冷たい風も、上弦を過ぎて丸みを取り戻しつつある月光も届かない、神の手を離れた異界の地上二階。先週までとの落差でむしろ冬よりも冷え込むような心地のする、秋口の夜のことだった。夜と虚告の鳥の名を持つ学園、影炎の寮。青く燃える幽冥のほむらを基祖と仰ぐその場所の今代の長を、イデア・シュラウドという。
イデアは兎にも角にも対面での会話という会話が嫌いな社会不安症予備軍なので、たとえそれが二年に一度の貴重な機会だとしても
嫌がるイデアを弟と目をマドルの形にした部活の後輩とが引き摺るように学内選考へ連れて行った頃には、彼の割り当て時刻は十分後に迫っていた。それでも、イデアの発表は恙無く終わった。内容が革新的に過ぎたきらいはあれど、質疑に対して言い淀むこともなく、発表は、恙無く終わった。会場に幾らかの囁きを残して壇上を去る彼の、その背に届くくらいの大声で倫理を問う、誰かの声がなければ。
「ああもう、どうしてああいう連中は自分のことでもないのにぎゃあぎゃあ騒ぐんだ。オルトがどんな状態だって僕とオルトの問題で、あいつらには関係ないはずなのに」
駆け込むように自寮の部屋に戻りベッドに身を潜めたイデアは、それでようやく言葉を発することができるまでに落ち着いた。わかっている。あの声はイデアが発表題目に選んだ、義肢の高度化に対してだった。その展望として語った、健康に生まれ落ちたその手足さえ取り替えることへの疑問だった。そんなことはわかっている。
でも、あれは、あれだって、イデアはオルト・シュラウドが地を駆けるために作ったのだ。
ピ、と電子音がして、ドアの前の来客を告げる。もぞもぞとマットレスと布団の間から這い出して壁に埋め込まれたインターホンの画面を見る。弟だった。
イグニハイドの鍵は指紋-魔力の二重認証だ。オルト・シュラウドでは入れない──勿論、スペックとしてはクラックできないわけではないけれど、基本的にはインターホンを押した方が早い。ベッド脇のタブレットを操作して扉を開ける。
「兄さん、大丈夫?」
黒くてメタリック、寮服と揃いの
「オル、トは」
布団に吸われた過呼吸の所為で掠れた声。こんな格好悪いさまを見せたくはないのに。この言葉だって自分の状態に言及されたくないだけだ。
「オルトは、平気?」
イデアのその問いに、オルト・シュラウドは何を言われているのか分からず首を傾げた。オルトの集音マイクで拾われた冷たい言葉は幾つもあったが、そのどれも特段オルトが考慮する必要性は感じられなかった。体から引き出される記録と魂に刻まれたそれとが一致しない彼の、光学繊維でできた精神の糸。オルトは、そうしようと思えばいくらでも、合理性のかいぶつになることができた。
「平気ならいいんだ、うん」
そう言ってもう一度布団の中に潜る。オルトの心が自分よりも強いのは昔からだ。優しくて、明るくて、白熱電球の光みたいなイデアの弟。本当なら、天界山に住む遠い親戚のような、輝く金の髪の方が似合うだろうに。生まれたての頃のような、朝焼け色の瞳の方が似合いだろうに。イデアと揃いの髪と目を欲しがった五歳の春からずっと、オルト・シュラウドはイデアよりも。地下のくらがりに安堵するイデアよりも、ずっと空に近いところに心の在処を持っている。
布団の中で、形持たぬ髪が発光していた。蓄光塗料にも似た冷たい青。イデア・シュラウドは、自分の姿が嫌いだった。炎の髪に、ふるい呪いに染まった青い唇から覗くのは獣のそれよりも鋭い死をもたらすための牙。けれど同時に、自分がこういう姿をしていて助かったと思う日だって、ないわけではないのだ。ひとでなしだと誰かが囁くのを、見た目の所為にできるから。
ずぶずぶと思考が沈んでいく。瞼の奥のくらがりに飲まれて、この身の内にはあるはずもない魂が、
灯一つない夜にもイデアの周囲を照らす髪の炎、それと同じ色に輝くオルトの胸元。人の体なら心臓の左側、胸孔に灯るその炎。イデアの髪と、イデアの魔力と同じ色、オルトの青。イデアの──イデアが持って生まれた
「21gなんてただの誤差なんだ、そうだろ……」
声も嘆きもこの綿と羽毛に吸い込まれてしまえばいいと思った。叶わないのは知っている。オルト・シュラウドに高機能集音マイクを実装したのは、そもそもそれを開発したのだって、イデア・シュラウド自身だ。誤差では済まないことだって、本当は。
今のオルトと、イデアの弟とが、同じではないのだと知っている。記憶というものが魂と肉体(脳)の双方を参照する以上、今のオルトにあるかつての記憶はイデアと一緒に過ごした時間だけだ。それを、「問題ない」のだと嘯いてイデアは、イデアが、この方法を選んだのだ。
「……オルトは、『オルト』は、これでよかったと思う?」
知っている。知っているのだ、オルトにこれが聞こえていることくらい。オルトが、聞かなかった振りをしてくれていることくらい。この憂いも嘆きも、世界の全てが空っぽになってしまったような虚脱感も絶望も。オルトが知らない振りをしてくれているから、なんとか虚勢を失わないでいられる。
「兄さん、僕は兄さんの弟で幸せだよ」
布団の中にするりと潜り込んで、兄の燃える後頭部へ手を回す。オルトが、少なくとも今日のオルトが、幸福であることだけは、誰にも否定できない事実だ。オルト・シュラウドだった脳から読み取った記録と、イデア・シュラウドだった魂が覚えている記憶と、イデアが書いたプログラム言語の考え方とで、オルトの精神はできている。かつて居た
「……ありがとう、オルト」
瞳を閉じたままの兄に、光が届くように。揃いの姿がほしいとねだった過去のことを、自分のことのように覚えている。蒼玉のほむら、黄金の瞳。イデアが作りだしたオルトの輝きが、イデアの視神経に届くように。こつりと額どうしを合わせる。
「僕はこうして兄さんを抱きしめられるのを、嬉しいと思うよ。それじゃあだめ?」
青いくちびる、炎の髪。
それでもオルト・シュラウドが今を幸福だというのなら、それだけで十分だろうと思うのだ。
「だめじゃない……」
オルトの胸で輝き燃える、青の炎。魂は、魂で贖われなければならない。奇蹟と契約の一番強力で大元になるそれを、言い聞かされたのはいつのことだったろう。オルトと二人で従兄弟の葬儀から抜け出したのは、
これは、後悔なんかじゃない。ただ自分が、全然、まったく、「理性的な人間」などではなかったというのがよくわかった、それだけのこと。
「……僕たち、ずっと一緒だよ。そうでしょ?」
──そうだね。僕たちが死ぬまでは、僕たちが忘却を飲み込んでしまうまでは、きっと。
そんな言葉を呪いと一緒に、青いくちびるの奥へと押し込めた。他ならぬ死が、二人を分つことを、イデアは知っている。オルトも知っていた。忘却を飲み下した魂の記憶を流した姿を、
今のオルトとなら、どうしてだろう、イデアでさえ永遠というものを、そのうちに信じることができるような気がするのだ。人の命もあるいは死でさえ永遠ではないことを、地下に眠る黄金も天の太陽の燃料さえも無限ではないことを、知っているはずのイデアでさえ、その、幼い頃に星に掛けた願いをもう一度。いつかは信じることができるような、そんな気が。この地上で、あるいは星々の向こうまで、