北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~   作:tanuu

29 / 123
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


第27話 興国寺城の戦い・後

「まったく動かないな」

 

「はい…ここまで長期の滞陣とは予想しておりませんでした。北条は挟撃されております故、すぐに片が付くと思っておりましたが…」

 

 今川軍の一角に武田菱が翻っている。援軍要請に応えた武田晴信以下三千の軍勢だった。陣中にあって晴信とその異形の軍師、山本勘助の表情は暗い。いまだ武田家の完全統治下にあるとは言い難い諏訪の支配、敗将諏訪頼重とその妻にして晴信の実妹、禰々の処遇、対高遠家の戦略…彼らの頭を悩ませるものは多かった。

 

 こんなところにいつまでも留まっている訳にはいかなかった。今回の要請を受けた理由は信虎を引き取ってくれたことへの返礼の意味や戦国の世への公式デビューの意図もあったが、真意はそこではない。勘助のアイデアである三国、すなわち駿河の今川・相模の北条・甲斐の武田での連携を実現させるためであった。そのために武田は今川・北条間の講和の仲介人となり、あわよくば不可侵を結びたいと思って要請を受諾した。どちらかが劣勢になったタイミングで講和の打診をするという策だった。

 

 武田としては、信濃に領地を持ち、争うのは必定の関東管領より、北条の方が都合がよかったのだ。だが、予想に反してまったく本格的な戦闘は起こらないまま時は過ぎていく。そろそろ講和の打診をしても良かったが、全く動かない北条の前衛並びに本隊に、晴信は底知れぬ寒気を感じていた。

 

 そんな陣中に様子見の信繁がやってくる。甲斐本国は信龍と信君に任せてきた。普段は反目している二人だが信繁に説得されて渋々協力している。四天王に彼らの補佐を任せ、陣中見舞いも兼ねてやって来たのだ。

 

「姉上、お久しぶりです。お変わりありませんか」

 

「次郎、久しぶりね。こっちは相変わらず何の動きも無しよ」

 

「そう…おかしいわね。そんな長期間陣を張れるほど余裕はないはずなのに。前衛の総大将は誰?」

 

「現在関東管領に囲まれている河越城主、一条兼音と申す者だそうで」

 

「一条…」

 

 信繁の疑問に勘助が答える。それは益々もって変だ、と信繁は思った。あの人がそんな風にぼーっとしているとは考えにくかった。彼女の脳裏には花倉の乱の記憶が鮮明に染みついている。僅か三十人で落とされた城。煌々と燃え上げある花倉城。炎に照らされながら翻る三つ鱗の旗。敬意さえ感じた鮮やかな手口。その記憶があるからこそ、信繁は無策で北条軍が陣を張っているとは思えなかった。

 

「姉上、勘助、用心して。向こうが無策とは考えにくいわ」

 

「しかしですなあ、一条兼音というものがいかほどの者でも雪斎には勝てますまい。不肖この勘助もそのような者に負けるとは思いたくありませんな」

 

「次郎、あたしもそう思う。確かに花倉の時の話は聞かされたが、あれは風魔という戦国の世でも類を見ない忍び集団の力があってこそではないのか」

 

「それはそうだけれど…」

 

 少し違う。二人は思い違いをしている。そう信繁は言いたかった。あの人の本当の怖さはそこじゃない。そういう策を思いついてなおかつそれを実行してしまうところなの、と。だが、諏訪戦におけるあっさりと得られた勝利のせいでいささか二人は自信過剰になっているきらいがあった。二人とも初陣だったため、それも仕方がないことだろうが。

 

 そこへ、駆け足の使者が飛び込んでくる。

 

「も、申し上げます。我が主、朝比奈備中守泰朝よりの伝令でございます。先ごろ、大石寺の雪斎様よりの報せによれば、尾張の織田信秀が国境より侵攻。同時に三河で国衆が蜂起とのこと。故に、夜間に早期撤退せよとの命が下りました。武田様におかれましても、我々と共に撤退をお願いしたいとのことです!」

 

「承知した。伝令ご苦労」

 

「はっ!」

 

 伝令を見送り、晴信は撤退指示を出そうとする。

 

「しかし、拍子抜けだな。こんな終わりとは。勘助これなら講和の打診を出来るかもしれないぞ」

 

「……」

 

「勘助?」

 

「おかしいとは思いませぬか。諜報に関しては北条の方が圧倒的に上。ならばこのような北条に有利な情報がなぜここまで伝わったのか…まさか!」

 

「意図的にこの状況を作りだしたと?」

 

「あり得るわ。だとしたら慌てて撤退してる私たちに彼らがすることは…」

 

 奇襲。三人がその最悪の予想に青ざめる。それと同時に前方、松井宗信が陣を張っている方向から喧騒が聞こえる。明らかにそれは戦によるもの。だが、未来にも名高き三人も次の報せの内容までは予想できなかった。

 

「申し上げます!北条軍本隊、海より来襲!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全軍、作戦行動を開始。突撃!」

 

 指示を聞き、軍が突撃を開始する。士気は十分。反面焦りのある今川軍はこの奇襲にスムーズに対応できないはずだ。

 

 海岸線に一番近い元忠隊の千人が前方にいる鵜殿隊にまず突撃する。騎馬部隊を預けてあり、突破力の高い軍団がまず敵陣に穴をこじ開ける。それに続き、こちらの部隊八百人と清水隊六百人が突撃する。盛昌隊六百は側面から回り込み松井隊を叩く。普段なら敵軍との数の差によって瞬殺だろうが、奇襲・夜間・敵の混乱の三要素によってこちらの優位に戦闘が進んでいる。

 

「申し上げます!多米隊、鵜殿長照隊を蹴散らし海岸線を制圧!」

 

「よし、我らも出るぞ!かかれ!」

 

「「「「応っ!!」」」」

 

 前方の松井宗信隊に襲い掛かる。予想通り敵軍は大混乱に陥っているようだ。

 

「首は捨て置け!一兵でも多く殲滅するのだ!」

 

「申し上げます!本隊が上陸を開始しました!」 

 

 今夜最大の吉報に口角を上げる。勝ちが見えてきた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜闇の中に大船団が進んでいる。真っ暗な駿河湾の海上に、闘志をみなぎらせた精兵六千がいた。沼津城の港を出港した彼らは間もなく海岸線に到着しようとしていた。船団を自ら指揮している氏康の記憶には、数ヶ月前に前衛を引き受けた彼の言葉が克明に残っていた。

 

「この賭けに乗りますか?」

 

 自分が青ざめた顔をしているのがわかった。だが賭けに乗らなければどうしようもないこともよくわかっていた。

 

「勝てるの?」

 

「成功すれば、必ず」

 

「そう……」

 

 しばらく目を閉じ沈黙する。自分の人生において最大級の決断を迫られていることを自覚する。

 

「乗りましょう。その賭けに。あなたを、信じます」

 

「ありがとうございます」

 

「気をつけて、死なないでね」

 

「勿論ですとも。約束は忘れておりませんので」

 

 微笑み出ていく姿に感じる僅かな高揚感。ダメ、ダメなの。この感情は決して抱いてはいけないもの。私は氷の女、戦国大名北条氏康。そうあらねばならないの。そう思って気持ちを振り払うように頭を横に振った。

 

「今となっては数か月前の記憶も懐かしいわね…」

 

 夜風に当たりながら小さく呟く。

 

「上陸準備整いました」

 

「よろしい。全軍上陸開始!」

 

 号令に従い、六千の兵が上陸を始める。主力は氏邦に預けてある。数は三千。この部隊には孤立無援で奮闘している吉原城の救援に向かわせる。笠原康勝の二千と間宮康俊の八百は多米元忠の千と合流して、敵の包囲を始める。こちらに気付いた敵軍は恐慌状態になっている。勝利の予感に氏康の手は震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何が起こっているの!早く報告を!」

 

「無理です!左の松井様の部隊並びに右の鵜殿様の部隊が潰走しておるとしか!」

 

 朝比奈泰朝は混乱していた。撤退を始めた矢先に突如奇襲を受けた。状況の打開を図ろうにも、まったく情報は入ってこない。やはり、彼女は若すぎた。あるいは雪斎がここにいれば状況は変わっただろうが、それはあり得ない夢想だった。

 

「と、とにかく一刻も早くこの場から撤退を!」

 

「関口様を見捨てるのですか!」

 

「死にたくないなら走りなさい!」

 

 朝比奈隊が逃走を始める。鵜殿隊はもはや壊滅寸前だった。前方からは多米元忠の騎馬隊。右手側からは間宮康俊が、後方には笠原康勝の部隊がいる。元々千五百しかいない彼の部隊は、持ちこたえるには数が足りなかった。鵜殿長照とて凡庸な武将ではない。応戦を試みるも多勢に無勢。潰走する。

 

 勢いそのまま、笠原隊と多米隊は関口親永隊に襲い掛かる。関口隊には潰走して逃げてきた鵜殿隊の残党が後ろから迫ってきており、まともな軍事行動が出来る状態ではなかった。関口隊もあえなく敗走を始める。どれだけ将が奮闘しようとも、兵士の士気は皆無。抵抗できるはずもない。その敗走する姿は古、富士川にて源氏軍と鳥の飛び立つ音を間違え逃走した平家の軍勢の如し。一つ違いがあるとすれば、ほとんど死者が出なかった富士川の戦いとは違い、おびただしい数の今川軍の死体が転がっていることだろうか。

 

 一方で吉原城を囲んでいる岡部元信隊は今川軍本隊の方角から聞こえる音で奇襲を悟り、態勢を整えていた。そこへ北条氏邦隊三千と、城内の松田頼秀隊五百が襲い掛かる。

 

 まさに激戦であった。今川軍において一番活躍しているのは誰がどう見てもこの部隊だった。

 

「岡部元信!どこだ、出てこいっ!」

 

「騒ぐな!私はここにいる。貴様は誰だ!」

 

「北条左京大夫の妹、北条新太郎氏邦!」

 

「相手にとって不足なし。今川治部大輔義元が家臣、岡部丹波守元信、参る!」

 

 猛将同士の一騎打ちが始まった。打ち合うこと数十合。決着はつかない。岡部元信の目に潰走して死にそうな顔をした関口親永の姿が見えた。

 

「チッ、あのお坊ちゃんはまともに逃げられやしないのか」

 

「戦闘中に余所見とはいい度胸だな、そのそっ首もらい受ける」

 

「あいにくとまだ死ぬ訳にはいかないのさ。この勝負、しばらくお預けだ!」

 

「あっ、逃げるな、卑怯者!!」

 

 叫ぶ氏邦を後目に、岡部元信は関口親永救援のために馬を走らせた。噛みしめた唇から流れる血が彼女の悔しさの証だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鵜殿隊壊滅。関口隊、朝比奈隊、松井隊潰走。岡部隊、残存部隊を何とか引っ張り逃走中。次々舞い込んでくる報告は素晴らしいものだった。数時間前に誰がこの展開を予想しただろうか。一万八千近い今川軍は、約半分の九千に翻弄され、潰走するなど。

 

 だが、まだ障害は残っている。潰走する部隊の中、整然と撤退し始めている部隊が一つ。旗は武田菱。武田晴信の率いる部隊だった。流石武田と舌を巻きつつ、今後について考える。勝ちは揺るがないだろう。しかし、このまま放置という訳にはいかない。一瞬だけ信繁の顔が脳内をよぎるが、それを振り払う。

 

 段蔵が逐一もたらしてくれる情報によれば、多米隊、笠原隊、間宮隊、氏邦隊、松田隊は合流し、敵の敗残兵を殲滅しているようだ。こちらには清水隊、大道寺隊が合流し、数は約千八百ほど。軽く戦闘して撤退してもらうのが一番だろう。ここで武田を殲滅しては、戦闘を仲介してくれる人間がいなくなってしまう。

 

「これからどうするのですかな」

 

「これよりこの軍で敵に当たります。目標、武田隊」

 

「承知!」 

 

 清水康英が駆けていく。盛昌に後方を任せ、私も続く。武田家の軍勢が見えてきた。武田の軍勢の前に一人、人影がわずかに見えた。

 

「全軍、止まれ!」

 

 こちらの指示に軍がかろうじて停止する。ぎりぎり理性が残ってくれていたようだ。

 

「そちらの大将は誰か!」

 

 聞き覚えのある声がする。

 

「北条氏康が家臣、一条兼音!武田家当主、晴信殿の妹君、信繁殿とお見受けする。何故我が名を問う!」

 

「貴殿と交渉したい」

 

「…よろしい。聴こう!」

 

「感謝する。我が姉、晴信は北条氏康殿と心の底より争いたいと思ってはいない。今川に恩があった故、援軍要請に応じたまで。こちらには今川家と北条家の和睦を仲介する意思がある。ここをお見逃し頂ければ、必ずや和睦の斡旋をすることを約束しましょう!約束の担保に我が身を差し出します。和睦の斡旋叶わぬ時は、この身を煮るなり焼くなり好きになされよ!」

 

 思わぬ申し出だった。受ければおそらく和睦できるだろう。晴信も妹を見殺しにはしない。こちらはもう片方の戦線を抱えている。それに、ここでは勝利したが、今川家の全領土を平らげられるほどの力はない。このあたりで河越に向かいたい。断ればどうなるか。武田軍との戦闘で損耗するのは明白だ。無用な争いは避けるべきだろう。河越に回せる兵を残すためにも。

 

「…承った。御身と引き換えに、武田軍全軍の撤退を邪魔しないこととしよう。和睦についても、主・氏康と相談いたそう」

 

「ありがとうございます」

 

 これで、河越に戻れる。意識はすでに武蔵の大地に向いていた。

 

 

 

 

 

 一条兼音は知る由も無いが、この交渉に至るまですさまじい争いが姉妹間で行われていた。が、最後に晴信が信繁の「私一人と武田軍三千とでは天秤は釣り合わない。どちらが重いかは姉上自身がよくお分かりのはず。一条殿は必ず受けてくれます」という言葉に折れ、信繁を送り出した。

 

 かくして、武田軍三千はこの戦いの中唯一無傷の部隊として撤退することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武田軍の撤退を見ながら、一条兼音は北条氏康と氏邦に使いを出し、深追いしないようにと諫める。これを受け、北条軍は戦闘を終了。

 今川軍、死者行方不明者約四千八百。北条軍死者行方不明者九百三十。北条の圧勝であった。これにより、今川家は武田家を仲介に北条家への講和を打診する。

 

 関東に覇を唱える北条家の戦の中でも稀にみる大勝利。後世の人々はこの戦を一条兼音飛躍の戦として、『興国寺城の戦い』と呼んだ。奇しくも戦場となった興国寺城は北条家の始祖、早雲の飛躍を支えた城だった。

 

北条家は新たな展開を迎えようとしていた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。