作中で罵倒などが出てくるので、ご注意ください。
※キャラ崩壊、解釈違いなどを含んでいる可能性がありますので閲覧の際はご了承ください
ある日の夕方、ドクターの部屋にて罵声が飛び交う激しい言い争いが勃発していた。こんなことは普段ならあり得ない。
ドクターは基本的にかなり優しい性格で、怒ったところを見たことないオペレーターも多いぐらいだ。ましてや今は様々なリスクが出てくる任務中ではなく、基地内での出来事。部屋からの声を聞いた者のほとんどが驚いたことだろう。
そんなタイミングでちょうど部屋の前を通りがかったチェンは、気になって部屋に入ることにした。
「どうしたんだアーミヤ? 随分と騒がしいようだが」
「あっ、チェンさん! いいところに!」
部屋に入ったチェンの眼に入ったのはドクターとオペレーターの一人が言い争っている光景、そしてそれを止めようとはしているもののどうすれば良いかわからずにおろおろしているアーミヤだった。
「あれは……ニェン、だったか?」
「はい。ちょっとドクターと口論になってしまって、それがそのままあんな感じに……」
「そうか。それにしても珍しいな、いつも温厚なドクターがここまで声を荒げるなんて」
「そうですね、私も少し意外でした……」
「まあいい。とにかく何があったか教えてくれ。状況を理解したら、私が仲裁に入ろう」
「ありがとうございます。実は…………」
そうしてアーミヤが話し始める。幸いまだお互いに手は出ていないようなので、まだ余裕はありそうだった。
遡ること30分ほど前のこと。ドクターとアーミヤが部屋にて話し合いをしていると、ニェンが訪ねてきた。
「ようドクター、今日の夜空いてるか?」
「ん? ニェンか。空いてるけどその話はあとにしてくれ。今アーミヤと次の任務の作戦について話し合ってるから」
「もう少しで終わるので、ちょっとだけ待っててください」
「お? そーかわりぃな。じゃ、適当に待たせてもらうぜ」
ここまでは普通だった。問題はこの後、ニェンの要件とその内容が少しばかり悪かったのだ。
時間が経つこと十数分後。
「よし、とりあえずはこんなところでいいか?」
「そうですね。これなら不測の事態にもある程度なら対処できると思います。お待たせしましたニェンさん。もう大丈夫ですよ」
部屋の本棚に合ったドクターの私物を呼んでいたニェンはその声に顔を上げる。
「終わったか。あれ、もしかして急かしちまったか?」
「いやいや問題ないよ。お前が来た段階でそれなりに形にはなってたからな。それより夜空いてるかって言ってたけど何の誘いだ? お前の映画作品の撮影ならお断りだが」
「いや随分と悲しいこと言ってくれるなオメー。まあいいや、今日はそうじゃねえよ。一緒に飯行かねぇかって話だ」
「飯? 随分唐突だな」
「まあこれでもドロスとドクターにはいろいろと世話になってるからなぁ。日頃の礼ってやつだよ」
「お前にそんなこと考える親切心があったのか。結構驚きだな」
「おいそれどーゆう意味だ」
「冗談だよ。そういうことならありがたく一緒させてもらうよ。いいよな、アーミヤ?」
「はい。了解です」
ちなみにだが、ドクターとニェンの仲はそれなりにいい。以前お互いの創作に関する価値観について話し合った際にいろいろあったのをきっかけにかなり踏み込んだ趣味の話もするようになり、そこから時折秘書をやるほどに関係が深まっている。もっとも、ニェン本人は秘書という役回りが好きではないので、頻度はあまり高くはないが。
「そういえば飯ってどっか店行くのか? まさかお前の手作りだったりはしないよな?」
「流石に振舞えるほどの飯は作れねーよ。店だ。この前かなりいい飯屋を見つけたからよ、そこに行くつもりだ」
「そうなのか。まだ飯には少し早いけど、今から楽しみだな」
もしここまでの会話を誰かが聞いていたら、なんてことはない普通なものだと感じたことだろう。どこの国でも行われるようないたって一般的な会話だ。
実際にまだ部屋にいたアーミヤもこれを聞いていたが特に不思議に思うことはなかった。書類を整理しながら『いいなぁ、私もドクターを食事に誘ってみようかな。そしたら二人きりになれるから一緒にお酒でも飲んで酔っ払ったドクターを休ませる形で二人でホテルに泊まってそこであんなことやこんなことができるかもしれないから今度私も……』なんてことを考えていたので、おかしなところはない。
が、一点だけ、たった一点だけ問題が存在していた。それは……
この二人の好物が完全に対極であるという点だ。
「あれ?」
ふとドクターが気付く。そう言えばニェンは辛い物が好きだと言っていたのではないだろうか。龍門の食事に対して辛味が足りないと言った上で辛味と人生がなんだかんだと言っていたのではなかったか。そう思い出す。
そして疑問をそのまま口にする。
「なあ、ニェン」
「ん? なんだ?」
「一つだけ確認しときたいんだけど、その飯屋ってどういう感じの料理出してるとこなんだ?」
「どういう感じって……そんなの激辛料理に決まってるだろ? というか専門店だぜ? そうじゃなきゃわざわざオメーを誘ったりしねぇよ」
「………………」
好物が対極。つまりニェンが辛い物が好きである辛党ならば、ドクターはその対極である甘い物が好きであり生粋の甘党なのだ。そしてさらに付け加えるならば、ドクターは辛い物がアレルギーレベルで嫌いだ。
カレーはもちろん甘口。さび抜きを頼めない寿司屋には殺意を覚える。七味、一味、からし、マスタード、ラー油、胡椒、明太子、豆板醤、辛味噌、その他辛い物は全て〇○(自主規制)しねえかなと思っている。
そんなドクターが激辛料理専門店などに行ってしまった日には、死んでしまってもおかしくはない。一部の甘党にとって、辛い物は天敵なのだ。
そして残念なことにドクターは別に普段から甘党を自称しているわけでも、そのことが周囲に知れているわけでもないので、ニェンは単純に知らなかっただけで悪意は全くない。だからこそドクターも困ってしまう。
「スゥー…………」
「どした?」
「いや、あの……そのだな。飯なんだけど」
「ん? 実は用事が入ってたとかか?」
「いやいや、そういうわけじゃないんだ。行くこと自体は問題ないんだよ」
「ならどうしたんだよ急に挙動不審になりやがって。体調でも悪いのか?」
「あーそういうわけでもないんだが…………そうだな…………悪いんだがニェン、実は俺辛い物が苦手なんだ。だから申し訳ないけど別の店にしないか?」
「は?」
ニェンの表情が曇る。それもそうだろう。食事に行くこと自体は了承を得たのに、いざ行こうという段階になってこんなことを言われたら誰だってそうなるはずだ。加えてニェンからすれば自身の好物を嫌いだと言われていることにもなる。
「おいおいちょっと待ってよ、せっかくいい店紹介するってのにそりゃねーぜ!」
「いやほんとすまん。マジでごめん」
「なんとかならねぇのか? すげぇうめぇから苦手でも大丈夫かもしれねぇぞ?」
「いや、ほんと無理なんだよ。ほんとに」
「意外といけるかもしれねぇぞ? ほら、食わず嫌いとかあるだろ?」
「いや食ったことはあるんだよ。でも無理だったんだよ、激辛どころかちょっと辛いやつも」
「マジかよ…………」
「すまんがマジなんだ…………」
この時点でドクターはニェンがかなり言葉を選んでくれているのだと感じた。何故ならドクターが辛い物に対してそうであるように、ニェンも辛くない料理に対して否定的だからだ。
ニェンの考えはいたってシンプルであり、辛い食べ物を至上としている。それはすなわちそれ以外のものが良くないものであるということであり、かなりの過激派だ。本来であれば辛い物が苦手であるというドクターには罵倒と共に人格否定まで行われていてもおかしくない。『辛いもんの旨さがわかんねぇなんてどんな感覚してんだぁ?』といった具合に。
しかしそうしないのはひとえにドクターとの仲の良さ故であり、ここまで築き上げてきた関係性が良好だったからこそ、それを崩さんとあえて語調を強くしていないのだ。割と傍若無人な性格をしているように見えてここ最近は結構他人に対して気を使えるようになってきているのである。
故に、ここで終わっていればこの後口論になることも喧嘩になることもなかったはずだ。日を改めるか、もしくは別の店を探すなり別の選択肢を選べば何も問題はなかった。
が、うっかり発したニェンの一言で状況は一変する。
「あ~あ、まさかドクターが子供舌だったとはなぁ…………」
「…………あ?」
その一言で、ドクターの発する雰囲気が変わった。だがニェンはそれに気付かずに言葉を続けてしまった。
「ガキじゃねーんだからちょっとは食えるようになれってんだよ……別に私と同じレベルの辛えもん無理に食わすわけじゃねーんだからよ」
「今なんつった?」
「ん?」
「今、なんつったよ? おい」
「なんだ……?」
ようやくニェンが異変に気付く。が、その異変の原因と正体に気付くことはできていなかった。もとよりドクターは滅多に怒らない性格なので、そもそもニェンにはドクターの逆鱗に触れたという自覚すらなく、ただ困惑するだけだった。
だが、ドクターからしてみればその言葉はどんな罵倒よりも怒るに値する禁句だった。
「今子供舌つったか?」
「ん? あ、ああ言ったぜ? だってそうじゃねぇかよ」
「取り消せよ……」
「あん?」
「取り消せよ今の言葉……!」
もしここにニェンとアーミヤ以外に他のオペレーターがいたとして、何故ドクターが怒っているか理解できる者はいないだろう。
悪口と言えるかも怪しいただ一言の言葉で温厚な人間がそこまで怒るわけはない。誰だってそう思うし、それはドクター本人も同じであった。
自分でも何故ここまで頭に来ているのかわからない、理屈を説明できない。そんな状況でありながらドクターの感情は制御できない怒り一色に染まっており、自分でもニェンへの追及を止められない状態だった。
失っている記憶の過去に何かあったのか、それとも他の原因があるのかはわからないが、とにかくドクターにとって『子供舌』というのはどんなことよりも優先すべき怒りの対象だったのだ。
「お、おい、なんだよ急に……取り消せなんてよ……」
「いいから取り消せ、そして俺に謝れ。そうすれば何も起こらないで穏便に済む」
お互いに不幸なことに、この言葉でニェンにもスイッチが入ってしまう。
ニェンからしてみればそもそも辛いものを食べられないこと自体人生を損している可哀そうな存在であるという認識だ。今回も悪いのは辛い物を食べられないドクターであり、自分はそれを譲歩してやろうとしていたところに理由の分からないこの怒り。
感覚としては急に理不尽なことで怒られているようなものだ。堪忍袋の緒が切れる。
「ふざけやがって…………」
「なんだと?」
「さっきから辛いもんが食えねぇだ、子供舌取り消せだ、うじうじ言いやがってよォ! ただの事実だろうが!」
「言うじゃねぇか。辛いもんしか食ってねぇから頭おかしくなってんじゃねぇのか?」
「んだとぉ?!」
「あ、あの……二人とも……」
アーミヤが仲裁しようと声をかけるがヒートアップしていく二人には届かない。
「ただ辛いだけで旨くもねぇもの食ってんだろうが!」
「子供舌には旨味なんかわからねぇだろうなぁ!」
「辛くなきゃ何も感じられないようなお前よりはわかるっての!」
「うるせぇ! おこちゃまならおこちゃまらしく砂糖でも舐めとけ!!」
「あわわわわわわ…………」
そしてそのまま収集が付かず口論が白熱してしまい、現在に至る。
「なんだその下らん口論は…………」
「私にもなんでドクターがあそこまで怒ってるのかわからなくて……どうすればいいのか…………」
「はぁ……お前も大変だな…………」
飽きれたようにため息をつくチェン。端から見れば本当にくだらないやり取りであるのは事実だ。
相変わらずドクターとニェンの言い争いはヒートアップを続けている。このまま続けば取っ組み合いに発展しそうだ。
「そもそも味覚ってのは進化の過程で食えるもんと食えないもんを判別する役目も担ってんだ! 子供が辛いもん食えない時点で辛いもんは食っちゃいけない食べもんなの! それを好んで食うなんて味覚がおかしくなった以外に考えられないだろうが!」
「はぁ? 辛い香辛料や食べ物は昔からずっと食われてきてんだよォ! 食っちゃいけねぇなら今頃いろんな種族が滅んでんだろうが! オメーはおこちゃま味の甘いもんばっか食いすぎて思考力までおこちゃまになってんじゃねぇのか!?」
「食うもん全部辛くする種族も存在してないんだが? 毎日三食全部激辛料理三昧だったら滅んでるんだが? てか辛い物なんて普通の料理じゃ旨味を感じられなくなった味覚障害者が食う末期の食いもんだろうが!」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねーぞ! そうかそうかおこちゃまの貧弱な舌じゃ辛さの中にある極上の旨味は感じられないもんな! そうやって妬むことしかできないもんな! 可愛そうにもちょっと強く生きてこれてたなら糖分に溺れないでまともに生活できてたかもな!」
「可愛そうなのは酷使されてるお前の身体だってんだよ! 辛味ってのは味じゃなくて舌の痛覚が反応してるだけなんだよ! 要は舌に傷つけて旨いとか勘違いして喜んでるドMなんだよお前は! 舌が逝かれちまってわかんないだろうが怪我して喜んでんのと同じだ!」
「砂糖に漬かってると思考力も溶けてなくなるみてねぇだな! そのうち糖尿病になって苦しむ姿を見るのが今から楽しみで仕方ねぇ!」
「んだとてめえの食うもんに全部砂糖ぶち込んでやろうか? ああ?!」
「だったらオメーのその貧弱な口の中にデスソースしこたま流し込んでやるよ!」
「死ぬわ馬鹿が!」
「うるせばーか!」
ただ二人の言い争いを眺めているだけのチェンとアーミヤは何とも言えない感情に苛まれる。この二人は一体何をしているんだと。
確かに人によっては絶対に譲れない信念がある者もいるだろう。趣味であったり目標であったり将来の夢であったり、その形は様々だ。人によっては共感できないような理由から信念を貫いていたりすることもある。
だが辛い物が好きか甘い物が好きかという好みがそんな重要なものだとは流石に理解しかねるだろう。少なくともチェンとアーミヤは目の前の喧嘩している二人をここまでやるのか、という目で見ている。
「仕方ない……このまま続けられても厄介だ。どれ、私が止めよう」
「お、お願いします……」
チェンはそう言うと二人に近付き、同時に肩を掴んだ。
「止めないか二人とも。そこまで言い争うことないだろう」
「「ああ?!」」
二人の強烈な視線がチェンに刺さるが、この程度では龍門近衛局の隊長は全く動じない。むしろ跳ね返さんばかりの気迫で、二人に語り掛ける。
「一旦冷静になれ。趣味嗜好の食い違いでそこまで言い争っても意味はないだろう」
「でもドクターがよぉ……」
「………………」
「お互い思うところはあるだろうが、このまま喧嘩を続けても何の得にもならないことはわかるだろう? そもそもニェン、お前は夕食を共にする誘いに来たんじゃないのか? だったらさっきまでのことは水に流してドクターを飯を食べに行けばいい、違うか?」
「そりゃあ、そうかもしんねぇけどよ…………」
「ドクターもドクターだ。お前らしくもない。何か事情があるのかは知らんが普段のお前ならもっと冷静だろうに。嫌だったんだろうから怒るなとは言わないが、言い争いが無駄なことはわかるだろう」
「ああ、そうだな…………」
チェンの仲裁によって、二人の怒りが収まっていく。近衛局として経験もあるのだろう、チェンはこのような状況には慣れているようだ。
「…………悪かったな、ニェン。ついカッとなっちまった」
「!!」
依然として不服そうなニェンに対して、先に頭を下げたのはドクターだった。ただ口にするだけの雑な謝罪ではなく、きちんと反省したうえでの言葉であることがその場の誰もにわかるような、そんな謝り方だった。
そう言われてしまえば、ニェンとて子供ではない。多少不満が残ろうとも許そうと思うものだ。
「なんだよ調子狂うなぁ…………こっちこそ悪かったな、ドクター。もう馬鹿にしたりしねぇよ」
「ああ、ありがとう」
そして交わされるのは和解の握手。ニェンはまだ複雑な表情を浮かべているが、ドクターはもう気になっていないようだった。
「チェンもありがとな」
「礼には及ばないさ。ドクターがあそこまで怒るなんて、少しばかり意外ではあったが」
「ははっ、情けねぇところを見られちまったかな」
先程まで本気で怒っていたとは思えないような切り替えの早さ。流石のチェンもこれには驚く。
(私が声をかけただけで冷静になったか、流石だな)
内容もそうだったが、その実態も子供の喧嘩とさして変わらない。お互いに勢いで引っ込みがつかなくなってしまっただけのこと。きっかけさえあれば、同じようにドクターの方から謝っていただろう。あるいは冷静になればニェンから謝罪を口にしたかもしれない。
謝るのに不必要なプライドはいらない。ドクターはそれをわかっているからこそ、素直になることができるのだ。
(普段あまり感情的にならない分心配だったが……なんてことはない、ドクターも皆と変わらないんだな)
温厚で感情の起伏が薄く、それでいて多くの者と接する。それは人格者であっても時として我慢が重なり心に重くのしかかってしまう。人によってはそれすらも跳ね除けてしまうが、耐えきれない者も多い。同じく他人を指揮する立場として、チェンはそんなドクターをひそかに心配していたのだ。
だが偶然とはいえドクターの人らしい一面が垣間見えたことに、チェンは密かに安堵するのだった。
後日、基地内の通路にて。
「そう言えばドクターはなんであんなに辛い物に対して怒ってたんですか?」
「ん? どした急に」
「いえ、普段は怒らないドクターがあそこまで怒るのにはなにか理由があるのかなと思ったんです」
「ああ、なるほど。うーん、そうか。でも俺にもよくわからないんだよな」
「よくわからない?」
「いや、俺って記憶を失ってからの出来事は流石に全部覚えてるんだけどさ、特に辛い物とか子供舌って言葉に関してなんかあったわけではないんだよ。まあ辛い物食ってみてダメだっていうのは確認したんだけどな。だからたぶん失ってる記憶の中に理由というか、なにか原因があるんだろうと思ってるんだけど、相変わらず何か思い出したりとかはなくて」
「無意識……みたいなものってことですか?」
「多分そうだな。アーミヤも知らないってことはロドスに入るよりもっと前の、子供の頃とかになんかあったのかもしれない。無理やり辛いもん食わされたとか、食えないの馬鹿にされたとかがあったんだろう。で、出来事自体は覚えてないけど、無意識の中に辛い物が嫌いだ、良くないものだってイメージだけが残ってるんだろうな」
「随分ピンポイントな無意識ですね……」
「それな。もっと他のことも覚えててくれりゃいいのに。自分でもなんであんなにキレるのかわかんないけど、とにかく辛い物とか、辛い物食える人ってのがダメなんだよな」
「なるほど…………」
「まあニェンと言い争っちまったのは良くないと思ったよ。あそこでキレてもなんもいいことないからな。一応頭ではわかっちゃいたんだけど……上手く止められなくてな……」
「でもそこまで気にすることではないと思いますよ? ドクターはいつも優しいですし、たまにちょっと怒るぐらい誰も気にしないと思います」
「うーん、それもそうかもしれないんだけど、俺が心配してるのはそこじゃないんだよな」
「え? どういうことです?」
「いやさ、俺の記憶は相変わらず戻らないし、元の人格もよくわかってないわけだよ。どんなやつだったとか、普段何を考えて過ごしてたのかとかも今じゃ何もわからない。でも辛い物が嫌いっていう嗜好は記憶関係なく染みついてるぐらいのものだったわけだ」
「…………?」
「てことは、前の俺にとってそれは凄く重要なことだったんじゃないかって思うんだよ。記憶になくても過剰に反応するぐらいだから、絶対にただごとじゃない。よほど何か強烈に印象に残ってることとかがあったわけだ」
「それはそうかもしれませんけど…………」
「で、今の俺にはその記憶がないし、はっきり言って怒る理由も理解できない。感情だけは先行しちまうけど、正直なところ理由がわからないから辛い物を嫌う必要なんてどこにもない。だから本来だったら少しずつ性格を直していって、ゆくゆくは少しぐらい辛い物が食べられるようになったりすればいい。今の俺自身はそう思っている」
「ならそれでも別にいいんじゃないですか?」
「けど、それは前の俺が消えるってことなんじゃないかなってどうしても思っちゃうんだよな」
「それは…………!」
「今の俺と前の俺の感性には違うところがある。だからもしこのまま記憶が戻らなかったら、少しずつ前の俺の特徴が消えてしまう、そんな気がしてるんだ。もちろん基本的な部分は大きく変わらないんだろうけど、それでも今の俺が昔の俺とは別人であることに変わりはないから、このまま今の俺の思うように感性を直して行ったらいずれは別人になる。そう思ってる」
「ドクター…………」
「だから迷ってるんだよな。ただでさえ記憶がないって時点で別人だからさ。記憶が戻ることを信じるか、それとも今の俺を信じるか、あるいは前の俺を消さないように考え方を調整するか。今の俺にはどうしたらいいかわかんないんだ」
「………………」
「なんだ、そういうことかよ」
「!! ニェン、お前いたのか……」
「妙だと思って聞き耳立ててたらそんなこと考えてたのかよ。相変わらず繊細っつーか、なんつーか」
「いいだろ別に。記憶喪失だとそういうことも考えちまうんだよ」
「そうなのかもな。そんなこと私にはわかんねぇし、どうでもいいけど一つだけハッキリ言っとくぞ」
「なんだよ?」
「今だろうが前だろうが、お前はお前だ。それを忘れんじゃねぇ。変に小難しいこと考えすぎて苦しくなるなんてただの無駄だ。どの道なるようにしかならないんだからよ」
「それはそうかもしれないけどよ…………」
「予測が立つならともかく、わかりもしないこと永遠と考えててもしょうがないだろ? そん時が来て、困ったら考えればいいんだよそーいうのは」
「ニェン…………」
「わ、私も! そう思います! ドクターは気にしすぎなんですよ!」
「アーミヤまで……」
「そういうこった。じゃ、私はこれから撮影があるからこの辺でな」
「あ、ちょ、おい…………。ったく、言いたいことだけ言って消えやがった」
「でもよかったと思います。ドクターはよく考え込んでしまうので、どれかひとつふたつぐらいは考えることをやめて、流れに任せてみてもいいと思うんです」
「……………………まあ、確かにそういうのもありなんだろうな。ようは肩の力抜けってことだろうし」
「ありがとな、ニェン」
去り際に後ろから小さく聞こえたその言葉に、ニェンは静かに笑みを浮かべるのだった。