕を振り上げる彼に盛大な拍手を送った。

「うむ。良き果し合いであったな」

 と、同時に。

 突如として、真横から声が飛んできた。

 しゃがれた女の声だ。

「っ!?」

 油断していた白蕾はぎょっとして、危うく樽から落っこちそうになってしまった。

「かかか……いや申し訳ない。驚かすつもりはなかったんじゃ」

 よろめく白蕾の腰に尻尾を巻き付けて支えると、彼女はは心にもない謝罪を囁いた。

 すわ何者かと見れば、そこには黄金の双眸と燃えるような赤い髪を持つ、大きな捩じれ角の女がいた。

「ほれ、大丈夫か。おろしてやろう」

 彼女は白蕾の両の腋に手を入れると、ひょいと赤ん坊を持ち上げるみたいにして、地面へと下ろした。

「あ、ありがと……」

 改めて地面から見れば、彼女のなんと巨大なことだろう。

 柵の上に登っていた白蕾は、おおよそ二メートルと半分ほどの高さに頭があったのだが、彼女は立っているだけで並んでいる。角も合わせれば三メートルに届くだろう。

 加えて、膂力もある。

 今だ元服し立ての小童とはいえ、両手だけで持ち上げられるほど白蕾は軽くない。だが彼女は、その二つの腕だけで持ち上げて見せたのだ。

 恐るべきはその身に流れる竜種の血か。

 人外への戦慄と驚愕、そして憧憬が白蕾の胸を打ち、今だ開かずの蕾を刺戟する。強きを求める心は、今生にして二度目の衝撃に震えた。

「ふむ……?」

 一方で半竜の女は白蕾をまじまじと見て、何か考えるようなそぶりをする。その顔には懐疑と興味とが混在していて、なにやらただならぬ様子だ。

 お互いの視線がぶつかり合う。

 喧々諤々な広場の片隅で、二人は運命的に、そうして見つめ合っていた。

「なるほどのぉ。お主、なかなかに面白い成り立ちをしておる」

 二人の間に漂う沈黙を破ったのは、半竜の女だった。

 パンッ、と両手を合わせて目を細めた彼女は、さもおかしそうに喉を鳴らす。その顔には、悪戯娘の蠱惑と、人外特有の残酷さが同居していた。

「お主、武術大会の参加者よな? ……ふむ、ふむふむふむ……」

 見る者に恐怖を思い起こさせる笑みを浮かべた彼女は、腰を折り曲げて顔を近づけると乱暴に白蕾の頭を撫でながら言う。

「ならばその大会、儂も参加するかのぉ」

「なに、急に……?」

「お主の瞳に宿るものを見ておったら、年甲斐もなく死合うてみたくなったんじゃよ! かかか!」

 どうやらこの半竜の女。白蕾から何やら読み取ったようで、大会にて刃を交えたいというのだ。いまだ人の身である白蕾からすれば、それは怖ろしい言葉だった。

 竜種と死合う。それは人間にとって死刑宣告にも等しい。

 人間と人外とではまだわからないが、竜種となれば話は別。

 竜種と人間では、彼我の差が歴然として両者の間に横たわっている。純粋な人間が勝つのはまず無理だろう。

 混血であっても人間が勝つのは難しい。戦えば確実に負けてしまうだろう。

 だが同時に、願ってもない僥倖でもであった。

 今なお気高き名を戴く竜種との決闘、一生に一度……いや百に一度もない誉れである。逃すはずもない。

 何より、期待されているのだ。応えなければ男が廃るというもの。

 白蕾は武人の血が騒ぐのを感じて、ぶるりと大きく武者震いをした。

「へぇ……いいよ、受けて立つ」

「おお、受けてくれるか! うむうむ、お主は勇気ある者……まこと勇者じゃな!」

 勝負を挑まれたのならば、この白蕾、不退転の覚悟がある。武人として、男として、この勝負に全力を果たす。自身の名と刀に誓ったのだ、二言はない。

「決勝で待ってるから」

「その意気や良し! 儂も、首をながぁくして待っておるぞ?」

 三日月のような笑みを浮かべた彼女は、白蕾の頭から手を離すと、そう言い残して背を向ける。白蕾もまた、別れの言葉と共に礼を取ると背を向けた。

 これよりは自らの研鑽ではなく、竜との一戦のために準備しなくてはならない。やおらと刀の手入れをしている余裕はなかった。

 

 

 人の波をかき分けて道を進み、ふと目についた宿に入る。

「おやー、いらっしゃーい。人間がくるなんて珍しいねー」

 青草でできた床を踏みしめると、やたら間延びした声がカウンターから飛んできた。頭のてっぺんに桃色の花が咲いた緑色の女性、アルラウネと呼ばれる種族の者だ。

 どうやら彼女が、この宿の亭主らしい。

 アルラウネの身体的特徴──下半身が大きな赤色の花弁に埋まっている──を鑑みるに、この宿は建物全体が彼女を構成するひとつの植物として造られているようだ。

 おそらくは廃屋に草根を張り巡らせ、じょじょにこのような宿屋の形していったのだろう。内装から見てもそれは明らかである。

 ホールや廊下を草木で拵えているせいか、青臭くてじめじめとしている。置かれている家具は巨大な花や茸でできていて近寄り難く、よほど自然好きでもない限りは使おうと思えない。

 併設された小さなレストランのメニュー表も凄まじく、聞いたこともない花の蜜や木の実、さらには何か得体の知れぬ蟲と来た。

 明らかに人間や一般的な人外向けの様相ではない。

 しかしこの不自然なまでに自然豊かな環境は、心を休ませるにはうってつけだ。明日の大一番に挑む前の精神集中、瞑想をするには実に適した場所だと言えるだろう。

 師と共に生活していた故郷の山々を思い出す。白蕾にとって非常に魅力的であった。

「空いてる?」

「もちろんだよー。すっかすかさー」

「じゃあ、お願い。一人」

「はーい、おひとり様だねー。ご飯はー?」

「食べてきた」

「わかったよー。それじゃー、七番の部屋にどうぞだよー」

 明らかに蟲の形をした奇妙な鍵を受け取ると、そのまま七番の部屋へ。ウツボカズラの取っ手に種を入れると、絡まっていた茨が解けて開き、飾り気のない木製の扉が姿を現した。

 ドアノブを回して部屋に入ると、独特な風景が白蕾を出迎えた。

 真っ赤な傘の茸がテーブルの如く中央に鎮座している。周りには囲むようにまだら模様の茸が生えそろっていて、椅子の役割をしている。

 天井で輝く苔たちは光源となって部屋を照らし、大きな藍色の花できた洗面台には天井からちろちろと水が流れ落ちている。

 白蕾は部屋を横切り、蔦と鮮やかな色の花で作られたベッドに刀を立てかけると、座戦を組んでさっそく瞑想の形に入った。

 睡眠の前に精神を統一する。ここ一番の勝負事を控えた時、彼は必ずこれを行っていた。彼なりのルーチンであり、身体の不調を確かめる意味もある大事なことだ。

 深く呼吸をして、丹田に意識を集中させていく。

 草花の揺れる音と、水のせせらぎを感じながら、ひたすら粛に浸る。やがて瞼から光が消え、耳から音が消え、嗅覚から臭いが、味覚からは味が、触覚からは空気が消えた。

 気が付けば白蕾は、世界から剥離した場所に、精神体のまま超然と立っていた。

 辺りは一面真っ暗で何も見えず、足元にはくるぶしほどの水溜まりがある。歩くとぱしゃりと水の跳ねる音が反響し、闇黒の世界中にことごとく響き渡った。

 散歩しているみたいな気軽さで、当て所もなく静謐の中を往く。

 進めど聞こえるのは水音ばかり。道標も、明かりも、臭いや風も存在しない。この世界はただ、虚無を湛えるばかりであった。

 どれだけ歩いただろう。

 四半刻か、半刻か、あるいは夜明けまで歩いていたかもしれない。時間の感覚すら曖昧なこの世界で、白蕾は不意に、初めて自分以外の何かを見つけた。

 それは、ドラゴンさえ通れてしまいそうなほど巨大な裂け目であった。

 人間、ゴブリン、吸血鬼、オーク、ウェアウルフなどなど。おおよそ堅気とは思えない格好の者たちに囲まれて、その裂け目は静けき夜の如く開いていた。

 裂け目を囲む彼らは口々に何かをまくし立てていたが、人間のほうは終始口を開かず、人外のほうはひどい訛りが混じっていて、白蕾にはてんで会話の内容がわからなかった。

 ただ、わかるのは剣呑な雰囲気が彼らを支配しているということだけである。

 しばらく眺めていると、彼らは朝靄のように白く薄れていき、遂には掻き消えてなくなってしまった。

 それと同時に視界が徐々に白んでいき、上へ上へと引っ張られる感覚が、全身に襲い掛かってくる。

 意識が表層へ向かって移動していく。

 トランスから目覚める時が来たのだ。

 流れに身を任せて上っていくと、唐突な浮遊感を伴って五感が戻った。

「おー、目覚めたー」

 瞳を開けると、目の前にはなぜか宿主のアルラウネがいた。

 床、というより地面から生えてきているところを見るに、彼女は宿の中を自由に行き来できるらしい。

 しかしどうして部屋にいるのやら。

「なんでいんの?」

 白蕾が首をかしげて問うと、彼女はふにゃりとした口調で答えた。

「うーん。なーんかさー、お花がみょんみょんしたんだよねー。この部屋でー、なんか怖いやつがいるぞー! ってさー。あー、お花って言うのはー、この頭のやつねー」

 自身の頭を指して、彼女はころころと笑った。

 要領を得ない話ではあるが、察するに、彼女の頭に生えた花が白蕾の瞑想を感じ取ったのだろう。それで心配して、様子を見に部屋にやってきた。というわけのようだ。

 アルラウネの頭に生える花には、蛇のピット器官のようなものが備わっており、捕食者などの外敵の気配を察知することができる。などと言われている。

 どうやら瞑想に熱中するあまり、気迫を籠め過ぎたらしい。

「それは、ごめん。迷惑かけた」

 白蕾はすぐに、迷惑をかけてしまったことを頭を下げて謝罪した。出来る償いならば何でもする所存であった。

「いやいやー、大丈夫だよー。君はいい人っぽいからねー。大丈夫さー。それにー、君以外に泊ってるやつなんてー、いないしねー。……んー、でもでもー、何でもしてくれるって言うならー、また泊ってほしいなーって思うなー」

 なかなか商魂の強かな要望であるが、それくらいで済むのなら安いものだ。むしろ安すぎると言っても良い。

「わかった。次来たら、またここに泊るよ」

「んふふー、常連さんゲットだー」

 白蕾が固く約束すると、アルラウネはにわかに喜色ばんで身体をゆらゆらとさせた。

 頭の花弁から粉のようなものが舞って、部屋をきらきらと煌めかせる。

 甘くとろけるような匂いのそれは、アルラウネが差し迫る危険を察知した時に出す花粉である。心地良い香りだが強い催眠作用があり、長く嗅いでいると死に至る危険なものだ。

 彼女自身が気付いていないところを見るに、気迫に刺激されて出そうだったのを我慢していたのだが、喜色についつい緩んでしまったらしい。

 至近距離で嗅いだ白蕾は、当然、ぱったりと意識を失ってしまった。

 次に気が付いたのは、すでに日が昇った頃であった。アルラウネにめそめそと泣きながら謝られたのは言うまでもない。

 

 

 ◇

 

 

 あっぱれなほどの快晴である。

 広場の上空は遮る白雲はひとつとしてない蒼天であり、そよそよと吹き抜ける風は戦士たちの闘志を孕んで熱く滾っている。

 会場は超満員だった。暑い日だというのに、千人を収容できる観客席にはそれ以上の観客が無理やり収まり、入りきらなかった者たちも建物の上から会場を見下ろすほどだ。

 眼下で繰り広げられる戦いは叙事詩の如くであり、戦士たちの振るう磨き上げられた武の威容は、勝ち負け超えて惜しみない称賛と健闘の嵐を巻き起こした。

 天地の狭間においては、これほどまでに熱狂の二文字を体現した場所はないと、そう思えるほどの盛り上がりであった。

 今はちょうど、白蕾が準決勝に挑んでいるところである。

 相手は浅黒い肌をした尖り耳、なめし革と鉄で作られた軽鎧を纏ったこのエルフは”乾いた土地のエルフ”と称される種族、ダークエルフの若人たるザガンといった。

 六尺以上もある槍を悠々と振るい、白蕾を叩き伏せんとするその様は、さすがエルフきっての戦闘民族であると思わせる。

 実際、部族の若者連中ではひときわ目立つ腕前であった。槍の百般においてはこのザガンほどの者はいないとさえ言われ、ついぞ土を付けられたことはなかった。

「フンッ! お前のみてぇなガキが、俺に敵うもんかよ!」

 嘲りの言葉を吐いて嗤うザガンには、槍に絶対の自負がある。傲慢不遜な態度であるが、準決勝まで勝ち進んだその武に偽りなし。

 だが白蕾も負けてはいない。

 油断なく刀を構える様は、正しく侍の出で立ち。小童であっても益荒男の末裔、刀を握れば彼もまた武士である。

「そぉらっ!」

 気合と共に突き出された槍は、空すらも穿つのではないかというほどに鋭く、当たれば必死、掠っただけでも総毛立つ。

 続いて放たれた薙ぎ払いもまた勢い甚だしく、地面を抉らんとする勢いである。

 運よく柄に当たったとて粉砕骨折は免れず、刃においては両断されるのではないか、とさえ思わせる一撃であった。

 だが、どれだけ鋭い突きであろうと、当たらなければどうということはない。どれだけ強力無比な一撃であろうとも、受け流してしまえば差したる脅威ではない。

 白蕾は一切の澱みもなく、突きを巧みな足捌きでするりと避け、薙ぎ払いを刀のみねで軌道を逸らして受け流した。

 野山を家と育ち、山伏もかくやと修練に励み、鬼を師事して武を学んだ。いまだ半人前なれど、その技の冴えは一介の武人の域を超えていた。

「逃げるだけじゃ勝てないぜ?」

「よくしゃべるね、アンタ。舌噛まない?」

「言葉でも圧倒し、力でも圧倒する! それが俺の戦い方だ!」

 ニヤニヤとして挑発の言葉を嘯くザガンだが、心中は穏やかではない。

 攻撃が当たらないのだ。もう十回は攻撃を仕掛けているが、そのことごとくを躱され、去なされ、受け流されている。

 馬鹿な。たかだがガキの一匹に何を手間取っているのか! 

 脳裏に巣食った焦燥は決着を逸らせたが、勝負を決める一手とは常に平静の中にある。ペースを戻さぬ限りは、まず勝つことはできないだろう。

「そらそら!」

「速い。でも、当たらなきゃ意味ないよ」

「お前も同じだろうが! 減らず口をッ!」

 ザガンの槍が全てを薙ぎ倒すの剛槍ならば、白蕾の刃は宙を舞う羽根そのもの。力ばかりでは捕らえること叶わず、しかして風に揺らぐのみ。

 激流を制するは静水なれば、激流に囚われたザガンでは勝てぬのも道理であった。

「おおっ!」

 誰かが声を上げた。

 ザガンの突きを受け流した白蕾が、そのまま刃を柄に滑らせて飛び出す。今までは受けに回るばかりであった白蕾が、ここで初めて攻撃に回ったのだ。

 観客の誰もが来たかと心を躍らせ、彼に敗北した者たちは清々しい笑みを浮かべた。

「チィ!」

 刃が柄を滑り、握り手を落とさんと迫る。

 ガキらしい小狡い狙いだ。ザガンは舌打ちをして槍を引くと、半歩後ろへ下がり、反撃の構えを見せた。

 だが、これが悪手であった。

 ザガンの目の前から、白蕾が掻き消える。ザザザッ、という何かが地面を擦る音が脇を通り抜けて、視界の端に黄土色の煙が踊って見えた。

 息を飲んだのも束の間、首筋に冷たいものが当てられる。

「ば、馬鹿な……」

 ザガンの呟きは、地を揺るがす歓声に掻き消えた。

 小手先の業。

 腕を斬られてしまえば、どんな武人とて満足に武器を振るえない。狙われれば嫌がり引くのは当然のこと。

 だからこそ、そこに勝機が生まれる。

 引かねばそのまま手を撥ね、引けば懐へ斬り込み、反撃には転進を以って応じる。

 体格や膂力で劣る相手と戦いながらも、準決勝までなんなく勝ち抜いてきたその業は、まったく侮りがたい威力を秘めている。

 白蕾が修めた剣技においては邪道なれど、邪道ゆえに、ジャイアントキリングを成し得る必殺の一手となっていた。

「くっ……」

 ガキに敗北したという屈辱。敵を侮った己への侮蔑。己を下した白蕾への賛辞。

 あらゆる感情がまぜこぜになり、やがて苦々しい挫折の味と口へ広がっていく。

 なまじ部族で一番と持て囃されていたゆえに、鼻っ柱を折られたザガンの心境は筆舌にし難い。

 負けとはこんなにも苦く、辛く、そして忌々しいものなのか。槍を手放すその瞬間、一抹の嬉しさがザガンの口元を歪めた。

 ここに勝敗は決した。 

 レフェリーのワーウルフに勝者と指された白蕾は、刀をしまうと観衆に一礼して袖へ下がる。パフォーマンスも何もない引き際は鮮やかであった。

「おお、お疲れさんじゃな。いやはやまこと見事な試合じゃったぞ、見ているだけで心が躍ったわ! まったく昂らせてくれるのぉ!」

 選手の控室に戻ると、半竜の女が声をかけてきた。

 これから戦う相手だというのに、彼女は実に朗らかで、遊びに誘う童女めいた雰囲気を放っている。よほど白蕾と戦うのが楽しみらしい。

「しかし。どこかで苦戦するやもと考えとったが、ここまで鎧袖一触とは……お主、思った以上にできるではないか」

 くつくつと喉慣らして笑う彼女は、舐めるように視線を上から下へ、白蕾の姿をくまなく眺める。

 獲物を見定める肉食獣、あるいは蛇の如く。

 それは白蕾の師が、よく向けてきた視線に似ていた。あれはもっと熱っぽい視線ではあったが、こちらもこちらでだいぶ熱が籠っている。

 不快ではない。

 むしろ好ましいとさえ思う。

 こうまで露骨に期待されている理由を白蕾は解せないが、それでも、求められてはこちらも闘志に火が付くというもの。

 武人として。男として。白蕾は今一度、全力を尽くして”魅せる”と誓った。

「ここまで来たんだ。アンタにだって、勝つよ」

「かかか、なんとまあ良きかんばせをしよる……まったく、年甲斐もなく欲しくなってくるではないか!」

 獰猛に笑って舌なめずりをした彼女は、尻尾を力強く地面に打ち付けた。白蕾との闘争に待ち焦がれ、辛抱が利かなくなってきたようだ。

 白蕾とて同じ気持ちだが、今はハーフタイムの三十分が横たわっている。先の戦いでの疲労も残っている。すぐに戦うわけにはいかなかった。

 三十分。長いようで短い時間は、二人の間をゆったりと流れていく。

 ああ、時の流れのなんと遅いことか! 今すぐにでも広場に飛び出して刃を交えたいというのに、時の流れは残酷なまでにゆるやかである。

 まだか。もうすぐだろうか。まだか。もうそろそろか。

 二人の我慢も限界に達してきた頃、ついに呼び声が部屋に飛び込んできた。

 待ちに待った瞬間である。

 我先にと広場へ飛び出すと、レフェリーに言われるまでもなく中央にて、二人は相対した。

「さあ、存分に死合おうぞ!」

 半竜の女が両手を広げて叫ぶ。

 頷いた白蕾は、刀を抜いて構えた。

 緊張が限界まで膨らみ、肌をヒリヒリと焼く。見えないはずの闘気が質量を持って、全身を押しつぶさんとする。 

 ここに至っては、問答なぞ不要。必要なのは、武のひとつのみ。

 沈黙。そして。

 レフェリーが笛を鳴らして、開始の宣言をする。

 瞬間、白蕾は誰よりも早く駆け出した。

 わずか二間弱の距離をたったの一息で詰めると、先手必勝とばかりに飛びかかり、大上段に振り下ろす。

 八岐伊吹大明神剣術、羅生荊樹一刀流。

 示現流の流れを組む白蕾の太刀は、本来ならば一撃一撃が必殺の威力を誇る。小手先などない。竜種とて生半可に受ければ、たちまちの間に斬り伏せられてしまうだろう。

「くはっ!」

 対する半竜の女は歓喜の声を上げると、空間魔法で一振りの鉄板めいた剣を取り出し、真正面から受け止めた。

 白蕾は我知らず息を呑む。

 持ちうる最大の剣を事も無げに止められたのだ。これが驚かずにいられようか。まったく一筋縄ではいかない相手である。

「良い腕じゃ! 人の身でよくぞここまで練り上げたものよ!」

 賛辞の言葉と共に、半竜の女が腕に力を籠める。

 鍔迫り合いの状態だというのに、彼女はこのまま膂力に任せて、白蕾を一刀のもとに斬ってしまおうというのだ。

 これは堪ったものではない。慌てて横へと飛び引くと、次の瞬間、かつて白蕾がいた場所を彼女の剣が通り過ぎた。

 砂塵が舞い、石礫が飛散する。

 白蕾はその中に飛び込み、お返しとばかりに平突きを放つ。白刃は一条の矢が如くに真っ直ぐと、果敢にも竜の心臓を狙っていた。

 彼女が力任せに払いのける。ただ武器を振るっただけというに、真に半人前の実力だったのならば、これだけで腕の一本は覚悟しなければならないほど凄まじかった。

 しなやかな動きで剣を逃がした白蕾は、そのまま弾かれた勢いを利用して回転、胴に狙いを付けて刀を滑らせる。

 彼女が返す刃で阻む。

 金属と金属の擦れる音が響き、眩い火花が宙を走った。

 一瞬の硬直が過ぎ去った後、白蕾は間合いを一切離すことなく、むしろ踏み込んでまで刀を振るう。

 下段から掬い上げるような軌道。逆袈裟斬りの太刀筋。

 剣を盾と構えてこれを防いだ彼女は、そこへ一歩を踏み込んで体勢を崩そうとするが、白蕾はゆらりとこれをすり抜けて側面へと回る。

 水平に構えた刀が曳光した。

 腰のひねりで躱した彼女は、同時に斬り上げを放つ。

 一歩を退く。

 風圧が白蕾の前髪を吹き上げた。

 体勢を立て直し、下段に構え直す。

 深くゆっくりと呼吸をして、全身に酸素を巡らせる。

 力が満ちていくのを感じた。呼吸をする度に、全身から滲み出た闘気が人の形を成していくような、例えようのない高揚感が四肢に行き渡っていくのを感じた。

 今の彼にはもう、目の前に佇む半竜しか見えていない。

 観客のどよめきも。己の背後に現れた赤き鬼の影も。彼の意識を少しも裂くことはできなかった。

「その闘気、その形! まるでオーガじゃな!」  

 彼女がおもむろに剣を逆手に持ち替えた。理不尽を形にした必殺の一撃が来る。まともに受ければ枯れ葉と吹き飛ぶだろう。

 臆せば死ぬ。白蕾はまったく間合いを開けず、懐へ飛び込んだ。

 ぶっきらぼうな振り下しを躱して、滑るように背後へ。

 刀を持ち上げ、上段から首をめがけて一息に振るった。斬首の軌道を描く太刀は、今日一番の冴えを見せていた。

 不可避の一撃である。よもや勝負あったかと観客の誰もが思った。

 しかし。不意に赤色が割って入り、白蕾の一撃を受け止めた。

 尻尾! 

 完全に埒外であったがゆえに、白蕾は驚きで身体を硬直させてしまう。

 ほんの一瞬の硬直。

 されど戦いにおいては致命にすぎる。

 気が付けば足払いによって宙を舞っていた。

 背中から強かな勢いで地面に落ちる。衝撃で肺の空気が押し出され、掠れた呻きが洩れ出した。

 痛みを堪えて見上げると、今度は頭上に影が差す。慌てて横へ転がると、次の瞬間には、強烈な踏み抜きが地面を砕いていた。

 起き上がりと同時に、足を狙った横薙ぎを放つ。

 彼女は跳躍してこれを躱すと、大上段の一撃を振り下ろす。

 白蕾は前へ飛び出し、彼女の足下を前転で通り抜けると、反転、踏み込みから袈裟斬りで背後を狙う。

 応じて彼女の尻尾が防御に動く。

 ならばと踏み込みの一歩で止めて足を狙う。その前に彼女の剣が軌道を塞ぐ。

 攻防は一進一退だった。 

 いくつもの剣戟が重なったが、さりとてどちらも相手を捉えること叶わず。砂塵に躍る残影は、地に落ちる影さえ遅しと目まぐるしく動き回る。

 白蕾の技が狙い、半竜の女が力が破る。

 技と力の衝突は均衡していた。

 だが、しかし。

 しかしだ。

 人外と人間の拮抗状態など薄氷も同じ。いつまでも持つはずがない。均衡の崩れる瞬間は当然に、そして唐突に訪れた。

「むっ、そろそろ限界か?」

「何が……っ?」

 彼女が言った途端、不意に白蕾の足腰が震えて、手がしびれたように動かなくなる。全身の感覚が消え失せて、喉が渇きを自覚する。

 襲い来る謎の感覚はついに視界を歪め、急激に襲い来る嫌悪感はついに思考能力さえ奪っていく。

 眩暈を覚えた白蕾は、あわや倒れてしまいそうになった。

「おい、君。大丈夫か?」

 異変に気付いたレフェリーが訊くも、白蕾は答えることができない。いや、そもそもレフェリーが近づいてきたことさえ、彼は認識できていないようだった。

 試合中止の宣言が出されると同時に、ドクターの招集がなされた。

 一時騒然となる広場にドクターが入り、心配の声を余所に白蕾の容態を確認する。

 筋肉痙攣。眼球震盪。顔面蒼白に呼吸困難。加えて、この炎天下で動き回っていたというのに掻いていた汗はすでに乾いていた。

 明らかに熱中症であった。唇や爪先が青紫に変色している──チアノーゼと呼ばれる症状だ──ことから、脱水症状も併発しているだろう。

 この炎天下の中、碌な水分補給もせずに限界を超えてまで動き続けたのだ。こうなってしまうのも、宜なるかな。

「まずいな……誰か、この子を救護室へ運んでくれないか!? このままでは死んでしまう!」

「どれ、儂が運んでやろう」

「すまないが頼む!」

 ひょいと白蕾を持ち上げると、半竜の女はそのままドクターと一緒に広場を出ていく。

 後に残ったのは心配の声と、それ以上に大きな拍手の音だった。

 

 

 目が覚めた。

 あれから半日が経って、白蕾はやっと意識を取り戻した。

 喉が渇いている。頭が鉛のように重い。手足は枷でも嵌められているのかのように動かせず、思考もはっきりとしない。

 辛うじて動く視線で辺りを見回せば、どうやらどこぞの小屋、おそらくは診療所に寝かされているらしいとわかった。

 ひとまずは枕元に置かれた水差しの水を一気に煽った。常温のぬるい水だったが、乾ききった身体には何よりも染み渡り、僅かばかりの気力と体力を身体にいきわたらせた。

 水を飲みほしたあとに、はて。と、心の中で首を傾げる。

 白蕾は自分がどうしてここにいるのか、まったく理解できなかった。

 戦っていた記憶はある。さっきまで円形広場で、半竜の女と真剣勝負をしていた。だが途中からその記憶は途切れ、ここに来るまでの経緯がごっそりと抜け落ちている。

 痛打を貰って意識を失ったかと思ったが、それにしては大きな怪我をした感覚はない。もし負けたのならば、骨折のひとつなり何なりしているはずだ。

 はたして自分は、勝ったのか、負けたのか。

 そこまで考えて、白蕾は首を振った。

 あの竜種を相手にして、自分が勝てたとは微塵も思えなかった。それほどまでに凄まじい武であった。敵うべくもない、負けたと考えるほうがよほど道理である。

 しかし負けたというに、彼の中に悔いはなかった。むしろ全身が熱く燃え滾るような、心を惹かれる想いに満たされていた。

 彼女は強かった。存外に、べらぼうに、絶対に強かった。幾星霜の時を鍛錬に賭したとて、おそらく手は届かないだろう。一千年を費やしたとて届くかどうか。

 人の身では決して届かない領域。

 ゆえに、だからこそ。

 白蕾は求めた。彼女の力の一端を物にしたい。ほんの一欠けらでも良いから身に着けたいと、心の底から願った。

 全ては、いつか師を超えるため。

「おお、目覚めたか」

 ふと声がした。

 見れば半竜の女が、どこか安心した表情で入り口に立っている。見舞いに来てくれたのだろう。存外に早い再会であった。

「いやはや、一時はあわやじゃったからのお。大事なく回復して良かったわ。まあ、お主は半分……ってなんじゃお主、真剣な顔をしよって」

 彼女がベッド脇の丸椅子に腰かけるなり、白蕾は痛む身体を起こして正座すると、深々と頭を下げて弟子入りにして欲しいと嘆願した。

 文句はこうだ。

「俺はアンタみたいになりたい。アンタの強さを自分の物にしたい。アンタを超えるほど強くなりたい……だから、弟子にしてほしい」

 実に真っ直ぐで素晴らしい弟子入りの文句である。

 ところで。

 白蕾は生粋の日本人であるゆえに英語は不慣れだ。日常会話程度ならば苦も無く熟せるが、やはり表現の幅がないので稚拙な話し方になってしまう。

 言葉選びの面でも同じことが言える。どれだけ真摯で強い言葉を選んだとて、英語に直せなければ要領を得ない文に成り下がるのも道理。

 つまり、どういうことかと言えば。

「そうか儂に惚れたか! かっかっか! ……ふえ?」

 

 二人の間で、あまりにもひどいすれ違いが生まれた。

 

 単純な話。

 白蕾の間違った言葉選びと発音の拙さによる聞き間違いが、彼女にとんでもない勘違いを起こさせたのである。

「ほ、惚れた? え? 惚れ……え? あの、わ、儂にか? ……まぢで?」 

 白蕾の弟子入り志願を聞いた彼女は、信じられないものを見たような顔で呟くと、見る見るうちに顔を赤く染めた。

「う、うぅむ……そう言ってくれるのは、嬉しんじゃが……ほら、まだお互いなんも、名前すら知らなんだし、のぉ……? まずはお互いを知ってから……」

「白蕾。本当は物部照彦って名前」

 言われた白蕾はすぐさま名乗った。

 名乗ることを許されていないはずの名まで預けた。

 これは彼なりの決意、覚悟の表れである。

「えぇーッ!? う、うそじゃろお主……よもや、本気か……? 本気で、さっきのは言っとったのか……?」

 有無を言わぬ名乗りに面を喰らった彼女は、自分の鱗よりも真っ赤に染まった顔を背けて、なにやら指先で毛先をいじいじとし始めた。 

 白蕾にはそれが、弟子と取るか否か悩んでいるのだと見えて、なるほど確かに、敗北した手前では弟子として取るには役者不足か。などと思い、念を押して弟子入りを願い出た。

「俺はアンタみたいに、強くなりたいんだ。今はまだ弱いけど……でも、ちゃんと努力して、いつかアンタを超えて見せる。だから、頼む」

「ひぇえ……こ、こんな婆を捕まえて……な、なんちゅうことを言うんじゃあ……!? 狼じゃ、とんだ狼じゃあ……」

 興奮によって顔を赤らめる白蕾とは対照的に、半竜の女はまた別の感情──人はそれを、含羞と呼ぶ──によって顔を赤らめていた。

 齢数百年ではあるものの、今だおこぼな身空の彼女である。人生で初めてされた告白は、彼女にとってあまりにも衝撃的で、情熱的で、そして抗いがたい魅力があった。

 会ったばかりの相手に不埒ではないかとも思ったのだが、しかしそれ以上に舞い上がっている自分がいるのも否定できない事実。

 表面上は難色を示しつつも「そろそろ一人旅も寂しいし、仕事の助手も欲しかったし、あと仲間もみんな結婚してるし……」と、心の底では何かと理由を付けようとしていた。

 若干行き遅れたのを気にしていたところに、若い男子からのこれであるから、なかなかに効いてしまったのである。

「ダメ……?」

 ダメ押しとばかりに、上目遣いで瞳を潤ませる白蕾。

 破壊力バツグンの一撃に、よもや勝てるはずもない。

「うぐぁっ!? わ、わかった! わかったからもうみなまで言うな! それ以上は、儂が茹で上がってしまう……!」

 人生で初めて恋のときめきを感じた彼女は、顔を片手で隠しながらその願いを聞き入れた。

 さすがの竜種も恋には勝てぬ。恋愛という大敵の前では生娘より無力なのであった。

 一方で、弟子入りの話だと思っている白蕾は、この答えを聞いて歓喜に染まった。

 弟子入りを認められた! 

 こんなに嬉しいことはない。白蕾は内心で小躍りしたい気分だった。顔のにやけるのを隠すこともできないほど、今の彼は喜びに打ち震えていた。

「……良かった。精一杯頑張るから、これからよろしくお願いします」

「う、うぅ……その……不束者だが、よろしく頼むのじゃ……」

 すれ違いが起こってるとは露とも知らぬ白蕾には、まったくわからぬ機微だった。

 

 かくして白蕾は、この半竜の女に弟子入りすることとあいなった。

 これより待ち受ける試練、古今に語られる幻想の王たる竜種の修業に、はたして白蕾は耐えられるのだろうか。

 今だ開かぬ蕾の行方は、まだ誰も知らない。

 ちなみに。

 二人の間に横たわる認識のズレは、この先も修正されることはなかった。 

 

 

 二・ゲートキーパーという仕事。友達という存在。

 

 

 大会から二日後。

 ゴブリンの穴蔵、テーブル席にて二人は話をしていた。

 半竜の女こと”レズン=アンナマリー・ハサウェイ”に弟子入りした白蕾が、まず最初に説明されたのは、彼女の職業……すなわち、ゲートキーパーについてだ。

 ゲート。

 というのは、この世界の暦でちょうど一七〇〇年に、突如としてこの世界に開いた扉、異界へ繋がる門扉の総称である。

 遥か昔、この世界はユニコーン、バンシィ、フェニックス、ゴブリンやオーク等々……神話や伝承に語られる生物たちが、人間と共存していた。

 だが時代の移ろいと共に神秘が薄れていくと、彼らは別の次元世界へと渡って姿を消した。生存の場所を人間の住む世界から新たな住処、異界に住処を移したのだ。

 分かたれた両者の道は、もはや交わることもない。かつての関係は、ただ御伽話として描かれるのみであった。

 ところが。

 何の因果か知らないが、一人の次元超越者が次元を渡った際、うっかりゲートを閉め忘れてしまった。

 残されたゲートは次元に干渉し、その数を増やし続け、やがて二つの世界が無視できない規模となっていった。

 それがどういう結果を生み出したのか、この世界の有様を見ればわかるだろう。

 ついにはこの世界と異界を完全に繋げて、混ぜ合わせてしまったのである。

 これが異界に繋がる門扉、すなわちゲートの正体である。

「一度出現したゲートは、道具を使えば誰であれ開閉することができる。つまり道具さえあれば、善くない輩が善くないことに使えてしまうのじゃ。不味い話じゃろう?」

 世界の主要都市に開かれている大型のゲートは、基本的には政府が管轄しており、繋がっている異界の土地と密に連携を取っているから安全である。

 しかし個人で使用できる小型のゲートは、鍵に該当する道具さえあれば誰でも簡単に開くことができてしまう。

 政府から許可され、異界側ともきちんと連携を取った状態で開くのならば、安全面の問題はない。

 だがもし、心悪しき者が鍵を手に入れたとして。

 許可も何もなく個人用のゲートを開いてしまえば、様々なことに悪用し放題だ。下手に放置すれば、異界側から危険生物が入ってくるかもしれない。

 開けた先が異界の危険区域だってこともあり得る。そうなれば、いったいどんな惨劇が起こるやら。きっと想像もつかない事態になるだろう。

 しかもまずいことには、これ以上にもっと大変なことだって起こりえてしまうことだ。最悪の場合、繋がっている両世界が消滅してしまう可能性も捨てきれないのである。

 ゆえに、これを防ぐため”ゲートキーパー”という職業が存在するのだ。 

「危険な仕事じゃが、相手は異界の生物。剣の腕もよく磨けよう。……それに、その……一緒に居られるしの……どうじゃ、お主にとっても悪くないと思うんじゃが」

「うん。わかった。そのげーときーぱーって仕事、手伝うよ」

 白蕾はこの提案に、二つ返事で頷いた。

 弟子入りするとなれば当然、職を継ぐことも視野に入る。それについて、白蕾に躊躇はない。全て覚悟の上であった。

「おお、そうかそうか! 受けてくれるか! うむ、うむ。そう言ってくれると、儂も嬉しいぞ」

 見事なまでの即答に、レズンは満面の笑みを浮かべた。見てるこっちまで嬉しくなってくるような、可憐で美しい少女的な笑顔だった。

「なぁに安心せい。お主が死んでしまわぬよう、儂がずっと傍にいてやるからの!」

「本当に? ……ありがとう。師匠の期待に、絶対に応えて見せるよ。だからそっちも目を離さないでね。約束だよ」

 彼女の言葉に深く感激した白蕾は、彼女の目を見つめてそう宣言した。彼にはこれが、業務にかかわらず常に修行を付けてくれる、という意味に聞こえていたのだ。

 この白蕾、わりと自分に都合の良い方向へ考える図々しさがあった。

「うっ!? そ、そうじゃな、約束じゃな! うん! えと、だから儂も……ず、ず、ずっと、見とる……ぞ?」

「……どうしたの?」

「いや、その……にゃんでもない……」

 ことさらに素直な気持ちを伝えられた──と思っている──レズンは、顔を赤らめると顔を背けて毛先を弄んだ。

 齢数百年とは思えぬ、生娘のようにいじらしい態度である。実際、生娘なのだが。

「ま、まあとにかく! そうと決まれば、さっそく仕事じゃ。ユタとアリゾナの州境でゲートが出現したと、先日報告があっての。閉じに行くぞ」

 気恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、レズンがすっくと立ち上がる。白蕾も立ち上がると、弟子らしく恭しい態度で彼女の一歩後ろに侍る。

 なんだか師弟らしい立ち位置だ。と、呑気に考える白蕾は上機嫌であった。

「そこな給仕。代金はここに置いておくゆえ、よろしく頼むぞ」

「はーい。あざっしたー」

 ぞんざいな返事をする店員のワーキャットを一瞥してから店を出ると、昨日よりはいくらか往来の減った通りを歩く。

 大会が終ったせいか、町からは活気の波が引きつつあった。

 あれほどいたはずの観客たちはみなどこぞへと帰り、開かれていた露店は跡形もない。祭りの後の静けさは、どうやら海を隔てたとて同じらしい。

 宿場町とはいえ、武術以外は何もない町だ。イベントがなければ、一般人にとっては足を止めるに値しない。来年の武術大会まで、この町には旅人以外が立ち寄ることはないだろう。

 なんとなく物の哀れを感じて、白蕾は遥か向こうにある故郷の山々を想った。

「お主、足はあるかの?」

 問われて、白蕾は意識を戻した。

「儂は馬車があるゆえ問題ないが、人の身であるお主に徒歩はいささか辛いじゃろう。見たところ野宿の用意もなさそうじゃし。どうじゃ、儂の馬車に乗ってゆくか?」

「ううん。うれしいけど、ちゃんとあるから大丈夫」

 海を越え、町を超え、日ノ本くんだりここまで共にやってきた白馬の友がいる。新たな馬を用立てられても、白蕾は馬迅以外に身を預ける気はなかった。

「あっ、そう……。それは、羨ましいことじゃのぉ」

 彼の答えを聞いたレズンは、心の底から滲み出たみたいな声でそう呟くと、問屋場の方角に視線を向ける。心なしか、彼女の横顔は落ち込んでいるように見えた。

「どうしたの?」

 何かマズいことでもあったのか。

 心配して問いかけるが、彼女は気にするなと首を振って話を打ち切ってしまったので、それ以上は何も言えなかった。

 レズンとしては一緒の馬車に乗って旅をしたかったのだが、よもや愛馬を置いて旅をさせるわけにいかない。彼女は泣く泣く、白蕾のため小さな願いを切り捨てたのだった。

 問屋場に着くと、白蕾はすぐに相棒の姿を見つけた。馬迅はもっとも奥の柵に収められていたが、収められたどの馬よりも美しく目立っている。

「あれが、お主の馬か?」

「うん。馬迅っていうんだ。……おーい、馬迅!」

 呼びかけるとすぐに馬迅は反応した。

 柵から顔を覗かせ、尻尾を千切れんばかりに持ち上げる。数日ぶりに白蕾に会えたのが嬉しくて堪らない、といった様子である。

 近寄って頭を撫でてやれば、馬迅は気持ちよそうに鼻を伸ばしながら、前足で地面を引っ掻き「もっと撫でて」と催促してきた。

 まったく愛いやつである。白蕾は薄く笑みを浮かべて、馬迅の頭を撫で続けた。

「ほう、よく懐いておるのぉ」

 寄ってきたレズンが呟くと、そこで初めて、馬迅は彼女の存在を認知したらしい。途端に耳を立てて険しい顔つきになり、睨むみたいにじっと彼女をみつめた。

 明らかに怒っている。

 無理もないことだ。せっかく待ちに待っていた白蕾とのスキンシップを、無粋な横やりで止められたのだから、馬迅の怒りはもっともである。

「ダメだよ、馬迅」

「よいよい。それほど懐かれとるっちゅうことじゃろう? うむ、実に良いことじゃ」

 慌てた白蕾が馬迅を窘めようとすると、レズンは笑ってこれを許した。

 馬とは頭の良い生き物である。乗り手を見定め、ボスに値するか否かを観察し、判断する力がある。御するには相応の技術と果断な態度が必要だ。

 また、主従として躾け御することができたとしても、そこで終わらず、心を通わせお互いに信頼し合うのは容易ではない。

 それを思えば、白蕾と馬迅の関係は理想の一言に尽きた。人馬一体の極地と言っても過言ではないだろう。

「馬迅、といったか? 儂はレズンといっての。お前さんの主人、白蕾の師匠じゃ。これからよろしくな」

 にこやかにレズンが自己紹介すると、馬迅はじとりと目を細めて白蕾を見た。

 警戒の色は薄まらない。まだ未知の相手であるレズンを、油断はならない輩だと思っているらしい。

 そしてこれと同時に、馬迅が呆れに諦観、それと少しの恐怖と嫉妬の感情をこちらに向けていることに、白蕾は気が付いた。

 呆れと諦観についてはよくわからないが、恐怖と嫉妬に関してはよくわかる。馬迅は、主を盗られてしまうかもしれない可能性を、心底危惧しているのだろう。

 あり得ないことだ。馬迅を捨てるなど、天地がひっくり返ったってするはずがない。白蕾は首を振ると、馬迅の額を軽く叩いて安心させるようにその名を呼んだ。

「馬迅。大丈夫だよ」

 幼き頃より一日の半分を共に過ごしてきた。同じ藁の上で寝た回数も知れない仲なのだ。たとえ怪我や寿命で動けなくなったとしても、これを捨ておけるはずがなかった。

 感情を込めて優しく撫でてやると、慮る気持ちが伝わったのか、馬迅は「ま、今回は許してやるか」なんて顔でブルルと鼻を鳴らした。

 勝ち誇った顔をしてレズンを見ているのは、はたして気のせいか。

「ぐぬぬ……なんじゃこの言い知れぬ敗北感は……」

 一人と一匹の仲睦まじい姿を見せつけられたレズンは、何故だか馬に負けた気がしてそんなことを呟いてしまう。

 自慢の尻尾を元気なくへにゃりと垂れるその姿は、傍から見ると、主人を取られた犬のようであった。

「こほん!」

 やがて業を煮やしたのか、レズンはわざとらしい咳払いで白蕾と馬迅の注意を引くと、ひどく真面目な声色で告げた。

「愛馬と乳繰り合うのも良いがの、白蕾。そろそろゲートの方へ向かわねばならんぞ。小さいとはいえ、放っておけば大事になるからの」

「うん。すぐ準備する」

 実際ゲートは放置すればするほど大きくなり、危険な生物が通りやすくなってしまう。今回はまだ小さいから良いが、本来ならばあまりのんびりとしている時間はないのだ。

 言われて白蕾は気を引き締め直すと、馬迅を作から出してひらりと跨る。体格のせいで、乗っているというよりは乗せられている感じだ。

「ふむ。白馬の王子、とはいかんようじゃの」

「……別に、気にしてない」

 可愛らしい姿にレズンが微笑むと、白蕾は少しだけ拗ねたようにそっぽを向いた。

 身長が馬迅の体躯に合っていない事実は、白蕾も自覚しているところである。あまりジロジロと見られるのは、己の未熟を見られるみたいで恥ずかしかった。

「かかか! お主も男児ならば、いずれ立派になろうのお! それまでの辛抱じゃ。……まあ、その……儂は今のままでも良いと思うがの?」

「うるさいよ」

 フォローめいたことを言われても、やはりコンプレックスというのは中々解決しないもの。白蕾は眉をしかめて、不満げに唇を尖らせるばかりだった。

 じゃれ合いもほどほどに、地図を開いて今回の目的地を確認する。

 目的地であるユタとアリゾナの州境は、このダミアンズ・ヒルより北西へ一五十キロ前後行ったところにある。

 駅からほどほどに離れた人気のない未開拓地域で、馬で行けば早くて半日と少し、遅くとも一日程度で着くだろう。

 弟子としての第一歩に相応しい、初歩的かつ簡単な仕事だった。

「今回はお主に、ゲートの閉じ方と、ゲートから侵入してきた異界の生物への対処方法を見せる。その時がきたら、きちんと見ておくのじゃぞ」

「うん、任せて。見稽古は得意だから」

 一日分の食料や水を馬車に積み込むと、二人はさっそく目的地へ向けて出発した。

 ぱから、ぱから。

 からころ、からころ。

 蹄鉄と車輪の音が朝の荒野を往く。青い空、白い雲、赤土の土煙が逆巻く大地は、今日も絶好の旅日和である。

 道程は非常にスムーズだった。

 遮るものが何もない荒野では野盗すら出ない。喉の渇きにさえ気を付けていれば、大事もなく順調に進めた。

 太陽が中天を通り過ぎ、地平線へ傾き始めた頃、二人は州境付近のモニュメントバレーへと足を踏み入れた。

 進むうち、切り立った絶壁や一枚岩などが景色に混じり始め、先住民であるナバホ族の集落もぽつぽつと散見されるようになった。

 我知らず、見入ってしまう。

 モニュメントバレーは、地球の歴史を覗ける土地だ。

 風化や浸食によって作られた独特の形状をした岩山からは、万も億も昔の地層が姿を覗かせ、地球という星の偉大さを静かに讃えている。

 散見する一枚岩の雄渾や切り立った崖の悠然は自然の力強さを如実に示し、人々の矮小さを嘲笑うかの如くに気高さを纏っていた。

 ナバホ族の聖地が誇るその光景。

 武の強さとはまた違う、あるがままを受け入れ続ける姿は、白蕾の目指すべき頂きのひとつのように思えて目を離せなかった。

「うぅむ……愛い姿じゃ……」

 瞳を輝かせる白蕾を見て、レズンがそんな感想を漏らした。

 突然告白されて戸惑いのまま頷いてしまった彼女だが、冷静になってみれば、白蕾のなんと可愛らしいことか。

 少年愛の気はなかったのだが、彼の姿を見ていると、どうにも良くない方向に目覚めてしまいそうだった。

「なんというか、母性を刺戟されるのぉ……」

 ほとんど溜め息みたいにレズンが呟くと、これには馬迅も同意したようで、頷くみたいに小さく頭を上下させた。

 この一人と一匹、白蕾に関してはウマが合いそうだ。

 しばらくモニュメントバレーを進んでいくと、不意に、謎の集団が横から現れて道を塞いできた。

 すわ何事か。

 白蕾が緊張した面もちで馬迅から飛び降り、刀にそっと手をかける。

 見れば道を塞いできた輩共は、腰布一枚を巻いてトマホークを持った人間や、ほとんど全裸体のホビットにドワーフなどなど。おそらくは原住民であろう格好をしていた。

 誰も彼も険しい表情をしている。

 縄張りに入ったことで、外敵とみなし襲いに来たのかもしれない。話し合いの余地はありそうだが、はたして。

 白蕾はじとりと目を細め、いつでも鯉口を切れるように親指を鍔に沿えた。

「御足労痛み入るのじゃ、ナバホ族の皆々様」

 しかし彼の緊張とは裏腹に、レズンは帽子を脱いで礼を取ると、まるで旧友に挨拶するみたいな気軽さで馬車を降りた。

 すると、どうだろう。

 先頭に立っていた若いインディアンの男が、恭しい態度で返礼してきたではないか。

「そちらこそ、よくぞ来てくださった守り人よ。私はタタンカ、この戦士たちの長をしている。申し訳ないが、すぐにでもお願いしたいのだが、よろしいか」

 訛りの強い英語でタタンカと名乗った男は、よく見れば不安と少しの焦りが混じった様子。見れば背後に控えた若者たちも、タタンカと同じく落ち着かない様子である。

 どうやら彼らの表情の険しさは、ゲートに対する恐怖の表れであったらしい。白蕾は見抜けなかった己の不明を恥じて、刀から手を離すと倣って礼を取った。

「うむ、任せておくが良い」

 彼らのただならぬ雰囲気を察したレズンは、見る者に安心感を覚えさせるほど堂々と頷いた。

「ありがたい。では、さっそくこっちに来てくれ。ゲートへ案内しよう」

 彼女の態度に安心したらしいタタンカは、僅かに眉尻を下げると、仲間たちと共に二人をゲートの場所まで案内した。

 道すがら話を聞けば、ゲートを発見したのは彼らであるらしい。

 心悪しき者が去った狩場に出向いた際、ひどい異臭が辺りに漂っており、そのせいで動物たちが消え失せていたそうだ。

 ひどい異臭とは、はたしてなんなのか。

 その正体を、白蕾はすぐに知ることになる。

 件の場所に近付くと、黒焦げた肉の臭いとも、生ごみのすえた臭いとも、乞食の体臭めいた酸っぱい臭いとも、糞尿の鼻を突くような臭いともつかない何かが漂ってきた。

 おおよそ人が思いつく限りの生理的嫌悪を催す臭いを、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて腐乱させたみたいな、とにかく一言では形容し難いひどい臭いである。

「……なんの臭い?」

「異界の瘴気じゃな」

 余りにも異様な臭いに吐き気を堪えながら問いかけると、レズンは顔色一つ変えずにそう答えた。

 瘴気。

 それは異界の危険地帯に漂う、汚穢を纏った空気のことである。

 異界では、空気中に含まれる”マナ”と呼ばれる超自然的力が、何らかの理由で変異して瘴気となるとされている。

 生物がおおよそ生理的嫌悪を催す臭いを全て混ぜ合わせたような、とにかく形容しがたくて筆舌にし難い臭いの元が、この瘴気なのだ。

 瘴気発生の原因は諸説あり、はっきりしていないが、一説によれば、闇に晒され続けたマナが邪悪な力を溜め込んだ結果、このように異質なマナになったと推測されている。

「ものすごーく簡単に言えば、発酵みたいなもんじゃな。お主の国にもあるじゃろ、あのくっさいねばねば」

「納豆?」

「そうそう、そのナットーみたいなもんじゃ。これ自体は益もなければ毒もないゆえ、安心するが良い」

 瘴気の性質は酷く穢れており、闇黒に根付く魔術師や、死を理解した屍霊術師でなければ十全に力を引き出せない。

 よしんば魔法のエネルギーとして利用するにしても、死、苦痛、疫病、闇黒などネガティブな方面の魔法でしか活躍できないため、忌み嫌われているのも特徴だろう。

「ま、それを差し引いても、こんだけくっさいんじゃから嫌われて当然よなあ」

 レズンはそう締めくくると、お道化るみたいに肩を竦めた。

 そして、それとほとんど同時に。

「ここだ。ここにゲートがある」

 ぴたりとタタンカたちが立ち止まり、小さな崖の下を指し示した。

 おそるおそる崖下を覗き見る。

 茜色の中に一か所だけぽつねんと、罅割れ欠けたガラスに映る景色のように、空間の一部分だけが罅割れ、切り取られている部分があった。

 間違いない、ゲートだ。

「ふむ、思っていたよりデカいの」

「そうなの?」

「うむ。見た感じ、開いてから結構な時間が経っておるようじゃ」

 開いているゲートの大きさは、遠目で見る限り、白蕾がギリギリ通れるかどうかの大きさだった。

 ゲートは何の対策もせずに開きっぱなしにしていると、じょじょに大きくなっていく性質がある。どんなに小さいゲートであっても、放置しておけない理由がこれだ。

 今回のゲートはまだ小さいほうだが、自然発生にしてはいささか巨大に過ぎる。おそらく、開いてからすでに一週間は経っているだろう。

「お主らはそこで待っておれ。さあ白蕾、付いてくるんじゃ」

 空間魔法を使い、先端が二股に分かれた奇妙な棒を取り出したレズンは、インディアンたちを崖上に残して、ゆっくりとゲートへと降りていく。白蕾もやおらそれに続いた。

 一メートルほどの距離まで近付くと、ゲートの下に何かがいることに、白蕾は気が付いた。

 それは蟲であっった。

 大人をひと巻きもふた巻きもできそうなほどに巨大で、百足を思わせる無数の関節肢が生えた胴体を持ち、人の顔めいた頭を持つ異界の蟲。それが何匹も寄り集まって、とぐろを巻いて蠢いていたのだ。

 思わず背筋にいやな怖気が走る。

 初めて目撃した異界の生物の姿は、白蕾にとって非常に恐ろしく思えた。なまじ人型を見慣れていたせいもあり、特に人の顔にも見えるその頭が悍ましく彼には映った。

「なに、あの気持ち悪いの……?」

「うん? ああ、こいつは人面蟲じゃな。向こうでは黒魔術の触媒として有名なやつじゃよ」

 全身の粟立たせた白蕾の問いに、彼女は非常に面倒くさそうな口調で答えた。

「人面蟲は主に”腐れ沼”と呼ばれる不浄なる沼地や、瘴気の濃度が高い”深き闇の森”に生息する生物じゃ。まあ、ぶっちゃけ害虫じゃな」

 人面蟲は異界において危険生物のひとつに数えられる生物だ。

 危険度こそ他の生物に比べて低いが、それゆえに生息地域も広く、噛まれて命を落とす事例も多い。異界の山や森では、もっとも警戒すべき生物として数えられている。

「近付くでないぞ、噛まれたら大変なことになるからの」

「……聞かないほうが良い?」

「今日の夕食を美味しく食べたいならの」

 この生き物が危険とされているのは、これらの持つ毒だ。

 不浄な土地に生息するこの生物は、強力な神経毒を頭部の毒袋に溜め込んでいる。この毒を撃ち込まれれば、ドラゴンですら一瞬のうちに動けなくなるほどに強い。

 そして質が悪いことに人面蟲の唾液は強酸性であるため、噛み傷から血液が体内に侵入して肉体を内側から融解させていくのだ。

 神経毒によって麻痺したところに、強酸性の唾液による融解。これほど極悪なコンボもそうそうないだろう。

 噛まれたら最期、待ち受けるのはミンチよりもひどいぐずぐずのシチューである。

 インディアンたちが怯えるのも無理はない。

「ちなみに。こいつらの毒は環境や食べ物で変化するゆえ、清潔な環境において薬草を食べさせ続ければ、毒の代わりに良い薬を作るようになるぞ。毒もまた薬、物は使いよう、というヤツじゃな?」

 閑話休題である。

 さてもこの人面蟲をどうするかだが、一般的には異界へ返すものと決められている。

 面倒と思うかもしれないが、異界生物を下手にこちらの世界で処理すると、環境や生態系にひどい影響を与える危険があるため、出来る限りゲートへ返す決まりとなっている。

 一八五二年にアフリカで起きた人虎事件などが良い例だろう。

 人虎事件は、異界生物の死肉を喰った虎が”人虎”と呼ばれる生物に変異し、一夜の合間に近隣の村四つを壊滅させた最悪の獣害事件である。

 原因はゲートキーパーが殺処分したバイコーンの死肉を、野生の虎が食べてしまったことだった。虎が食べたバイコーンの死肉は、ほんの一欠けらだったという。

 この事件をきっかけに異界生物に関する規定が制定され、結果、異界生物は原則送還するものと決められたのである。

「人面蟲を喰った生き物が、どんな状態になるか……想像したくもないの」

 うぇっ。と、わざとらしく舌を出したレズンに、白蕾も眉をしかめて頷いた。

 しかし送還するにしても、人面蟲はかなり巨大である。それに毒も持っているため安易に触れるのも危険だ。

 いったいどうやってゲートに戻すというのだろうか。

 疑問に思って首をかしげると、レズンは得意げな顔で空間魔法を発動し、一本の棒をその手に出現させた。

「さて、こいつの出番じゃな」

 彼女の持つそれは、異界生物を離れたところからゲートに戻すためのアイテム、ゲートキーパーの必需品”マジックハンド”である。

 二股の部分に吸着のコモンマジック──誰でも扱える簡単な魔法のことだ──が付加されたこの棒は、手元の握りを引くことで魔法を発動させる。

 全長はおおよそ十七メートル。柄を伸縮させて、好きな長さにすることができる。素材は朽ちず欠けずのドワーフ銀、よほどのことがない限りは壊れない。

「その名も”なんでも掴めるハンド君七号”じゃ! たいていの生き物は、これで持ち上げて、ぽいっ、とゲートに戻せる。実に優秀な奴なのじゃよ、こいつはな」

「凄いんだね、そのぼっこ」

「ちとお高いのが玉に瑕だがの」

 お値段一本五八〇〇ドル、日本円で約五〇万円である。

 とても高い。

「あっ、それ」

 人面蟲の一匹を挟んで、ひょいと持ち上げる。

 急に持ち上げられて気分を害した人面蟲は、威嚇するみたいに牙を剥き出してカチカチと鳴らした。が、にべもなくゲートに投げ入れられてしまった。

 そのまま続けて、二匹、三匹とゲートへ投げ入れていく。

 工場の作業みたいに掴んでは投げられてポンポンと飛んでいく姿は、どこなく哀愁めいた何かが漂っている。

 見た目からして本当に気持ち悪いのだが、なんとも哀れな光景だ。蟲たちの顔もなんだか悲しげであるように見えた。

「ほれ、白蕾」

「えっ」

 なんとも言えない面もちでその様子を見ていると、レズンがマジックハンドを手渡してきた。残りの一匹は白蕾にやらせようという魂胆らしい。

 乗り気はしないものの、しかし期待は裏切りたくはない。任されたからにはやらなけらばならぬ。白蕾はマジックハンドを構えると、人面蟲に向かってずいと突き出した。

 捕まえた瞬間、なんとも形容しがたい感触が伝わってきて、彼は思わず顔を歪めてしまう。しかも暴れてのたうつのだから、もうげっそりするほど気持ち悪くて大変である。

「うぇぇえ……」

 若干涙目になりながら、やっとの思いで人面蟲を持ち上げてゲートに投げ入れると、なんだかすでに全力を使い切ったみたいな疲労に襲われてしまった。

「……終わったよ……」

「うむ、よくやった。えらいぞ!」

 レズンは体よく頭を撫でて褒めてやると、白蕾はすぐにパッと顔を明るくさせて、涙を引っ込めた。

 泣いた鴉が何とやら。さっきの気持ち悪い蟲の存在など、もう忘れてしまった白蕾であった。

「さて。あとはゲートを閉じるだけじゃな」

 周りに他の異界生物がいないことを確認してから、無気味に開いたゲートに近付く。すぐそばにまで寄ると、ゲートの中を少しだけだが覗くことができた。

 暗く、淀んでいる。

 白蕾は最初に、そんな感想を抱いた。 

 光を通さぬ闇が粛として厳めしさを湛えており、漏れ出る木々の騒めきはかくも恐ろしく響いている。

 時折り聞こえる悲鳴は、はたして生き物の声なのかさえ不明だ。

 覗き込んでみても、まるで景色を窺い知ることができない。

 仄暗い水面、あるいは、底知れない深層へ続く階のように、闇そのものがただそこにあるのみである。

 この黒き世界に足を踏み入れたのならば、最後、何人も生きては帰れないだろう。

「繋がっておる場所は、深き闇の森じゃろうな。あまり近付く出ないぞ? 肉食植物に攫われてしまうからの」

「っ!?」

 慌ててゲートから飛び引く。

 まったく、そういうことは先に言ってほしいものである。白蕾がわずかに怯えた様子で視線を送れば、レズンは悪戯娘みたいに笑っていた。 

「不用意に近付いたお主が悪いんじゃよ。これに懲りたら、ゲートには無暗に近付かんようにするんじゃ。良いな?」

 否はない。

 白蕾は彼女の言葉にこくこくと頷いた。

「おふざけはこれくらいにして、ゲートを閉じるぞ。よく見ておくんじゃ」

 笑みを消したレズンは、懐から銀に輝く鍵を取り出して、白蕾に見せた。

 それは奇妙な鍵だった。おそらくは銀製なのだろうが、あまりにも精密で複雑な幾何学模様が表面に掘られていて、全長が五インチ以上もある。

 五インチといえば白蕾の掌よりも大きいサイズだ。通常の鍵の大きさではない。知らなければ城門の鍵か何かとしか思えない大きさだ。

 これこそはゲートを閉じるためのアイテム、古今に伝わるアーティファクト”銀の鍵”である。

「これを使うの?」

「うむ。しかし使うには今から唱える呪文が必要不可欠なんじゃ。儂の言葉、一字一句も逃さずしっかりと耳に焼き付けておくんじゃぞ」

「わかった」

 そう言ってゲートの前に立ったレズンは、ゲートの中心に銀の鍵をかざし、外なる神に向けた祈りの呪を唱え始めた。

「星の此方から星の彼方へ捧げまする。時を超越せし窮極なる神よ、どうか我が願いを聞き入れ給え。そして、未知なる未知に夢を求める我ら愚者に、慈悲なき慈悲の加護を。いあ、いあ、んぐああ、んんがい、んがい」

 ゲートの淵からにょろにょろとした触手が伸びてきて、じょじょに織り合わさっていき、空間に走る罅割れを修復していく。

 奇怪でありながらどこか神秘的だが、呪を行使しているレズンは苦しそうに顔を歪めていた。

 額には汗が滲み、甲殻の隙間から赤い魔力の光が滲み出ている。

 ゲートを閉じるには多大な魔力……すなわち、精神エネルギーを必要とする。

 いくら竜種の血を継ぐ彼女であっても、一度に、しかも一気に、大量の魔力を消費するのは苦しいものがあった。

「いあ、いあ、んぐああ、んんがい、んがい……いあ、いあ、んぐああ、んんがい、んがい……。……ふぅ、これでこのゲートは終いじゃな」

 完全にゲートが閉じて、空間の罅割れが綺麗さっぱりなくなったのを確認すると、レズンは大きく息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭う。

 よほど疲れたのだろう。尻尾がへにょりと垂れ下がって、地面とくっ付いてしまっている。この仕事の苦労が、何となく察せられる場面であった。

「どうじゃ、覚えられそうか?」

「まだ一回目だからわかんない。けど、次に聞けば覚えられる」

「ほう、なかなか筋が良いではないか。これは期待できそうじゃな?」

「期待は裏切らないよ」

「結構! ならば次の仕事では、お主にゲートを閉じてもらうとするかの。後でもう一度呪文を教えるゆえ、しっかり覚えておくんじゃぞ」

 ぽん。頭に手を乗せられた白蕾は、レズンを見上げて頷いた。

 正直なところ人間には厳しい仕事だが、期待されたのなら応えなければ気がすまない白蕾である。無理などとは口が裂けても言わなかった。

「おーい、もう大丈夫じゃよー!」 

 こちらを心配そうに眺めていたインディアンたちに手を振ると、彼らは顔を見合わせたあと、一様に安心した表情で手を振り返してくれた。

 崖上に戻るとインディアンたちが諸手を上げて出迎えてくれた。

 彼らにとって二人は、平穏を脅かすゲートを取り除いてくれた恩人、英雄である。歓迎せずしてどうするのか。

「ありがとう、守人よ! これで我らと我らの家族は飢えずに済む。この恩、この感謝、どうして伝えれば良いか……」

「そんな、大げさじゃよ。恩を売ったつもりもないしの」

「しかし、恩人に何一つ返さずに送り出すなど、我らの先祖が許しはしないだろう。どうか、少しでも恩を返させてほしい」

 少しだけ困ったように笑ったレズンは、思案するみたいに尻尾を揺らめかせた。

 違法なゲートによって被害を被った地域には、政府から補填金が支給される制度があるのだが、近年はこれを悪用した犯罪が増えている。

 あまり安易に礼を受け取っては、贈賄やマッチポンプを疑われてしまうのだ。

 とはいえ。今回の相手はインディアン。金なんて俗物的な物に頓着するはずもない、高貴な野蛮人である。そんな犯罪をしようなどとは、ちっとも思っていないだろう。

「……まあ、良いかの」

 さてどうするか。顎に手を当てて考えていたレズンだったが、結局、彼らに委細を任せることにした。

 彼らに限っては犯罪の心配もないし、なにより、この感謝を無碍にするのはいささか忍びなく思えた。

 もっとも。本当のところ彼女は、白蕾と一緒にインディアンの文化に触れて、デートめいた思い出作りをしてみたいだけなのだが……それは言わぬが花、というやつか。

「白蕾、否はないか?」

「師匠に従うよ」

「では。お言葉に甘えて、ご厚意に与るとしようかの」

「おお、そうか! ならばすぐに村へ案内しよう! ちょうど儀式も終わりの日、盛大な宴を催す予定なのだ。是非とも参加してほしい」

「ほう、それは楽しみじゃ! 白蕾も、楽しみじゃろ?」

「うん。どんなのが出て来るか、ワクワクする」

 訊かれて、白蕾はやおら頷いた。

 武術にばかり傾倒している彼だが、これでも生まれは名家の庶子である。あまり外の文化に触れる機会がなかったために、彼は異国の文化というのに興味津々であった。

「うむ、よしよし! では、村へレッツゴーじゃ!」

 馬車に飛び乗ったレズンが上機嫌に手を振り上げると、呼応してインディアンの若者たちも雄叫びを上げて腕を振り上げ、歓迎の歌と共に歩き始める。

 白蕾は一度だけ、ゲートが開いていた場所を胡乱げに振り返ってから、馬迅に跨ると彼らに続いた。

 

 

 

 日没間際の村で行われた宴は、盛大を極めた。

 外では旅人向けに炊き出しが行われて、食料を全て出し尽くさんばかりに豪勢な食事が、誰彼問わずに振る舞われている。

 軒を連ねるドワーフの露店には、ナバホ族の得意とする織物や銀とターコイズの宝石細工が並び、商人たちを魅了してやまない。

 雅に吹かす煙草の匂やかは天高くに燻り、宴の賑やかにつられて来たハーピーたちも楽しげに歌い舞う。

 華やかで美しい宴の光景は、さながら楽土の宴が如くであった。

「此度の件、タタンカより聞き及んでおります。なんとお礼を申し話あげれば良いか」

「あいや、気にするほどのことではない。これも仕事ゆえな」

 そんな村の様子を横目に二人は村の長老たる老婆と、ホーガンと呼ばれる木と土でできたドーム状の家の中で、先ほど閉じたゲートについて話していた。

「しかし、あのゲート。一週間は放置されておったようじゃが、お主らはなんですぐに知らせなかったのじゃ?」

 談笑もほどほどに、レズンが本題を切り出した。

 異変を察知しておきながら、ゲートを放置しているとはおかしな話である。特に大切な狩場ともなれば急を要する。すぐにでもゲートキーパーに報告するはず。

 にもかかわらず一週間も放置していたのだ。何か裏があるように思えてならなかった。まったく素人である白蕾からしても、今回の一件はきな臭く映ったほどだ。

「異変は察知しておりました。何か良くないものが、この地を覆い隠そうとしていると、精霊たちの囁きがありましたゆえ」

「ふむ? では、何故?」

 レズンが怪訝に片眉を上げると、長老は声を潜めて言った。

「略奪者です。奴らが我々を、あの狩場に……いえ、あれだけではありません。他にもある狩場のほとんどに、近付けさせないようにしていたのです」

 略奪者とは、つまるところ”開拓者”の総称である。インディアンの住まう土地、正確には、そこに埋蔵する豊かな資源を狙う者。人々はそれらを略奪者と呼んでいた。

 西部開拓時代。

 などと言っても、実際は鉄道の開通と未開拓地の開墾を行っただけであり、西部の大部分はインディアンたちの所有地として管理されている。

 最初は政府も強硬な姿勢で開拓にあたっていたが、まさか異界との繋がりが強いインディアンたちを、おいそれと排除できるはずもない。

 異界の住人達からの抗議を受けた政府は、次第に及び腰になっていき、開拓は遅々として進まなくなっていった。

 西部の開拓を押し進めるか、異界との関係を優先するか。

 苦渋の決断の結果として、大陸横断鉄道の開通と共に土地の大部分が放棄され、西部開拓時代は終わりを告げた。

 政府は肥沃な土地の開拓よりも、恐れるべき異界との関係を取ったのだ。

 これによって、インディアンたちは定住の地を奪われることはなく、異界との関係も良好のまま、大アメリカは帝国主義へと移っていった。

 開拓者たちのアメリカンドリームは、夢のままに終わったのである。

 が、しかし。 

 それでももなお、西部に眠る夢を追いかける諦めの悪い者たちがいた。

 夢に憑りつかれた開拓者。

 あるいは、この西部に取り残された荒くれ共か。

 彼らは終わった夢、一攫千金を求めてインディアンたちの庭を荒らし、石ころのひとつですら物にしようと企み、恥も外聞もなく西部の闇で暗躍する。

 ただひたすらに、この地に眠る資源を手に入れるために。巨万の富を得るために、人の土地に土足で踏み込む。

 ゆえに。開拓者ではなく略奪者。

「奴らは、我らの土地に眠る宝の山を寄越せ、さもなくば村の者共を皆殺しにする。と、我らを脅しました」

「ふむ、それは穏やかではないのぉ」   

 この村は、ひとつの採掘場を所有していた。彼らの得意とするターコイズ使った宝石細工に使う銀を採掘するための銀山だ。

 彼らはこれを狙って、脅しをかけて来たのである。

「かの場所は先祖代々、我らの村に受け継がれてきた場所です。土と炉に根付く民、ドワーフとの友好を示すものでもあります。どれだけの条件を積まれたとて、手放すことはないと突っぱね、我らは頑として退きませんでした」

「その末が、今回の一件……というわけか。難儀な話じゃ」

 おそらく、略奪者たちは違法なゲートを狩場に開くことで狩場を荒らし、彼らに脅しが嘘ではないと見せしめたのだろう。 

 回りくどいようで、しかし的確な威圧である。

「抵抗はどうしたんじゃ? お主らなら、略奪者如き蹴散らすのもわけなかろうに」

「もちろんしましたとも。ですが、やつらは……銃を持ち出してきた。一挺や二挺ではきかない……たくさんの銃弾を、戦士たちに向けたのです」

 数を揃えて挑もうとしたのだが、ガトリングなんて大層なものを持ち出されては、まったく抵抗もままならぬ。戦士たちは這う這うの体で逃げ出して来たらしい。

 情けないと思うかもしれないが、ライフルや弓矢程度の遠距離武器しか持たない彼らに、ガトリングと対抗しろとはさすがに無理な話だ。

「なるほどのぉ。それで一週間も手付かずじゃったのか」

 これは思った以上に由々しき事態である。レズンは腕を組み、どう対処すべきか深く悩み入った。

 白蕾からしてみれば、そのような不届き者はお役人にそっ首を撥ねて貰えばよろしい。と思うのだが、これがなかなかそうもいかぬ事情がある。

 そもそも西部一帯がインディアンの所有地とされている関係で、どのような大義があれ、植民地よろしく政府が組織を介入させるのが難しいのだ。

 開拓と称して彼らの土地を侵略したこともあって、軍隊などの武装した組織は特に厳しい反発にあってしまう。

 さらに加えて、介入するにしても、利権の問題であったり。法律の問題であったり。金銭の問題であったり。とにかく一言では言い表せない多くの障害が横たわっている。

 政府としても何とかしたいというのが本音なのだろうが、判子仕事だけで人を動かせないのが今の世の中なのである。

 アメリカ政府だけでは、抜本的な解決は難しいのだ。

「守人様……どうか、どうか我らの村を守ってはいただけないでしょうか……」

「乗り掛かった舟じゃ、否はない。儂らのほうで此度の下手人を探し、必ずやお縄を頂戴しようぞ」

「おお、なんとありがたきお言葉……感謝の極みにございます……!」

「これでもベテランじゃ、大船に乗ったつもりでおるが良いぞ」

 感激と共に平服する長老に、レズンは快活な笑みで頷く。

 元よりゲートキーパーとは、違法にゲートを開いた不届き者を取り締まる者である。頼まれずともそのつもりであった。

「さて、この話はここまでにしようかの。見たところ今日は宴、あまり暗い話をしては水を差してしまいかねん」

「ええ、ええ……ごゆるりと、楽しんでいってください。今宵は儀式も終わり、今よりももっと盛大な宴が開かれましょう。大いに飲み食いしてくだされ」

「うむ。ありがとう、長老よ」

 ホーガンを出ると活気というものがワッと押し寄せてきた。

 煌々と燃ゆる篝火の眩さと降り注ぐ茜色に彩られた村は、今まさに興奮の最高潮にあった。その熱は火山もかくやであり、ともすれば火傷しそうなほどだった。

 村の中でも特に盛り上がりの激しい場所が村の中央だ。この場所だけは喧々早々とした雰囲気から一転、厳粛を極めた物々しい空気で満たされていた。

 それもその筈。

 ここで行われている儀式こそは、彼らインディアンにとってもっとも神聖なる祈りである。尋常ならざる空気が漂うのも宜なるかな。

 近付いてみれば、二人はその威容に我知らず圧倒されてしまった。

 まず目につくのは、中央に立てられた一本の柱に向かって、骨笛を吹き鳴らしながら踊るダンサーたちだ。

 赤布一枚を腰に巻いて美麗な装飾を施した彼らの踊りは、幻想的でありながら見る者を圧する迫力があった。

 骨笛の音色は空を超え、踏み鳴らす足は原野を揺らす。彼らの踊りが発する熱は凄まじく、地球の裏側にまで伝わっているのではないとさえ思えた。

 そして、ダンサーを取り囲むように円陣を組む人々が、独特のリズムで奏でられる音楽は荘厳に満ち満ちており、紡がれる祈りの祝詞もまた威風そのものである。

 サンダンス。

 この儀式は、白人たちにそう呼ばれていた。

 太陽と大地の精霊に自然復活と和平祈願を願うこの儀式は、四日間の絶食を行いながら踊り続ける過酷なものだ。

 だが、真に見るべきところは歌や踊りではない。この儀式において最も重要なのは、代表格のダンサーが血肉を捧げる”ピアッシングの儀”だ。

 自らの肉体に刺し込んだピアスを、中央の柱と繋げて思い切り引っ張り、血肉を裂いて大いなる神秘と精霊たちに捧げるのだ。

「なんで、あんなこと?」

「己の肉体とは、本当の意味で己だけの物。それを分け与えるということは、つまり、真に己を捧げるということなのじゃ」

「人柱みたいなもの?」

「それよりもずっと崇高なものじゃよ、あれは」

「崇高? あの、痛そうなのが?」

「そうじゃよ白蕾。あれが人柱と違うのはな、命を捧げるか、己を捧げるか、という点じゃ」

「命を捧げるか、己を捧げるか……」

「似ているようで違うのじゃ、この二つはな。お主にはこの違いが、わかるかの?」

 白蕾は押し黙って、ピアッシングの苦行を見つめた。

 二つの違いは、なんとなくだがわかる。

 命とはなんにだってひとつしかなく、宿る器を変えることもできない。捧げてしまえば最期、肉の塊がひとつ残るだけ。

 対して己というのは、確かにひとつしかないが、同時に分け与えることができる。命がある限りは、肉体を何度でも捧げることができるのである。

 だが、それを言葉にするのは躊躇われた。

 口から出した途端、なんだか陳腐なものに成り下がってしまう気がして、白蕾にはどうしても答えることが出来なかった。

 それはもしかしたら、わかる。というだけで、それが持つところの真の意味を理解していないから、なのかもしれない。

 ようは、理解度が足りていないのだろう。この問いに澱みなく答えられるほど、白蕾はふたつの違いを理解できていないのだ。

「わかるけど、わかんないや」

「かかか! まあ、お主にもいずれわかる時が来よう。それまで、考え続けるんじゃ。命の意味と、己の意味をな」

 狼の遠吠えにも似た雄叫びが広場に響き渡ると、少し遅れて村全体から一挙に歓声が挙がった。

 ダンサーがピアッシングの苦行を成し遂げたのだ。

「いやはや、あっぱれじゃ! あっぱれぇい!」

 レズンが大声でダンサーを讃えると、ダンサーは片手を振り上げてこれに応えた。

 四日間も飲まず食わずで踊り続けたダンサーは、ボロボロのくたくたで、立っているのもやっと。一瞬でも気を抜けば、前のめりに倒れてしまいそうな有様だ。

 けれどもその姿は、不思議なことには、誇り高い勇者のように輝いて見える。

「すごいね、あの人は」

「うむ、見事な雄姿であったな」

 きっとあれも、自分が目指すべき一種の到達点なのだろう。

 ぼんやりとそれを理解した白蕾は、我知らず愛刀を握りしめた。

「……と、ところで!」

 不意に、レズンが声を上げた。

 せっかくの厳かな雰囲気をぶち壊すような、いかにも間の抜けた調子の声だった。

「なに?」

 拍子抜けした白蕾が怪訝に片眉を上げると、彼女は僅かに上気した顔でなにやら言いたげに口をまごつかせた。

 あれほど頓狂な声を出しておきながら、何もしゃべらないとはこれ如何に。

 あんまりにも何も言わないものだから、怪訝も戸惑いに変わりかてきた頃。毛先を弄んでいた彼女は、ようやっと言葉を口にした。

「う、宴を、一緒に回りたいんじゃが……その……手を、な……?」

「手がどうかしたの?」

「にぎり……たい、なー……なんて……」

「手を? なんで?」

 蠅音よりも小さいレズンの声を聴いて、白蕾は思わず首をかしげてしまう。

 レズンとしては白蕾と一緒に宴を見て回りたいだけなのだが、お互い、いまだに認識がすれ違ったまま。これでは乙女のいじらしい気持ちなぞ、伝わるはずもない。

「回るだけなら、別に手を繋がなくても大丈夫だよ」

「ひ、人が多いし、迷ったりするかもしれないし……のぉ?」

「むっ……迷子になる歳じゃない」

 暗に子供と言われたのでは、そう勘違いした白蕾がむっとして言い返せば、レズンは慌てて首を振った。

「アッ、ちがっ……ま、万が一じゃよ、万が一! 大人だって気を抜いたら、ほら、人ごみで迷子になるもんじゃし!」

「だとしても、なんで握る必要があるの?」

「エッ……い、いや……それは、その……じゃな……」

 どうにも必死である。たかだか手を握るのに、何をそこまで執着するか。修行でもないのにおかしなことばかり言う彼女に、白蕾はもうほとほと困惑しっぱなしであった。 

 しかし対するレズンもレズンで、察しの悪い白蕾にやきもきしっぱなしであるのだから、まったくお互い様である。

 すれ違いが生んだ犬も食わない話であった。

「と、とにかく! 儂は、お主の手を、に、握りたいんじゃ! ダメか!?」

「えっと……うん。なんかよくわかんないけど、そこまで言うならいいよ」

 結局、この話の白蕾が折れる形で決着が付いた。

 理由はまったく解せないが、師の期待に応えるのが弟子というもの。手を握りたいというのなら、従うまでである。

「オァ、アッ、ち、ちっちゃい……! か、かわよっ……!」

 白蕾が手を握ってやると、レズンは嬉しさのあまり表現し難い顔をした。

 体躯と同じく小さな手の、なんと可愛らしいことか。

 にぎにぎと手を動かし、その感触を確かめてみれば、子供特有の柔らかさがありながら、剣胼胝で固くなっている部分がわかる。

「ふ、ふへ……ふへへへへへへ……」

 思わずにやけて気味の悪い笑みを浮かべてしまうレズン。

 そんな彼女に、甘噛みするみたいに手をニギニギされる白蕾は、はたしてどう反応したら良いのかわからず、首をかしげるばかり。

 明らかに事案である。

 場合によっては保安官を呼ばれかねない絵面であった。

 そんなこんなで、だんだん周りの視線も気になってきた頃、ついに二人の間に割り込む乱入者が現れた。

「あーっ!? テメェは準決勝の!?」

 どこかで聞いたような声が、二人の間を通り過ぎる。

 すわ何事か。二人揃って声が飛んできたほうを見れば、そこにはエルフの民族衣装である緑衣を纏ったダークエルフがいた。

「おい、お前! 確か白蕾といったな? 今すぐ俺と勝負しろ、今度こそ負かしてやる!」

「……誰?」

「……誰じゃ?」

「ザガンだ! そっちの半竜はまだしも、そこのガキ! お前は準決勝で戦ったろうが! 対戦相手くらい覚えておけ!」

 大会にて雌雄を争ったというに、この白蕾の、なんと薄情極まる言葉だろうか。

 なんたる屈辱か! 

 ザガンは元々赤めていた顔をますます真っ赤にした。地団駄まで踏んでいるのだから、その怒りは相当なものである。

 が、残念なことには。

「ええと、覚えてない」

「なんだと!?」

 レズンとの一戦が印象的過ぎて、白蕾はザガンのことを「なんかうるさかったヤツ」程度しか記憶していなかった。

 密かに彼をライバル視していたザガンからしてみれば、なかなかにひどい話である。

「お前! このっ……お前! 人間の身で俺を負かしておいて、覚えてないだとぉ!? ふざけんのもたいがいにしろ!」

「うん、ごめん」

「謝るなら最初から覚えてろよ、バカーッ!」

 怒髪冠を衝くとはこのことか。

 まったく勢い甚だしい怒声を浴びせられた白蕾は、確かに対戦相手の名前を覚えていないのは失礼であった。と、素直に頭を下げた。

 これを受けたザガンは、反省しているのならば。と、いまだ収まらない部分はあれど、これ以上は怒りを抑えて話すことにした。

「フンッ、まあいいだろう! 今回はその姿勢に免じて、特別に許してやる! いいか、次からは忘れるなよ?」

「うん。わかったよ”サ”ガン」

「”ザ”だ! サじゃなくて、ザ! ちゃんと発音してみろ!」

「ザ?」

「そうだ、ザ、だ! わかったら二度と間違えるなよお前!」

「うん、大丈夫。ちゃんと覚えたよ、ザ」

「……ガンはどうしたお前!?」

「銃なんて持ってないよ」

「誰が銃の話なんかした!? せめて会話をしろよ、会話を!」 

「……???」

「なんだその心底不思議そうな顔は!? ふざけているのかァー!?」

 漫才もかくやな問答を繰り広げる二人は、放っておけば延々と同じ話題を続けそうな勢いである。

 このままでは話が進まないと見かねたレズンが、ついに口を挟もうと一歩前に出た。

 その時。

「ザガン! 貴様、なにをしているか!」

「ゲェー!? お、親父ィ!?」

 肩を怒らせた大男が、天地を揺るがさんほどの怒声と共に、こちらへ直進してきた。ザガンの悲鳴から察するに、彼はザガンの父親なのだろう。

「今宵は外から多くの者が来ているのだぞ!? 馬鹿なことはするなと何度言ったらわかる!」

「ちがっ、そんなんじゃ……」

「黙らっしゃい! 口だけは達者なじゃじゃ馬が喚くな!」

「はひっ!」

 口答えすら許されずに叱られるザガンは、哀れなことに、肩どころかとんがり耳までしゅんと垂れさせて涙目になっていた。

 槍百般と言えど、親には敵わぬらしい。

「申し訳ありません、お二方。これが迷惑をおかけしました。……まったく、ザガン! 貴様と言う奴は、何故こんな言いつけすら守れんのだ! 貴様の行いひとつで、我ら乾いた大地のエルフが如何なる視線で見られるか、考えたことはあるか!?」

「ふぇっ、ぇぐ……ぐすっ……」

「何を泣いている!? 泣けば許されると思っているのか貴様は!」

「そっ、んな……こと……ないっ……!」

「ならば何故めそめそと泣く! そんなだから余計に怒られるのだ愚か者め!」

 怒声は止むどころか増すばかり。衆目も気にせずに勢い甚だしく怒鳴るその様は、まさに濁流である。さすが戦士の一族は、なかなかに苛烈な教育方針を取っているようだ。

 こうして、彼らの一族からは素晴らしい戦士たちが輩出されるのであろう。

「だいたい貴様は! 槍が得意だからと調子に乗って、己を磨かず傷ばかりを増やしおって! いくら槍が出来ようが、お前は……」

「まあまあ、まあまあ。その辺にしておくのがよろしかろう」

 とはいえ、こうも目の前で怒られる子供を見ては、可哀想になってくるのが人情。ついにいたたまれなくなったレズンが、静かに泣きじゃくるザガンへ助け舟を出した。

「子を叱るのは親の役目なれど、人前でこれはいささか酷じゃろうて」

「しかし……」

「見ればその子、十分以上に猛省しておる。これ以上の叱責は不要じゃ。そもそも、儂らは別に迷惑なぞ被ってはおらなんだしな。のう白蕾」

「うん。むしろこっちが失礼なことしたから、怒らないであげて」

「……お二人がそうおっしゃるならば、収めるほかありませんな」

 穏やかな言葉で窘められて、父親はやっと怒りを収めた様子である。

「あ、ありがとっ……ぐすっ」

「ううん。なんか、ごめんね。ザガン」

「いえたじゃねえか……」

 泣き濡れたザガンもほっと安心したのか、袖で目元を強く拭うと礼を言ってきた。

 怒られる原因を作ってしまった白蕾としてはバツが悪い。しようもないので、震えているザガンの肩を優しく叩き、反省と慰撫の籠った口調で謝罪するしかできなかった。

「うむ。まあ、なんじゃ。一件落着ってやつじゃな」

 やれやれと肩を竦めるレズンだが、それにしてもすっかり白けてしまった。

 もはや手を握るだのなんだのとじゃれ合う空気ではない。宴を回るにしても、微妙な空気である。

 これでは仕方がないので、レズンはこほんと小さな空咳をして誤魔化すと、仕事の顔をして話題を切り出した。

「ところで、お主らエルフはこの地に住んでおるのか? もしそうなら、ゲートのことで話を聞きたいのじゃが」

「ゲート、ですか? 失礼ですが何故?」

 ゲートについて問われたザガンの父は、目を細めて警戒の色を露わにした。

 もしゲートを悪用しようとする者ならば、この場で斬るのもやぶさかではない。そんな剣呑な雰囲気が見え隠れしている。

 さっきまでこの辺りに違法ゲートがあったせいなのか、この手の話題にはひどく敏感であるらしい。

「ああ、申し遅れた。儂はレズン、ゲートキーパーをしておる者じゃ。こっちは助手の白蕾」

「ゲートキーパー! なるほど、そうでしたか」

 そんな耳聡い彼であるから、二人がゲートキーパーだと知るなり、一転して協力的な態度を見せてくれた。

「ゲートについては、幾らか知っております。この村には昨日に着いたばかりですから、大した情報ではないでしょうが」

「情報はいくらあっても損はない、是非とも聞かせてほしいのじゃ」

「では、我らのテントでお話ししましょう。ここは人目が多いゆえ」

 しばらくしてザガンが落ち着くと、父親は丁寧な態度で二人をダークエルフのキャンプへ案内した。

 昨日にここへ来たばかり。という彼の言葉が示す通り、ダークエルフのキャンプには荷解きしていない荷物やら、乱雑に纏められた武具やらが散漫と転がっていた。

 馬車の荷も完全には下せてはいないようで、男衆が忙しなく馬車と広場を行ったり来たりして荷物を運んでいて慌ただしい。

 どうにも大変なところにお邪魔してしまったようだった。

「申し訳ありません。このようなものしかお出しできず」

「いやいや。こちらこそ、大変なところに申し訳ない」

「ありがとう、おじさん」

 ザガンたちが生活している円錐状のテント、ティーピーの中。中央の焚き木を囲むようにして腰を下ろし、木製のマグカップに注がれた茶を受け取る。

 エルフが淹れた茶は、白蕾からして、嗅いだことのない奇妙な匂いがした。例えるなら、緑に輝く丘のような、清涼感のある爽やかな匂いだった。

「このお茶は何?」

「タイムって葉っぱのやつ! こーゆーの、ハーブティーっていうんだぜ!」

「はーぶ、てぃー?」

「紅茶は茶っ葉で作るだろ? でもこいつは茶っ葉じゃなくて、草っ葉で作ってんだ!」

「うん。……うん?」

「茶っ葉か、草っ葉か、ってことだよ! わかりやすいだろ?」

「そっか。うん。わかんないや」

「なんでだよ!?」

 首を傾げる白蕾に、隣に座ったザガンが砕けた口調で答えた。

 最初はライバル意識から刺々しい態度だったが、あれだけ怒られた場面を見られてはもはや格好がつかないと割り切ったのだろう。今はもう友人の距離感である。

 昨日の敵は今日の友。とは少し違うかもしれないが、概ねそのような感じであった。

「なっ、美味いと思うかそれ?」

「……そんなに」

「だよなー! なんか匂いつただけのお湯って感じで、まっじーよなー!」

 それに対して白蕾は、妙にぎこちなく頷いた。表情もどこか困った様子で、受け答えに苦労している様子である。

 実のところ。白蕾はザガンの気安い距離感にいささか緊張していた。

 今まで友達と言える間柄の人がいなかった彼にとって、このような近い距離での気安いやり取りには戸惑うものがあった。

 思いの他、ザガンがぐいぐいと距離を詰めてきたのも相まって、どう反応したら良いものかと迷ってしまう。

 馬とかの動物ならばどうにもなるだが、人だけには慣れていないせいで、彼我の距離をいまいち掴めないでいるのだった。

「ザガン、あまり客人に迷惑をかけるな」

「迷惑なんかかけてねーって! な、白蕾?」

「あー……うん、大丈夫」

「明らかに困っているようだが?」

「まあまあ。子供同士のことじゃ、向こうは向こうに任せておけば良かろう」

 傍から見ると明らかに困っている白蕾だが、本人が大丈夫だと言うのならば、あれこれ口出しするべきではない。子供は子供同士で遊ぶべきなのである。

 なお、白蕾の「子供じゃない」という遺憾の意は黙殺された。

「それよりも、話を聞かせてはもらえんかの?」

「ええ、わかりました」

 ザガンにじゃれつかれている白蕾を尻目に、この辺りに開いていたゲートについての話を聞くレズンは、あまり芳しくない内容に思わず渋面を作った。

 彼の話によれば、この地に来るまでの道すがらで、五つもの違法なゲートを見つけたそうだ。

 どれも状態はまだ真新しかったが、危険区域に繋がっているらしく、微かに瘴気が漏れ出していたそうだ。

 またゲートが開いている場所は、人目につかないひっそりとした岩陰や、崖下の奥まったところばかりで、明らかに人為的に隠されていた。

 見つけ次第ゲートキーパーに通報して閉じてもらったものの、はたしてこの地に開かれたゲートは誰かの企みによるものだろう。

 と、言うのである。

 これはまったく由々しき事態であった。

「なるほどのぉ。奴ら、よほどナバホの銀山が欲しいと見える」

「近くに怪しい集団などは見えませんでしたが、足跡はいくつか残っておりました。かなりの大人数で行動していたようです」

「とすると、やはりギャングの仕業か……」

 大人数で行動していながら、各所にゲートを開いている。

 それはつまり、略奪者の中でも特に無法者な輩が組織した大規模な犯罪シンジケート、いわゆる”ギャング”が動いている証左に他ならなかった。

 ギャングは、あらゆる悪事に手を染める無法者の集まりだ。

 彼らはインディアンのみならず、列車や銀行などにも強盗に押し入る倫理の欠片もない生粋の悪人ばかりと、略奪者の中でも非常に危険な存在である。

 特に危険であるとされているのは組織力だ。アメリカ政府のみならず、異界の政府ですら討伐が間に合わないと言えば、ギャングがいかに大規模であるかも察せられよう。

 今やギャングの構成員は人間だけでなく、悪しき心を持つ異界の住民たちまで取り込み、その勢力を大陸規模に拡大している。もはや完全撲滅は不可能な規模であった。

 そんなものが動いているだから、いよいよ話が大きくなってきた。と眉をしかめて唸るのもさもありなん。

「ふぅむ、悩ましい事態じゃ」

 ギャングが関わっている以上、この件はいたちごっこの堂々巡り。

 主犯格を捕まえたとて、組織からまた新しい者が送られてきて、また同じことが繰り返されるだけだろう。

 もちろん、そうさせないための手はある。ゲートキーパーを常駐させて監視してしまえば、奴らもおいそれと手出しはできない。奴らも諦めが付くというもの。

 ただ問題なのは、今回の事件は結構な規模で行われていることだ。

 いくらゲートキーパーを配置しても、それを上回るスピードで犯行を重ねられては、ゲートを閉じるのに精いっぱいになってしまう。犯人を捕まえるのも難しいだろう。 

 レズンが追加で呼ばれたのには、そういう事情があった。

「他にはあるかの?」

「私が知っているのはこれくらいです。お役に立てず申し訳ありません」

「いやいや、実に有意義な情報じゃった。ご協力、感謝するぞ」

 大人たちの話し合いがひと段落した一方。

 子供たちのじゃれ合いもひと段落していた。

「おまえのふとももやらわけーなー! へへっ、枕にちょうどいーぜ……っと!」

「やめてよ、危ないから」

「んだよ、俺とお前の仲だろ? いいじゃねーか別に!」

「親しき中にも礼儀あり、って言葉があるんだけど」

「知らねー! つか、もうちょいこっち寄れよ! そこじゃ頭乗せにくいだろ!」

「えぇ……まあ、いいけど。こんな感じ?」

「おっ、そこイイ感じ……ん~、こりゃ今夜は安眠だな!」

 ザガンに強張られて膝枕をする白蕾は、最初と比べて表情も柔らかくなり、ぎこちなさもなくなって気安い調子である。

 図々しいほどにグイグイとくるザガンに、ほとんど無理やり心の扉はこじ開けられた結果、彼も自分なりの距離感というのを見つけたようだった。

「なーなー! お前ら今日はどこに泊まんだ? こっち泊まるってんならさ、俺んとこ来いよ!」

「うん。遠慮しとく」

「なんでだよ!?」

「だってうるさそうだし」

「んなっ、寝るときくらいうるさくしねーよ!」

「いびきしてそうだし」

「するか! 親父じゃねえんだから!」

「寝相悪そうだし」

「……スゥー……」

「それは否定しないんだ」

「うるせえ! もう、ごちゃごちゃ言わずにコッチ泊れよな!?」

「別にいいけど。師匠がダメって言ったらダメだからね」

 子供とはいえ、ここまで強情に、しかも遠慮なしにねだられては、普通は不快になりそうなものだが、白蕾は不快な顔一つしなかった。むしろ楽しげであるとさえ見える。 

 身長の割には子供っぽいザガンと、身長の割には大人っぽい白蕾。見た目も性格も凸凹なコンビだが、不思議とウマは合うらしい。

「ねえ、師匠。今日は、ザガンのところに泊っていい?」

「うん? まあ、迷惑でなければじゃが」

「迷惑だなんて、とんでもありませんよ。是非とも泊って行ってください」

「そう言うことらしいから、泊っていくか」

「わかった。それじゃあよろしく、ザガン」

「ぃよっしゃー! へっへっへ、今日は寝かせねーぜ白蕾!」

「いや、寝かせてよ」

 ぱぁと顔を輝かせるザガンに、白蕾はそう答えて苦笑する。

 そうして和やかに、夜は更けていくのだった。

 

 

 三・どんぐりひとつじゃ動かない。

 

 

 朝が来た。

 空高く響いた大鷲の声で、白蕾はぱちりと目を覚ました。

 視界に広がる深緑のキャンバス布にも、天井の中央の開口部にも、まだ太陽の輝きが見えない。時刻はまだ日の出直前だろうか。

 どうも早くに起きてしまったようだ。

 眠気にぼけらとしていたら、ふと、腰に違和感を覚えた。人が腹の上に乗っかっているような、腰に何かが巻き付いているような、そんな感覚である。

 何かと顔を上げれば、ザガンが人の腹に頭を乗せて、いかにも幸せそうに眠りこけているのが見えた。どうやら、ザガンの抱き枕にされていたらしい。

 人を枕にぐーすかするとは良いご身分だ。と叩き起こしてやりたいが、こうも気持ちよさそうに腹の上で寝られては、起こすに起こせないのだから如何ともし難い。

「でぇへへ……はくりゃ……おれのかち……ふがっ、はぐぅ……」

 かわりに、鼻を摘まむ悪戯をしてやるなどした。

 起こさぬように優しくザガンを引っぺがしてからティーピーを出ると、冷たい朝の空気が吹き抜けて全身を撫で上げた。

 天を染めるぬばたま色が微かに白んで、東雲の空になろうとしている。やおら昇り来る朝日の輝きは、すぐそこまで迫っているようだ。

 朝の鍛錬にはちょうど良い時間である。眠気の残る身体を伸ばしてから、相棒たる刀と共に人気のない水辺へ向かった。一本の木が生えた小さな池のような場所だ。

 上衣を脱いで袴だけになると、抜刀、正眼に構えてぴたりと制止する。

 東雲の空が朝ぼらけとなろうとも。ハーピーがバサバサと頭上を飛び回ろうとも。頭や腕に小鳥が止まろうとも。何があっても決して構えを崩さず微動だにしない。

 精神の統一と姿勢の維持は、剣術において何よりも重要な位置にある要素だ。地に足を踏ん張り一刀を振るうには、何よりまず心と姿勢が正しくなければならない。

 剣禅一如。忘我の極致。

 そこに至るため、白蕾は半刻もの合間、ずっとひとつ型を取り続けていた。

 やがて。顎先から零れ落ちた汗のひと雫が足元に染みを作った頃、彼はようやく型を解いて動き始めた。

 空想の眼前敵に対して僅かに身体を沈め、一歩を踏み込み刀を振り下ろす。

 唐竹割りから逆袈裟懸け、右薙ぎに繋いでから、鋭い刺突を以て仕留める。汗を拭うこともせず、ただ無我無心に刀を振るう。

 鬼の師に手ずから叩き込まれた太刀筋は、流れるようで美しく、日々の鍛錬によって積み上げられた力強い躍動もまた圧巻の一言。

 風を斬り、空を断つ。動作のひとつひとつひとつ、そのどれもが、小柄な体躯に似合わぬ曇りなき剣閃を有していた。

 剣が終れば、次は体である。

 刀を鞘にしまい、徒手空拳の構えを取る。左半身を前に出し、ゆったりと両手を伸ばすその構えは、拳撃の構え。

 これも剣と同じく、ひとつの型を半刻続けた。

 一息の間を置いた後、右の正拳を引き絞り、踏み込みと共に矢の如く放つ。続けて、横打、揚打、下段回し蹴り、上段蹴りと繋いでいく。

 その動きは既存の武術と比べて少々独特であり、おそらくは古武術の類であると見て取れた。この体術もまた、師である鬼より教わった武なのだろう。

 こうしてたっぷり、合計で二刻もの時間を鍛錬に費やした白蕾は、構えを解くと大きく息を吐いた。

「朝から精がでるのぉ」

 荒い息を鎮めるために深呼吸をしていると、いつの間にか来ていたレズンが、声をかけてきた。

 欠伸をかみ殺しているのか、顔を背けながら口元を手で覆っている。もしかしたら、鍛錬の音で起こしてしまったのかもしれない。

「ああ、いや。もう七時じゃし、起きようと思っとったからの。大丈夫じゃ」

 うるさくしたことを謝ろうとすると、白蕾の思考を読み取ったみたいに、レズンは先んじてそう言った。

 すでに日が昇り切っているというのに、怠惰に眠りこけるような俗物ではない。鍛錬の音はむしろ良い目覚ましだったのだろうと白蕾は思った。

 実際は全然違うが。

「ねえ。助言とか欲しいんだけど、なんかある?」

「うむ? そうじゃな……途中からしか見とらんから何とも言えんが、下半身の使い方がまだまだじゃな」

「……! どんなふうに?」

 己の未熟を指摘されてた白蕾は、こういうのを待っていた! と目を輝かせ、歓喜のあまりレズンに駆け寄った。

 だが彼女は、白蕾の期待に反して、何故だかものすごいで飛び引いてしまった。

「あれ?」

 首をかしげる。

 何かおかしなことをしてしまっただろうか。

 よくわからないままもう一歩近づく。

 今度は脱兎の如く木の裏に隠れてしまった。

 これには白蕾も悲しくなって、ちょっとだけ泣きそうになってしまう。

「……なんで?」

「わあああああ泣くな泣くな! い、いやお主が嫌いとか、そう言うんじゃないんじゃよ!? ただその……に、臭いが……」

「えっ? ……あ、ごめん。臭かったよね」

「く、臭くはない! 全然! まったく! 少しも! ほんのちょっぴりも臭くない、臭くはないぞ、うむ! ……ただ、その……なんというか……」

 毛先を弄びながら、言い澱んでしまうレズン。

 それもそのはず。今の白蕾は汗まみれで、非常に強い”雄の臭い”を発しているのだ。

 うかつに近寄ろうものなら、いったいどんなことになってしまうやら。男にあまり体制のないレズンは、自分が自分で気が気ではなかった。

「よくわかんないけど、水浴びしたほうがいいよね」

「は、はようそうしてくれ……」

 消え入りそうなレズンの声に促されて、袴の帯に手をかける。

 すると不意に、頭上に影が差して。

「げっとぉ!」

 なんて言葉と共に、白蕾の身体は宙に浮いた。

「は、白蕾────────っ!?」

 朝のキャンプに絶叫がこだまする。

「ウヒョヒョヒョヒョー! こんなカワイ子ちゃんあまりモンにはもったいないね! こいつはあたしが貰っていくぜぇい!」

「だ、誰があまりモンじゃ!? まだ結婚適齢期ピチピチじゃ!」

「ピチピチとかダサすぎて笑っちゃうんだよね。センスがおばあちゃん」

「うるさいわ阿呆! 白蕾を下ろさんかいド阿呆!」

「やなこったヴァーカ!」

 下手人たるハーピーは、レズンの頭上を旋回して変態的な高笑いを響かせると、哀れな白蕾少年を巣へ連れ去っていく。電光石火の早業であった。

 ところで。ハーピーは今の時期、繁殖期である。

 このまま放っておけばどうなるかは、言わずもがなであろう。

「ちょ、待て! 待たんかお前ェー!? だ、誰かー! あれをはやく止めとくれー! このまま白蕾がパパになってしまうー!?」

「お、なんだなんだ?」

「朝からうるせえな。いったいなんだってんだ?」

「あっ、あれを見ろ! ハーピーが人を攫ってるぞ!」

「ダニィ!? そりゃ一大事じゃねえか!」

 白蕾は状況を理解できず、はたして何が起こったのかと目を瞬かせるばかり。あんまりにも突然のことだったせいで、ただ茫然と離れていく地上を眺めるしかなかった。

「ひゃっはー! 新鮮なショタっ子だァ! 今日のあたしは朝からツイてるぜぃ!」

「……なにこれ?」

「お前をパパにしてやるってんだよっ!」

 白蕾が救出されたのは、それからすぐのことであった。

 

 

 村に置いてきた馬迅に白蕾がどつかれるなど、ひと悶着はあったものの、一行は正午前にダークエルフのキャンプを発って、ダミアンズ・ヒルへと無事に戻って来た。

「なーんもねえな?」

 愛用の槍を背負ったザガンが、馬車から飛び降りるなり退屈そうに独り言ちる。

 武術大会が終わってからしばらくなせいか、すでに大半の人々が引き払っていて、町に人気がほとんどない。

 酒場から漏れる喧騒だけが、名残りのように夕陽に照らされた往路に響くだけで、あの賑やかさは嘘だったのではと疑ってしまうほど静かだった。

「なあ、これからどうすんだ?」

「まずは情報屋を当たる。ここには腕の良いやつがおるからのぉ」

「ふーん。だってさ白蕾、情報屋だってよー」

「うん、聞いてた」

 何故だか自然な感じで混じっているザガンだが、なんとこのエルフ、いつの間にやらレズンの馬車に忍び込んで、勝手に白蕾に付いてきたのだ。とんだじゃじゃ馬である。

 本当ならばキャンプに帰すべきなのだろうが、本人が「白蕾より強くなるためだ!」の一点張りで、てこでも動かないのだから仕方がない。

 白蕾としては嬉しさ半分心配半分。レズンとしては呆れ四割諦観四割。後の二割は言わぬが花であった。

「良いかザガン、儂の言うことをよぉく聞くんじゃぞ。聞かねばすぐにキャンプへ返すからな」

「わーってるって! 大丈夫だから安心しろよなー?」

「信用ならんから言っとるんじゃ。白蕾、こやつをしっかり見張っておくんじゃぞ」

「うん、わかった。ザガン、迷子になったら危ないから離れないでね」

「ちぇっ、またガキ扱いかよ! つまんねー!」

「しょうがないよ。子供なんだし」

「お前だってチビのガキじゃねーか!」

「は? ガキじゃないんだけど? もう元服してる大人なんだけど?」

「おん? なんだクソガキ、やんのか? おん?」

「なにやっとんじゃお主ら……ほれ、行くぞー」

 さっさと先に行こうとするレズンに言われて、二人はじゃれ合いを止め慌てて追い縋った。この決着は、また別の機会に着けることになりそうである。

 さて。今からこの町でギャングに関する聞き込みを行うわけだが、その前に三人はまず今日の宿を取ることにした。

 情報収集を行うには、とにもかくにも拠点がなければ始まらない。特に今回はギャングの情報を集めるのだから、いくら荒くれ者の集まる町とて油断すれば後ろから撃たれる危険がある。

 ギャング共は自身のことを詮索されるのを嫌う。もし探っていることがばれたら、問答無用で殺しに来ることだろう。

 そうならないためにも、泊まるならばなるべく人目につかず、しかして店主の口も堅い宿が好ましかった。

「で、白蕾。お主がオススメと言うたここじゃが……」

「あらー、いらっしゃーい。約束通り来てくれたんだねー。しかもー、お友達連れてきてくれたんだー」

「うん。来たよ」

 人目につかないという観点で言えば、おおよそ人間の寄り付かないアルラウネの宿は非常に好都合だった。

 亭主の口については何ともわからないが、後ろ暗い連中とのかかわりもなく真っ当に宿屋を経営している以上は、客の情報をそう簡単には話したりしないはずだ。

 レズンの求める条件にこれほど合致した宿もそうそうないだろう。まさにドンピシャである。

 もっともそれは、特殊すぎる宿の環境に目を瞑ればの話ではあるが。

「ここ、良かったよ」

「いや、うん。そうかもしれんが、その、なんちゅうか……」

「お、おい白蕾、ここ蟲とかわきそうだぜ? 大丈夫なのかよ?」

「ハッキリ言う奴があるか阿呆! お主は礼儀を知らんのか!?」

「あっはっはー、別にいいよー。確かにー、みんなだと心配になりそうだよねー。でもだいじょーぶー、ここは蟲除けの草もあるんだよー」

「蟲除けの草って、そんなのあんのか?」

「えっとねー、ゼラニウムにー、ユーカリでしょー? あとー、タイムにー、ラベンダーにー、

 レモングラスもかなー。ほかにもいろいろあるからー、蟲は全然いないよー」

「ほ、ホントか? 嘘じゃないよな?」

 怯えるザガンに対して、アルラウネはにこやかにサムズアップした。

 いかにも蟲が寄ってきそうな外見に反して、この宿はかなり気を使っている。植物とて害虫は嫌なもの、そのあたりの対策は万全なのである。

 寝ている間に蟲に刺される、なんてことは絶対ない。得意げなアルラウネの顔には、一切の嘘偽りもなかった。

「まあ、そう言うならば否はない。他ならぬ白蕾が薦める場所じゃしの」

「おおー、ありがとうだよー。それじゃー、三名様だねー。ご飯はいるかなー?」

「何出るんじゃ?」

「今日はねー、バロメッツの実のカラメルソース和えとー、ジャブジャブの卵のサラダとー、グリーンワームの花蜜煮だよー」

「やっぱり蟲じゃねえか!? ヤダー!」

 献立を聞いて最初はワクワクとしていたザガンだったが、最後のグリーンワームで大げさなほど仰け反って悲鳴を上げた。

 グリーンワームは異界に生息する蟲の一種である。

 人間が食べても害のない生き物の一種で、肉や内臓に含まれる栄養素がほぼ完璧な食材であり、日持ちするため非常食としての価値もかなり高い。

 ひとつ問題を上げるとするならば、蛍光グリーン色をした巨大な芋虫という、あまりにも食べるのに向かない見た目なところだろうか。

 中身まで真緑な上に味も度し難いの一言だというのだから、まったく名前を聞いただけで食欲が失せるのも納得である。

「いや、食事はよい。それより、すこしばかり頼みがあるんじゃが」

「頼みー? なにかなー?」

 ルームサービスを固辞しつつ、レズンは懐から十万ドルの小切手を一枚、ポンとカウンターにおいた。

「わーぉ……」

 これにはアルラウネも笑顔のまま、ゴーレムみたいに硬直してしまう。

 円相場に直すと一千万以上の大金である。彼女が固まるのも無理はない。

「実は儂ら、ちと面倒事に首を突っ込んでおってな。できれば儂らがここに泊っていることは話して欲しくないんじゃ」

「く、口止め料ってことかなー……?」

 引きつった顔でアルラウネが言えば、レズンは真面目な顔で是と答えた。

「それと、ここに泊るとなれば迷惑をかけるだろうからの。それの詫びも含まれておる。……嫌ならば、断ってくれても良いぞ」

 突然に現れた大金を前にしたアルラウネは、困ったような迷っているような顔で目を瞑ったあと、不意に白蕾のほうを見やる。

 試されていることに気が付いているのだろう。彼女の桃色の双眸には当惑と不安が色濃く映って、枯れ葉のように頼りなく揺らいでいる。

 白蕾は何も言わずに、瞳を逸らさずに彼女を見て頷いた。信用していると、無言の頷きで伝えた。

 彼が最初にこの宿へ入ったのはまったくの偶然だったが、二度目の今回は必然だ。

 もちろん約束のこともある。だがもっとも大きいのは、彼女のおおらかな気質を信用したからこそだ。レズンたちを案内しているのだから、その点は疑いもない。

 そんな彼の真っ直ぐな視線を受けた彼女は、決意した顔をレズンに向けた。

「わかったよー。みんなのことー、黙っておくねー」

「うむ、すまんな亭主よ」

「いいってことさー」

 アルラウネは表情を和らげると、小切手を慎重にカウンター下にしまってから、三人にそれぞれの部屋鍵を手渡した。

「ぎゃー!? また蟲じゃねえか! 蟲わかねえって言ったのにッ!」

「蟲の形をしてるだけだからー、本物じゃないよー」

「いや、うん。なんとも、独特じゃな」

「ほかにもあるよー、ほらー」

「あああああもォやだァー!」

「蟲はおらんが、蟲は出て来るんじゃなあ」

「止めてあげようよ……」

 あくまで蟲の形を模しただけなのだが、そう言われても見た目がこんなでは疑ってしまうのも無理はない。蟲が苦手な者にとってはかなり厳しいだろう。

 ひどく嫌そうな顔で鍵を受け取ったザガンは、蟲型の鍵を白蕾に押し付けて鳥肌の立った腕を擦った。

「ザガンって、蟲苦手だったの?」

「んなもん好きなヤツがいるかよォ!?」

「落ち着くんじゃ、ザガン。戦士が蟲程度でみっともないぞ」

「うるせェー! 知らねェー! 無理なもんは無理なんだよッ! あーもー白蕾のバカ! アホ! おたんこなす!」

「あっはっはー、元気な子だねー」

 蟲嫌いのザガンが駄々をこねるが、今さらやっぱりやめたなんて言えるはずもない。めそめそと青い顔をするザガンを引き摺りながら、それぞれ部屋へと向かった。

 白蕾が割り当てられたのは、前回と同じ七号室であった。

 アルラウネが気を利かせてくれたのだろう。ありがたいことだ。

 彼は荷物を置くと、ベッドに腰を掛けて軽く伸びをすると、刀の手入れ用具を取り出しながら、指して驚いた様子もなく口を開いた。

「どうしたの?」

「いやー、君にお礼をしようと思ってねー」

「お礼?」

 部屋の中央に”生えた”アルラウネは、ゆらりゆらりと身体を動かしながら白蕾に近付くと、彼の右手を両手で握って朗らかに笑う。

「君がさー、約束を守ってまた来てくれたこととー、信用してくれたことさー」

「そんなことで?」

「そんなことじゃないよー。あたしにとってはねー」

 図らずも十万ドルの大金を運んできたのだ。安宿の経営で日銭を稼いでいたアルラウネにとっては恩人どころの話ではない。

 たとえ白蕾にはそんなつもりがなくても、人生を変えるほどの返し切れない恩を与えてしまったのは、疑いようもないだろう。

「えっへっへー。君のおかげでー、あたしも貧乏脱出だよー。ありがとーねー」

「どういたしまして。で、いいのかな」

「もちろんだよー。それでー、お礼なんだけどー……」

「別にいらないよ」

「まーまー、そう言わずにさー」

 打算や見返りを求めてるわけではないと固辞すれば、アルラウネはそれを無視して白蕾の耳元に口を寄せると衣擦れよりも小さな声で囁いた。

「ラ・イ・ン」 

 急に告げられた言葉の意図がわからずに、白蕾は思わず首を傾げてしまう。

 しかしアルラウネにとっては大きな意味があったようで、彼女は顔を離すと恥ずかしそうにはにかみながら言った。

「あたしのお名前をー、君に預けるからねー」

「……? うん、わかった」

「えへへー。二人っきりの時はー、名前で呼んでねー。よろしくだよー?」

 アルラウネのラインはそう言い残すと、逃げるように部屋から消えた。

 はたして名前を預けるのにどんな意味があったのやら。白蕾にはてんで解せなかったが、信頼の証であると考えれば一応は納得がいくので、おそらくはそういうことなのだろう。

 ラインが去ってからしばらく。

 刀の手入れも終わり、白銀の刀身が窓から差し込む月明かりに輝いた頃。 

「……は、白蕾。ちょっと、良いかの?」

 何やら上ずった声のレズンが、部屋を訪ねてきた。

 こんな時間に何か用事だろうか。白蕾は内心で首を傾げつつも、ドアを開けて彼女を部屋へ入れた。

「……座らないの?」

「エッ、あ、そ、そうじゃな! うん!」

 毛先を弄びながら突っ立っているレズンを、ベッドに案内して座らせる。一瞬テーブルと迷ったが、荷物が置きっぱなしなので失礼と思いやめた。

 二人で並んでベッドに腰かけると、最初に白蕾が用向きを問うた。

 彼女は寝間着でネグリジェという薄手の桃色をした服を着ていて、その豊かな肢体は普通の男子ならば目に毒な姿だったが、そこは白蕾。何ひとつとして反応を示さずであった。

「どうしたの?」

「アッ、えと……あのな、白蕾……」

「うん」

「……しょの……」

「うん」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………?」

 痛い沈黙が、二人の間に漂う。

 白蕾は相変わらずこれも修行の話か何かだろうと思い込んでいて、明日からどんなことをするのかと次の言葉を待ちわびていた。

 だが、レズンのほうはトマトよりも顔を真っ赤にして、ひどく恥ずかしそうに毛先を弄ぶばかり。口を開いたと思えば、呻きが出るだけで一向に話そうとしない。

 それもそのはず。

 レズンは今日、白蕾にアタックを仕掛けに来たのである。

 彼女は焦っていた。

 現状で恋人らしいことをほとんどできていないことに加え、もしや白蕾を取られてしまうのではないかと危機感を覚えていた。

 原因は言わずもがな、ザガンだ。

 こちらは手を繋ぐだけでも精いっぱいだったというのに、急に現れたザガンは遠慮なしに白蕾とじゃれあい、膝枕してもらった上に同衾。さらには追い討ちの如く無断で旅に同行と来た。

 なんて羨ま……けしからん! 

 レズンは内心、血涙を流さんばかりであった。

 ただでさえ距離を詰めるのがヘタクソな彼女だ。このままでは物理的な距離どころか心の距離でまで、ザガンにリードを許したままになってしまうと直感していた。

 それは良くない。

 非常に良くない。

 子供同士のじゃれあいに嫉妬するなど大人げないとは思ったが、齢数百年なれど乙女心は人一倍。どうしても嫉妬の情を抑えることが出来ず、ついに大胆な行動に移すと決めた。

 女レズン、勝負の時である。

「何か用事?」

「ぴっ!? あ、そ、そうじゃな!? うん?!」

「すごい声裏返ってるけど、大丈夫?」

「だだだだダイジョブ、ダイジョブじゃよ!? あ、あーでもちょっと緊張しとるかな!?」

「そうなんだ? えと、用があるんだよね?」

「エッ、アッ、のぉ……」

「うん、どうしたの?」

「お、お主とな? あにょ、い、いい一緒に……ね、寝たい……なー、なんて……」

「一緒に? なんで? 添い寝されるほど子供じゃないよ?」

「い、いやいやいや違うんじゃよ白蕾!? これは子供扱いと言うかむしろ大人扱いじゃからな?!」

「大人? 大人の添い寝? それってなにするの?」

「ぴゃッ、いや……そ、それは……い、いえにゃい……」

 なんともまあ、もどかしい会話である。

 会話だけ抜き取れば初々しい男女の逢瀬なのだが、この二人に限っては内容がまったく噛み合っていないのだから難儀だ。

 片や師弟関係と思い込み、片や恋愛関係と思い込み、話がずっとすれ違っている。

 せめて白蕾が朴念仁でなければまだマシな状況だったのだが、残念ながら彼の感性は、人付き合いの少なさゆえか、人一倍に鈍感で機微に疎い。

 だからこうして質問を重ねて、意図を理解しようとしているわけなのだが、今回ばかりは悪い方向にそれが作用していた。

「ただ一緒に寝るだけじゃないの?」

「アッ、そのっ……」

「もしかして、寝ながら何かするの?」

「ひ、ぁ、はわわ……」

「どんなことするの? すごいこと?」

「す、すごっ!? はらひれ……オォアオ……」

 夜伽の意味すら理解していない年頃なのだから、しかたないと言えばしかたないのだろうが、それにしては手心の欠片もない質問攻めである。

 もし言葉が質量を持っていたら、今頃レズンは圧死していただろう。

「うっ、ぐぐ……わ、儂は……」

 しかし、これはチャンスでもあると彼女は思っていた。

 相手が無知であるということは、多少強引であってもなあなあで流せるということだ。下手を打ってしまっても、何か適当に誤魔化したりもできるはず。

 つまり、攻め時。

 ここで勇気を振り絞らねば、まったくもって女ではない。せっかく一張羅を持って来たと言うのに、何もせずおめおめと帰るなど、情けなくて末代までの恥と言えよう。

 今こそ竜種の意地を見せる時である。 

「ええ、ままよ! そりゃーっ!」

「っ!?」

 がばりと両手を広げたレズンが、白蕾を勢い任せに押し倒す。ぎしりとベッドが揺れて、二人の顔は息が鼻先にかかるほど近付いた。

「……えと?」

 急なことに驚いた白蕾は、当惑と疑問の視線をレズンに向ける。これも修行の一環なのか、ならばどんな修行なのか。彼の視線にはそんな気持ちが籠っていた。

 対するレズンは、ここまで来たならもう後には退けないと、若干ながら鼻息を荒くして、目が回るような羞恥と欲望に身を任せんとしていた。

「これは、どうしたらいい?」

「ア、あッ、暴れるでない、暴れるでないぞ!? わ、わわ儂に全部ま、任せたら、よよっ、よいぞよ!?!?」

「暴れてないよ。なんか口調も変だけど、大丈夫?」

「だ、ダイジョブじゃよ!? お主はて、天井の染みでも、か、数えていれば良いんじゃよ!?」

「……染みなんてないけど」

 訝しむ白蕾、やおら顔を近づけるレズン。

 ここに来てやっと二人の関係も進展か。

 と、思われたその時。

「はァーくーらーいィぃィー!」

 ドバーン。

 と、ものいごい勢いでドアが開かれた。

 二人揃ってはたと見やれば、そこにいたのは寝間着姿のザガンであった。

「邪魔だどけェ!」

「え、ちょ、ぶふぇへっ!?」

「はぐらぃ……おれもうだめかもしんねぇ……!」

「えぇ……」

 情けなく半べそをかくザガンは、レズンに渾身の体当たりをぶちかまして吹っ飛ばすと、白蕾の上にへたり込んで、これまた情けなくめそめそと泣き始める。

 さすがに白蕾も若干引いた。

「ど、どうしたのザガン」

「だってよ、だってよ……ここ、すっげえむしでてきそうじゃん? それによ、あのかぎも、いまにもうごきだしそうだしよ……!」

 問いかければ、ザガンは震える声で答えた。

 どうも蟲の恐怖に耐えきれなくなったようである。あの蟲型の鍵が特に効いたみたいで、今にも動き出すんじゃないかと心配になり、ひとりでいられなくなったらしい。

「うっ、うっ……なあなあ……きょうはいっしょにねようぜ……おれ、ゆかでいいから……!」

「ううん。それは風邪ひくからダメ、ベッドで寝よう」

「……は、はくらい……おまえって、いいやつだな……!」

「いやいやいや!? 何をしれっと同衾の許可とっとるんじゃお主は!?」

 なんだか綺麗な友情の話で終わろうとしているが、せっかくの雰囲気をぶち壊されたレズンからしてみれば堪ったものではない。

 慌ててベッドに飛び乗ると、ザガンに向かって唾を飛ばしながら叫んだ。

「今日は儂の番じゃ、お主にはご退場願おうか!」

「なんだよ、いたのかよ」

「最初からいたわ阿呆! お主が突っ込んできたんじゃろうが!?」

「ってか何しに来てんだよ?」

「エッ……いや、それはその……お、お主にはまだ早いッ!」

「はぁ!? なんだそれ、またガキ扱いかよ!?」

「蟲程度でピーピー泣く奴がガキじゃなくて何と言うんじゃ!」

「怖いもんは怖いんだよ! それ言ったらお前だってババアじゃねーか!」

「ババアじゃとォ!? ふざけるでないぞお主! 儂はまだ結婚適齢期ピチピ……真っただ中じゃ!」

「ピチピチとか言う奴が何ってんだよバーカ!」

「お の れ ザ ガ ン ! お前、言ってはいけないことを言ったな!? これはもう戦争じゃぞ!」

「上等だぜ! かかってこいやァ!」

「……上で喧嘩しないでほしいんだけど」

 嘆息混じりに呟くが、取っ組み合う二人にはついぞ届かず。

 結局この日は決着が付かなかったので、レズンとザガンをベッドに抱き合わせ、白蕾はソファで寝ることにしたのだった。

 

 

 ◇

 

 

「では、情報を集めるとするぞ」

 昼下がり。

 宿を出た一行は、町中での聞き込みを開始した。

 必要となるのはギャングの情報、そうやすやすと手に入るものではない。相当の苦労が予想される。もしかしたら徒労に終わるかもしれないが、はたして首尾良く手に入るのか。

「まずは保安官局に往くぞ。彼らも否とは言うまい」

 まず三人が向かったのは、この町の治安維持を担う保安官局だ。

 市長により選ばれた保安官とその補佐たちが勤めるそこは、偏に犯罪者や略奪者の捕縛を担っているため、情報の集まり具合は町一番だ。期待できるだろう。

「ここじゃな」

「デカァイッ!」

 保安官局の建物を見たザガンが歓声を上げる。

 巨人がすっぽり収まってしまいそうな、白亜の城めいた立派な外見をしたこの建物こそは、ダミアンズ・ヒル保安官局である。

 回転するドアを潜り抜けて中に入ると、外見に違わぬ大きなエントランスが三人を出迎えた。

 幾多の人外が務める場所ゆえに、誰でも使いやすいようにと配慮された結果、大きさになっているのだろう。

 その証拠に行き交う人種は多種多様で、人間のみならず、ケンタウロスやスライム、モスマン、ブラックドッグ、ケット・シー、アラクネなんかも見える。

 二つある受付窓口は通常の人間サイズと、大型の人外サイズの二種類もあり、

 普通の建物では不便なはずだ。

「ようこそ、ダミアンズ・ヒル保安局へ。ご用件をどうぞ」

 受付に行くと、牛の獣人らしい女性がにこやかに話しかけてきた。

 牛らしい豊満な胸とは対照的に、袖をはちきらんばかりの筋骨隆々な腕をしており、事務員である彼女もまた猛者なのだとわかる。有事の際は、彼女もその腕っぷしを披露するのだろう。

「儂らはゲートキーパーちゅうもんでな、少しばかりギャングの情報を求めておる。無理を承知で頼むが、いくらか貰えんじゃろうか」

「ただいま上の者に確認を取ってまいりますので、しばらくお待ちください」

 言われた通りしばらく窓口で待っていると、今度は真っ赤な体表をしたオーガの男性が窓口に姿を現した。

「お待たせいたしました。ギャングに関する情報の開示請求、とのことですが」

 こじんまりとした窓口にギュッと身体を縮こませて入ると、彼は眼鏡を指先で押し上げながら大きな口を開いた。

 オーガと言えば腕っぷし自慢の荒くれ者なイメージだが、このオーガはなかなかに思慮深そうである。

「貴女が、ゲートキーパーで?」

「うむ。レズンの名で調べれば、名簿からちょちょいと出て来るじゃろう」

「ただいま部下に確認させます。その間に、詳細をお伺いしてもよろしいですか?」

「もちろんじゃ」

 牛の獣人に目配せをして使わせると、彼はその大きな体躯に似合わない小さなペンを握る。握力で折れてしまわないか心配になるが、今のところは軋みを上げるだけで済んでいるようだ。

「インディアンの土地に、何者かがゲートを開いておっての。いったい誰がかの地を脅かしておるのか、追っていているところじゃ」

「場所は?」

「ユタとアリゾナの州境、ナバホ族の土地じゃ」

「なるほど……それに関しては、我々のほうでも聞き及んでおります。なるほど、そういうことでしたか」

 納得がいったと頷くオーガは、さらさらとペンを走らせていくつかの情報を紙に纏めると、続けてレズンに問う。

「ギャングの情報ですが、どれほどの範囲でご希望なさいますか?」

「うむ。ひとまずは有名どころを二つか三つ頼みたい」

 ぽんぽんと話は進んでいくが、後ろで控えている二人は何もすることがなくて暇していた。特にザガンは手持ち無沙汰に落ち着きをなくして、フラフラと身体をゆすっている。

 後ろで控えることになれている白蕾はどうってことないが、まだまだ子供なザガンはそうもいかない。退屈すぎてどうにも我慢ならないようだった。

「なあなあ、白蕾!」

「ザガン、大人しくしなきゃダメだよ」

「けど実際暇じゃね?」

「それはそうだけど。でも、迷惑をかけるのは良くないよ」

「えー? つまんねえなぁ!」

「大人はこういう時、ちゃんと待てるものだよ」

 今にも”探検”に行きそうなザガンに、白蕾は再三の釘を刺す。ここまで言われれば、ザガンも不承不承と唇を尖らせた。

 とはいえ、ザガンの言う通り退屈なのも事実。そう長くはかからないだろうが、それでも遊びたい盛りの子供にとっては辛いだろう。

 そこで白蕾、懐から一本の真っ赤な紐を取り出して見せた。

「ん? なんだよ?」

「見てて」

 紐を結んで輪にすると、両手の指にかけて素早く手を動かす。十重二十重と紐を指に重ねて網目状にしていき、最後にぱっと両手を広げれば、そこには見事な橋が出来ていた。

「うわっ、え?! スゲー!? な、なんだそれ、なんだそれ!?」

「次はこうして、こう。それからこうなって、最後はこう」

「えええぇええ!? ちょ、嘘だろ!? 何がどうなったんだよ今の!」

「まだまだあるよ」

 退屈しのぎにはなるかと始めたあやとりは、存外にザガンを夢中にさせた。一本の紐が織りなす複雑な模様は、おめがねに叶ったようである。退屈もどこかへ吹っ飛んでしまったようだ。

 それにしても。手慰みに師から教わったあやとり術が、まさかこんなところで役立つとは。

 ついぞ機会もないと思っていた白蕾は、ついつい興が乗ってしまい、知っている限りの技を連発して見せびらかした。

「うおおおおスッゲー! スッゲーな白蕾! すごすぎてスッゲーしかでてこねえや!」

「フフン」

 かつてこれほどまでに気持ちの良い称賛があっただろうか。いや、ない。

 武術とはまったくもって関係ないことではあったが、ザガンからの称賛を一身に受けた白蕾は鼻高々な気分になった。

「元気な子供たちですね」

「あいや、不出来な弟子共でお恥ずかしい限りじゃ」

 微笑ましい二人の様子に、オークが目を細める。

 レズンは苦笑いで答えるしかできなかった。

 情報を見るには少し時間がかかる──お役所仕事の悪いところだ──というので、三人はそれまで町で情報を集めることにした。

 市井で得られる情報は、保安官局でも掴んでいないものが多い。それらを集めて精査して、保安官局の情報と照らし合わせることで、情報の信憑性を高めようという算段だ。

「で、何すんだよ?」

「ギャングについての情報を集める。目立たぬようにな」

 することは到って単純、聞き込みをしてゲートに関する情報を集めるだけ。

 ギャング共がゲートを開いて回っている以上、それに関する情報を集めれば、自然とギャングの情報も集まるだろう。

「でも、なんでここで?」

「一週間も経っていれば、ギャング共はひとり残らず逃げおおせておる。現地で得られる情報も少なかろうて。周辺の街で聞き込みをしたほうが有益じゃ」

「そうなの?」

「そうじゃよ」

 ギャングの足取りを追うにしても、現地ではいささか時間が経ちすぎて足取りが追えない。追えたとしても、その先でまた足取りを追わなければならないから二度手間だ。

 それならば、ギャングが逃げ道に使いそうな町で聞き込みをするのが一番だろう。

 特にダミアンズ・ヒルでは、先日まで武術大会を見ようと様々な者が集まっていた。隠れ蓑にするにはうってつけであり、逃げ道に使うならばまず間違いなく候補に入る。

「でもよ、どこで聞き込みすんだ? ってか、どうやって聞き込みすんだ?」

「酒場に決まっておるじゃろう。古今東西、情報集めと言えば酒場じゃ」

「そうかぁ?」

「そうじゃよ」

 訳知り顔で頷くレズンに、俗世に疎い二人は首を傾げるばかりであった。

 さて。

 やることが決まれば、あとはそれをやるだけ。

 善は急げとばかりにゴブリンの穴蔵にやってきたが、昼前とあって、店内は多くの客でごった返していた。

 最初に話した通り、ここは異国、異界の民に対して懐が広く、多くの旅人や商人が出入りする。人間の出入りも、そちら向けの酒場よりもよっぽど多い。

 となれば当然、情報も自然と集まるというものだ。

「で、来たはいいけどよ。どうすんだ?」

「まずは町の住人に話を聞く。住民はいついかなる時も部外者をよう見ておる。異変があればすぐに気付くはずじゃ。毎年開かるイベントともなれば、特に違いもわかろうな」

 情報収集において、現地の人々はもっとも重要なソースだ。ここに住まう彼らの観察眼は凄まじく、狭いコミュニティゆえに噂の広がりも早い。

 もちろん眉唾な話もあるが、それを差し引いても、情報収集においてこれほど心強い味方はいないだろう。

「手分けするぞ。儂らは一階を回るゆえ、白蕾は二階を当たるんじゃ」

「わかった」

「よしっ、じゃあ行こうぜ白蕾!」

「いやお主はこっちじゃよ」

「アァン!? なんでだよ!」

「お主と白蕾を一緒にすると、何をしでかすかわからんからな。不本意ながら必要な措置じゃ」

「何が不本意だよ、ふざけんな! 仕返しだな? これ昨日の仕返しだろオイ!」

「……儂は仕事に私情は持ち込まん主義でな」

「嘘つけぜってー仕返しだろうが! あ、コラ! 放せオイ! はーなーせー!」

「いってらっしゃい」

 ザガンの首根っこを掴んでズルズルと引き摺りながら、人ごみの中に消えていくレズンを見送ると、彼女の期待に応えるべく白蕾も言われた通り二階へ聞き込みに向かった。

 

 結論から先に言ってしまえば、白蕾はめぼしい情報を得ることができなかった。

 

 あれから何度も話を聞いたが、誰ひとりとしてギャングについて知っている者はおらず、ただただ時間を無駄にした。

 ならばと僅かながらに金を握らせようとしても、子供と侮られているせいか、首を振られて袖にされるのだから堪ったものではない。

 これにはさしもの白蕾も意気消沈して、カウンターに突っ伏するしかない。やんぬるかな。もはやお手上げである。

 レズンの期待に応えられない自分が情けなくなってきた彼は、ついには涙目を隠すみたいに顔を俯けて、ますます深く突っ伏してしまった。

「おうおう、なんだ景気悪そうじゃねえか」

 誰ぞに声をかけられたのは、ちょうどそんな折である。

 顔を上げると、そこには、いつぞやに話しかけられた老年のゴブリンが、何故だかタキシードを着てカウンターの中に立っていた。

「……アンタ、あの時の?」

「おうとも。シチュー、美味いって言ってくれてあんがとよ。ありゃ俺のおふくろの味でね、鼻高々だぜ」

 驚いた白蕾が茫然と呟けば、彼は好々爺めいた笑みを浮かべて、サムズアップした。

 どうやらこのゴブリン、客ではなくこの店の従業員だったらしい。しかも話から察するに、かなりの地位にいるようだ。

「あれ、じゃあなんであの時……?」

「まあまあ、いいじゃねえかそんなこたぁ」

 白蕾の疑問を誤魔化しながら水を差し出したゴブリンは、顔を近づけると、声をひそめて白蕾にしか聞こえないように言った。

「それより見てたぜ、お前さん。何やらきな臭いこと、知りたがったみてぇだな」

「……! もしかして、知ってるの?」

「そりゃもう、ばっちり知ってるぜ?」

「なら、教えて。この見せて一番高いの頼むから」

「おっと、そいつは嬉しいねえ! つい話してやりたくなっちまう! けど、高いもんは頼まなくていい。かわりに、またシチュー食ってくれよ」

 カラカラと笑うゴブリンに、白蕾は有無を言わずに頷いた。

 美味いシチュー一杯で情報が得られるならば、断る理由もない。腹を満たせて情報も得られるなんて、むしろそれだけで良いのかと財布の紐を緩めてしまうほどだ。 

「はいよ、お待ち!」

 少ししてシチューと黒パンが出されると、白蕾はすぐに平らげてしまった。もちろん情報を得るためにではなく、腹を満たすためにきちんと味わってだ。

 逸る気持ちはあるが、こんな美味い料理をただ食べるのはもったいない。

「ごちそうさま」

「ハハハ、いい食いっぷりだねぇ!」

「うん、美味しいから」

「まぁた嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。ますます気に入ったぜ」

 水を飲み乾して一息吐いた白蕾は、満足げな顔から一転、真面目な顔に切り替えて改めてゴブリンに話を切り出した。

「それで、どんなことを知ってるの?」

「まあまあ、そう焦るなって。まずは何について知りたいか言いな」

「えと、違法なゲートについて」

「おー、それな。よく知ってるぜ? 向こうでいろいろあったらしいな」

「うん。誰が開いてるのか知りたいんだ」

 これを聞いたゴブリンはカウンターに片肘を突くと、いやに底意地の悪い笑みを浮かべた。明らかに下手人を知っている態度だ。

 白蕾も思わず身を乗り出して顔を突き合わせると、ゴブリンは一瞬だけ周りを気にしたあと、そっと、告げ口するみたいに声を潜めて囁いた。

「お前さんの探してる奴の名は、ウォーリー・ハグダットだ」

「ウォーリー……?」

「”レザボア・ギャング”ってバカデカいギャングの幹部でな、インディアン相手に地上げやってる有名な奴さ」

 レザボア・ギャングは、西部の闇社会に根を張る超規模のギャングだ。

 その悪辣な影響力は西部でも群を抜き、西部で起こるあらゆる悪事の影には、このギャングがあるのではないとさえ言われるほどだ。

 幹部全員に千ドル以上、頭領に至っては破格の一〇万七〇〇ドルの賞金が懸けられていると言えば、彼らがいかに危険なギャングであるかもわかりやすいだろう。

 インディアンたちの所有するの銀山を手中に収めんと、村周辺にゲートを開いて脅迫している者たちの正体はこれだ。

「あそこは良質な銀が取れる。もし手に入れりゃ国より金持ちになれるだろう。組織内の地位も爆上がりで、次期頭領も夢じゃない。……が、なかなか梃子摺ってるみてぇだがな」

「うん。それで、そいつは何処にいるの?」

「一週間前にソルトレークシティーを発って、テキサスの廃砦、ヨヨリケ砦に向かったって話だ。ちなみに、ルートはウエストミンスター経由。ってことは、テキサスにはもう着いとる頃だろうな?」

「……? なんでテキサスに?」

 おかしな話だと白蕾は片眉を上げた。

 地上げに梃子摺っているのにもかかわらず、ハグダットは何故か目的の土地を通り過ぎてテキサスに行ったらしい。自身の進退に関わる重要な案件というに、いったいどういうことか。

 胡乱に首を傾げれば、ゴブリンはピンと人差し指を立てて行った。

「なんでも、テキサスにやっこさんの秘密兵器があるって話だ」

「ひみつへいき?」

「そっ、秘密兵器。何があるかまでは知らねぇが、大げさに言うくらいだ。相当なモン隠してるんじゃねえかな?」

 なるほど。と、頷く。

 ハグダットは立ち退かない強情なインディアンを排除するために、テキサスにある虎の子を出すと決めたのだろう。

 しかし秘密兵器とは、ずいぶんと大きくでたものだ。ハグダットはこれによほど自信がると見える。

「何を隠してるんだろう」

「さてな。ただ、ゲートを開く道具を持ってるってこたぁ、それに関するもんじゃねえかってのが大方の予想だ」

「ゲート……?」

 その時、白蕾はハッと目を見開いた。

 思い出すは瞑想中に見た白亜の門扉。堅気の雰囲気でない輩に物々しく囲まれていた門扉。あの時はよくわからなかったが、あれはテキサスに開いていたゲートだったのかもしれない。

 もしそうだとしたら一大事だ。事を誤れば西部の危機になる。

「その顔、心当たりあんのか?」

「わからない。けど、たぶんそうかも」

「なら、早く仲間んとこに行くこったな」

「うん、そうする。ありがとう、おじさん」

「おう。落ち着いたらまたシチュー食べに来いよ!」

 椅子から飛び降りた白蕾は、情報をくれたゴブリンに頭を下げてから、すぐにレズンの下へ駆けて行った。

 残されたゴブリンは意味深に笑みを浮かべると、カウンター下からテキーラの瓶を取り出して一口煽るのだった

 

 

 四・ウォーリーを捕まえろ。

 

 

 ダミアンズ・ヒルでの情報収集から、おおよそ二日。

 太陽も既に沈み始めた頃に、ようやくテキサスのヨヨリケ砦周辺に着いた一行は、馬車と馬を近くの町に預けると、すぐさま砦へ向かった。

 ヨヨリケ砦。

 それは巨岩をまるごと切り抜いて作られた大型の砦であり、インディアン排斥のために造られた前線基地だ。

 壁面には銃を撃つための無数の穴が存在しており、見張りが常に外を窺えるようデザインされている。うかつに近付こうものならばすぐさまハチの巣にされてしまうだろう。

 その特徴的な見た目から、穴あきチーズ、などと言われているこの砦だが、名前に似つかわしくないほど堅牢堅固な防御力を有しているのだ。

「ふぅむ。歩哨すらいないとは、何やら慌ただしい気配じゃの」

 高台から望遠鏡で砦を覗くレズンは、なにやら物々しい気配に包まれた砦を見て、頭を悩ませていた。

 いくらギャングとはいえ、歩哨の一人や二人は必ず立てるはずなのだが、ヨヨリケ砦には一人としてそれらしき影が見当たらない。見回りすらいないのだがら、まったく異様である。

 砦内部で重大な問題が起こったと見るべきか、それとも、企みとやらの準備を進めていると見るべきか。

 どちらにしろ、急ぐべき事態であることは確かだ。

「白蕾の言う通り、ゲートに何かしとるのやもしれんな」

「でも、誰もいないよ」

「何してんだろうな?」

「さてな。とりあえず、誰もいない今がチャンスじゃな。今のうちに忍び込むぞ、お主ら」

「うっし、暴れてやるぜ!」

「暴れちゃダメだよ、ザガン。忍び込むんだから」

 どこか心配になるやり取りをしつつも、三人は高台を降りると砦へと近付いて行った。

 歩哨がいないので堂々と入り口から入ったが、砦の内部はいやに風が吹いていて無気味なほど空気が冷えていた。

 外には誰もおらず、馬さえも見当たらない。いや、それ以前に生き物の気配さえ感じ取れない。ここだけ世界から隔離されているかのような状態になっていた。

「寒い」

「風が強い……だけではないようじゃの。間に合わなくなるやもしれん、急ぐぞ」

 建物に入ると寒さは一層強くなった。

 突き刺すような冷たい風があらゆる戸や窓から吹き込み、壁や床に霜を作る。吐く息は鼻先を白く曇らせ、手足のかじかみを自覚させた。

 駆け足で進んでいくと、すぐにこれ以上の異変が起こった。

 まず始めに、異様なまでの暑さを感じた。

 ここに入った時は肌寒いほどであったというのに、今はもう火山にでもいるのではないかと思えるほどの熱気が室内を満たしている。

 次に、室内であるにもかかわらず雪が積もった光景が、三人の前に姿を現した。

 最初はうっすらと言える程度だったが、奥に進めば進むほど積もる雪は多くなり、まるで真冬めいた景色に変わっていく。

 五分も内部を歩けば、砦は雪国もかくやという環境に様変わりしていた。

 あまりにも異様。

 冷たいものが、背筋をゾッと撫で上げていく。

 ゲートがこの世界の環境に悪影響を与えるのは知っていたが、こうも目の当たりにするとやはり恐怖を覚えるのも無理らしからぬことであった。

「これもゲートの影響ってやつ?」

「それ以外なかろう」

 鳥肌が立った両腕を擦るザガンが言えば、レズンは是と答えた。

「開かれているゲートから異界の環境が流れ込み、こちらの世界にまで干渉しているんじゃろう。急がねばマズイことになるやもしれん」

「マズイことって、例えば?」

「最悪、この辺り一帯が消滅する」

 あまりにも深刻に眉を歪めるレズンに、白蕾とザガンは思わず息を呑む。

 適切な処理を施さないまま開かれたゲートの末路は、世界の対消滅である。

 ゲートが広がり続ければ、その分だけ世界の均衡も崩れていく。崩れた均衡はやがて世界の法則に綻びを生み、相反する性質が相克を繰り返し、ついには無となって消滅してしまう。

 しかもただ消滅するだけではない。巨大な暗黒空間と呼ばれる虚無を形成して、あゆるものを文字通り跡形もなく消し飛ばす爆発を起こすのだ。

 こうなってしまえば、あとに残るものはなにもない。かつてゲートがあった土地には真っ黒な虚無が広がるばかりで、如何なる物質も概念も立ち入れない空白が存在するだけになる。

 ブラックホールが誕生する。と、言い換えればわかりやすいだろうか。

 あらゆるものを飲み込む重力の井戸。際限なく広がり続けたゲートが、最後に辿り着く結果がそれだ。

 そして信じられないことに、今この地に開かれているゲートは、すでに爆発寸前まで来ているようだった。

「ここまでめちゃくちゃな状態は儂も初めてじゃ。いったいどれほど巨大なゲートがあるのやら、皆目見当もつかんぞ」

「竜も通れるくらいの大きさ、かも」

「そ、想像できねえな……っと!?」

 雪に足を取られつつも懸命に砦内部を探索していると、不意にザガンが立ち止まり、長い耳をひくひくとさせた。

「どうしたの?」

「しっ! 黙ってな!」

 白蕾が口を開けば、片手でそれを制して瞑目する。呼吸まで止めて集中しているところを見るに、どうやらギャング共の声を聞き取ったらしい。

 しばらく黙っていると、ザガンは無言のまま、二人について来いとジェスチャーで示した。

 何があったのかと怪訝に思いつつ、言われた通りあとについて行くと、近くにあった壁を手で探り始めた。

「そこに何があるんじゃ?」

「ここに風が吸い込まれるみてーなんだ! きっと隠し通路か何かあるぜ!」

「もしかして、この先にゲートが?」

「どれ、儂がぶっ壊して確かめてやろう。下がっておれ」

 二人が物陰に退避ると、レズンは腰だめに腕を構えて引き絞り、壁に向かって一直線に拳を放つ。

 バコッ。

 レズンの拳を受けて、壁が思いの他あっけなく崩れ落ちる。

 そうして土煙が舞う中から現れたのは、地下へと続く霜付いた階段であった。

 どうりで誰もいないはずである。ギャング連中はみんな地下に潜っているのだから、地上を探したってゲートも何も見つからないのは当たり前だ。

「大当たり! へへへっ、さっすが俺サマだぜ!」

「うむ、今回はお手柄じゃな。よくやったザガン」

「うん。ちょっとだけ見直した」

「そうだろ、そうだろ! もっと褒めてくれたっていいんだぜ? ほらほら!」

「いや、ふざけとる場合じゃないんでの。先を急ぐぞ」

「早く行こう、ザガン」

「お前ら俺の扱い雑すぎねぇか? 怒るぞ?」

 石造りの階段を一段飛ばしで駆け下り、薄暗い通路を駆けていく。

 天井から吊るされたランプの灯りはか細いが、積もった雪は綺麗に掃かれて道が敷かれている。間違いなく誰かが頻繁にここを通っている証左である。ゲートは近い。

 確信をもって道を往くと、ついにいかにもな大扉が三人の行く手を塞いだ。向こうからはギャング共の声と、金属をハンマーで打つような音も聞こえる。

 ここに至ってはもはや確認も不要。

 三人は頷きあうと、扉を蹴破って突入した。

「御用改めじゃ! オラァ!」 

「うわあっ!?」

「なっ……!?」

 扉がぶっ飛んだ衝撃で、中にいたギャング全員の視線が集中する。

 誰もが薄着で金槌やら鉄板やらを手に持っており、部屋の中央に鎮座するゲートには、鎖と鉄板が雑に被せてある。

 鉄板を貼り合わせて、ゲートに蓋にするつもりだったのだろうか。

 目算ですら二十メートル以上あるこのゲートに、よもや鉄板で蓋をしようなどとは。なんともまあ無茶苦茶なことをしようとするものである。

 白蕾が瞑想の時に見た光景は、ゲートに蓋をしてい居る時の口径だったのかもしれない。

「誰だ、てめぇら」

 ゲートの前に居た首謀者らしき人物が、三人に鋭い声で問いかけた。

 まるまると肥え太っていて、仕立ての良いスーツに身を包んでいる人間の男。彼こそが一連の事件の犯人、ウォーリー・ハグダットその人である。

「おう、お主がここのリーダーか? ちょいとお話ししたいことがあってのぉ」

「んだとぉ? てめえ、俺が誰だと思って……」

「知っとるよ。ウォーリー・ハグダット」

 名前を出した瞬間、ハグダットの目が、敵意の籠った視線から、殺意の籠った視線へと変わる。

「儂らはゲートキーパーっちゅうもんじゃ。お主らがこの地に違法なゲートを開いておると聞いたんじゃが……まさか、こんなデカいモンを隠しておったとはのぉ?」

 レズンが可愛らしく小首をかしげて見せれば、ハグダットはますます目を細める。動揺していた部下も落ち着きを取り戻し、手に持った金槌や鉄板を武器として構え始めていた。

 渦を巻く殺意が、雰囲気を変えていく。

 じっとしているだけでも汗がにじんでくる熱さだというのに、気が付けば、背筋が凍り付くような冷たい緊張感が場を支配していた。

 薄氷の上に成り立つ均衡が、耳鳴りめいた静寂と共に揺れる。

 そして。

「オイ、殺せ」

 ハグダットの鋭い号令により、ギャングが一斉に襲い掛かった。

 数は五十。

 思っていたよりも少ない。全員が作業中だったせいか、銃の類を装備していないのは僥倖である。

 無手、あるいは鈍器相手ならば、三人の敵ではない。

「降伏はせずか、致し方あるまい」

「しゃあ! いっちょ派手に行こうぜ!」

「師匠、期待しててね」

「くれぐれも殺すでないぞー」

 食事にでも行くみたいな気楽さで言葉を交わすと、それぞれが迎撃に動き出す。

 まず飛び出したのは、やはりザガンであった。

 愛用の槍を構えて吶喊。渾身の横薙ぎで手近な奴らを纏めてダウンさせると、続けざま、頭上で槍を一回転させてからもう一度横薙ぎに振るう。今度は四人を同時に吹き飛ばした。

「なんだよ、歯ごたえねえな! ギャングってんならそれっぽい根性見せろよ?」

 豪槍が唸る度、一人、また一人と宙を舞う。躱すはこと能わず、しかして受け止めることもできず。紙吹雪の如くに蹴散らされる。

 戦士の一族が誇る幼き英傑は、その血に恥じず無双の活躍を見せていた。

 一方、白蕾。

「どうしよう。囲まれた」

 彼はギャングに囲まれた状態で、困ったように頭を掻いていた。

 明らかなピンチだというのに、その顔には微塵の危機感もない。ただただ面倒くさそうに眉尻を下げるだけで、とぼけた雰囲気を醸している。

「このクソガキ、ふざけやがって!」

「ガキだからって容赦しねえ、ぶっ殺してやる!」

 こちらを歯牙にもかけぬ態度にいきり立ったギャング共が、得物を掲げて四方から飛びかかった。

 逃げ場はなく、腰に差した得物も抜かれていない。

 まさか仕留めそこなうなどあり得ない状況。確殺は必至と思われた。

「よいしょっと」

 白蕾の両の手が翻るのと、攻守交替の悲鳴が上がったのは同時であった。

 舞い踊るかのように繰り出された刀の”みね”は、四人の顎や水月などの急所を強かに捉え、瞬く間に意識を奪い去っていく。

 飛びかかった四人が崩れ落ちた時、無傷の白蕾がそこにいた。

 まさかの状況である。

 確殺は必至と思われた状況が、いともあっさりと覆った事実に、ギャングは一様に動きを止めてしまう。

 彼らの間に驚愕と恐怖が伝播するまで、さほど時間はかからなかった。

「あれ、もう来ないの?」

 急に動きが止まったギャングを見て、白蕾は小首をかしげる。己が恐怖の対象になっているとは、少しも気付いていない様子だ。

 無理もない。彼からしてみればこれは単なる反撃、しかもみね打ちでめいいっぱいの手加減をした反撃である。この程度で恐怖されるなど、それこそまさかであった。

「来ないなら、こっちから行くよ」

 いつまで経ってもかかって来ないギャングに焦れた白蕾が、言うか早いか一歩を踏み出して刀を振るった。

 白刃が揺らき、三人が落ちる。

 流れるような軽やかさを纏った剣閃が、怖ろしいほど的確に男たちの急所を打ち、次々と倒していく。振り切られた刀はされど止まらず、即座に弧を描いて別の獲物へ襲い掛かる。

 それはさながら風だった。貪狼の如き風邪であった。

 ただのガキ二人に蹴散らされているという現実に、ギャングは我知らずに一歩後退る。

 槍の一振りで少なくとも四人。

 刀の一振りで少なくとも二人。

 こんな調子で、白蕾とザガンが並み居るギャングどもをぶちのめしてしまうものだから、彼らがハグダットひとりを残して全滅するに時間はかからなかった。

「こいつで終わりっと! おーい白蕾、そっちはどうだ?」

「こっちも終わったよ」

「……なっ、ば、ばかな……」

 凄絶。とは、このことか。

 部下の誰もが敵わずに倒れ伏していく惨状を、間近で目撃してしまったハグダットの心中は、察するに余りある。

「さて、あとはお主だけじゃ。男なら神妙にせい」

「くそっ、ふざけるなよ政府の狗が! てめえらに捕まってたまるかよ!」  

 ほとんど悲鳴に近い叫び声を上げたハグダットが、腰に吊っていた銃を抜く。

 彼とて元はガンマン。幹部に上がってから使わなくなって久しいが、それでも、三間と少しの距離で外すほど落ちぶれてはいない。錆びついた腕でも、確実に仕留められる。

 しかし、今回ばかりは相手が悪かった。

「悪足掻きはよさんか」

 ハグダットが銃爪を引くよりも早く、レズンの放った小石が右手の銃を弾いた。

 唯一の武器を一秒と経たずに失ったハグダットは、顔面に恐怖と絶望を張り付けて膝を突く。もはや彼に抵抗する余力は残っていなかった。

「十九時十四分、犯人確保じゃ!」

 懐から取り出した手錠をハグダットの両手に嵌めると、レズンが勝鬨めいて声を上げた。

 レザボア・ギャング幹部、ウォーリー・ハグダット。逮捕の瞬間である。

 こうなってしまえば、あとはこっちのものだ。

 幹部が逮捕されたとあっては、さすがのギャングもこれ以上は危険と判断して、新たな人員を送り込むのに躊躇するはずだ。

 それに加えて、ゲートキーパーもしばらくはあの地に駐在する予定だから、こうなってはおいそれと手出しすることもできない。

 ギャング共は銀山は諦める他にないだろう。

 もうあの地を脅かすものはいない。此度の事件、これにてひとまずの決着である。

「これで終わり?」

「うむ。あとはあのゲートを閉じれば終いじゃ」

「いよっしゃー! 俺の勝ちだぜー!」

 やっとこさ事件を解決した三人の間に、緩やかな空気が流れ始める。

 これで、あとはゲートを閉じるだけで終わり。

 と、思われたその時。

「へっへへへへ、これで親父に……あん? なんだ?」

 不意にゲートから、妙な音が響いた。

 何か大きなものが金属ぶつかっているみたいな、そんな音だ。

「向こうに、何かいるのか……?」

 誰もがゲートを見る。

 蓋になっている鉄板と鎖が、大きく揺れていた。

「なあ、俺すっげー嫌な予感するんだけど?」

「奇遇じゃな、儂も嫌な予感がするぞ」

 三人は揃って顔を強張らせる。

 音は一向に止む気配がなく、むしろ大きくなっていく一方。音に合わせて揺れ動く鉄板も、だんだんとひしゃげて歪んでいく。

 明らかにマズイ状況だ。一刻も早くゲートから離れなければ、いったい何が飛び出してくるかわかったものではない。倒れていたギャング共も、這う這うの体で一目散に逃げ始めた。 

「た、退避ー!」

 ひと際大きく鉄板が揺れた瞬間、一斉にゲートから飛び引く。

 同時に、限界を迎えた鎖と鉄板が砕け散る。

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!』 

 

 咆哮と共にゲートから現れたるは、漆黒のドラゴン。

 手足も翼もない異形種、蛇龍ベヒーモスであった。

「うわああああ!? なんだこりゃあ!?」

「ゲェー!? ベヒんモスゥ!?」

「お、おっきい……」

 身体の半分だけでもすでに部屋を埋め尽くす大きさのベヒーモスは、ひどく苛立った声を発すると壁に頭を打ち付け始めた。狭い室内が気に入らないらしい。

 ベヒーモスが暴れる度、グラグラと砦全体が揺れ軋む。早く止めなければ、砦が崩れてしまいかねない勢いだ。

「ど、どうすんだよオイ!?」

「どうもこうも、止める他にあるまい!」

「けど、どうやって止めるの?」

「それなんじゃが……ぐくっ、本当はもっと段階を踏んでから、もうちょっと雰囲気ある時にしたかったが……こうなっては仕方あるまい!」

 二人の切羽詰まった問いかけに、ザガンは毛先を弄びながら僅かに迷ったあと、何かを決意した顔で白蕾の両肩を掴んだ。

「白蕾! 言うタイミングをすっかり逃してしまったがの、良いか? お主は今、半分だけオーガなんじゃ」

「……おーが? 鬼ってこと?」

「そうじゃ! なんでかよう知らぬが、お主にはその鬼とやらの力が少しだけ宿っておる! 今からそれを儂が引き出してやるから、一分程度時間を稼いでくれ!」

 レズンの考えた作戦。それは、白蕾が時間稼ぎしている間に、渾身の力を込めた一撃を準備してベヒーモスに叩き込み、ゲートへ押し戻す。という、あまりにも力任せな作戦だった。

「わ、わかった。時間稼ぎ、すればいんだね」

「うむ。その間に儂が力を溜めて、思いっきりあれにぶちかます。作戦とも言えぬ力押しじゃが、それが一番早いからの」

 不細工な作戦だ。もっと上手くやれる方法だってあるだろう。

 だがこの状況では、行動する前に砦が崩れてしまいかねない。そもそもゲートだってもう崩壊寸前なのだ。悠長に策を考えていられるほどの暇は残されてなかった。

「異界の生物を傷つけるのはよくないんじゃが、状況が状況じゃ。特記事項第七三章二四一項に基づき、あれに攻撃することを許可する。殺さぬ程度にやれ!」

「わかった」

「して、その……力を引き出す方法なんじゃが……」

「うん。何をすればいい?」

「い、いや、お主が何かやる必要はなくて、その……目をな? 瞑ってほしいんじゃよ……」

「なんかよくわかんねぇけど早くしろよ! もう天井が落ちてきそうなんだぜ!?」

「う、うるさーい! 儂にだって、心の準備っちゅうもんがあるんじゃ! ザガンは黙ァっとれい!」

 顔を真っ赤に染めて視線を泳がせるレズンは、一度だけ深呼吸をすると、意を決して瞑目する白蕾にそっと口づけをした。

 ドラゴンの体液は、古来から魔法薬の最上級素材として知られている。ドラゴンの体液を使った薬は万病を癒し、致命傷ですら瞬く間に治してしまうと言われているほどだ。

 その分だけ体液自体の効果もすさまじく、生であるなら強力な気付け薬として使えてしまう。特に加工も何も施していない体液は、劇薬と言っても差支えない強さを持っている。

 そしてあえて”血液”ではなく”体液”と表現している意味は、もはや言わずともわかるだろう。

「……っ!?」

 口付けによって口内に流し込まれた唾液は、粘膜に触れた瞬間からすぐに効果を現した。

 まず最初に感じたのは、例えようがない熱さだった。

 内側から炎が燃え広がって、全身を焼き尽くしているみたいに熱い。骨の芯から細胞の一辺までもが沸騰しているかのような苦しみに、呼吸すらもできなくなる。

 立っていることもできなくて、白蕾はその場に膝を突いて半ば気絶してしまった。

「あぅ……わ、儂……初めてのちゅーしちゃったぞ……」

「うわああああああ白蕾ぃいいいい!?」

 唇を離すなり、ぽっ。なんて初々しく顔を赤らめモジモジするレズンとは対照的に、ザガンは別の感情で顔を真っ赤に染めて苦しむ白蕾を抱きしめた。

「て、テメェーッ!? 何してんだよォ!?」

「お、落ち着けザガン! これはな、その……儂の、だ、唾液を摂取したことで、一種の興奮状態に……」

「んなこと聞いてねぇよこのバカ! なんでこいつにキスしたのかって訊いたんだよ!?」

「だ、だってそうがないじゃろ!? これが一番、儂のつ、つばを飲ませるのに手っ取り速いんじゃ! 儂だってもっと雰囲気とか、そういうの大事にしたかったもん!」

「なにが、もん! だよふざけんなお前歳考えろよクソババア!?」 

 ぎゃあぎゃあ言い合う二人。

 それを余所に、朧げな意識の中にいた白蕾は、ひとつの兆しを自分の中に見つけていた。

 例えるならばそれは、蕾が花と開いていくような感覚であり、長らく手足に嵌められていた枷が、音を立てて崩れ落ちていくようでもある。

 解放された。

 確信めいた閃きが白蕾の脳髄を貫き、はたと目を見開く。

「ザガン。大丈夫だよ」

「え? あっ、お、おい、白蕾……?」

 ザガンの腕の中で、ゆらりと立ち上がる。

 全身を赤い闘気が包み、鎧の如く鬼神の形を成していく。燃ゆる焔の赫が白蕾の瞳を染めあげ、歯牙を鋭きものに変えていく。

 彼は今この瞬間だけ、人であることを捨てて鬼となった。

 白蕾は高揚感に襲われていた。

 今ならば何にだって、誰にだって負ける気がしない。人を逸脱することがこんなにも気持ち良いとは、ついぞ思わなかった。人の道を踏み外す輩の気持ちも、嫌々ながらわかってしまう。

 この万能感、まったく抗い難い。

 気をしっかり持たなければ、彼は今にも、衝動に任せて暴れ出してしまいそうだった。

「師匠」

「な、なんじゃ……?」

 ベヒーモスに向かって、凛と一歩を踏み出す。

 強敵の出現に警戒したらしいあのドラゴンは、動きを止めてじっとこちらを睨んでいる。

 上等である。相手にとって不足はない。

「期待、してて」

「えっ、アッ……しょの、は、はぃ……」

 正眼に刀を構えた白蕾は、その刹那、疾風となってベヒーモスに襲い掛かった。

 まずは小手調べ。

 ベヒーモスがぶん回した頭を躱し、跳躍、大上段に一撃を叩き込む。

 するりと刃が入った。

 右側頭部に生えた角の一本と、首筋の甲殻の一部が、バターみたいにすっぱりと斬り飛ばされた。アダマンタイトよりも硬いと言われるドラゴンの甲殻が、白刃を受けていともあっさり。

 

『GURUA!?』

 

 驚愕の声を上げるベヒーモスは、転がり落ちた自身の角を見て、ますますの怒りを滾らせる。目を細めて白蕾を見下ろすその表情には、絶対の殺意が籠っていた。

 翻って、白蕾。苦しげに顔を歪める。

 全身が悲鳴を上げていた。

 急激に力を引き出されたせいなのか、とにもかくにも身体が痛い。気を抜けば内側から爆発して、バラバラになってしまいそうになる。

 鬼の力、よもやこれほどとは。

 自身のうちに眠る恐るべき力に、白蕾は我ながら恐怖を感じて身震いした。

 

『GURUAAAAAAA!!!』

 

 ベヒーモスが咆哮と共に突っ込んできた。勢いをつけた頭突きで一息に決着をつける算段らしい。

 一瞬だけ躱すことを考えたが、背後には二人がいる。受け止める他にない。

 白蕾の覚悟に応じて、闘気の鎧が両の腕を伸ばして、ベヒーモスの頭を受け止める。

「っ!?」

 凄まじい衝撃が身体を突き抜けた。ともすれば全身が引き裂かれてしまいそうな衝撃に、白蕾は意識が飛びかけてしまう。

 しかし、退かない。

 四肢に力を籠めて、奥歯を食いしばって、耐える。

 レズンに期待された以上、何としてでも、この身を賭してでも、役目を全うする覚悟がある彼はそれに背くわけにはいかなかった。

 覚悟の甲斐あってか、十メートルほど引き摺られはしたが、頭突きの勢いは完全に停止した。

 相手の攻撃を凌ぎ切った。ならば次は、こっちの番である。

「このっ!」

 渾身の力を籠めて、ベヒーモスの横っ面を殴りつける。それも一回や二回ではない、十重二十重と殴り続けた。

 鈍い音が響く度に、ベヒーモスの身体が僅かに跳ねる。

 いくら甲殻が硬かろうが、衝撃までは殺せない。何度も何度も襲い来る衝撃に、さすがのベヒーモスもまともな抵抗ができなかった。

「あれが、白蕾……? う、うそだろ?」

「ふぇえ……か、カッコ良いのじゃ……これが”ギャップ萌え”と言うやつなのか……」

「って、お前はメスの顔してる場合じゃねーだろ!? なんかあんならさっさとやれよ!」

「お、おお!? そうじゃった、危ない危ない」 

 白蕾の大立ち回りに見惚れていたレズンも、ザガンに叱責されて気が付いて顔を変えた。恋する乙女の顔ではない、百年以上の時を生きる仕事人の顔だ。

「ザガン! あれを縫い付けるんじゃ!」

「俺に命令すんな! 言われずともやってやらァ!」

 ザガンは頭上で槍を振り回すと、逆手に構えて天井──正確にはベヒーモスの真上にある罅割れの中心──に狙いを定める。

 蛇龍と冠される以上、ベヒーモスには蛇と同様にピット器官が備わっている。そこに刺激を与えれば、この巨体とてただでは済まないだろう。 

「俺の槍は、こう使うッ!」

 ザガンは大声と共に槍を放つ。

 一条の流星が如くに飛んだ槍は、ぶれることなく罅割れに突き刺さり、天井の一部を瞬く間に崩落させた。

 

『GYA!?』

 

 白蕾が飛び引くのと同時に、いくつもの巨岩が脳天を直撃したベヒーモスは、短い悲鳴を上げて沈黙した。

 見れば、白目を剥いて気を失っている。拳とは比べ物にならない衝撃をいくつも頭に受けたせいで、軽い脳震盪でも起こしただろう。

 さらには岩が身体に重なり、たとえ意識を取り戻したとして今すぐに動くこともできない。

 チャンスである。この機、逃すべくもない。

「よし、あとは儂に任せい!」

 両の頬を叩いてしっかりと気合を入れ直すと、レズンは大きく深呼吸をして、内側に眠る力へと意識を集中させる。

 力と言っても、膂力的な、生身の力だけではベヒーモスは押し戻せない。もっとも必要なのは、彼女を彼女たらしめる根源より生まれるもの、すなわち竜の力だ。

「かか様、儂に力を……」

 足を肩幅まで開き、右手を握り込んで構える。丹田に意識を集中させて、己の中にある竜の力を引き出し、全身に行き渡らせていく。

 身体を覆う鱗はいっそうの輝きを帯びて、甲殻の隙間からは圧倒的な赫焔が吹き出す。今や彼女の全身は、まるで地の底を流れる溶岩そのものであった。

 本気中の本気。

「さぁて……我が力の一端、今からお主らにとくと見せてやるぞ!」

 勇ましい宣言と共に、準備の完了したレズンが一歩を踏み出し、前傾姿勢を取りつつも腰だめになる。古の恐竜とも、相撲の構えとも見えるそれは、突進の構え。

 一拍遅れて気が付いたベヒーモスが、彼女を見た途端に、慌てて岩の下から抜け出そうと身体をよじるが、もう遅い。

「どっせぇい!」

 吶喊。

 そして激突。

 部屋全体が揺れるほどの轟音が響き渡る。ベヒーモスの身体がひときわ大きく跳ねて波打つ。

 真正面からベヒーモスに激突したレズンは、列車もかくやの勢いそのまま、ベヒーモスの頭を両手で掴むとゲートへ一気に押し出した。

 ベヒーモスも抵抗を試みるが、彼女はまるで意に介さずに進み続ける。巨躯がのたうっても、頭を振ろうとも、あらゆる行動を全力で封じて放さない。

「元居た場所に、帰らんかァい!」

 一息に首までをゲートに収めると、レズンは最後のダメ押しとばかりに、右拳を思い切りベヒーモスの鼻先へ叩きつける。

 ひどい衝撃音を奏でながら吹っ飛んだベヒーモスは、ついにゲートの向こう側へと消えていった。

「や、やった?!」

「まだじゃ、ゲートかある!」

 休む間もなく懐から銀の鍵を取り出し、全身に残る竜の力をありったけ注ぎこみ、通常の三倍の速度でゲートを閉じる。

 ベヒーモスの登場に気を取られていたが、ゲートもすでに限界だ。これ以上広がってしまえば、本当に大変なことになってしまう。休んでいる余裕はない。

「ぐぬぬっ……こ、このままでは……ッ」

 だが無常なことに、ゲートは閉じるどころかどんどん広がるばかり。

 空間が歪み、ねじれ、崩れていく。

 レズンの力だけでは時間もない。力も足りない。もはやどうしようもないところまで、ゲートは広がっていた。

 よもやこれまでか。

「師匠、手伝うよ」

「ヤバそうなら、俺もやるぜ!」

 レズンが諦めかけたその直後、白蕾とザガンが手を差し伸べた。

 頼もしき子供たちである。

「白蕾! ザガン! ならば、儂の手を取れ! ありったけ貰うが良いな?」

 二人とも否はない。

 答えるよりも先に、手を取っていた。

 出力が上がったことで、ゲートを閉じるスピードもまた飛躍的に上昇する。遅きに失するかと思われたが、これならば間に合う。

 確信めいた終わりの予感が三人の間を駆け巡り、やがてそれは現実のものとなる。 

「いまじゃ、パワーを銀の鍵に!」

「わかった」

「いっけー!」

 カチリッ。

 鍵の閉まる音と共にゲートが消えてなくなると、銀の鍵は乾いた音を立てて地面に落ちた。

 終わりは存外に、呆気ないものであった。

「お、終わった……」

 思わずへたり込んだレズンの声に、白蕾もまたその場にぶっ倒れた。

 もはや力の一滴も絞り出せない。そんな状態であった。

「あぁ、もう……やっと終わったのじゃ……」

「し、師匠……頑張った、よ……」

「おぉ、白蕾……お主はよくやった……よしよしじゃぞぉ……」

「へ、へへへ……褒められた……」

「おっ、そうだな! ところでよ、ギャングのやつら逃げちまったけど、どうすんだ?」

「……スゥー……」

「オイ?」

「……儂もうやだ! 帰る、お家帰る! こんなに大変じゃったっちゅうに、まだ大変なことするなんて嫌じゃ! 儂は働きとうない! もうお仕事しないもんね! 今日はもう閉店だもんねっ!」

「うわっ!? ガキみてえにすんなよ、みっともねえなあ!」

 これ以上に大変な仕事なんかしたくないと駄々をこねるレズンに、ザガンは露骨に顔をしかめてしまう。白蕾はとえば、気を失って夢に旅立ってしまった。

 どうやら、まだまだ事件解決とはいかないようである。

 

 

 ◇

 

 

「さて、白蕾。これより犯人一派のアジトに踏み込むわけじゃが」

「うん」

 荒涼とした風が吹き荒び、まばらに生えた草莽が揺れる昼下がり。

 犯人一派の隠れ家である場末の宿にっやってきたレズンと白蕾は、段取りの最終確認をしていた。

「まずは穏便に話し合いで解決しようと思う。抵抗、あるいは拒否した場合、お主には鎮圧に動いてもらうから、そのつもりでな」

「わかった。期待してて」

「うむ。有事の際は頼むぞ?」

 先日の一件。ハグダット一味が起こした大事件において、元凶となった闇商人三人組を逮捕するため、二人はダミアンズ・ヒルから遠路はるばるニューメキシコに来ていた。

 逃げおおせたハグダットはなんとか捕まえたが、まだ肝心の犯行に使われた鍵の出どころを取り締まっていない。

 ここを抑えなければ、また同じようなことが起きてしまうのは明白である。ゆえに二人は今回、こんなところにまで遠征してきたのだ。

「……ところで、その」

 簡単な打ち合わせも終えて、さて突入かと思っていると、不意にレズンが、毛先を弄びながら言った。

「これが終ったら、な? か、観光にでも……いかんかの?」

「観光? いいよ」

「ほ、本当か? ふへへ……やったっ」

 こっそりガッツポーズをして喜ぶレズン。

 対する白蕾は、ザガンにお土産を買って行かないとな、なんてまったく見当違いのことを考えていた。

「うぅむ、そうと決まれば速攻で片付けねば! いくぞ白蕾!」

 勇んで歩き出すレズンの背を追って、白蕾もまた歩き出す。

 相も変わらず、すれ違いは修正されないままであった。 



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