「アマガミ」の短編版ノベライズです。
棚町薫さんのエピソードになります。
この小説を読むと、
もしかしたら別の意味でドキッとしちゃうかも?
薫も女の子なんだ。
唇が滑らかな白い肌に触れた時、僕はおそらく初めて薫のことをそう意識した。
ついこの前の放課後、なんでそういうことになったのか覚えていないが、僕は薫のへそにキスをすることになり、こっそりと図書室でひざまずいた。
キスをしたときの感触は自分の唇がこれまで感じてきたあらゆる感覚の中で、例えを探してみても似たものを見つけることのできない、自分の世界をいとも簡単に覆(くつがえ)すことのできる柔らかさだった。
二人とも、人目をはばかってこっそりやろうとしたものだから、いつか誰かに見つかるのではないかという胸の高鳴りが、お互いに言葉にせずとも分かった。それに、本を棚に直す時の音や、椅子を動かす時の音がたまに聞こえてくるだけであとはほとんど無音だったから、その中で僕の唇が薫のお腹の肌に触れた時に薫の口から洩れた、
「んんっ!」
という小さな声が、一際大きく聞こえた。
その時、僕がヒートアップしてさらに薫を攻めると、
「あっ、んんんっ!」
手を口に当てながら勝手に吐息と一緒に出てしまう声を、どうにかして出ないようにしている薫の姿が、一瞬、目に入った時は興奮した。そんな慎ましいしぐさを見て、また思ったものだった。
薫もやっぱり女の子なんだ。
僕が薫とこんなエッチなことをするようになったのも、元をたどれば薫のあの言葉があったからだ。
「あんたと私の関係って、何だろうね」
薫との関係は中学三年生の頃から続いていて、恋人としてではない異性とのつながりで言えば長い方だろう。単なる「知り合い」でもないし、「友達」と言ってしまったらその瞬間に二人の間にある大切な何かを取りこぼしてしまっているような気がする……。何とも簡単には名付けようのない不思議な関係。
「そろそろ少しくらいの変化があってもいいと思うんだ」
僕はこの言葉を聞いた時から、半強制的に薫の「関係性改革」に巻き込まれて行った。
その先に、あの図書室での一件があったわけだ。
薫の存在を一番確かに、近くに感じたあの瞬間から、明確に薫を見る目が変わった。これはおそらく元には戻らないだろう。
一度たりとも薫をはっきりと「女の子」として意識したことなんてなかったし(これを本人に言ったら間違いなく鉄拳が飛んでくるだろうが)、その兆しがあったとしてもその考えを自ら無条件に振り払ってきた。“あの時”に頭の奥で感じた薫の「女の子」の匂い、「女の子」の柔らかさ、「女の子」の声……。もはや僕の薫に対する認識はこれらの甘い記憶によって上書きされたと言ってもいいだろう。
最近は薫が視野に入る度にそれらの感覚が思い出されて、戸惑う。教室の出入り口や廊下ですれ違う時は気まずくていたたまれなくなる。
まさに今朝がそうだった。登校時間に薫と鉢合わせして、教室まで一緒に歩いて行ったのだが、まず最初の挨拶の時点で違和感しかなかった。
「あ、お、おはよう、薫」
僕が薫に対して吃(ども)ることがあるなんて我ながら驚きだった。
その後の会話も、お互いがわざとあの時の話を避けて話そうとしたものだからほとんど盛り上がることなく、教室へ着いた。
ついさっきの昼休み、僕と薫と梅原で今流行っているドラマの話をしていた時も、やけに薫の存在が気になった。そこにただいるだけなのに僕の心の中は平静ではいられなかった。薫だっておかしかった。梅原は気づいたか分からないが、その時の薫はやけに「乙女感」を出していた。声量は抑えめで、声色をやけに涼しげに、そして時折甘ったるくして、いつもみたいに戦闘モードに入ることなどなく、大人しく僕の目の前に座って話していた。気分屋な薫のことだし変なキャラを突然入れ込んでくることはこれまでに何度もあったけど、明らかにいつもと違うと思った。何か分からないが……これはマジだと。
今日の授業はこの一コマで終わりだ。最後は高橋先生の日本史だった。僕は歴史自体そこまで得意ではなく、ノートも今日は特に真面目とは程遠い有様だった。
もうすぐでチャイムが鳴るだろう。シャープペンシルから手を放して、ぼーっと薫の後ろ姿を見つめる。あの個性を分かりやすく主張したような黒い天然パーマ。それに吸い込まれる。
この後の放課後、話し掛けてみるか? 「いつもと何か違うぞ」と教えてやるか? まぁ、それは僕もなんだけど。何かはっきりとした言葉、もしくは行動が必要な気がする。あれ以来、生傷に触れられないように必死に隠し合っているような、あいまいな感じが続いている。いたたまれない。
何か薫がびっくりするようなことがいい。
と考えた途端、またあのシーンが蘇った。僕が薫のお腹にキスをして、白くて滑らかな肌が目の前にある……。制服からか、薫自身からか、さりげなく鼻をくすぐるいい匂い。香水のようなしつこさや濃さはなくて、人のぬくもりから漏れ出たような優しい匂い。
これだ。これをもう一度嗅いでやる。
そして……。
「よお、薫」
「ああ、純一……何?」
やっぱりいつもの薫じゃない。改めてそう直感した。このままじゃ僕もこいつに調子を崩される。元の薫を取り戻させるには……!
「この前のキス、どうだった? 男らしかっただろ?」
「男らしいというか、単純にくすぐったかったわよ。それに、周りに人がいる中であんなことするなんて……私も一応、恥ずかしかったんだからね」
薫が気まずそうな顔で、恥ずかしそうに目をそらすところなんて初めて見た。これはいつものキャラ、なのか? それとも本心?
「っていうかさ、あの時気づいたんだけど、薫ってすごいいい匂いするんだな」
「そう? 別に香水とかはつけてないわよ。洗剤の匂いじゃない?」
「いや、あれは洗剤というよりも、薫から出てる匂いだった。何て言うんだろう……う~ん……」
僕は一旦、右手を顎に置いてわざとらしく考え込んだ。この次に言うセリフは端から決まっていたのだが。
「説明が難しいからもう一度嗅がせてくれないか!?」
いつもの鉄拳が飛び出すどころか、まさかほとんど何の抵抗もなく校舎裏に来てくれるとは思っていなかった。驚きながらも、まんざらでもない表情で僕の突然の申し入れを了承してくれ、そうして二人はお互い近い距離で校舎に陰った薄暗い場所に佇んでいた。傍らにある影と茜(あかね)色の境界線は、昼間に見る時よりもかなり近かった。
「こんなところまで来て、またヘンなことをするつもりじゃないでしょうね」
薫はそう言いながらも、言葉にはほとんど鋭さはなく、むしろ丸みを帯びていた。そして少し熱っぽさを帯びていた。
「いや、ヘンなことなんかじゃない。女の子はみんな大抵いい匂いがするけど、薫のは格別だった。それを今から突き止めるんだ。僕はいたって真剣だ」
「なにそれ?」
「制服は洗剤の匂い、髪の毛はシャンプーやコンディショナーの匂い、つまりその間の、耳や首筋くらいが一番いい香りがすると僕は思うんだ」
と僕は一歩ずいと薫に歩み寄った。この時点でお互いの香りが漂ってきそうな距離だ。
「ちょっと気持ち悪いんだけど……」
薫はそう言いながら後ずさったが、僕がこれからすることを薫は心の中で受け入れているのを知っていたので、さらに一歩進んでその距離を縮め、カーディガンの柔らかい肩を両手でつかんだ。手の平から伝わって来た感触は、単に生地の柔らかさ以上に女の子らしさを僕の脳に伝えた。
嗅いでいる音をわざと立てながら自分の鼻を薫の首筋のすぐ近くに持って行った。そこから深呼吸をするようにゆっくりと上に上がって行った。すると薫の天然パーマの毛先が僕の鼻先に当たった。上に行けば行くほど、薫に顔をうずめて行けば行くほど、反り返ったいくつもの毛先が僕の鼻、瞼(まぶた)、頬を四方から包むように触れてきた。
確実に僕は薫の存在をすぐそこに感じていた。同時に、僕の奥底からは驚きとも、嫌悪とも、また明確な喜びとも言い知れない、味わったことのない感情が昇ってきていた。それにされるがままになってずっとこうしていたかった。
「ちょっと、もういいでしょ」
薫はいつになく拒否感のない力で僕を退かせようとしていたが、僕はむしろそれに抗ってさらに首よりも顎よりも上へ、奥へと進んだ。するとそこには普段、薫の鬱蒼(うっそう)と生い茂った密林のような髪に隠れている耳があった。その瞬間、僕はある衝動に駆られた。と思う間もなく僕は「それ」を行動に移していた。
「いやっ!! ちょ、ちょっと何してんのよ!」
「ふふふっ。仕返しだよ」
「んんんっ! 何が仕返しよ! ちょっと、くすぐったいから……!」
「この前、僕の耳に甘噛みしただろ、だからそのおかえしに」
「あああっ! 耳元で喋らないで!」
僕の口は薫の耳を半分覆っていた。上下の歯は確実に薫の耳を捉えているが、顎にはほとんど力は加わっていない。噛んでいるが噛んでいない。この絶妙な力加減に夢中になった。それはほとんどそのシチュエーションと自分自身の行為と薫の反応に酔っている状態だった。
僕が耳を口に含みながら言葉を発するたびに、薫の身体は電流が走ったように跳ね上がった。筋肉は緊張し、収縮している様子が肩や胴の密着している部分からありありと伝わって来た。
「僕からのドッキリだよ。薫が最近、元気なさそうだったから心配だったんだよ。これで元気出ただろ」
と言い終わると最後に薫の耳の穴に吐息を全て送り込むように息を吹きかけた。
「ひゃぁぁぁ!!」
と薫は絶叫しながら僕を突き飛ばした。そして僕は心のどこかで聞きたがっていた、いつもの声を聞いて安心した。
「もう! バカじゃないの!? ヘンタイ!!」
踵を返して夕陽に満たされた中庭の方へと歩いて帰ろうとする薫の背中に「これでおあいこだな」と言いながら後を追った。それに対して薫はまた「ほんとヘンタイっ!!」と返したが、その横顔はどこか幸福に満たされたように綺麗に見えた。