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天がトイレへ行くため部屋を退出した。まあ、かなり早いペースで飲み物を飲んでいたし当然だろう。俺は騒がしさの去った静かな部屋でまず心を落ち着かせることに専念する。そしてふう、と一息吐き出せば、背もたれに体重を預けた。心臓は鳴り止んだようだ。
自分が思っていたより疲労があったのだろう。そのままソファに座っていた身体はずり下がっていく。背中の半ばぐらいしかない背もたれに後頭部を預ければ、座面の端に尻を乗せていると言うより引っ掛けているような状態になる。その体勢のまま両手で顔を覆うと、思っていたことがそのまま口から溢れた。
「かわいすぎんだろ……」
思い起こすのは天が歌っていた先程の光景。明るくポップなガールズバンドの曲をノリに乗って笑顔で歌う姿。しっとりとしたバラード調の曲を切なそうに歌う姿。そして歌詞の甘いアイドルソングを恥じらいながら歌う姿。
最後のは俺がリクエストして歌わせたのにも関わらず、見るのが照れ臭すぎてついつい誤魔化した態度で直視せずに済ましてしまった。勿体ねえ。しかも天は最後の曲を歌っている最中、何を考えたのかこちらへもたれかかって来たのだ。いや、多分アイツなりの反撃なのだが、しかしその時頭皮やら色んなところから香ってくる匂いにやられそうになってしまう。
その影響で身体の一部が元気になり始めたため、くすぐる様に背筋をそっとなぞってやった。これなら反射的に飛び退くだろうと考えてのことだ。まあ、結果的に言えば狙い通り飛び退いた。ただしなぞられた際にビクリと身体を震わせ、艶めかしい声を出しながら、だ。そのトドメと言わんばかりの光景に、俺は元気100倍になった。
なんとか気付かれなかったから良かったが、あの時にご起立がバレていたら気まずいなんてものじゃなかったと思う。というかアイツから仕掛けてくるスキンシップが遠慮なさ過ぎる。耳元でウィスパー ボイスで囁いたり、無防備に身体を預けてくるとか。
オレの事からかうのを楽しんでるのは分かるが、夢中になって距離感がおかしくなってるとしか思えない。それとも既にあっちから勝手に堕ちかけているのではないか……? こっちが色々考えてたのがバカらしく思えてくる。
いや、それは流石に都合良く考えすぎか。反撃した後、睨んできたからな。あれは自分が無敵だと勘違いして調子乗ってるだけだ。早急に矯正してやる。座面に手をついて、ずり下がっていた体勢を戻す。その際にふと、目の端である物体を捉えたので視線を移す。ソファーの上、そこには見慣れないサコッシュが無造作に置いてあった。
レザー素材のホワイトカラーで、女の子が身につけていそうなそれは天が今日持ってきた物だ。最低限スマホだけ持ってトイレに行ったようだが、曲がりなりにも女子の身体なやつが出先でトイレ行くのにカバンを持っていかないのはどうなんだろう。
今日は薄く化粧をしていたし、身嗜みを整える道具とか入っているんじゃないか? それこそ数時間前に生理の話もチラッとした。カバンの中にその辺りの物も入っていておかしくないだろうに。まあ、こういう見た目や素振りは美少女でも中身は男だと感じさせるギャップ、俺としてはポイント高い。
しかし、尿意というのは伝播するのだろうか。なんか俺もトイレに行きたくなってきた。この場合、アイツが帰ってくるのを待って入れ替わりで行くのが一番だろう。だが女の子の身体になってまだ2日目の途中、トイレで用を足すのに苦戦している可能性がある。その時間を待つことを考えると、今の膀胱の状況はやや心許ない。
だからと言ってカバンを置いて出て行くのはよろしくないしなあ……。持って行くか? 男子トイレにこのカバンを。まあ、放置してもし盗られでもしたら最悪だし、こういうのは念のためだ。しょうがない、別に困るような物でもないし持って行くか。ということで天のカバンを片手に男子トイレへ向かう。
「うっす」
「お、晴樹じゃん」
そして、見知った顔と出会した。3つ並んだ小便器の真ん中を空けて左右に2人。
「お前らもカラオケか」
「男4人でな、ちなみにウンコしてるのはその内の1人とかじゃねえよ」
「いや、個室使ってる人に失礼だからやめろ」
田辺の頭を軽くはたく。高校生にもなってマナーがなってない、というより不意に知り合いと会ったことで気が大きくなってると言った方がこの感じは近いな。ただウケ狙いに面識のない他人を巻き込むのはよくないことぐらいの分別はつけて欲しい。
田辺と中川と仲良い相手といえば
さっき頭を叩いた分のお返しに軽めの一撃と言ったところか。いつもなら食らってやるのだが、手を洗っていないため間一髪でその攻撃を避ける。
「いや汚ねーだろ!」
「おっと、悪ぃ」
田辺は今の言葉で手を洗ってないことに気付いたのだろう。素直に謝ってきた。田辺は直感的なやつで、そのせいか考えなしに配慮の足りないことを良くする。ただ、それがキャラとして受け入れられているし本人も悪いのに気付けばすぐ謝る。
何というか絶妙なバランスで成り立ってるやつなのでまあ、いつも通りだな。ということで、避けはしたが攻撃を仕掛けたってことはやり返されても文句は言えないよなあ?
「どどん波!」
「にぐぇッ!」
立てた右の人差し指で田辺の乳首へと狙い澄ました一撃を食らわせてやった。今日の技の冴えは中々だと心の中で自画自賛。そして、そんなやり取りの裏で中川が洗面台へと向かっていったので俺は真ん中の使用されてなかった便器の前に立つ。
「そういうお前は誰と来たんだよ〜?」
「
「いや、普通に天とだよ」
左胸を押さえた田辺から問いを投げかけられれば、戻ってきた中川が続ける。しかし、文脈が理解しきれなかったのでその意味を咀嚼する。クラスメートからは俺たちが交際している、という想像を勝手にしているのは雰囲気で伝わってくる。
だから「天に黙って〜」の文脈は分かる。だが、それを踏まえればその後に続く「別の女と〜」は分からない。一体何を判断材料に言ったのか。それとも今後おちょくるためのネタ集めで単純にカマ掛けしてきただけだろうか。
「じゃあ、その見せびらかすように持ち歩いてるカバンは誰ンだよ?」
それは肩にかけていたサコッシュを指差されながらの一言だった。あー、そういう事か。俺と天本人以外の記憶からは、天は初めから女として生まれたことになっている。そのため学校の制服など生活する上で融通が利かない記憶や記録は上手いこと改竄が起こっている。
しかし、改竄しなくとも整合性が取れる私服などの記憶と記録はそのままだったのを思い出す。それでやっと2人の疑問に着いての合点がいった。
「天のだよ。部屋空けるのに荷物置きっぱは嫌だったから持ってきただけだから」
「いやいや、
「ウエストポーチじゃなくてもとりあえず真っ黒なカバンだな」
なるほど、確かに普段の天の格好を知ってるならこのウエストポーチはイメージとの乖離があっておかしくない。なんやかんやで、今日みたいに遭遇、または声を掛けずともお互いに遠目で見かける事は多い。そのためそれなりに目撃情報はあるのだろう。
俺からしてもこのウエストポーチは、天が男の時なら絶対身に付けないと思う。前提として男性向けブランドではないし。実際、記憶を辿っても天の身に付けてるのは黒のボディバックだったりする。
「いや、カバンの方が派手になってどうするって感じってか、先に本体性能上げないと使いこなせない武器に振り回されるやつじゃん。マンガならすぐやられるキャラみたいにな?」
「別に今日は普段みたいな格好ってわけじゃねえけど」
田辺が戯けるように言う。ウケ狙いで言葉選びを多少大袈裟にしてるのは分かる。
「へぇー、
「ブッ、妖怪のやつじゃん!」
「いや、妖怪って言うな、都市伝説だよ」
「それ同じやつー!!」
そして、俺抜きで2人は漫才のようにテンポの良い会話を続けた。確かに普段の学校に居る時の天をそのまま女子に変換すれば、地味というか不気味なビジュアルなのは想像に難くない。身長も女子にしては高いし。
2人のイジりもやや言い過ぎなところはあるが理解も出来る。そして中川が言ったコスは普通に見たい。だが、オシャレしたかわいい天を知っている身としてこの扱いが釈然としない。
……。
まあ、異性に対する評価は本人が居ないと遠慮がなくなるのは良くあることだ。自分も修学旅行の夜とかついつい悪ノリして失礼な事を口走ったこととかあるしな。それに加えてどこか天へのイジりには同性相手にする微妙な親近感が残っているように感じる。
齟齬が生まれないのは記憶や記録だけで、男女の違いから生まれる違和感は消せない。だからこうした弊害も生まれてしまうのだろう。変にツッコミはせず、雰囲気に合わせて適当にヘラヘラしとくか。
……。
……いや、無理だな。
これまでの俺なら、この程度のディス交じりはネタとして流していた。男の頃の天なら気に留めないだろうし。しかし、これからは違う。天は記憶が変わってなくとも、身体とともに脳は女の子になっているのだろう。思考の節々に男の頃との違いを感じる。それが分かったから俺はアイツのかわいさを全力で受け入れてしまうんだ。
アイツがそこら辺の認識が変わったなら俺もそこは変わって付き合わないといけないだろう。きっと今回のオシャレは妹さんに手伝って貰いはしたが主導は天の筈だ。その行為は努力であるし、やるにあたって当然勇気も出しただろう。
なら、ここで雰囲気を守るため場の空気に合わせるのは大人じゃなくて大人のフリだ。思ってないことをやるにしても、自分の中にある譲れないものに対してすることはやるな。自分で自分を裏切るな。そして俺自身を裏切ることはきっとアイツを裏切ることにも繋がる。躊躇なんて必要ない。教えてやるんだ。
しかし、言葉を返すにしても少々意気込み過ぎたのだろう。だからか色んな話の流れや過程をぶった切った言葉がついつい口に出た。
「天は普通にかわいいからな?」
俺の発言により、騒がしかった場は静寂に包まれた。先程までは声に掻き消されていたが、最新楽曲を流している店内放送は歌詞まで鮮明に聴き取れる。さらに各部屋から漏れるサラウンドまでよく聴こえる。
そして、喧しさの元凶だった2人はと言うと、面食らったかのような表情でこちらの顔を覗き込んでいた。
……いかん、アクセル踏み込み過ぎた。
頭の中にいた冷静な自分は、天の容姿に関しての発言を改めるよう少しずつ諌める言葉を探していた。怒りのままに捲し立てるような物言いはよくないしクールに行こうと思ってのことだ。
しかし、心の方は全然冷静じゃなかったようで、頭脳が考えてくれた作戦を全部無視して突撃してしまった。気持ちが急くとはこのことか。
「あー、分かるよ。俺も中学の修学旅行で同じ部屋の奴らに好きな子ぶっちゃけた時にかわいくないってこき下ろされたからムキになるの。……でも実際好きって気持ちは結構バイアス掛けちゃうもんだからさ?」
と、ここで静まった空気を破る様に中川がどこか物耽った様な表情で語りかけてくる。俺が発端で白けかけた場の沈黙をカバーする様なタイミングだ。しかし、これは俺を諭す流れだと直ぐに察知。
この感じはつまり、俺の言ってることを全く真に受けてないということだろう。ただ単に俺の美醜の判定が甘くなってるだけだと、もう少し主観的ではなく客観的にものを言えと言いたいらしい。納得いかないな。そんな不服な気持ちだからか、俺はさらに前のめりに、さらにヒートアップしてしまった。
「お前ら信じてないな? 確かにお前たちの中では地味なイメージがあるかも知れないが天って実はめっちゃかわいいから。ビジュアルはもちろんのこと、声もそうだし仕草とか色んなところに良さがあるんだよ。昨日のゲームで負けてムキになるところとかメッチャ良かった。ムキになりすぎて無防備になる天然なところとかあるけどそう言うのお前たちも好きだろ? そういう女として隙が多いところとか最高だし、調子に乗ってわざとかわいいフリするのがかわいい。男心を熟知してるというか計算されたあざとさを使ってくるんだけど、それがバレてるのに自信満々でやってくるのが逆にあざとくてかわいいね。そんな感じで攻めてくる癖にそれが仇となって自爆するところがメッチャ良い。さらに押しに弱いからこっちから色々言うとどんどん恥ずかしくなるところとか見てみろ、スゲー興奮すっからな。ホントお前らにもさっきのカラオケ見せてあげたいよ、ノリノリでかわいい曲歌う天の姿を。アイツの歌声一度聴いてみな、飛ぶぞ?」
一息だった。トップギアを入れたように舌は回転し、1日にも満たないうちに体験した自身のエピソードをベラベラと喋ってしまった。ここでどうだと言わんばかりに2人を見れば田辺は憐れむ様な顔をしているし、中川は呆れているように見える。逆に引かれてしまった様だ。どうやら俺は北風になってしまったらしい。
つまりこれ以上俺が何を言っても逆効果だろう。ならば〆として最高に切れ味のある台詞で終わらせる。この段階まで来るともうただの意地だ。だがその意地、通さずして帰れん。理解されなくても言い切らなければ俺自身が納得できない。だから言ってやる。
「天がかわいいのは事実だ。そしてエロい!」
ジョボボボボボボボ
トドメと言わんばかりの台詞を言って満足感に浸ろうとした瞬間だった。突然水面に勢いよく水を注ぐ様な音が響く。まあ、ここがトイレという時点で悩むこともなく排尿の音だと言うことは分かる。そう言えば個室に人がいることを思い出した。
そして、ここに居る皆は一様にその豪快な音に毒気を抜かれてしまったようだ。田辺は笑いを堪えているし、中川も溜めていただろう息を吐き出していた。そして俺も先程までの昂っていた感情が落ち着いてしまう。なんと言うか、まさに水を差されたな。
「用がないなら早よ戻れって。狭い部屋で男同士ごゆっくりどうぞ」
「そっちこそ、お二人でごゆっくりどうぞ」
「カワイイオンナノコトイッショデウラマヤシイナー!」
これ以上何かを言う気にはなれない。だから軽口を叩き合うようにして2人をトイレから追っ払った。そうして小便器の前で1人になったが、胸中になんとも言えないモヤモヤが残されていた。やるせ無さから一息吐き出すと、そう言えばトイレに来たのに本来の目的を果たしていないのを思い出す。ようやく用を足すことに意識を向け始めた。
「……ふぅ」
カチャ
しばらくして膀胱に溜まっていたモノを全部出し切ったところで個室の鍵が開く音が耳に届く。その影響で利用している人が居たことを思い出せば、先程の会話を聞かれたという確信とそれに伴う恥ずかしさが湧き始める。
うわー、顔見られたくねえー……。絶対熱入って語ってたのが俺ってバレるだろ。というかこのタイミングで出てくるか普通? ちょっと待つとかしろよ……。出来る限り平常心を意識し、個室から出て来た人物が気にせず後ろを通り過ぎるのを待つ。変に意識してるのは逆に恥ずかしいからな。
しかし、待てども足音は聞こえて来ない。見られたくないのは自分の方なのに気になってしまい、逆に此方から見たくなって来る。そんなジレンマに悩まされながらも好奇心には勝てず、ついに俺は個室の方へと顔を向けた。
「お前っ、バカだろ……っ」
個室の開いた扉の奥にはか細い声を震わせながら顔を赤らめつつ、どこかばつが悪そうな顔をした天が居た。見た瞬間に頭を過ったのは当然先程の会話だった。とにかくムキになって天のことをベタ褒めする自分の姿。伝聞で本人の耳に届いても恥ずかしいのにまさか直接聞かれるなんて。
恐らく自身の顔は今の天に負けず劣らず赤くなっているだろう。それが堪らず天から顔が見えない様空を仰ぎ右手を額に置いた。そして、気を逸らす様に言葉を返す。
「……バカはお前だろ、うれションまでして」
「うれションじゃねーよ変態!!!!!」
キーンと響く高い声は男子トイレに似つかずあまりに場違いだった。それに気付けば俺が先行し外を探った後、2人揃って大慌てでトイレを後にしたのだった。