始まりは、至ってシンプルな一言だった。
「ごめん、他に好きな人できちゃった」
生まれて初めての彼女が出来てから一ヶ月。
木ノ下和也は、交際相手である七海麻美から笑顔でそう告げられた。
「別れよ?」
両手を合わせ、小首を傾げながら彼女は直球に続ける。
予感はあった。自分だけが空回りしている可能性も、最近では視野に入れ始めていた。
その矢先の出来事。
不幸にも、和也の不安は的中した形となってしまった。
他に好きな人が出来たと麻美は言った。しかしその言葉も、どこまで本当か分かったものではない。
七海麻美という人間は、己の性格の悪さを無理をしてまで隠そうとはしない。
それでも周囲から人が居なくならないのは、彼女の容姿が優れているからか、あるいはその社交性の高さが理由なのか。
何はともあれ、一つだけ確かなこと──分かったことがある。
それは、麻美は和也に対して、最初からほとんど興味を持っていなかったということだ。
麻美の表情や言葉からは、それだけの拒絶と無関心さが滲み出ていた。
「い、やだ……」
しかし、だからといって〝はいそうですか〟と簡単に納得できるものではない。
麻美のことが好きだという気持ちは、今も変わらず和也の心の中に残っている。いきなり消し去るなんて出来るはずがなかった。
「イヤだ……別れたくない……」
だから、そんな言葉を口走る。
麻美が鬱陶しそうな、あるいは苛立ったような顔をしているだろうことは見なくても分かった。
幻滅はしていないはずだ。なぜなら、彼女は自分に対して期待などしていないから。
しかし仮にそうだとしても、和也には止まる気など一切なかった。
諦めが悪い。女々しい。男らしくない。そんなことは自分でも分かっている。
好きではないを通り越して嫌われる可能性も高い。次からは口すら利いてもらえなくなるかもしれない。
それでも、毛の先ほどの希望に賭けるしか選択肢はなかった。
関係性がリセットされのを黙って受け入れるよりは遥かにマシと思えたから。
「時間をくれ……」
だから、決して正しくはないその言葉を、衝動のまま口にする。
自分に言い聞かせるように──口に出す。
「──必ず、マミちゃんに相応しい男になってみせるから!」
人生に転換期があるとしたら、和也にとっては今がまさにその瞬間と言えた。
故に、これは終わりではなく始まり。
あの日から人が変わったようだと周りは言う。
だが、それもある意味では当然のこと。
好きな人に振られるというのは、それだけ大きな衝撃を和也に齎したのだから。
これで変われなかったら嘘である。
和也は麻美のことを、心の底から嘘偽りなく愛していた。
****
それから一年。和也は大学二年生となった。
結果だけを言うならば、二人の恋人関係は未だに継続している。
****
「マミちゃん。この後時間ある?」
講義終わり。
麻美の姿を遠目に見つけた和也は、ゆっくりと近寄るなりそう声を掛けた。
「デート行かない?」
そう満面の笑みで言われ、麻美は小さく溜息を吐いた。
別に、彼のことは嫌いではない。
麻美が別れ話を切り出したあの日から、和也の行動には確かな変化があった。麻美の身体を求めるような行動が、その頃を境にパタリとなくなったのだ。
一緒に居られたらそれだけでいい。そう本気で思っているようだった。
それに対し、麻美は少しだけ好印象を抱いた。自分の欲を優先しないからか、以前よりも細かい気配りや気使いをしてもらえるようになったからだ。なにより、一緒にいてあまり疲れないというのが大きい。
別に異性として好きになったりはしていない。だが、和也の隣が比較的居心地のいい場所であることだけは認めていた。
しかし麻美にも気分が乗らない日はある。それがたまたま今日だった。
だがら和也の提案を断る気でいた。
けれど逆に、和也はかなり乗り気の様子。それが全身から伝わってくる。
和也が変わったと言っても、麻美の言うことを何でも聞くようになった訳ではない。
彼は元来かなり頑固な性格をしている。
そんな人間がその気になっている時に諦めさせるのは、いくら麻美とはいえかなり骨の折れる作業になるため普通に面倒くさい。
故の溜息である。
「……うーん、ごめーん。レポートやらなきゃだからっ」
「そう言われると思って、代わりにやっておいた」
「……あ、そういえばシャンプー切れてたんだった。だから買いに行かないとっ」
「そう言われると思って先に買っておいた」
「…………」
本気だ。彼はこの上なく本気だった。
麻美が物凄い表情になっているのも気にせず渾身のドヤ顔を披露している。
頭のネジがダース単位で弾け飛んでいるとしか思えない。
「……そうだ。これからそこの二人と遊びに行く予定なんだった」
次の手として、麻美は近くにいた友人に助け舟を出した。
彼女たちとはかれこれ一年近くの付き合い。きっと、こちらの意図を汲み取って合わせてくれるはずだ。
そう願いながら、麻美は必死にアイコンタクトを送った。
「え、そんな約束してたっけ?」
「ううん、してないと思うよ」
しかし伝わらない。
なんて使えない奴らだろうか。彼女たちとの友情もここまでかもしれない。
麻美は冷酷にそう決断を下した。呪えそうなほどに恨みがましい視線を二人に送っている。
「それじゃあ彼氏さん、マミのことお願いね」
「おお、任せてくれ」
「マミも、また明日ー」
「ばいばーい」
本人の意思を無視して話は勝手に進み、完結した。
「…………」
サムズアップを和也と交わしてから、お邪魔虫は退散とばかりに去っていく元友人たち。
味方が寝返ったことによる孤立無援。麻美に打つ手はもはや残されてはいなかった。
実際のところ、完全に拒絶すれば和也は無理強いはしてこないだろう。
しかしそれをするのは少し違う気がした。何かと理由を付けてスマートにこの場を躱す。それが理想だったのだ。
だがこれ以上策を弄するのもそれはそれで無駄に体力を使う。
家の近くまで送ってもらい、それをデートということにしてもらおう。
そう妥協案を切り出そうとした時、その場に新たな人物が現れた。
「和也さん、マミ、こんにちは」
その存在はまさに救世主と言えた。
しかし麻美ではなく、和也にとっての救世主である。
「二人も今から帰るところ?」
三つ編みおさげに黒縁メガネ。麻美や和也と同じ大学に通う大学生──一ノ瀬ちづるだった。
「ハロー、ちづるちゃん。偶然だね」
「おう、ちづるさん。今朝方ぶり」
和やかに交わされる挨拶。
和也の言葉に、麻美が反応した。
「ん? 今朝方ぶり?」
「ああ、朝家出る時間が偶然被ってな」
「そ、そうなの。それでせっかくだから、一緒に大学まで行こうって話になって……」
「……へー」
和也はなんてことないように言っているが、ちづるの方は少々歯切れが悪い。
彼女持ちの男と二人で通学したことに、少なからず後ろめたさを感じている様子だ。
「ちづるちゃんはこの後時間ある?」
「え? ええまあ。特に予定はないけど……」
「そっかー。ちなみに私はこれから和くんとデートなんだー」
「ならなんで聞いたのよ」
揶揄うように話し掛けながら、麻美はちづると初めて会った日のことを思い出していた。
あれは去年の夏休み。麻美と和也は知り合いに誘われ十人ほどのメンバーと共に海へと遊びに行った。
そこでたまたま同じ大学の他のグループと遭遇。流れで行動を共にすることに。
そんな中、和也が向こうのグループにいた一人の女の子とやたら親しげに話していることに麻美は気づいた。
話を聞いたところ、どうやら二人は同じアパートに住むお隣さんであるらしい。隣人として挨拶くらいはしたことがあったが、同じ大学に通っていることはその時初めて知ったのだとか。
何となく気に食わない、というのが麻美の本音だった。
三つ編みメガネ。平凡な服装。一見して地味な印象を与えてくる。
だが麻美は気づいていた。他のみんなは分かっていないようだが、麻美だけは彼女の本当の姿に勘づいていた。
一ノ瀬ちづるはただ目立たない女を演じているだけ。
容姿は優れているし、肌や髪、爪の手入れも欠かしていない。細部の装飾や持ち物から、オシャレに疎いということもなさそうだ。ふとした仕草から、自分をよく見せる術を知り尽くしていることも窺える。
そしてなによりスタイルが抜群。
もしも彼女がその気になれば、麻美以上の人気を獲得するかもしれない。
それが少しだけムカついた。何だか見下されているようで癪に障った。
いや、それだけならばまだよかった。
どうせ大して接点のない相手。向こうが余計なことをしてこないなら、気にするだけ無駄というもの。
だがそうもいかない事情があった。彼女は決して無視できるような存在ではなかった。
一ノ瀬ちづるは、木ノ下和也とかなり深い関係にあったのだ。
それは海での出来事の少し後。夏休みが終わってすぐのこと。
和也は退院した祖母の快気祝いとして、家族と共に山奥の温泉宿へとやって来ていた。
そのことを麻美は予め伝えられていたが、特にこれといって興味を示すようなことはなかった。
和也の家族の健康状態などどうでもいいし、プライベートに関わるつもりもない。
だから問題は、夕方頃に送られてきた一通のメッセージだった。
内容は、一ノ瀬ちづると同じ部屋で一夜を過ごすことになるかもしれない──というもの。
訳が分からない、というのが麻美の感想だった。
説明を聞くに、和也の祖母とちづるの祖母は大の仲良しであり、退院の時期がちょうど重なったためこれ幸いにと一緒に旅行に行くことにしたのだとか。そして祖母同士が結託してお互いの孫をくっつけようと画策した結果、同じ部屋に押し込められたのだとか。
やはり訳が分からない。それが話を聞いての麻美の感想だった。
自分という彼女がいるのにどうしてそうなるのか。
仕方なく、その日は一晩中和也と通話を繋ぐ羽目になった。
和也の横で何故かちづるも起き続け、そのまま朝まで三人で時間を潰すことに。
思えば、彼女と距離が縮まったのはあの時のことがキッカケだった気がする。
それからなんだかんだあり、麻美とちづるは今では親しげに名前を呼び合うまでの仲になっていた。
その関係が続いている一番の要因は、麻美が和也の彼女であるという一点にある。
彼氏に悪い虫がつくというのは、彼女としては受け入れ難いものだ。
この感情は嫉妬や不安といった可愛らしいものではない。もっと黒く醜いもの。言うなれば独占欲だ。
だがそれとは別に、一線を越えない限りは和也にちづるを近づけさせてもいいのではないかという考えもあった。
二人がどれだけ親しくなろうとも、自分がいる限り和也とちづるが恋人関係になることはありえない。
その事実を思うだけで、麻美は全身が震えるような優越感を得ることが出来たのだった。
友情と呼ぶには不純で刺々しくて歪んでいる。
だがそれも込みで、麻美はちづるとの関係を楽しんでいた。
たとえそれが、麻美と和也が別れた瞬間に破綻するものだとしても。
そしてその関係を受け入れているのは、おかしなことにちづるの方も同じだった。
「……ねえ、いつまで付いてくるつもり?」
「仕方ないでしょ。私も帰る方向こっちなんだから」
「恋人同士の時間を邪魔されたくないなー」
「心にもないことを」
並んで歩く麻美とちづる。その少し後ろを和也が追従する。
角度によっては女子学生二人を付け回す怪しい男の図に見えなくもない。
「和也さんはどう? 私が居ると迷惑?」
「いや? 全然そんなことはないぞ」
「…………」
麻美が非難の目を向けてくるが和也はどこ吹く風。
麻美とちづるが空前絶後の仲良しであることを、和也は信じて疑っていなかった。
「マミも和也さんを見習ってもう少し思いやりを覚えた方がいいんじゃない? そんなだから陰で色々と言われるのよ?」
「へー、心配してくれるんだやっさしー。なら、ちづるちゃんはまずその格好をやめた方がいいと思うよ? そんなんだからモテないんだよ」
「別に、モテたいとか思ってないし」
「ああ、そっかー、そうだよねー。本命の相手はちゃんと分かってくれてるもんねー」
「さあ、なんのことか分からないわね」
「それに彼氏も沢山だし」
「ちょっ、その話は外ではやめてってば!」
麻美の言葉に早口で返しながら、ちづるは近くで聞き耳を立てている者がいないかを慌てて確認した。
問題がないことを確かめるや否やホッと息を吐き、次いで歩く速度を緩めると思い出したように振り返る。
そして、こちらのやり取りを温かい目で見ていた和也へと声を掛けた。
「そういえば和也さん。来週のことはもう聞いた?」
「うん。ばーちゃんから聞いてる」
「……来週、何かあるの?」
話についていけない麻美は、嫌な予感を覚えながらも二人に質問した。
「もうすぐ私の誕生日でね。それで、うちと木ノ下家の合同で誕生日会を開こうって話になってるの」
「……へー」
麻美の顔がぐるりと和也の方を向く。
「どういうこと?」
「ん? ああ。二十歳になる節目の歳だし、盛大に祝おうって話になったらしくてな」
「私が聞きたいのはそういうことじゃないんだけど」
「ああ、マミちゃんも一緒に祝いたかったのか。なら、別の日に三人でパーティーでも開くか?」
「いや、そういうことでもないんだけど」
本気か冗談か分からない発言に脱力しつつ、麻美は矛先をちづるへと変更する。
「そもそもなんで家族ぐるみの付き合いが未だに継続してるわけ?」
「しょうがないでしょ。私のおばあちゃんと和さんがすっごい仲良しなんだから」
「なごみさん、ね」
そのなごみさんというのが和也の祖母の名前であることは話の流れで理解できた。
問題はなぜ人の祖母をそのように気安く呼んでいるのかだ。
アピールのつもりだろうか。
「でも、その老人コミュニティにちづるちゃんや和くんは関係ないよね?」
「老人コミュニティって……。あの二人、何かにつけて私と和也さんをくっつけようとしてくるのよね。ほんとお節介。こっちとしてもいい迷惑よ」
「……満更でもないくせに」
「何か言った?」
ちづるの表情や声質からは本心を読み取ることは出来ない。だからこの意見は女の勘によるものだった。
麻美は再度和也へと視線を戻す。当の本人はなぜかぼーっと空を見上げていた。どうやら鳥が群れで飛んでいたようだ。
麻美の額に青筋が浮かぶ。
「ねえ、和くん。私は和くんの彼女だよね?」
「当たり前だろ。別れるなんて嫌だからな」
「うん、ありがと。でも、だったらどうして、和くんのおばあちゃんは和くんとちづるちゃんをくっつけようとしてるのかな? 私のことは話してないの?」
「いや、何回も話してはいるんだけどさ……」
そう言いながら、和也は気まずそうに頬を掻いた。
まさか、ちづる以外との交際など認めないとでも言われたのだろうか。
「彼女がいるなら、自分にも合わせろってばーちゃんに言われてさ。それを拒否し続けてたら、彼女ってのは俺の妄想か二次元の存在だと思われたらしくて……」
「ぶふっ」
合わせられない彼女=イマジナリーor下位次元の相手。
なるほど、確かに理屈としては分からなくもない。
それはそれとして笑いを堪えきれていないちづるには後で復讐をすると心に決める。
「だったら私を紹介すればいいじゃん。それとも合わせられない理由でもあるの?」
「え、いや、頼んだ時に嫌だって言ったのはマミちゃんだろ?」
「あれ、そうだっけ?」
顎に指を当てながら記憶を辿る。
数秒後、ああ、そういえばそうだったかもしれないと麻美は頷いた。
「でも、あれ言われたのって確か付き合い始めて数日後とかじゃなかった? さすがにそんな早くに家族に合わせたいとかお願いされたら、女の子としては引くしかないないんだけど……」
「そういうものか?」
「うん、そういうもの。ね、ちづるちゃん?」
「え? え、ええ……まあ、そうね。私もそう思うわ」
「絶対思ってないよね」
バイトとしてレンタル彼女をしているちづるは、数回会っただけの客から家族に紹介したいと言われた経験が何度もある。
それ故に麻美の言葉にあまり共感できなかった訳だが、その特殊な背景を知らない麻美は自分が少数派であることに愕然としていた。
ちづるがレンタル彼女をしていること自体は知っている。だがまさか、レンタル彼女を家族に紹介しようとする男がこの世に何人もいるなど夢にも思っていなかったのだ。
「それにしても、ちづるちゃんも悪い女だよね。和くんに私という彼女がいるのを知ってるのに、黙って外堀から埋めていこうとするんだもの」
「ちょ、人聞きの悪いこと言わないでよ!」
「えー、だって事実じゃーん」
「だから、それはおばあちゃんたちが勝手にやったことであって、私にはそんな気これっぽっちも無いから!」
「へー、じゃあ和くんのことは別に好きでもなんでもないんだ?」
「そ、そうねっ」
「だってさ和くん」
「……ちょっと死んでくる」
「そこまで!?」
和也の顔から精気という精気の全てが抜け落ち、その姿はまるで勤め先の会社が三連続で倒産したサラリーマンのような有様になっていた。
最愛の彼女に別れ話を切り出された時以上に落ち込んでいる気さえする。予想以上の結果に麻美は人知れず舌打ちした。
「ご、ごめんなさい……冗談、冗談だから! ホントは全然嫌いじゃないから! だから生き返って!!」
「……うん」
「……はぁ。もう、いきなりなんなのよ、ビックリしたじゃない。情緒不安定過ぎない?」
「……ごめん。それと……」
「……なによ」
「俺もちづるさんのこと、嫌いじゃないぞ」
「……そ、そう。ありがと」
しかもなぜかイチャつき出した。彼女の目の前で。
麻美はスっと二人の間に割り込むと、和也からちづるを強引に引き剥がす。浮気現場を見続けるのは精神的によろしくなかった。
「ほら、ちづるちゃんの家向こうでしょ。帰った帰った」
「……分かってるわよ。だからそんな押さないでってば」
促されるまま自宅の方向へ歩き出そうとしたちづるは、何を思ったのかピタリ立ち止まると、くるりとUターンして再びこちらへと近づいて来た。
向かう先は和也ではなく麻美。耳元に顔を寄せ、忠告するように小声で囁く。
「最近彼の周りが騒がしいから気をつけた方がいいわよ」
それだけ、と付け足してから、今度こそちづるは帰路についた。
「えっ、その話詳し──」
「それじゃあ二人とも、また今度ね!」
手を振り、逃げるように去っていくちづる。
「おう、じゃあなちづるさん」
「ちょっ、待ちなさいってば!」
麻美の静止の声も完全に無視。
「あ、マミ! 誕生日プレゼント、期待してるから!」
その表情は、イタズラが成功した子どものように満足気に見えた。
****
ちづるを追い掛けたところで意味はない。どうせ運動能力の差で逃げ切られてしまう。
そう理解している麻美は、少しだけ憂鬱な気分になりながら和也と二人きりでのデートを開始した。
ちづるにああ言った手前、きちんとそれっぽいことをするつもりだ。そして一部始終を後で報告する。隙のない完璧な作戦だった。
「あ、和也君!」
しかし、そこに運悪く邪魔が入る。
ちづるが一人目の刺客だとするならば、この人物は二人目の刺客。
しかも攻撃力はこちらの方が上。いくら麻美とはいえ苦戦は避けられないだろう。
「お久しぶりです! まさかこんな所で会えるなんて!」
その強敵の名を──更科瑠夏という。
「すっごく嬉しいです!」
ダッシュで近寄ってきた瑠夏は、その勢いのまま和也の胸元へとダイブした。
突然の奇行に面食らう麻美。
一方の和也は後ろに下がることで衝撃を逃がし、瑠夏を優しく抱き留めていた。その無駄のない動きからは慣れを感じさせる。つまり、このやり取りはかなり頻繁に行われているということだ。おそらくは会う度にやっているのだろう。
「危ないからやめろっていつも言ってるだろ」
「えへへ、ごめんなさい。ついはしゃいじゃって」
「全く、次やったら避けるからな」
「大丈夫です。次も受け止めてくれるって信じてますから」
もはや考えるまでもない。ちづるが言っていたのはこの女のことだ。
いつか探らねばと思っていたが、まさかこんなにすぐ会えるなんて麻美としても予想外だった。
だが都合がいい。いつまでも我が物顔で和也の近くをうろちょろされるのも目障りだ。
ここは一つ、ガツンと言ってやらねばなるまい。
「ねえ、どこの誰だか知らないけど、
「……えーと」
制服姿の少女は驚いたように横を見た。
まるで今初めて麻美の存在に気づいたような素振り。和也しか眼中になかったことをこれでもかとアピールしているかのよう。
反応がいちいち神経を逆撫でする女である。麻美は和也の腕を取りながら攻撃的な笑みを浮かべた。
「私は七海麻美。ここにいる木ノ下和也の彼女だけど?」
「……そうですか、あなたが」
麻美の言葉に受け、瑠夏は何やら納得したような表情になった。
前もって麻美の情報を聞いていたのだろう。ちづるが許可なく話すとは思えない。たぶん、説明したのは当人である和也だ。
「話に聞いていた通り、悪魔みたいな性格をしてそうですね」
「……和く〜ん」
首を限界まで回し元凶を見る。
面識のない少女相手に、一体何を吹き込んでくれているのだろうか。
「私が悪魔みたいってどういうことかな?」
「いや、違うんです。これには深ーい理由があるんです」
「たとえどんな事情があったとしても、彼女を悪魔呼ばわりするのはどうかと思うんだけど? ねえ?」
「はい、仰る通りです」
一応反省はしているようなのでこれ以上の追及はやめてあげることにする。
自分の性格が悪い自覚はあるし、ちづるに悪魔みたいだと直接言われたこともある。
そういえばその場には和也もいたはずだ。なるほど、元を辿れば原因はあの清楚気取り多人数援交女であったか。
その時の和也は悪魔みたいなところも好きだと言ってくれたのだったと記憶している。それは褒めているのだろうか。麻美は思い出して微妙な気分になった。
「……で、その深ーい理由ってのは?」
「ほら、瑠夏ちゃんってこんな感じだろ? 慕ってくれるのはありがたいんだけど、俺も彼女がいる身なわけで……。だから俺には悪魔みたいな彼女がいて、あんまり調子に乗りすぎると死ぬより酷い目に遭わされるぞって脅してみたんだよ」
「和くんは可愛い彼女のことを何だと思ってるの?」
経緯は分かった。だが納得は出来ない。
何より気になるのはこの女のことを名前呼びしている点だ。この彼氏は馬鹿な上にカッコつけたがりで、可愛い子には特に甘くなるというそれはもうザ・男のような性格をしている。
あまり相手をしてあげなかったり雑に扱ったりすることが多いのが悪いのだろうか。
それでも自分だけを見ておけばいいというのが麻美の意見だった。自己中ここに極まれりである。
「なら、もっとハッキリ拒絶すればいいだけじゃない? 思い切り顔を殴ればさすがに愛想尽かすでしょ」
「マミちゃん。そういうところだからな」
隣で悪魔だ、と瑠夏が小声で呟いているのが聞こえてきた。
当然の反応だった。
「和くんが和くんならあなたもあなただよー。彼女持ちの男相手に、恥ずかしげもなく色目なんか使っちゃってさ……。あっ、もしかしてそういう略奪愛みたいのが趣味だったり?」
和也がこういう男なのは今更の話なので矛先を瑠夏へと変更する。
ムッとした表情になる瑠夏と笑顔の麻美。放たれる圧力は対面する猛獣のごとし。
女の戦いが始まることを予感し、和也は人知れずストレッチを始めた。
何を血迷ったのか途中参加する気らしい。
「マミさんこそ、いつまでも和也君のこと拘束してないで、別の人と付き合い始めたらどうですか? あなた別に、和也君のことそこまで好きじゃないですよね?」
「そうかもね。でも、和くんは私が好きで、私は和くんの彼女。それが全てじゃない?」
「全然違います! そんな関係続くわけない……。こんなの絶対間違ってます!!」
叫ぶ瑠夏に対し、小さく首を傾げるだけの麻美。
その余裕綽々といった態度が瑠夏には気に食わなかった。想いの丈をぶつけるようにキッと麻美を睨みつける。
一方の麻美も瑠夏の突然のシャウトに内心でドン引きしていた。認識をただのメンヘラからやばいメンヘラに格上げする。盛大なブーメランであることには気がついていない。
「あなたは別に誰だっていいはずです。でも私はそうじゃない……私には和也君しかいないんです!!」
どうやらまともに会話をすることは出来なそうだ。
仕方なく、麻美は和也に視線で説明を求めた。彼なら何か事情を知っているはずだ。
「……瑠夏ちゃん、話してもいいか?」
「……はい。それで、マミさんが納得してくれるなら」
別に、ただ話を聞くだけだ。
たとえどんな事情を抱えていようと、彼女の存在を認める気はない。
ちづるとは違う。あれは揶揄っていて楽しいが、こいつと関わるのは意味もなく疲れるだけ。麻美はそう判断していた。
「実は瑠夏ちゃん、生まれつき心臓に疾患を持っているらしくてさ。そのせいで、小さい頃は激しい運動とか、身体に負担がかかることは禁止されてたみたいで……今はもうだいぶ良くなったけど、それでも少なからず影響は残ってるというか……」
「私、普通の人みたいにドキドキ出来ないんです。絶叫マシンに乗っても、ホラー映画を見ても心臓は静かなまま。まるでロボットみたい……。でも、和也君といる時だけは違うんです! 和也君だけが、私を普通の女の子にしてくれるんです!!」
「へー、そうなんだ」
で? というのが麻美の正直な感想だった。
本人的にはなにやら重大な事柄らしいが、やはり麻美の心を動かすには至らない。
ズイっと見せつけてきたスマホには88という数字が記されていたが、知識のない人間にピンと来るはずもない。
瑠夏は自分のことをロボットと称したが、麻美の方がよほどそれらしいのではと和也は感心していた。
「あっ、見てくださいこの顔! 全っ然心に響いてないって顔ですよ! いやまあそんな気はしてましたけどね! 和也君から何回も聞いてるから詳しいんです!!」
深刻な表情から一転。瑠夏はやけくそ気味に叫びながら麻美を指さした。
どうやらさっきまでのは演技だったようだ。なかなか侮れない。
ただのヒステリック女ではないと分かり、麻美は瑠夏に対する評価を少しだけ改めた。
「好きな相手から惚気話を聞かされる私の気持ちが、あなたに分かりますか!?」
「いや、知らないけど。分かりたくもないし」
「ムキーッ!」
地団駄を踏む瑠夏。仕草がいちいち大袈裟なデカリボンである。
「で、結局和くんはどうしたいわけ?」
「いや、どうやら瑠夏ちゃん、俺といる時だけは例外的にドキドキできるみたいでさ」
「うん、それは聞いた。で?」
「だからそのドキドキする感覚に慣れさえすれば、俺がいなくてもドキドキできるようになるんじゃないかと思って……」
「医療器具かカウンセラーにでもなりたいわけ?」
「まあ、そんなとこ」
「なるほどね。……それはそうと、ドキドキドキドキ連呼するの恥ずかしくない?」
「……ちょっとだけ」
少しだけ顔を赤くする和也。その仕草に瑠夏は愛おしさを覚え、麻美は特に何も思わなかった。
「うん、和くんの言いたいことは分かったよ」
コクリと小さく頷いてから、麻美は瑠夏を見た。
「それを踏まえた上で一つだけ言わせて」
静かな圧を受け、思わず唾を飲み込む瑠夏。そんな彼女に対し、麻美は非情に告げる。
「もう、私の和くんに近づかないでくれないかな?」
年下女子をバッサリと切り捨てる容赦のない言葉。
しかし瑠夏は納得していた。麻美は言葉を受け入れるという意味の納得ではない。やはりこうなったか、という心情を表した、麻美とはどこまで行っても仲良くはなれないということを確定したことによる納得である。
瑠夏は麻美から目を逸らさなかった。
ここで引いたら負けだと思った。そしたら全てが終わってしまう。
麻美が和也と別れるまで、和也と会う機会は永遠に失われる。そんなのは真っ平御免だった。
やっとの思いで見つけ出した希望。自分が自分らしく在れる唯一の相手。人生で一番好きになった男の子。
そう簡単に諦められるはずがなかった。
「あなたの言い分は、彼女として当然のものだと思います……。それでも、私は──」
火花を散らせながら、自己中心的な思考で言い返す。
その直前。
「まあ待ってくれ二人とも、ちょっと俺の話を聞いてくれないか?」
和也が強引に話に割り込んできた。
「……和くん、今大事な話をしてるとこなんだけど?」
「いや、俺の方も大事な話なんだ」
「そんなの後でよくない?」
「よくない」
「…………」
真剣な目で見つめられる。その視線が麻美には気に食わなかった。
ここで横槍を入れる理由など一つしかない。つまり、和也はこのるかとかいう女との関係を続けていたいのだ。
沸々と黒い感情が湧き上がってくる。
和也は何も分かっていない。人の感情を読むのが得意だと自称するくせに、肝心なところで異常に鈍い。
恋愛感情を抱かなければいいという訳ではない。
自分から接触しなければいいという訳ではない。
麻美だけを好きでい続ければいいという訳ではない。
そんな簡単なことすら、この男は理解していないのだ。
「……はぁ」
だが、今回は──否、今回も麻美は自分から折れることにした。
うるさい小バエが彼氏の周りをうろつくのは心底目障りだが、和也を説得するのは困難を極める。
それに、たとえ和也を説き伏せたところで、この女は自分の知らないところで和也に会おうとするだろう。
つまり労力の無駄。意味がないと分かっていることに全力を尽くせるほど、麻美は真面目な人間ではなかった。
そして麻美が妥協した最大の理由。それは、和也とこのリボンが結ばれる光景を全く想像できなったからだ。
だから、少しだけ安心できる。少なくとも、ちづるよりは危険性が低い。
もし、自分が和也に飽きたその時は、二人の争いを外から眺めるのも悪くないかもしれない。
そんな到底訪れないだろう未来が、麻美の脳内に一瞬だけ浮かんですぐに消えた。
「で、大事な話って?」
「ああ、さっき友人たちと話してた時にちょっとだけ話題に挙がってさ。そのことについて、二人にも意見を聞いておきたかったんだ」
真面目な顔で、和也は言う。
「──俺って、イケメンの部類に入ると思うんだよ」
至極どうでもいい内容だった。
麻美と瑠夏の今後を左右する会話に割り込んでまでしたかった話がまさかのこれである。
麻美の目からすっと光が消えていく。
「なのにあいつらときたら、やれ下の上だの、良くて中の下だの、言いたい放題言いやがってさ」
妥当な判断だ、と麻美はその意見に同意した。
「二人は、俺の容姿についてはどう思う?」
「はい! カッコイイと思います!」
「おおっ、やっぱそうだよな! ありがとう瑠夏ちゃん!」
たぶん、お世辞ではなく本心なのだろう。
恋は盲目とはよく言ったものだ。きっと特殊なフィルターを通して見ているに違いない。
「マミちゃんはどう思う?」
期待するような目でこちらを見る和也。
異性相手に真正面からその問いを投げ掛けられる勇気は賞賛に値する。
それに麻美は和也の彼女だ。彼氏の期待に応え、瑠夏と同じ返答をするのが当たり障りのない普通の選択なのかもしれない。
けれど生憎、麻美は普通ではなかった。故に飾らず、偽らず、思ったままを口に出す。
「まあ、普通じゃない? 可もなく不可もなくって感じ?」
判定は中の中だった。
その言葉を受け、和也は驚愕したと言わんばかりの表情になった。
隣で瑠夏も同じような顔をしている。全くもって意味が分からない。そんなに予想外の答えだったのだろうか。
「い、いや、待ってくれ……マミちゃんと付き合えてる時点で、俺はイケメンなはずだろ?」
「いや、別に顔で選んだわけじゃないし」
「なん、だと……」
淡い幻想が砕かれ、地面に膝をつく和也。そんな情けない姿の男を励ましながら、キッとこちらを睨みつけてくる瑠夏。
何ともおかしな光景だった。一体どんな反応をすればいいというのか。
「…………」
少数派に分類された麻美は思った。これではまるで自分が間違っているようではないか──と。
『ねえ、和くんってイケメンだと思う? 顔だけの評価で』
己の美的感覚がズレていると認めたくない麻美はスマホを取り出し、ある人物へとメッセージを飛ばした。
『……普通くらい?』
果たして、返信はすぐに来た。
連絡相手の名は一ノ瀬ちづる。少なくとも、目の前の二人よりは感性が信用できる相手である。
自分が間違っていないと確認が取れた麻美は、暗雲が晴れたような清々しい気分で顔面偏差値が並の彼氏に向き直った。
酷い話だった。
「あっ、もうこんな時間! ごめんなさい和也君、私これから用事が入ってて……」
それから程なくして、瑠夏との別れの時間がやってきた。
「おう、じゃあまたな」
「はい、また今度」
和也と挨拶を交わしてから、瑠夏は麻美の方にも向き直る。
「マミさんも、また」
「出来れば、二度と会いたくはないんだけどね」
言いながら、麻美はいつもの笑顔で去っていく瑠夏を見送った。
「ねえ、和くん」
「ん?」
「心拍数の問題が解決すれば他に好きな人が出来るって、本気で思ってる?」
「可能性は高いだろ?」
「ううん、全然」
「……あれ?」
きっかけがどうあれ、一度本気で好きになってしまったら心変わりするのは簡単なことではない。和也を見ているとそう思えてくる。
だからこそ厄介なのだ。瑠夏は和也こそが運命の相手だと信じて疑っていない様子。和也が本気で拒絶しない限り、猛烈なアタックはこれから先もずっと続くことになるだろう。
「ねえ、和くん」
「ん?」
「重い女は嫌い?」
「それがマミちゃんのことを言ってるなら、嫌いじゃないよ」
「そ」
とは言うものの、瑠夏に直接危害を加えるようなことをすれば和也は怒るはずだ。
和也といい、ちづるといい、瑠夏といい、周りにはめんどくさい人間ばかり集まってくる。
自分のことを棚に上げて、麻美は疲れたように溜息を吐いた。
「なあ、マミちゃん」
「なあに和くん」
「マミちゃんは、重い男は嫌いか?」
「うん、大嫌い」
間髪容れずにそう告げると、和也は少しだけ狼狽え出した。
「わ、別れないからなッ」
「大丈夫だって、別れる気はないから」
可笑しそうに笑いながら、小声で続ける。
「今はまだ、ね」
****
うるさいのが消えて、ようやく静かになる。
そう麻美は楽観していた。
だが甘い。不意の出来事とは立て続けに起こるもの。
次の刺客は、すぐそこまで迫っていた。
「ん?」
人で溢れた表通りを歩いていると、突然和也が後ろを振り返った。
「どうしたの?」
「いや、誰かに呼ばれた気がして……」
麻美には何も聞こえなかった。だからきっと和也の気のせいだろう。
そう結論付けようとした刹那、和也が大きく手を振り始めた。
嫌な予感を覚えつつもそちらを確認する。
そこには和也と同じようにこちらに向けて手を振る女の姿があった。
その女は満面の笑みを浮かべている。それだけで彼女の和也に対する感情が分かろうというもの。
ちづるは和也の周りが最近騒がしいと言っていた。
だがまさか、その対象が複数だとは思っていなかった。
「こんにちは墨ちゃん」
「…………!」
「墨ちゃんも大学帰り?」
「…………っ」
「へえ、そうなんだ。俺もさっき講義が終わったところでさ。今はデート中なんだ」
「!?」
おかしい。
目の前で繰り広げられる光景に、麻美は頭が痛くなりそうな思いだった。
出会ってから今までの間、この太眉女は一度も言葉を発していない。
だというのに、二人の会話は成立している様子。
全くもって意味が分からない。
静かになって喜んでいたが、こういうのを求めていた訳でない。
先程の瑠夏と比べて落差が激しすぎる。和也の元には変人しか集まらないのだろうか。
「……で、その子は?」
「ああ、桜沢墨ちゃん。確かマミちゃんと同い年だったかな」
「へー……こんな可愛い子と、どこで知り合ったの?」
「そ、それは……」
確認するように和也が視線を向ければ、墨はコクリと頷いた。相変わらず言葉は発さない。
「そ、その……墨ちゃんとは、レンタル彼女で知り合いまして……」
「……は?」
想定外の告白に、麻美の喉から思わず低い声が鳴った。
「……ねえ、どういうこと?」
「いや、だって、マミちゃんあんまり構ってくれないし……。それに、マミちゃんだって、よく他の男と遊んでるだろ?」
「私はいいの。自分からは声掛けてないし」
「マミちゃんくらい可愛かったら、それはもう居るだけで逆ナンと同じだからな」
「ちょっと何言ってるか分かんないなぁ」
気まずそうに視線を逸らす和也。
それを見て、麻美は追及を一旦保留した。
冷静になって考えてみると、いくつか見えてくるものがある。
和也の言葉は本音だろう。麻美が自分以外の男と遊ぶのをよく思わないのは、彼氏としては当然のことだ。たとえ財布として利用するための行動だったとしてもそれは変わりあるまい。
だが、それで安易にレンタル彼女に走ったりするだろうか。
レンタル彼女。
その単語を聞いて、真っ先に思いつく人物が一人だけいる。そしてその人物こそが今回の件の鍵を握っていると、麻美の鋭い感覚が訴えていた。
「えーと、すみちゃんだっけ?」
「っ!」
「ああ、喋るのが苦手なら無理しなくてもいいよ。私の質問に対して、はいかいいえをジェスチャーで答えてくれればいいから」
そう言えば、墨はやや緊張した面持ちで両手を胸の前でギュッと握った。
「あなたの所属事務所、Diamondって名前だったりしない?」
「!?」
目を見開いてから、コクコクと勢いよく頷く墨。
これでほとんど全貌は見えたようなものだが、麻美は念の為にもう少しだけ質問を続けた。
「いち……じゃないか、水原千鶴さんって知ってる?」
「っ!」
「あの子面倒見がいいから、ついつい相談事をしたくなっちゃうよね」
「っ!」
返ってきた答えはどちらもイエス。こうして、諸悪の根源はあっさりと発見された。
つまり、全ての原因は一ノ瀬ちづるその人である。
墨から受けた相談について、ちづるはふとした拍子に和也に意見を求めてしまった。それを受け、和也は普段から世話になっているちづるの助けになれるならと墨をレンタルした。そんなところだろう。
ちづるは彼女のいる男にレンタル彼女を勧めるような人間ではない。おそらく悪いのは和也の方。さりげなく名前を聞き出し、後日内緒でこの女をレンタルしたに違いない。
素っ気ない彼女とちづるの悩み。この二つが偶然噛み合ったことで起こった不祥事。
罪の割合的には1:8:1くらいだろうか。誰が8なのかは言うまでもない。
それはそれとしてちづるには一言文句を言わねばならない。スマホを取り出し手早くメッセージを送る。
『すみって子の件、後でじっくり聞かせてね』
既読はすぐについた。だが返信はない。
未読スルーを選択しないのは好感が持てるが、まさか言い逃れできるとでも思っているのだろうか。
なぜか麻美は、テヘペロ、とお茶目に舌を出すちづるの姿を幻視した。
本人はおそらくやらないだろうが、妙に様になっている。和也あたりが見たら歓喜しそうだ。
とりあえずムカついたので乱暴に霧散させた。
「…………なに?」
スマホをしまった麻美は、墨がこちらをじっと見つめていることに気がついた。
瑠夏のように敵意を含んだ視線ではない。かと言って見惚れている訳でもない。
やがて何かを思い出したようにハッとした表情になった墨は、ぐるんと和也の方へ首を向けた。
それから手をわちゃわちゃと動かし始める。何かを伝えたいようだが、それだけで分かるはずもない。
「え、強メンタルの人? かおりさん?」
否。なぜか和也にはきちんと伝わっているようだった。
「マミちゃんがナンパを利用して食事を奢らせた挙句、レポートまで全部やらせたところを、この間偶然見掛けたんだってさ」
「……ねえ、さっきから気になってたんだけど、何であれで伝わるの? 超能力?」
「何が?」
「何が、じゃないよ。この子、会ってから今まで一言も喋ってないでしょ?」
「……ああ、言われてみれば」
「それで会話が成立するってどういう原理?」
「……ひとえに──愛、かな」
「……は?」
得意気な顔になる和也。
低い声を出す麻美。
顔を赤くする墨。
浮かべる表情は三者三様だった。
「ほら、マミちゃんって何考えてるかよく分かんないとこあるからさ。彼氏として隣に居続けるために、必死に心を読む練習をしたんだ」
「いや、練習って……」
得意気に話す和也。
呆れる麻美。
少しだけしょんぼりする墨。
やはり、浮かべる表情は三者三様だった。
「それに、墨ちゃんはマミちゃんに比べて考えてることが顔に出やすいから、言葉にされなくても何となく分かるんだよな」
「それにしたって、限度があるでしょ」
呆れながら彼氏を横目で見る。
確かに、この男は細かいところに気づけるタイプの人間だ。それが元から備わっていたものではなく、最近になって発揮するようになった能力であることも事実。
だからといってやっていい事と悪い事がある。墨との会話や代弁なんてまさにその最たる例だ。
「で、人と話すのが苦手なこの子のために、和くんが協力してあげてるとか……そんなところ?」
「おおっ、凄いなマミちゃん。よく分かったな」
「話の流れから、そのくらいは察しがつくよ」
なぜレンタル彼女をしているのか。なぜちづるが気にかけるようになったのか。
その辺の背景も、何となくは想像できる。
「それを踏まえた上で、私が言いたいことがあるとすれば……」
和也と墨の二人を見ながら、何気なしに麻美は呟く。
「それ、逆効果じゃない?」
「……え?」
驚いたような顔になる和也。
「だって、人と普通に話せるようになりたいんでしょ? それなのに考えてることが何でも分かる和くんといたら、会話の練習にならないじゃない」
「「!!??」」
「え、何であなたまで驚いてるの?」
麻美にしては珍しい、悪意0%の助言だった。
それを聞き、和也と墨は電撃が落ちたような衝撃に襲われた。
言われてみれば、最初に会った頃はもっと話そうとする努力を見せていたはずだ。しかし、ここ最近はその兆候すら浮かび上がらない。
話さなくても伝わる。その事実を墨が認識してしまったことが原因と言えた。
「効果がないだけならまだマシだけど、もしも症状が悪化するようなら、その関係は断ち切った方がいいと思うよ」
和也の存在に頼りきりになってしまえば、やがて和也以外の人間への不満が募り、最後には和也に依存するようになってしまうだろう。
人は誰しも、自分を理解してくれる人間を求める。
だが、それが望む未来でないことは、墨本人も分かっていた。
「ど……」
「ん?」
「どうしたらいいと……思い、ますか……?」
ここに来て初めて、麻美は墨の声を聞いた。
見た目通り可愛らしい、というのが嫌味のない感想だった。
「マミちゃん人と話すのとか得意だし、何かアドバイスとかしてあげられないか?」
「えー」
少しだけ考える素振りを見せる麻美。
「……うーん……こういうのって、ようは慣れだからさ。今度、2人でどこかに遊びに行こっか」
「!!」
「……和くん、これはどういう顔?」
「喜んでる顔」
「そうなんだ。ならいっか」
麻美は蠱惑的に笑いながら墨を見る。
「大丈夫だよ。安心して。私たち二人で歩いてれば、向こうから勝手に声を掛けてくるから」
「……なあ、もしかしてマミちゃん……?」
「うん、和くんの想像してる通りだと思うよ?」
「そんな荒療治……というか、墨ちゃんを悪の道に引き込むのはやめてくれよ」
「悪の道って……」
本気で心配そうにする和也を見ながら、ちづるも似たようなことを言いそうだと麻美は思った。こんな純粋な子に男遊びを教えるのはやめてちょうだい、と母親面する姿が容易に想像できる。
「無理はさせないから。彼女である私を信じて、ね?」
「ん、うんん……」
そう言われてしまえば、彼氏としては信用せざるを得ない。
「あ、そうだ。私があなたに協力するにあたって、二つだけ条件があるの」
麻美のその言葉に、墨が身構える。
「一つ目は必要以上に和くんと会わないこと。和くんといるのは居心地がいいかもしれないけど、それじゃあ成長しないからね」
もちろん建前だ。
墨に対して悪感情は抱いていないが、それはそれとして和也と関わるのはやめてほしいと麻美は考えていた。
危険度で言えばちづるはおろか瑠夏よりも低い。だが用心するに越したことはない。
庇護欲がいつ恋愛感情に変わるとも限らないのだ。
「もー、そんな顔しないでよー。今の自分を変えられたら、和くんもきっと褒めてくれると思うよ?」
「!!」
暗い表情を浮かべていた墨を見兼ねて麻美が耳打ちする。
会う機会が減ることでそのまま和也のことを忘れ、静かにフェードアウトしてくれたらいいのにという本音はおくびにも出さない。
「で、二つ目」
墨の顔に、再び緊張の色が灯る。
「こっちは簡単。今度水原千鶴さんに会った時に、『麻美さんはとても可愛いくて、優しくて、今まで会った中で一番親切な女の子でした』って説明してくれればそれでいいから」
「??」
墨はよく分かっていない様子だったが、とりあえず頷いてはいたので問題ないだろう。
純粋な墨の口からこの言葉を聞いてちづるはどう思うのか。今から反応が楽しみだった。
と、その時。すぐ近くからくぅ、という小さな音が聞こえてきた。
隣を見れば、墨が恥ずかしそうにお腹を押さえている。どうやら小腹が空いたようだ。
麻美をして食べ物を施してあげたくなるような小動物的雰囲気を身に纏っている。
庇護欲を掻き立てられる存在。守ってあげたくなる女の子。
それは、麻美から最も縁遠いモテ要素の一つと言えた。
「二人はどこか入りたいお店とかある?」
「私は別にお腹空いてないんだけど」
「…………っ」
「そっか、じゃあ近くのミスドにでも寄るか」
「────!」
墨の反応を見るに、和也のチョイスは彼女のリクエストを採用した結果なのだろう。
墨としては遠慮している様子だが、和也は強引に話を進め、ついには目的地に向け先導するように歩き出してしまった。
その姿を見て少しだけ嬉しそうにする墨。一方、麻美は思考が停止した時のような笑みを浮かべていた。
「うん、やっぱり色々とおかしいよね」
その独り言が、誰かの耳に届くことはなかった。
****
軽食を終え、墨と別れた和也と麻美。
これで二人きり。邪魔者はいなくなった。
とはいえ、今から改めてデートをするような気分でもない。すでに時間もだいぶ遅いため、このまま寄り道はせず帰ることになるだろう。
「ねえ、和くん」
「なんだ、マミちゃん」
その道中で、麻美は考える。
「和くんって、好きな子とかいる?」
「そりゃあ、もちろんマミちゃんだよ」
和也を中心とする人間関係と、今の自分の立ち位置について。
「ちづるちゃんのことはどう思ってる?」
「尊敬してる。一人の人間として、理想の目標として、いつかあんな風にかっこよくなれたらって思ってる」
和也とちづる。
家が隣同士で、お互いの祖母が大の仲良し。家族ぐるみの付き合いをしており、現在進行形で外堀から埋められそうになっている。
まるで、幸せな将来が約束された主人公とそのヒロインのようだ。
「るかって子のことはどう思ってる?」
「可愛いらしい子だとは思ってる。あんなに明るい子を見てるとこっちまで元気になれるから、出来ればずっと笑顔のままでいてほしいな」
和也と瑠夏。
瑠夏の病気に対して、和也は唯一特効薬になり得る存在だ。瑠夏は真っ直ぐ過ぎるが、それはつまり一途ということ。愛は少し重い。だがそれ故に、おそらく和也を裏切ることはないと思われる。
二人が結ばれれば、苦労は多くとも楽しい人生が待っていることだろう。
「すみちゃんのことはどう思ってる?」
「真面目な上に純粋で、すごくいい子だと思ってる。苦手なことから逃げない姿勢は応援したくなるから、出来ればずっと傍で見守っていたいくらいだ」
和也と墨。
話すことが極端に苦手な墨に対して、和也は内心を正確に読み取る謎の技術を身につけている。お互いに居心地のいい存在。言葉を必要とせず意思疎通する姿は、熟年の夫婦を彷彿とさせる。
二人が支え合えば、どんな困難にぶつかろうとも曲がることなく成長を続けていくことが可能だろう。
「ふーん、そっか……」
どの組み合わせでも違和感はない。不平や不満がなければ不都合もない。
この三人の中の誰かをパートナーに選べと、世界が和也に神託を下しているとさえ錯覚してしまう程に。
「……ねえ、和くん」
それでも。
「私、和くんのことが大好きって訳じゃないけど……」
もし仮に、運命などという言葉が本当に存在するというのならば──。
「別に、嫌いって訳でもないからね」
麻美にとっての運命は、あの三人よりも先に和也に出会えたことなのだろう。
それから数分後。
和也と麻美の前に、新たな女──四人目の刺客が出現した。
「あっ、師匠! こんなところで会うなんて奇遇っスね!」
瞬間、麻美の瞳から一切の色と光が消滅した。
麻美ちゃんが関わるとだいたい面白い説。
アニメ2期で麻美と瑠夏の絡みを見るのが今から楽しみです。