北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~   作:tanuu

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第33話 河越夜戦・急

北条綱成は、暗夜の中を駆けていた。目指すは長野業正の陣ただ一つ。街道を越えた先には関東諸将の寄せ集め部隊がいるが、この部隊は所詮寄せ集め。扇谷上杉家の陣への夜襲に気付いて逃亡した者も多く、相手にはならない。各個撃破され、いとも容易く壊滅した。こうなっては五千いようが一万いようが、あまり意味はない。ただ死体予備軍となるだけである。加えて言えば、この軍団には本格的な殲滅行動をとっていない。あくまでも北条家の主目標は両上杉家の打倒であり、この戦場にいる五万五千全軍の殲滅ではない。というより、それが不可能であることを知っていた。あと一万北条家の兵がいれば展開も違ったであろうが、ない物ねだりをしても仕方がない。

 

 既に山内上杉家並びに扇谷上杉家の本陣は潰走。扇谷上杉朝定は捕縛され、関東管領上杉憲政は逃亡した。この戦場に残る両上杉の軍勢は長野業正の七千五百と倉賀野直行の七千五百である。この軍勢を潰走せしめた時が北条家の勝利であると言えた。そのため、綱成は三千五百で突撃している。兵力差はおよそ二倍。だが、綱成の心中にはこの状況ならば二倍の戦力差も覆せるだろうと言う思いがあった。なお、兼音も同様の考えである。

 

 だが、戦場に絶対はあり得ず、都合のいいことばかりが起こるとは限らない。綱成を虎視眈々と待ち構える男がいた。当代剣聖・上泉信綱である。今回の戦には、娘の上泉秀胤と共に参加している。迫りくる気迫から、この男は敵の大将が娘には荷の重い相手だと悟る。久方ぶりにその剣が人を斬るために抜かれようとしていた。

 

 それを知らない綱成は勝利を確信し突撃している。その後方には、やや遅れながら周囲の警戒を続けつつ進軍する綱成の従姉・花倉兼成の姿もあった。この時、兼音は朝定を段蔵に預け、綱成の元に急行している。今、剣聖と地黄八幡の対決が行われる。

 

 

 

 

 

 

 

「見えたぞ、長野の陣だ!総員、突撃!」

 

「「「「おおう!」」」」」

 

 綱成の槍の指し示す先に多くの兵が進む。それを見て、勝利を確信した綱成は、部下と共に騎馬で駆けた。その時であった。悪寒が彼女の背筋を鋭く走る。それは武人としての勘だった。彼女は自らの直感に従い、身体を馬上でのけぞらせた。瞬きする間もなく、ついコンマ数秒前まで頭のあった位置を一陣の風が吹く。身体の急な動きによってふわりと浮いていた髪の毛が切り裂かれ、空中を舞う。

 

「ほう?」

 

 戦場という狂奔に満ちた世界に似つかわしくないほど冷静な声が響く。その言葉を発した人物の態度はあまりにも自然体であった。

 

「その首、七度は落としたつもりだったが…よもや繋がっていようとはな」

 

「貴殿、何者だ。その剣技、その気配。ただ者ではあるまい」

 

「そう大層なものではないさ。ただの剣客だ」

 

「戯けたことを。我が名は河越城城代にして、北条家当主・氏康姉上の義妹、北条綱成である」

 

「…名乗られたからには名乗り返さねばな。私は上泉伊勢守信綱。剣に生き、剣に死なんと欲する者だ」

 

 会話をしながらも一向に止まらない汗と悪寒に綱成は心中で震えていた。槍を握る手にも力が入る。剣聖の名は関東では有名である。その顔は知らずとも、その名は熟知していた。付けられたその二つ名が凄まじいまでの技巧を示している。

 

「北条の武士は仕合う時に地上の相手に対し馬上で挑むのか。それは知らなんだ」

 

「ッ…!」

 

 挑発であることは重々承知していた。先輩の兼音だったらば、そうだが何か?とでも嘯き容赦なく馬上から攻撃するだろう。だが、綱成は武人として誇りを捨てられなかった。配下の兵には既に突撃を命じている。もし、ここで剣聖を逃せば被害が増えるのは確実だった。彼女は覚悟を決める。武人としての闘志が戦えと命じていた。

 

「いいでしょう。私も地上に降ります」

 

 それをやや意外そうな目で見ながら、信綱も攻撃はしない。彼もまた誇りのある武人だった。

 

「これで対等でしょう」

 

「いやはや、乗って来るとは思わなんだ。これは失礼した。こちらの非礼を詫びよう。貴君は本気で相手にすべき武人のようだ」

 

 その言葉と共に信綱の周りの気配が一変する。だが綱成も負けてはいない。その目は勇気に満ち、その身には闘気が渦巻く。刹那、金属の触れ合う鋭い音が響いた。動いたのはどちらが先か。あるいは同時だったかもしれない。おおよそ常人の目では捉えられぬ速度で両名の体は動いていた。

 

 一合、二合、三合…数えるのも難しい速度で幾度となく剣と槍は交差する。綱成が踏み込めば信綱が弾き、信綱が刃を一閃すれば綱成が抑える。千日手にも近い状況。だが、おおよそ剣の道を窮めたと言って差し支えない信綱と弱冠十六歳の綱成が渡り合えていることの方が異常なのである。とは言え、手数場数には大きな差が存在する。徐々に信綱が押し始めている。

 

「厳しいか…!」

 

「戦闘中にお喋りとは感心せぬな」

 

「そちらこそ、そんな事を言って牽制しつつも手がブレているぞ!」

 

「フッ。それは貴殿の見誤りであろう。槍術は見事だが、目はまだまだだな」

 

 なおも決闘は続く。その周囲には誰も近付けない。中途半端な武術しか修めていない者が不用意に近付けば、一瞬にして肉片すら残らぬ血煙に変わるだろう。重い綱成の一撃も信綱は剣で軽くいなす。比例するように綱成の一撃一撃はどんどん重くなっていく。技術は信綱が上。体力と腕力は綱成が上だった。

 

 いまだ決着はつかない。信綱もそこそこ長い時間を生きてはいたが、こんなことは久しぶりだった。しかも、こんな少女相手にここまで苦戦するとは…、と彼は嘆息する。気迫も体力も向こうが上。ともなれば技術で攻めるしかないが、必殺の一撃を繰り出そうにも間合いを詰められてはそうもいかない。そろそろ決着をつけたかった。ここでこの強者を逃せば、北条の武として大いに盟友・長野業正に害をなすだろうことは明らか。関東管領など心の底からどうでも良かったし、くたばっても何一つ困りはしないが、業正に死なれるのは嫌だった。

 

「そろそろ終いにしようではないか」

 

「望むところ」

 

「姫不殺の習いはあれど、武人の戦いにそれは不要のことと考えるがいかに」

 

「同意しよう。気遣いをされるなどご免だ」

 

 両名とも相手をこの一撃で確実に屠るという心持ちでいる。一度両名離れて得物を構える。一歩先に信綱が動く。その速さは風の如く。それに綱成も反応するも、やや遅れる。経験と鍛練を積み重ねてきた年月の差が綱成を追い詰める。剣の切っ先が針のように鋭く自分の首元に迫る。繰り出した自分の槍は信綱に躱される。首筋に近づく刃に綱成は死を覚悟する。目に映る光景はゆっくりとして見える。走馬灯が見える。短い生涯。だが、北条家に来てからは幸福だった。しかし、最期に先輩に会いたかった。そう思い彼女は目を閉じようとした。

 

 しかし、天運は信綱には微笑まなかった。

 

 キンッ!という金属が金属に当たる音が信綱の刀から鳴り響く。それにより僅かに彼の剣筋がズレ、綱成の首筋をすんでのところでかすめる。綱成の首の薄皮が少し切れ、すっと一筋血が流れる。毛細血管の血なので大事ではない。

 

「何奴!」 

 

 信綱は何が起こったか何とか理解していた。おそらく自分の刀に矢が当たったのだろうと。戦場に矢が転がっているのは通常の光景だが、さっきまでなかった矢が自分の足元に刺さっている。それを認識したうえで、あと少しで殺せたところを邪魔した者を探す。加えて、勝負を邪魔されたことに無粋さを感じ苛立っていた。 

 

 一方の綱成は命を長らえたことに安堵していた。武人としての誇りはあれど、別に死にたい訳ではない。助かったのならば、自分が卑怯卑劣な行いを働いた訳ではないのだからして、それはそれでいいと思っていた。この辺りの認識の差は両名の決定的な差である。

 

 そして、綱成には矢を撃った相手に心当たりがあった。射手の技量は凄まじいものがある。日本刀の細い刀身に正確に矢を当てるのがどれだけ難しいか。もっと言えば、信綱の剣を振るう速さは尋常ではなかった。高速で動く細い物体に矢を的確に当てられる人物は知り合いでただ一人。自らの先輩である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上杉朝定を捕えて急いでUターンしている。綱成が心配だった。恐慌状態の敵軍とは言え、率いる将はあの武田家の攻勢を七度に渡り跳ねのけた名将長野業正。それにおそらくこの時期ならば、剣聖・上泉信綱が陣内にいる可能性が高い。とにかく急がなくては。

 

「よし、追いついたぞ、合流して敵を叩け!」

 

「「「「応!」」」」

 

 指示を出し、朝定探しに従事していた兵が一斉に合流しにかかる。さて、綱成はどこだ。目を皿にして探すが、夜であり、長野陣の松明の明かりはあれど、それも少ない。煙も所々に出ており、探すのは難しい。

 

 何事もなければよいが…。嫌な予感がする。

 

「おい、どこかに綱成はいないか!」

 

「先ほど、敵将らしき男と戦っておりましたが…」

 

「それはどこだ」

 

「あちらの方角でございます」

 

 質問をした兵が指さす方向に目をやる。

 

「助かった!」

 

「お役に立てましたならば幸いです。ご武運を!」

 

 見送る兵に手を上げ、その方角を目指す。喧騒の中、一際激しい音がする。金属のこすれ合う剣戟の音。尋常ならざる闘気が肌を刺す。そして見えた。十数メートル先。先ほどの兵が言っていたように、剣を持った男と槍を持った綱成とが争っている。下手に介入すれば、自分が死ぬだけだろう。

 

 固唾をのみながら見守る。一度戦闘が止まり、二人は構え直す。おそらく、次で決めるため。万が一に備え、男の持つ剣を狙うように弓を構える。男は動く。あの速さ、あれが剣聖か。動体視力には自信がある。剣の切っ先はまっすぐに綱成の首へ吸い込まれる。咄嗟に指を離した。

 

 矢は一直線に飛んでいく。そして、剣が綱成の首を切り裂こうとした瞬間に命中し、剣を弾く。当たったことに安堵する。

 

「何奴!」

 

 上泉信綱が叫ぶ。答えるべきか否か迷うが、結局答えることにした。無視したところで、自分が発射したと露見する可能性が高かった。弓も持ったままなので余計そうなる可能性が高い。これ以上剣聖とやり合うのはいささか分が悪い。二人がかりでも斬られかねない。退かせるためにもあえて尊大さと余裕を演出する。

 

「これはこれは剣聖殿。失礼致した。されど、我が配下をみすみす殺される訳にもいかぬでな。無粋とは思えど、介入させていただいた」

 

「では、貴殿がお相手いただけるのか」

 

「否否。私程度の剣の腕前では、そちらに瞬殺されるのが関の山。此度はここいらでお引き取り願えぬか」

 

「それを呑まねばならぬ理由がどこにある。二人とも斬り殺せば良いだけの事。折角の強者との仕合いを妨げられ、当方はやや虫の居所が悪い」

 

 この発言で交渉の突破口が見えた。その時、長野家の陣が徐々に撤退を始める。退き鐘や太鼓が鳴る。

 

「長野隊は退くようですぞ。貴殿はよろしいのか」

 

「貴殿らを斬った後に合流しても間に合うだろう」

 

「そうか。では、一つ提案と行こう」

 

「聞くだけ聞こうか」

 

「強者と仕合うのが貴殿の望みならば、今は退き、しばし待たれよ。いずれ、また戦場でこの綱成が貴殿と相対した時、今夜よりも強くなった彼女と戦えるだろう」

 

「…」

 

 上泉信綱は思考を始める。その立ち姿に寸分の油断もないが、理性を保って戦場にいるとんでもない人間だ。だが、それ故に交渉の余地はある。

 

「承知した。北条殿」

 

「…何でしょうか」

 

「いずれまた」

 

「……次はその首もらい受けます」

 

「ハハハ威勢の良いことで。次は貴殿の過保護な主のおらぬところでやり合いましょうぞ。では私はここいらでご免。河越城主・一条殿もいずれまた。貴殿ともいつか刃を交わしてみたいですな」

 

 そう言い残して、剣聖・上泉信綱は風のように消えた。名乗ってもいない自分の正体をあっさり見破られたが、よくよく考えれば、綱成のことを配下と呼べるのは私か氏康様のみ。消去法で素性を見破ったということか。

 

「しかし、良く聞いているものだ。あの冷静沈着とした姿と戦場で狂わず、理性を残したままのあり方。怖いものだ…」

 

 思わず、そう呟く。しかし、なんとかこの場は撤退させられた。急に長野家の軍勢が撤退を始めた理由が今一つ分からないが、とにかく重要なのは彼らに損害を与え、撤退させたという事実。南方に退いたので、氏康様の隊を背後から急襲、という訳でもなさそうだ。おそらくは、飯能か狭山の辺りまで退いて、秩父を経由して上州に戻る算段なのだろう。あの辺なら確かに山道はあるものの、撤退は可能だろう。あそこは北条領ではないので、襲われることもないはずだ。落ち武者狩りをしようにも、あの数では無理だ。推定で四千くらいはいるように思える。元々七千五百いたので、残りはおそらく屍となったか逃げたかだ。 

 

 いつまでも突っ立ったまま思考している訳にもいかない。半分呆然としている綱成に声をかける。

 

「おい、おーい。綱成、綱成!生きてるか!」

 

「あ、は、はい。先輩。生きてます。ちょっと助かったと思ってぼうっとしてしまいました。まだまだですね」

 

「いや、仕方ないさ」

 

「あの時、確かに死ぬ、と思ってました。ありがとうございます」

 

「今は助かったが、次はどうかわからない。あの男はまた我らの前に現れるだろう。その時は、助けられないかもしれん」

 

「大丈夫です。次は必ず勝ちます。戦が終わったら鍛練を一からやり直すつもりですので」

 

「そうか…」 

 

 心身にダメージはなさそうで安心した。この調子なら大丈夫だろう。さて、もう一人、手のかかる姫がどっかにいるはずなのだが。

 

「いやっほー!お二人ともお元気ですー?」

 

 噂すればというか、呑気な声がする。何してるんだ、緊張感を持て、と言いたくなって口を開こうとした時に彼女の放った一言で、驚愕することとなる。

 

「わたくし、長野軍を撤退させましたわ!」

 

「は…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なぜ、内政官になりつつある彼女が長野軍を退かせるに至ったのか。それを語るには綱成と信綱が戦い始めた頃に時間を戻さねばならない。

 

 この時、兼成は護衛数騎と共に、長野家の陣の内部にいた。先に突撃した兵の後に続いたのである。綱成がいない理由を彼女らは知らなかったが、ともかく綱成がいないならば、自分が指揮をしなくてはならないと思い陣頭指揮を執っていた。

 

「しかし、戦の空気には相変わらず慣れませんわね」

 

 ぼやきながら、進んでいく。陣内は混乱しており、堂々と進めた。彼女は無為無策でここにいるわけではない。彼女は彼女なりに熟考したうえでここにいる。その考えを現実のものにするには、ある人物を探す必要があるのだが、なかなか見当たらない。

 

「はてさて、どこにいるのやら。何となく目星は付いておりますが、外れれば無駄骨。居て下さればよろしいですが」

 

 

 

 

 

 そのお目当ての人物こと長野業正は撤退か抗戦かで決断を強いられていた。抗戦する場合は主の上杉憲政を放置することになる。加えて、兵も混乱しておりどこまで抵抗できるかは未知数だった。最悪、相打ち覚悟なら今攻めてきている軍勢を潰すくらいは出来るはずだ、と業正は考えていた。

 

 息子、吉業は抗戦を主張して譲らない。冷静さを保てる上泉信綱は強者の気配を感じたと言って出て行ってしまった。北条軍はおそらく、本隊の数ではない。となれば、城の軍勢だろう。ここにあの軍勢がいるという事は、河越城の城門近くに陣取っていた扇谷上杉家が敗れたという事を示している。迷っていたところ、陣幕が突如としてめくられる。息子・吉業を始め、この場にいる将が一斉に抜刀した。

 

「探しましたわ。長野信濃守業正様。こんばんわ、ごきげんよう」

 

「誰だ!貴様!我が手の者ではないな。面妖な。敵の刺客か。ならばこの場で斬り捨てる!」

 

「ええ、わたくしは確かに長野家の者ではありませんが…短気は損ですわよ。いついかなる時にも冷静に、ねぇ?」

 

「誰かと聞いてるんだ!」

 

「あらあらまあまあ、仕方ありませんわね。わたくしは、河越城城主・一条兼音様の副将・花倉越前守兼成と申します」

 

 敵将ではないか!と諸将は色めき立つ。予想外の大物に業正もやや驚く。

 

「のこのこと現れて、何をしに来たのかはしらんが斬ってやる!」

 

「待て!」

 

 業正は逸る息子を抑える。パッと見た所、強者には見えないが、こういう手合いが一番危険だ。どんな手を隠しているかわからない。この謎の余裕の理由が不明な以上、下手な手は打てなかった。得物は目視できるところ、何の変哲もない刀と小刀。手元の鉄扇のみ。

 

 だが、吉業は静止を聞かず刀を振り降ろそうとする。が、その剣が降ろされることはなかった。構えたまま固まっている。理由は簡単。喉元に鉄扇が突き付けられてるからである。彼女は元々は箱入り娘。武術など使えない。その点では鞭術は使える氏康以下の戦闘力であった。しかし、このままでは主に受けた恩を返せない上に自衛も出来ないため、綱成や配下の武士たちに頼んで武術を教わっていた。その結果、鉄扇と小刀を使って最低限の自衛が出来るようになっていた。吉業が固まっている中、優雅に彼女は微笑み続ける。

 

「だから申しましたでしょう?いついかなる時も冷静に。怒りに呑まれ我を忘れると、わたくしのような者にこうもあっさりとやられるのですわ」

 

「っ!」

 

「下がれ、吉業」

 

 業正は再度制止する。その命令に従い、吉業はゆっくりと構えた剣を下した。同時に兼成も鉄扇をしまう。業正は息を深く吐きながら兼成に問いかける。

 

「それで、貴殿は何をしに参ったのか」

 

「ええ、ええそうでしたわね。わたくしが参った理由は一つ。長野軍の撤退を提案しに参りました」

 

「撤退だと!ふざけるな!」

 

 吉業はなおも威勢よく兼成に突っかかる。しかし彼女はどこ吹く風。軽く受け流す。軽く口角を吊り上げ妖艶な笑みを浮かべる。流石は海道において一の美人と名高い今川義元の姉である。まだ幼さの残る義元とは異なり、大人の色香を身につけている。加えて、そこそこ死線をくぐっている。義元とは違う凄絶な美しさを持っていた。この笑みとトパーズ色の瞳に呑まれ、吉業は言葉を失う。

 

「威勢が良いのはよろしいですが、北条家の本隊は既に山内上杉家の陣を急襲しています。関東管領が今頃その生を保っているか否かは保証出来かねますわ。扇谷上杉家も我らが蹴散らしました。合流は難しいと考えますわ。聡明な信濃守様ならば、自軍の兵を一人でも多く生かすためにも、どうするのが最善かはお分かりいただけるでしょう。ここまで抵抗したことで、関東管領への義理忠節は果たせたのではないでしょうか」

 

 家を保ち、兵を生かすためには最善なのが何か。それを考えれば、答えは目の前の少女が話していたことがそのままである。

 

「南下し、狭山を抜けて秩父を目指せばよろしいですわ。そこなら、無事帰れるでしょう。わたくしとしても、これ以上兵を損なうのはよろしくないと考えております。長野様相手では、扇谷上杉家のように易々とはいかないでしょうし、今後の領国支配のため生き残る兵が少しでも多い方がよろしいのですわ」

 

 呻きながら熟考した業正はこの口車に乗ることにした。その心中には敗戦の原因は主・憲政の慢心が主要因なのは事実だ。ここで退いてもこれまで抵抗したため面目は立つだろう。これ以上義理を立てて玉砕する必要もないだろうと思ったのである。その心中の本人も気付いていない奥底には憲政への意趣返しも存在していた。

 

「わかった。その提案を受けよう」

 

「ありがとうございます。流石は聡明なお方ですわ」

 

「世辞はいい。全軍、直ちに撤退!退き鐘を鳴らせ!」

 

「父上!」

 

「吉業。もはや勝ちを望むのは難しい。ここは退いて、再起を図ればよい。今は耐えて黙って退くのだ」

 

「……承知しました」

 

 吉業は鋭い視線で兼成を睨む。しかし相変わらず効果はなく、兼成は優雅に微笑んでいる。それに舌打ちをしながら吉業は撤退の準備を始めた。すぐに退き鐘が鳴り響く。それを聞いた長野家の軍勢は撤退を始める。始めより深追いを禁じられている兵たちは追い回すことなくある程度のところで追撃を中止した。かくして、弁舌を以て兼成は長野軍を撤退させることに成功した。

 

 兼成は撤退してゆく長野家の軍勢を目を細めて眺めながら一つの命令を配下に下した。

 

「趨勢は決しました。河越城の支配下にある全農村に伝達。逃亡兵を皆殺しにしなさい。大将首ならば、武士に取り立て、報奨金、年貢免除などの報酬を与えると」

 

 この命令を受け取り、配下の武士たちは各地に散り、農村に命令を伝える。完全な独断だが、城の財政を握っている彼女だから出来る事であった。

 

「こんな事はきっとよろしくはないでしょう。けれど、きっと兼音様のお役に立つはず。ここで一人でも敵兵を減らせれば、今後の戦で有利に戦える。独断を叱責されたらまぁ、その時は甘んじて受け入れましょう。あのお方がわたくしを罰するならそれはそれで構いません。元より、この身はあのお方に捧げた物ですから、どう使われてもいいのです」

 

 残酷なことを命じる罪悪感に心を痛めつつも、彼女は一人呟く。その声は喧騒にまぎれ、夜の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とまぁ、ざっとこれが事の顛末ですわ」

 

「そうか…」

 

 兼成の言葉に瞑目する。やや独断専行が目立つが、考えてもこちらの不利益はない。長野家の軍勢もある程度は撃破できたし、まだ南方にいるはずの諸将の寄せ集め部隊三千も撃破したい。ここらで終わらせるのは良い判断だと言わざるを得ない。長野業正と真正面からやり合えばどれだけの損害が出るか分かったもんじゃない。落ち武者狩りも非常に合理的な判断と言える。勝手に褒賞を約束したのはいただけないが。

 

「独断が過ぎましたことは重々承知でございます。どのような処罰も受け入れますわ」

 

「…私はお前が交渉していた時上泉信綱と対峙していて軍の指揮を執れる状況になかった。以上だ」

 

「ありがとうございます」

 

 これが落としどころというか、処罰せずに済む方法だろう。私が指揮を執れない時の全権は兼成に移譲する。やや強引だが、そういう状況だったという事にすれば言い訳は可能だろう。その代わり、この場でこの件に関する彼女への褒賞はなしになる。もっとも、籠城中の功績に関してはまた別の褒賞があるので、それに色をつけるか、個人的な願いを聞くとかで何とかしよう。そう思いながら、全軍に南下を命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つの戦線では、氏康率いる北条軍本隊が奮戦していた。上杉憲政を撃破した後、その北方に陣取る倉賀野直行の陣を急襲する。この陣は憲政の本陣が攻撃されているのを見て、救援するでもなく撤退をしようとしていた。だが、それを逃がす氏康ではない。憲政に斬りかかったその刀で兵に道を示しながら、果敢に指揮をしていた。これに従う八千弱の兵は更なる突撃をする。兵数的にはほぼ同じ。ともなれば奇襲側に負ける要素があろうはずもない。あえなく七千五百の部隊は壊滅。倉賀野直行は多米元忠によって討ち取られた。長野軍の南方にいた諸将の寄せ集め部隊もあっという間に撃破され、散り散りになる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 これにて河越城の戦いは終了する。関東諸将連合軍五万五千。内、死者行方不明者三万五千。多くは夜襲による混乱でまともに戦う事も出来なかった。命からがら逃げだした兵も北条に心服している農民たちによって次々殺されていく。無傷で帰れたのは三千にも満たなかった。扇谷上杉家家宰・難波田弾正忠憲重、山内上杉家家老・倉賀野直行、同本間近江守は討ち死。総大将の関東管領・上杉憲政は片目の視力を奪われ、美男子と評判だった顔には大きな傷が出来る。扇谷上杉家当主・上杉朝定は捕縛。扇谷上杉家家臣・大石定久、藤田康邦は投降。太田資正、上田朝直は居城に撤退。その他の関東諸将は殲滅対象ではなかったため、討ち死にこそ少ないが、それでも兵を損失しており、何とか帰国するも数年は軍事行動が不可能になる。

 

 北条軍一万二千。内、死者行方不明者三百五十。あまりの損害の少なさに後世にその資料の正確性を疑わせることとなる。

 

大勝の報は南常陸を荒らし回っていた房総連合軍にも届く。これを受け、彼らは後退を開始。下総まで退き、古河城を監視する態勢に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、関東の覇権は一夜で塗り替わった。興国寺城の戦いと関宿城の戦い、そして今回の河越城の戦いを総称して北条大乱や関東大乱と呼称される。その全てが夜戦であったことから、後世では関東三夜戦とも言われる。旧権力の失墜は北条家の隆盛の、そしてここから始まる覇道の幕開けの象徴となる。そして、氏康はこの戦いで相模の獅子の名を得る。獅子の覚醒はこの伝説的大勝利と共に日ノ本中を駆け巡る。また、この軍師兼河越城城主として一条兼音の名も関東中に広がる。

 

 この後数百年間、この戦いは伝説として日本、さらには世界にまで広がる。それは様々な将に多くの影響を与えた。

 

 この戦いを人は今なおこう呼んで称える。「河越夜戦」と。




これにていよいよこの章は終わりです。次回はキャラ紹介して、新章にいきたいと思います。

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