彼が死んだ。
文字にしてしまえばそんなに呆気なくて、現実を再確認するにはあまりにも鋭すぎる一言。
遠出すると言って家を出て、あまりにも遅い帰りに私がそわそわし出したころにかかってきた電話は、彼の死を確かに告げてくれた。
自殺、だったそうだ。眠るように河川敷で倒れていたらしい彼は、ポケットに愛してる。ごめんなさい。と書かれた小さな紙を忍ばせて、呆気なく。
ふらふらと覚束無い足は、そのわりにしっかりと私を、引っ越してきたばかりのこの部屋に運んできてくれた。でも、リビングについたらそれは呆気なく崩れてしまい、途端に下がった視界のまま私は、途方にくれていた。
雨も、つけっぱなしだったテレビも、私の呼吸も。普段ならあまり好ましいとも感じないそれらが、今は私を慰めているようにも感じてしまった。
行き場のない視界をくるりと回せば、彼の面影はそこら中に散らばっている。
かたっぽだけの靴下、彼のお気に入りの上着だけが抜けているクローゼット、私とお揃いのハンカチ。それから、それから。
最後に、持ち主を失った財布が目にとまる。財布すらも置いて出ていってしまうなんて、本当に彼は最初から死ぬつもりでいたんだなと。何処か他人事のような言葉がぽたりとこぼれた。
無意識のうちにそれを手にとって、ゆっくりと開いてみれば、中には運転免許証と数千円だけが入っていた。
彼は写真、というよりも自身を嫌っていたので、彼が写ったものは皆無に等しい。
それじゃあこれが遺影になるのかななんて考えたら、写りの悪いぶっきらぼうな証明写真も、途端にいとおしく感じてきて。
ああ。ああ。
それから先のことはほとんど記憶がないけれど、涙で歪んだ微睡みのなかで運転免許証を撫ぜたことだけは、ハッキリと覚えている。
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重くてくらくらする頭を起こして、腫れた目を無理矢理擦ってからずっと、彼と出会ってからあっという間に過ぎていった48ヶ月のことを思い出していた。
宝物と言っても過言ではないというのに、今ではすっかり薄まってしまったそれらを、彼のすきだったブラックコーヒーと一緒に嚥下していく。とっても苦い。こんなものを好んでいた彼は、ほんとうに変なひとだなんて、彼が聞いたら拗ねてしまいそうな感想を胸のなかで転がす。
ああ、いや、それは私もか。
夜もだいぶ更けてきた。
冷めきったそれをひとくち飲むごとに、彼のいた生活が遠退いていく気がした。
大事に抱え集めていた宝物たちに、大切と書かれたシールだけを貼って。抱えきれなくても、いつか薄れても、大切ってことだけは覚えていられる。
でも、それだけ。楽しかったそれも、苦しかったそれも、ぜんぶぜんぶ。いつかは薄れきって、思い出すことすらやめて。本当に、ただ大切とだったものとだけしか、認識できなくなる。
それはすこしだけ侘しいなって。そう思って。もういちど、今まで抱えてきたそれらを瞑目した先で浮かべてみても、ハッキリと思い出せるものはやっぱり少なくて。
だって、これからもそれらが上塗りされていって。どんどん頁を増やしていくものだと思っていて、それに甘んじていたから。
そうやって貴方のことも、この傷も、忘れていくんだろうな。
気付けば、静かに涙がこぼれていた。
帰宅してすぐに泣き崩れたときほど心は揺れておらず、ただ、条件反射で染みだしたそれが。まだ新しいカーペットに、点々と同化していく。
拭かなきゃと慌てて袖で拭ったところでふと、ひとは2度死ぬのだという話を思い出した。前に母が亡くなったときも確かこんなふうに静かに泣いていて、そばにいた誰かが、おとぎ話をきかせるように話してくれたから。
いちどめは、肉体的な死。からだが朽ちて土へと還って、それから天に昇って。にどめは、記憶的な死。旅立ったひとを覚えているひとたちも亡くなって、生きた痕跡全てが無くなって。そうして、ひとは2度死ぬのだという。
そこまで思い出して、知らず私は呆れにも近い笑みを溢していた。
この話をしてくれたときの彼の顔が、よく浮かぶようだったから。
彼はいつか、親との関係がよくないと話していた。いつかまた詳しく話すよ、なんてぎこちなく笑っていた彼の口が開かれることは、もうないけど。
それから、不器用な彼は、友人と呼べるひとを作るのがどうにも苦手だったようで。
ああ、ともすれば。彼はにどめの寿命の大半を、私へ無責任にも押し付けて、遠くへ行ってしまったらしい。
「...ずるいひと」
それからもう一度だけ。あの日の紙切れへ返事をするように、本当にもう一度だけ、彼の運転免許証に指を這わせた。
10/5 05:57
チラ裏のつもりが通常投稿になっていたので修正しました