ナターリアはあの日からずっとナターリアのままだ。
──どうか、貴方様はそのままでいてください。
チェルノボーグで、平民達から追いかけまわされるようになった日から私を守って来た彼。
貴族であることと、規律を守るために平民からの略奪を黙認した私を、薄汚い私を守るためにその手を汚した彼の言葉が、呪いとなって心身を苛む。
私が曖昧な笑みを浮かべてパーヴェルの提案を飲んだ時、今までの全てに失望した彼の顔を私は見た。
巻き上げた大量の食糧や医療品を前に、手柄を誇る仲間達に同調する私と裏腹に、そっと顔を伏せて唇を噛む彼の顔を私は見た。
その日の食事で、皆が談笑しながらああだこうだとその時の詳細を武勇伝のように語る中、誰も視界に入れることなく黙々と食べる無表情な彼の顔を私は見た。
食糧庫が燃えた時、混乱の中でそっと私の手を引いてくれた彼の顔を私は見た。
数人の貴族を引き連れ、囲まれた時に目の前の仲間の足を蹴って転ばせて、貴族の責務を果たせと吐き捨てた彼の顔を私は見た。
かき集めた物資がなくなり、いよいよとなった夜が明けた時、握った手の平から血を滴らせて食糧を持ってきた彼の顔を私は見た。
何故、どうして、そこまでしてくれるのか。あの場に置いて最も貴族らしくあろうとして、結局叶わなかったその願いをなお抱く彼の顔を。
問いかけた時の、聞かれるなんて欠片も思っていなかったような表情で、直後に何もかもが腑に落ちた彼の諦観を、私は見たのだ。
「調子はどう?」
「ナターリア様。僕はいつでも大丈夫ですよ」
「貴方はいつもそう答えるじゃない。ここは高校でもチェルノボーグでもないのよ」
「ここがロドスだとしても、ですよ」
私は常に優雅たれと育てられ、どんな時も高潔であるべきだと耳が潰れる程言い聞かされた。それは第四高校に入学してからも変わらず、周囲の名家と交流や牽制を行いつつも、充実した日々を送っていた。紅茶の種類も困らぬ日々、平民に関してはどうにかしなければと思いつつ慈善活動程度しか出来なかったけれどもこのまま順調に月日を重ね、どこかの誰かと政略結婚をして、ゆくゆくはロストフ家を継ぐのだろう。
でも、そうはならなかったのだ。慌ただしくチェルノボーグから去る貴族達。それに追随するにはロストフ家はチェルノボーグに根を下ろし過ぎた。
貴族の有様を失った。今までの人生は無駄だと言わんばかりに。貴族グループを纏め上げ、生存するために私は仲間達の蛮行を許し、あまつさえそれに同調して笑顔を浮かべた。
戦利品を持ち帰り今後の事も考えて、昔と比べれば比較に値しないような低水準で大衆向けの酒場未満の内容ではあるが貴族のパーティーを開いた時、私はもう仲間入りしていた。
同行し、襲撃された側の声に耳を塞ぎ、仕方なかった、私に罪はないと言い聞かせるためだけに自らの手を汚さなかった卑怯な事実に、自分を許せない。
──どうか貴方様はそのままでいてください。
この言葉を彼が口にした時、私は既に以前の私とは別物に変わっていた。
もう、彼の中の誇り高き貴族像を体現する、ボリス第四高校生徒会長ナターリア・アンドレーエヴィナ・ロストワではなくただのナターリアだったのに、我が身可愛さに彼の求める姿を被った。
ロストフ家の才女として、臣下の貴族が伯爵家の継承者である私を引き続き守れと尊大に言い放ち、大仰に頷く彼を騙して利用した。
そして、彼は私の願いに良く応えてくれた。
前までは悔恨の表情で行っていた物資回収も率先して行うようになり、返り討ちにして逃げ出した生徒を見逃していたのを容赦なく攻め立てて必ず灰にした。騙し討ちだって平然と行い、助けを求めてきた貴族に優しく手を差し伸べて、持っていた食糧を回収した後に背中を刺した。彼が差し出した沢山の食べ物、自分の分はありますからと言った言葉を疑う事もなく、飢えを満たして過ごす。
ある日、連戦に次ぐ連戦の後にソニアと遭遇し、実力差を理解した彼が真っ先に投降してなお自分の命と引き換えてでも助けようとしてくれた。
結局その後はソニアが率いる学生自治団に所属することになったけれど、そこで彼はやっと笑う様になった気がする。平民を善く護り、助けを求める声に耳を塞がず手を伸ばし続け、明日を迎えられるかもわからない重病人に甘味を渡し、貴族でありながら信頼を寄せられる本物になった。
ペテルヘイム高校を出た後も、離散や死別で減る仲間達を思って心を痛めながら、物資が欠乏した時は真っ先に“調達”しに行った彼の姿。生傷を常に刻みながら、それでも決して私に手を汚させなかった彼。
いよいよ“調達”も厳しくなった時に、率先して行動した彼に皆が絶句して。それから、それから、ロドスに救助される前日の出来事があって。
これ程尽くしてもらったのに、私は彼に対して一切のお返しが出来ていない。言葉ばかりの感謝で、私は彼の働きに一つも報いることをしていない。
──どうか貴方様はそのままでいてください。
結局、ロドスに保護された私は彼の言葉を守る事が出来なかった。
仕方がなかったと言えばそうだし、最早家族の後ろ盾すら失った私がロドスという異郷の地で貴族を名乗るなんてありえない話。およそ縁がなかった肉体労働に全力を賭け、難民となったウルサス人に敬語で接した。罵倒を浴びせられ物を投げられようと決して怒らず、自分に非があれば頭も簡単に下げる。些細なことでも頼まれれば出来る範囲で請け負ったし、人手が足りないとあらば率先して手伝った。
もう、彼に命令したロストフ家の貴族はいないのだと。直接伝えたら何を言われるか怖くて伝えられない代わりに行動で彼に伝えようとした。
彼は馬鹿ではない、絶対に私の意図は伝わったはずなのに、ナターリア“様”と恭しい態度を止めない。常に私のことを気に掛け、少しでも具合が悪そうであれば温かい食事と柔らかなベッドを用意してくれた。
その度に止めてくれと心の中で彼に叫ぶ。本当なら、私はそれに値する人物ではないと言うのに、ただの卑怯で臆病で欺瞞に塗れた咎人で、今でも罪を告白する事の出来ない最低な人なのに。
「もう、ここでは私はただのナターリアなのよ?」
「他の人にとってはそうでしょうけれど、僕にとってナターリア様はナターリア様ですよ」
日常会話の中で幾度となく彼に言っても、毎度同じニュアンスの言葉が返ってくる。
結局、彼は私を“ナターリア・アンドレーエヴィナ・ロストワ”として見ているのだろうと思った。向こうからロドスに来るまで、最も貴族らしかった彼はここでも私に対してだけ貴族の様に振る舞う。で、あれば。
貴族にとって結婚は家の格を保つための儀式的な側面があり、つまり名家であった私と彼が結婚するとなれば、私を貴族扱いする彼にとっては褒美になり得るのではないか?
その考えに至った時、満更でもない自分がいる事に気付いた。頬を少し緩め、きっとこれしかないと悩み事が解消した気分だった。
惜しむらくは、自分が罪深く汚い存在であること。けれど、彼がこれまで尽くしてきた事を思えば、何でもないかのように振る舞うのは楽だと言える。彼の前では、私はナターリアでなく“ナターリア・アンドレーエヴィナ・ロストワ”なのだから。
「セルゲイ、貴方は私を良く助けてくれたわ」
「僕には勿体なきお言葉です」
「それで、その、報いたいと思ったのだけれど……」
「…………?」
「いえ、なんでもないわ……」
が、いざとなった時に予想外の事が起きた。なんと、口が動いてくれない。急に気恥ずかしくなり、生徒会長選挙に立候補した時の演説や就任時のスピーチ、各種式典でも滑らかに動いて一度も噛まなかった口が、どうしてか開かず言語化に失敗してしまう。
その日はそのまま解散して、別の人にたとえ話として聴きに行けば、「そりゃあ恋、ってやつじゃないんですか?」と言われてその場に立ち尽くしてしまった。
恋? この感情が?
私が、彼に、恋を?
そうしたら私は。
解決した問題が、再び舞い戻ってきて頭を抱えた。私がそうなりたいだけでは、彼に報いると言う大前提が崩れてしまうではないか。
そもそも、ただのナターリアである私がそんな権利など持ち合わせていないというのに。献身的な彼の横に、私が立つなど自身が許すことが出来ない。
また、何もわからなくなってしまった。自身に問いかけ、その度に何も得られず思考の海で遭難する日々。贖罪ですらない、ただ己を良く見せようとより一層ロドスでの職務に励むようになった。
周囲からは賞賛の言葉を送られて、表面上は言葉を受け取るけれど本心ではそう思えなくてギャップに苦しんで、いっそ死んだ方が楽だと思っても彼が繋いでくれた命を投げ捨てることが出来ずに朝を迎える。
「セルゲイ、私に出来る事はないかしら」
「──その、畏れ多いのですが」
「いいのよ、それもまた私の務めよ」
「メイヤーさんのラボに行くのに力を貸して頂けると。少々持っていくものがありまして」
「もちろん、私に任せて」
貴族は平民を守る。それを解釈すれば、臣下を守るのも私の役目だろうと彼が困っている事があれば一番に助けになった。
それは務めではなく贖罪だろうと自分が語りかける。その問いかけへの答えは単純明快、「それが何か問題でも?」だ。贖罪かもしれない。けれど、私の愛しい人へ献身を返せる、名家の務めを果たせる、何より、彼の力になれる。一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなるのだから、やらない理由にもならないのではなくて? そう問いかければ、降参したように陰った心が良く晴れた日のピクニックのように軽快なリズムを刻む。
「ここ最近、何度もナターリア様のお手を煩わせているような……」
「そうかしら? だとしても、気にしなくていいのよ。チェルノボーグでの恩義、私は一生忘れません」
えぇ、一生をかけて報いるつもりですから。なんてね。
あなたは私を見てくれていない、それでも。
それでも、私は貴方に報いたい。それが自分のためになるし、何もかもを犠牲にした貴方のためにもなると信じたいから。
穢れた私、誇り高き貴方。隣り合うには相応しくない組み合わせだとしても。何番目でもいいから、貴方の横に立つことを許して欲しい。
「セルゲイ、どうかこれからも私に良くしてくれません?」
「えぇナターリア様。言われずとも、それが僕のやりたい事ですので」
それが本心であることを、私は願うわ。