優しいお父さんが大好きな、娘のお話。
私は海が好きだ。
潮風の匂い、ウミネコの鳴き声、優しくも力強いさざ波の音。何処までも青い水平線、その先にある空。その全てが私は大好き。
私はお父さんが好きだ。
力強い腕、大きな笑い声、私に楽しそうに話してくれる航海の話。とても大きいけれど、私の頭を優しく撫でてくれる。お父さんの全てが、私は大好き。
お父さんはとても立派な船乗りだ。一度航海に出ると、暫くは帰ってこない。私は船着き場から、お父さんが航海の準備をしている所を見るのがとても好きだ。重そうな木箱を軽々と運ぶ船員達にその大きな声で指示を出し、時には自分でも綱や木箱を担ぎ、汗を垂らしながら笑顔で働くお父さんを見るのが、とてもとても楽しいんだ。
「親方ァ!また愛しの娘が見学に来てるぜ」
「羨ましい限りだよ、全く!こんな可愛い娘さんに慕われてるなんてな」
「嬢ちゃん、気が済むまで親父さんを見てやんな。海に落ちねえように気をつけろよ」
私を見ると、お父さんの仲間達はいつもそう言ってくれる。お父さんの仲間達も皆とても優しいから、私は皆大好き。……可愛いなんて言われるのは、ちょっと恥ずかしいけれど。
でも、もしかしたら私が見に来るのは準備の邪魔かもしれない。そう思って、こっそり仕事をサボって休憩している仲間のお兄さんに一度だけ聞いたことがある。私が見に来るのは、迷惑じゃないですか?って。そしたらお兄さんはこう言ってくれた。
「邪魔なんかじゃねえよ。お前のお父さんは一度海に出たら中々帰ってこないだろ?会える時に沢山会っておいた方が良いに決まってるさ。俺達も可愛い女の子が見ていてくれると、やる気が出るってもんよ」
その後、そのお兄さんはお父さんにサボりがバレて怒られていたけど。私は、そのお兄さんの言葉がとても嬉しかった。そう、お父さんが海に出てしまったら暫く会えなくなるから。会える時は、出来ればずっとお父さんと一緒にいたい。お父さんが航海に出ている間の、会えない期間を埋めてしまえる程に。ずっと、ずっと一緒にいたい。
お父さんが航海に出ている間は、心にぽっかり穴が空いたよう。その穴を埋めるように、海の向こうに想いを馳せる。私は、お父さんが大好きな海が好きだ。お父さんが話してくれる、海の向こうの話が大好きだ。
今度帰ってきた時には、どんな話を聞かせてくれるのだろうか?お父さんが帰ってくるまでは、そのことばかりを考えている。
嵐の中で巨大な竜に出くわした話。
全てが黄金で出来た夢のような島の話。
巨大な珊瑚で作られた島の話。
上陸した島の住民達と、朝まで踊った話。
沈んでいく太陽が、青い空と海を赤く染め上げた話。
透き通るような声で歌ってくれた人魚の話。
どの話も、この港町しか知らない私にとっては、夢のようなおとぎ話で。海の向こうには、そんなにも沢山の世界があるんだってことを、私はお父さんから知った。私の知らない世界を、遠い海の先の世界を、お父さんは知っている。
私もいつか、お父さんの船に乗りたい。一度だけ、お父さんに「航海に連れて行って」と頼んだことがある。その時は、お父さんは珍しく険しい顔をして首を横に振った。
まだ子どもの女の子には危険すぎるって。いつか、大人になったら。その時は、簡単な航海になら連れて行ってあげてもいい。そう言われたことを覚えている。
簡単な航海でもいい。海の向こうの世界を、お父さんと一緒に見てみたい。私の知らない世界を、お父さんに案内されてみたい。私は早く、大人になりたくて仕方がなくなった。海と空が繋がっている、あの青い境界の先には何があるのか。私が大好きな海には、一体どれ程の魅力がまだ詰まっているのか。私の知らない世界にいるお父さんは、一体どんな表情をしているのか。話を聞くだけで想像することしか出来なかった竜は、珊瑚は、人魚は、どんな姿形をしているのか。
子どものような夢を、子どものような憧れを叶える為に、早く大人になろうとする。早く大人に、早く──
──やがて私は、恋というものの存在を知った。そして、その感情の在処も。
その感情を自覚した時、私は「嗚呼、これが大人というものなのか」と感覚的に理解することが出来た。定められた齢による形式的な「大人」ではなく、精神に宿るであろう、本質的な「大人」。そして最後に私が求めるのは、刹那か永遠の契約を交わす、儀式的な「大人」の在り方。
お父さんが帰ってきた日、私はお父さんの大好きなお酒を沢山用意した。お父さんは上機嫌でお酒を飲みながら、まるで子どものように航海の話を私にしてくれた。私はそれを子どものように目を輝かせて聞く。お父さんにとって私は子どもで、私はお酒が飲めない形式的な「子ども」だから。
──でもね、お父さん。知ってた?私ももう大人なんだ。
お酒を飲んで酔っ払ってしまっても、お父さんの手はとても優しかった。乱暴にせずに、優しく私を撫でてくれる。少しでも力を入れてしまえば、壊れてしまうような硝子細工を撫でるように。大丈夫だよ、お父さん。私はもう、本質的な大人になったんだ。だから、お父さんの航海にも着いていこうと思えば着いていけるんだ。
──酔い潰れて眠ってしまったお父さんの顔は、とても無邪気な子どものように見えた。それは、その時の私の顔が、きっととても「大人」の顔をしていたからなのかもしれない──
私は海が好きだ。
潮風の匂い、ウミネコの鳴き声、優しくも力強いさざ波の音。何処までも青い水平線、その先にある空──全ての生命の親であり、全ての生命が最期に行き着く場所。その全てが私は大好き。
お父さんはまた、航海に出てしまった。また私はこうして海を眺めながら、お父さんの帰りを待ち続ける。
どうやら、今度の航海は少し長引くらしい。一月程度では帰ってこれない、長い長い航海になるんだとか。
──帰ってくる頃には、私のお腹も膨らみ始めているだろう。産まれるその時には、立ち会ってほしいな。だから──
「──早く帰ってきてね、お父さん」