北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~   作:tanuu

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遅くなってすみません。


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信濃の郡の色分けです。参考にどうぞ。

黄色…伊那郡
緑色…諏訪郡
橙色…佐久郡
青色…小県郡
桃色…筑摩郡
濃桃…埴科郡
水色…更級郡
黄緑…安曇郡
紫色…高井郡
茶色…水内郡


第38話 月影宿せ 甲

 先の小田井原の戦いと志賀城包囲戦の後、晴信の焦りを感じた信繁は河越に密かに速達の手紙を依頼した。当主の妹ともなれば逆らう訳にもいかない。早馬は秩父の方を通って河越に到着した。何やら凄い勢いでやって来た早馬に兼音はギョッとしたが、武蔵統一も終わり、少し手が空いていたので訝しみつつも手紙を読み始めた。

 

 

 

 突然このような形で文をお送りする無礼をお許しください。いかがお過ごしでしょうか。北条家におかれましては、河越にて大勝を得たと聞き及んでおります。本来でしたらその功名話を後学のためにお聞きし、戦勝をお祝い申し上げるところではありますが、火急の用故、ご容赦ください。陣中にて急ですが何卒お力添え下さる事を願います。

 

 信濃攻略も進み、残るは強敵は村上・小笠原の両者になりました。しかしながら、姉上は北条家の躍進に焦燥を感じておられるようでございます。家中にも、信濃は最早武田のものという緩んだ空気が蔓延しております。古い因習を否定し、改革をもたらすのは立派なことであると思っておりますが、いささか性急すぎるきらいがあるのです。村上義清はそのような状態で容易に勝ちを得られる相手ではないのは私も承知しています。以前お会いいたしました時に、村上義清に注意するようにと仰せられていたのを思い出し、この現状をどうにかする為の術を教えていただくため、こうして文をお送りしています。

 

 そちらからすれば他家のことでありますし、不躾なお願いとは重々承知しておりますが、このままでは何か不吉なことが起こる予感があるのです。浅学菲才の身ではありますが、どうかお知恵をお貸しいただけませんでしょうか。

 

 武田次郎信繁

 

 

 

 文面を見ながら兼音は面倒なことになったと唸っていた。しかし、約束は守らなくてはいけない。そう思って墨のついていない筆をクルクルと回す。彼の知識からこの展開と一致する史実の戦いが引っ張り出された。その名は「上田原の戦い」。多くの重臣を失う事となる武田家でも大きな戦だった。逸る姉を抑え、村上義清に勝てる策を用意しろとはまた無茶苦茶な。しかもその場にいないのに…。とため息をつきつつ、出来ることはすると言ってしまった手前致し方なく彼は紙を引っ張り出した。

 

ただ、珍しく文章を書く手は遅い。自分が援軍に行ければ話は別だろうがそれがかなわないこの状況では、いかんともしがたい部分があった。出来るだけのことはしたが…と渋い顔をしながら再び続きを書き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 村上左衛門尉義清は信濃埴科郡葛尾城の主である。南北朝時代には足利尊氏に与し、大いに権勢を振るった。義清の代になると、佐久郡の一部・小県郡・更科郡・埴科郡・高井郡・水内郡を支配し、守護の小笠原家を越え、信濃最大の勢力となっていた。

 

 千曲川沿いを上流から中流にかけて進むと、佐久から村上義清の本拠地・葛尾城まで一直線に街道が連なっている。佐久を平定した武田晴信は、この葛尾城攻略のために満を持して八千の兵を動員した。中信濃を支配する小笠原長時は、信濃の運命を決するこの合戦を前にしても、動かない。小笠原長時は同盟相手である村上義清に援軍を送るべきだったが、奇策を弄して合戦らしい合戦もせずに勝ちを収めてきた文弱の姫武将と侮っていた武田晴信が佐久で関東管領軍を容赦なく撃破する苛烈な戦いを繰り広げたことを警戒したのか、あるいは天性の日和見主義者なのか、居城の林城にヤドカリのように籠りきりだった。しかし、ここで小笠原長時はどう考えても動くべきであった。村上・小笠原の連合軍が成立すれば面倒だったが、各個撃破していけば勝率ははるかに高まる。それが分からないから小笠原長時は愚か者として後世に名を残すのだが。

 

 ともかく、ここまでは勘助と晴信の思惑通りに事態が進行していた。小笠原長時の出陣を止めると同時に、孤立した村上義清の本拠・葛尾城を晴信率いる本隊と次郎信繁率いる別働隊とが南北から挟撃する、そういう目算だった。しかし、勘助得意の挟撃策は破れた。村上義清には葛尾城に籠城するつもりはいささかもなく、城を出て千曲川北岸の岩鼻へと布陣したのだ。兵力は五千。その中には、特に何度も義清が使者を送り援軍を依頼した高梨政頼、須田満国、島津忠直、井上清政、小田切清定などの姿もあった。

 

 対する武田軍は、千曲川を挟み南岸の上田原に陣を構えた。この上田原のあたりは、遮るもののない広大な平野である。伏兵・奇兵の類は配置できない。岩鼻に布陣した村上軍の背後へ別働隊を回り込ませることも地図の上では不可能ではないが、実際には山地の長く厳しい間道を越えねばならず、あまりにも時間と労力がかかりすぎる。それでは別働隊の奇襲を事前に気取られるし、それ以前に村上義清に決戦を挑むに及んで到着が間に合わない。このため、遂に勘助は武田軍を二手に割ることができなかった。

 

 平野は騎兵にとって絶好の戦場であったが、千曲川がネックとなる。川を挟んだ戦闘だと直近では第一次国府台合戦がそうだが、あれは足利義明がお世辞にも名将とは言えなかったため、みすみす北条軍を渡河させてしまった。あまり参考にはならない。村上義清は足利義明とは違い、名将である。

 

 村上義清は、奇策を弄しない。兵数が不利であろうとも、堂々の正面衝突で雌雄を決するつもりだった。別働隊を動かして敵城を挟撃するという勘助得意の奇策が、村上義清の無策の前に封じられたという形になる。晴信は信濃統一を焦っていた。「あちらが無策ならば、正攻法で戦うのみ」と決める。勘助も、晴信の意を汲んで新たな陣立てを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 信繁は今か今かと返事の来るのを待っていた。早くしなければ、姉は攻撃を命じてしまう。その前に何とかしなくてはいけなかった。最後の軍議に間に合えばいいけれど。そう思いながら彼女は自分の陣の天幕の中をグルグルと徘徊していた。そこへ早馬が戻ってくる。思わずグッと拳を握り俗に言うガッツポーズをした信繁は慌てて返事の書状を受け取る。開いた彼女の目に飛び込んできたのは圧倒的な情報量であった。その量に眩暈がしたが、ここまでしてくれたのだと感動もしていた。感謝の念を深く抱きつつ、目を通し始めるのだった。

 

 そこに記されているのは信濃攻略の言わば指南書。細かい勢力図や戦略の詳細まで書かれていた。籠城戦をされた場合の兵糧の必要数まで書いてある辺り、書いた人物がかなり完璧なものを作り上げたことがわかる。加えて最近はすっかり関東の風土に慣れているが、段蔵は元々戸隠に住んでいた。信濃は庭のようなものである。その段蔵から聞いた信濃の実情から導き出された結論の集合体。それがこの返信だった。

 

 晴信の説得方法や上田原での会戦の注意点なども記されている。ただ、これらに関してはうまく行かない可能性大と書かれていた。聡明な人物ほど自らの過ちを認め難いからである。また、戦場は思い描いた通りには進まないのである。また上田原の戦いの詳しい経過が不明なところも兼音の書面の内容を抽象的にさせた。やはり安楽椅子探偵ならぬ安楽椅子軍師は無理があるのである。敗北しても彼に責任を求めるのは酷だろう。

 

 これを承知しつつも、元々無茶苦茶な要求だったのだからここまでしてくれたことに感謝しなくては、と信繁は思った。軍議の始まるタイムリミットギリギリに読み終わった信繁は脳内で膨大な量の情報を整理していた。そして自分の頬をパチリと叩き決意を決めて軍議に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 村上義清率いる五千の敵軍と川を隔てて対峙した晴信は、重臣たちを本陣に召集して、「時は来た」と告げる。

 

「信濃最強の村上義清を破れば、小笠原などは戦わずして武田に降る。これが信濃統一のための最後の合戦となる。勝てば、宿老の板垣信方と甘利虎泰にはそれぞれ信濃の一城を知行地として与える。手柄を立てたそれぞれの将にも、知行を約束しよう。信濃全域を手に入れれば武田の国力は増す。越後にも東海道にも進出することができる。海に出られるぞ。甲斐は、一変する」

 

 板垣と甘利。二人の老将は、

 

「戦に勝つ前に大盤振る舞いをするのは不吉でございます。論功行賞は、勝ち戦の後に行うもの」

 

「城など要らぬ。儂はただ甲斐に武田晴信あり、と天下に示すことができればそれでいい。駿河の大殿、晴信さまのご活躍をなにとぞご覧あれ! うおおおおん!」

 

 と落ち着き払い、あるいは豪快に騒ぎ、いつもと変わらない。佐久では国人・豪族・領民たちの執拗な抵抗に遭って手こずったが、晴信は家督を継いで以来ただの一度の負け戦も経験していない。晴信の留守中に反旗を翻した者たちも、晴信自身が出兵すればことごとく敗れ去った。

 

 だが、歴史は証明している。勝っている時が一番危険であると。勝利の余韻に酔った将が容易く敗れるのはこれまでも、これからもよくあることなのである。しかも、老獪な武将の常勝とこの武田家の常勝の質は大きく異なる。武田家は、特に晴信は敗戦を知らない。加えて、経験が圧倒的に足りない。これらの要素は聡明な晴信の目を確実に曇らせていた。

 

 兼音も敗戦は知らないのだが、彼はその狂気じみた知識がある。人類史に刻まれた戦いの敗者のことも当然熟知している。何故負けたのか。勝てる方法は無かったのか。実体験に劣らないだけの知識がある為決して油断はしなかった。だが、晴信はそんな知識はない。

 

「御屋形様。こたびの戦、正面から衝突して押し切れればよろしいのですが、武田軍は連戦続きで疲弊しております。数で圧倒しているとはいえ村上軍を侮ってはなりませんぞ」

 

「板垣は心配性だな。焦ってはいない。今更に村上義清個人の武勇で覆せるような戦力差ではなかろう。なにも問題はない」

 

「軍師どのは如何お考えか?」

 

 勘助が「左様ですな」と顔を上げた。

 

「別働隊を出して挟撃するが最上の策なれど、己の武を頼む村上義清は籠城を選びませんでした。しかも意外にも村上陣営の諜報網は強うござる。各地へ物見に出した兵たちが戻ってきませぬ」

 

「おおかた、戸隠の忍びと結んだのであろうな」

 

「こちらも多くの忍びを抱える真田の者どもを雇えればよかったのですが、まだ上州を去る決意ができぬ模様。すでに関東管領の権威は地に落ち、上州も滅びを待つばかりなのですが」

 

「真田は、御屋形さまにご不信があるのかもしれぬな」

 

「いえ。真田はかつて、信虎さまと村上義清、諏訪家の連合軍に城を奪われておりますれば、武田と村上が再び同盟する可能性が消えるまでは信濃には戻らぬが得策と用心深く考えているようです。真田幸隆はなかなかの狸」

 

「今の真田は本領を失い上州の食客になっておる身だ。ここで上州を飛びだしたはいいが信濃の本領にも戻れなかったとあらば真田の一族は行き場を失い四分五裂する。慎重にもなろう。こたびの戦いで両軍が壮絶な死闘を繰り広げれば、真田は武田方につくであろうか? 勘助」

 

「板垣殿、それは間違いありますまい。武田と村上の関係が破綻すれば、旧領の真田の庄を回復する絶好の機会となりましょうからな」

 

「真田を帰順させたのちに村上との決戦に及ぶべきだと拙者は考えておったが、そういうことであれば村上とこの場で戦うしかあるまいな」

 

 ここで不幸なことが何かあるとするならば、勘助は戸隠忍びの実力を知らない。現在は最強だった加藤段蔵とその一味がいないものの、それでも侮っていい相手ではなかった。風魔には劣るが、真田忍びなしに挑むにはいささか戸隠忍びは強すぎる。

 

 更に、興国寺城の戦いに参加していない将がほとんどの武田軍の将はかの戦の北条家の勝因が情報戦における勝利であることを未だ気付けないでいた。情報戦と言う概念が明確に認識され始めるのは20世紀の終わりごろに米国によってである。この数世紀前に情報戦を展開している北条家の戦略に理解が及ばないのはある意味仕方のない事なのかもしれない。しかも、勘助もある種前時代的なところがある軍師だった。情報は大切であると考えている(むしろ考えていない人間に軍師を名乗る資格はない)が、それでも軍略や実際の戦闘でどうにでも出来ると考えていた。兼音が聞けば呆れかえるだろうがこれが実戦経験の足りない軍師の限界だった。

 

「だがな板垣の親父さん。佐久で、俺たちは少々やりすぎた。村上軍の連中は敗れれば金山へ送られると互いに噂しあっていて、全員決死の覚悟だ。諏訪での高遠との戦いなどとは比べものにならん。連中の士気は高い。四郎様という手品の種も使えない。厳しい戦になるぞ」

 

 軍議にほとんど耳を貸さず、黙々と槍を手入れしていた横田備中が、ぶっきらぼうにつぶやく。

 

「もっとも俺は、こういう生きるか死ぬかの戦のほうが嬉しいがな」

 

 四天王中紅一点の姫武将・飯富兵部がイナゴの佃煮を頭からかじりながら

 

「そうさね」とうなずく。

 

「大殿が仇敵だった村上義清や諏訪頼重と同盟を結んだ時、あたしたちはがっかりしたもんさ。とりわけ諏訪との婚姻同盟を成立させたことはね……。佐久ごときを奪うために信濃全土を併呑するという野望を捨てちまったのか、とね。しかし今、御屋形さまは諏訪を平定し佐久を独力で奪い、信濃制覇に王手をかけた。今川・北条と固く結ぶという奇策を用いてね。大殿の戦略を全部、あたしたちの手でひっくり返してやろうぜ」

 

「おう。堂々と戦って村上を破れば、親父どのも二度と姉上を臆病者だとは罵しれねえ! あの親父どのですら、村上義清には勝てなかったんだからな! 信濃を平定すれば、きっと認めてくれるさ」

 

 晴信の弟の太郎義信が、飯富兵部の肩をぽんと叩いた。勘助はその様子を目を細めながら見守っている。ちなみに、一条信龍は甲斐で留守居役である。

 

 今の武田家は、信虎時代とはまるで違っている。皆が御屋形様のもとに仲間として集い、疑似家族として結束している。この人の和こそ、武田家と御屋形様にとってなによりも大切なものだ。決戦といえどもこの和を失いかねぬ無理押しはならぬ、と勘助は確信していた。

 

「とはいえこの決戦、無傷では勝てますまい。これは武田が戦国大名として生まれ変わるための産みの苦しみと言ってもいいでしょうな。皆の衆、よろしく頼み申す」

 

「いや勘助。あたしは強引な戦で四天王たちを失いたくはない。四天王は父上が甲斐に残してくれた貴重な財産だ。万が一にも形勢不利とみれば、退こう。もっとも、この戦力差があれば万が一はないはずだが」

 

 そう言いながら河越で自軍を殲滅された男がいるのだが、晴信はやはり自信過剰になっている。興国寺城でやや矯正されたが、あの戦いは自分が指揮していなかった事、その後伊那で連戦を重ねたことで元に戻ってしまっていた。信繁は最後の一言は兼音の書状に似たような事を言い始めたら注意と書かれていたことを瞬時に思い出した。そのせいで顔色はやや悪い。

 

 晴信の脳裏には河越夜戦の報告がちらつく。それを思い出すたびに心の奥で何かが疼くのを感じた。

 

 

 

 

 

 今しかないか、と信繁は口を開く。

 

「皆、水を差すようで悪いけれど最近家中で油断慢心が見えるわ。意図していなくても、態度の端々に。それは兵にも伝播しているように見える。今一度気を引き締めなくては、負けてしまうわ」

 

 場の雰囲気に流されず、冷静に告げる信繁に一同はやや訝し気な目線を送る。

 

「そうは言っても次郎、こちらは八千。向こうは寄せ集めの五千だぞ」

 

「そういうところよ」

 

 ピシャリと言う信繁に全員が目を見張る。彼女が強く晴信に意見することなどめったにない。目の前で行われたその数少ない例外に瞠目している。

 

「大将が兵数に驕ったり、戦う前に恩賞の話をしてはいけないわ。その行動の根底には油断があるものよ」

 

「前者はともかく、後者は迷信だろう?あたしは迷信など信じないぞ」

 

「姉上、確かに古い因習にはどうしようもなく下らないものも、全く意味のないものもあるわ。けれど、それと同じ数だけ理由があるものも存在する。忘れられてしまって迷信じみていても根っこには合理的な理由があったはずのもの。これは無闇に無視していいものではないわ。どうしてそういう風に言われているか考えないと。何から何まで否定するのは、違うと思うの」

 

「…そうかもしれないが」

 

「私は不安なの。どうも最近の姉上は焦っているように見える。それがどうしても危うく見えるわ」

 

「あたしは焦ってなど…」

 

「焦ってるわ。北条家の戦勝を聞いてからずっと」

 

「ッ!」

 

「姉上、武田と北条はそもそも出発点が違うわ。比べるなど無益よ。どうか冷静になって。この戦も…」

 

「次郎。分かっている。それに、将たるものがそう不安ばかり口にしていては士気に障る」

 

「……そう。くれぐれも油断しないで」

 

 それが限界だった。姉へのある種の反抗は信繁の心を傷つけていた。兼音様、ごめんなさい。私は説得できませんでした。この流れは止められません。せめて、村上義清と戦う事を決める前に手紙を送っていれば…!と信繁は拳を握りしめる。かくなる上は自分が最後まで行く末を見守って軌道修正を図るしかないと考えていた。

 

「板垣。無闇に突撃しないで。もし、最初の渡河の時点で敵が何か策を弄していたら危険よ」 

 

「あいや信繁様。村上義清はその様な策を用いる男ではござらん。問題ないでしょう」

 

「勘助。あなたの戦術眼は信頼しているわ。でも、先入観は危険よ。あの人物はこういう人物だという定義づけは判断を狂わせるわ」

 

 最後の言葉は兼音の文書に記されていた事項の要旨である。勘助が思わぬ反論に驚いている間に、彼女は板垣に命じた。

 

「板垣。ともかく、己の常識で測れぬものに遭遇したらすぐにそれこそ一目散に退くこと」

 

「御意」

 

 板垣信方は「己の常識で測れぬもの」という言葉にやや疑問を抱きつつも承諾の意を示した。勘助は、信繁が胸元に入れている書状を握りしめているのを見て、信繁に入れ知恵をした人物の正体に気付く。これに彼の自尊心はやや傷つけられた。兼音に言わせれば、そんな自尊心とっとと捨ててしまえというところであるが、それを言う者はいない。

 

横田備中が「……戦国の世だ。弱い者から先に滅びていく。俺たちが戦えば戦うほど、敵は次々と強くなっていく」と呟いた。

 

「村上義清を倒せば、いずれさらなる強敵が現れるだろうな。俺たちはそのことごとくと戦い、勝たねばならん。俺は、武田軍が日ノ本最強となる瞬間を見てみたい」

 

 

 

 

 

 信繁の脳内には不吉な一文がチラつく。「宿老さえ知らぬ、己の常識で測れぬ村上の新たな戦術がある可能性高し。かの武人は貴殿らの騎馬隊を屠る術を編み出している確率が大。そうなれば、申し訳ないが現状の貴殿らの騎馬隊では勝利は難しい。すみやかにいち早く撤退をするべし。さもなくば、御家滅亡もあり得る。」兼音からの書状にはそう書かれていた。

 

 兼音は正確には、「己の常識で測れぬもの」ではなく「槍衾」に遭遇したら退けと書きたかった。しかし、村上がこれを用いる確信が持てず、敢えて言いかえた。この時代、まだ集団戦法は浸透しておらず、それは武田軍も例外ではなかった。兼音からすれば、書いても理解されるか分からなかったのである。それに、槍衾はほぼ鉄壁の防御を誇る。特に騎兵に対しては。これを突破するには銃火器などを大量に用いるか弓を無限に放ち続けるか、いずれにしろ遠距離攻撃で崩すしかない。しかし、残念ながら武田家に鉄砲は無く、弓兵の数も少なかった。これを知っている兼音は撤退を選択するように書いたのである。速度は騎馬の方が上。逃げ切れると踏んでいた。

 

 実は横ががら空きなのが槍衾の弱点なのだが、村上軍は千曲川の支流を挟んだ反対側に陣取っている。本陣は更にその奥の須々貴山城にある。その為、横側を突くにしろ、後方を脅かすにしろ、川を渡らねばならない。村上軍がそれを見逃すはずもなく、回り込むのは難しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明け方。

 

 産川(千曲川の支流)を挟み、武田軍と村上軍の激突がはじまった。勘助は、武田軍を三段に分けた。先鋒に、宿老の板垣・甘利たち。諏訪衆がその主力である。中備えに、次郎信繁率いる郎党衆たち。太郎や飯富兵部はこの中軍に配備されている。後衛に、晴信自身が率いる近衛軍。

 

 血気盛んな若手ではなく、老獪な板垣信方に先鋒を任せた。村上義清はおそらく最初の突進にすべてを懸けている。その村上義清の突進を、板垣の熟練の戦略眼と采配によって避けようというのである。「後の先」を取ろう、板垣ならば取ってくれるだろう、それが勘助の読みだった。

 

 この時点で勘助もそして晴信も、従来の戦いとは異なりわずかに一歩腰が引けていたといっていい。

先鋒隊を率いて産川を押し渡りはじめた板垣信方は、自身の役割を熟知していた。

 

 まずは川を渡る姿勢を見せて、先手を取る。これを見た村上義清は「先手を取られまい」と全力で迎撃する。この村上軍の圧力を受け流しながら悠々と元来た川岸へと引き上げ、「後の先」を取る。闘気を逸らされて猛り狂う村上軍は川を渡りきり、武田が待ち受ける南岸へと押し寄せてくる。だが、武田が数で勝る。さらに、突出させた村上軍を背水の形に追い込むことで地の利も得る。甘利隊、信繁隊、飯富隊とともにじわじわと包囲していく――。

 

 村上義清は、己の武を頼みにひたすら突進する男だ。正面から当たれば大やけどを負う。矛先をかわし、武田に有利な地へ、有利な地へと村上軍を誘導する、それがわが使命。この日の朝。運命の一戦を勘助と晴信から託された板垣信方は冴え渡っていた、はずだった。

 

この作戦は決して酷い作戦ではなかった。むしろ、村上義清が読み通りの人間性ならば万事うまく行っていただろう。だが、不幸なことにそうはならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 板垣率いる先鋒隊は、最初の一当たりによってあっけなく崩された。村上の弓隊が、開戦の挨拶とばかりに矢を放った後、異様な軍団、異様な陣形が、板垣の面前に突如として出現していた。

 

 途方もなく長い槍を構えた足軽たちが、びっしりと蟻のように密集して、一直線に板垣を目掛けて凄まじい形相で突進してきたのである。

 

「あ、あれはなんだ!」

 

 槍か?それにしては常識をはるかに超えて長い。あれでは敵を突くこともできぬ、と板垣は驚いた。しかし、それらは突くための武器ではなかった。押し寄せながら、殴りつけてくる。間合いが違う。板垣隊の足軽たちが構えた槍が届かぬ距離から、重さに任せて殴ってくる。一般に槍は日本刀の五倍の重さがあると言われる。長槍ともなれば更に重くなるのだ。そんなものが上から重力と遠心力にまかせて振り下ろされれば頭蓋骨陥没は免れない。しかも下手に馬で正面から進もうとすれば、ハリネズミになるだろう。何とかかいくぐって切り崩すしかなかった。

 

 無数の長槍をすり抜けて刀で斬り込みをかけようとした豪の者たちも、まるでひとつの生き物のように連動して動く長槍の触手のような動きに捕まり、叩きのめされていく。

 

 一対多。

 

 いかように闘おうとしても、こちらの武士は一。向こうの足軽は多数。しかも、間合いが違いすぎる。一方的に攻撃を受ける、それも多数から。この長大な槍を無数に連ねた「歩く要塞」を前にしては、いかなるつわものといえどもそのような不利な戦い方しかできない。集団戦は応仁の乱以降浸透してきてはいるが、まだ個人戦闘が主体なのが武田軍であった。彼らは個人の武勇に頼むところが大きい。その意味で、旧態依然とした軍だった。個人戦闘に集団戦闘は統率にもよるが、大きな効果を発揮する。そして残念ながら、村上軍は統率がしっかりとしていた。武田軍でこれまで功績を稼いでいた腕自慢の武士たちが、名もなき足軽たちの槍衾によって、次々と倒されていく。

 

 ともかく撤退しなくてはならない。信繁の命令にあった「己の常識では測れないもの」とはこれのことだろうと板垣は思った。

 

「全軍、直ちに撤退せよ!無駄な被害を出すわけにはいかぬ!」

 

 崩れかけながらも板垣軍は一目散に撤退を始める。

 

「村上義清と直接戦った経験がある拙者や甘利ら老臣の情報を、御屋形様も勘助も鵜呑みにしていたのだ。あの二人には村上戦の経験がなく、それがしたちにはあった。それゆえに我らの意見が尊重された。だが、それが過ちだった」

 

 臍を噛みながらも板垣は駆ける。彼の背後に敵本陣からただ一騎で飛びだしてきた村上義清が、黒馬に跨って川を押し渡ってきた。武田信虎を彷彿とさせる殺気と獣臭をその身体から放ちながら、しかしその獰猛な視線には憎悪も猜疑心もなにもない。山に潜み獲物を狩る、狼のような視線だった。

 

「ここが貴様らの三途の川だ。武田家中興を果たした名将板垣よ。最期は、この俺の手で冥土へ送ってやろう」

 

 板垣様をお守りせよ!と叫び義清に挑んだ兵たちが次の瞬間には物言わぬ死体になっている。主を失った馬が悲し気に嘶く。

 

 村上義清は馬を殺さず、馬上に跨がる武士だけを討った。

 

 圧倒的な武の力だった。この男が戦国の習いを無視した集団戦術を編み出すなど、山本勘助にすら予想できなかったろう。勘助にはやはりまだ実戦経験が欠けている。逆に、村上義清が己の本能に反するような槍衾戦術を閃いたのは、ひとえに実戦経験の積み重ねゆえだった。己一人の武の力では武田の侵略は止められぬと追い詰められてこそ、閃いたのだろう。この男は頭で考える戦はできない。野獣のように、考えるより先に身体を動かし敵を討つのみ。その獣の嗅覚が、槍衾を生んだらしい。

 

 完全なるIFの話であるが、北条軍が村上義清の相手であったら、もしくは援軍が千でもいたら。こうはならなかったであろう。北条軍は歩兵中心の集団戦術を行っている。応仁の乱で発展した集団戦術は上方では有名だが、応仁の乱に直接巻き込まれていない関東甲信では知られていなかった。ここで思い出すべきは北条家の始祖、早雲は京の伊勢家の出である。彼は関東に上方の戦術を持ち込んでいた。それが北条軍の強さの秘密である。とは言っても兼音に言わせればまだまだ完全ではないが。

 

 このような戦術は、頭でこしらえる学問からは生まれまい。やはり勘助と御屋形さまに足りぬものは、実戦経験であった。拙者はすでに老いたが、村上義清はまだ老いてはいない。むしろ今こそがこの男の武将としての全盛期であるかのようだ、と板垣は目を細めた。

 

 この圧力は止められぬ。矛先をかわすこともできぬ。村上義清は、我らに「後の先」を取らせはしなかった。そのために村上は、この一戦で全軍玉砕するつもりで後先も考えずに突撃をかけてきた。これでは仮に村上軍が武田軍を破ろうが、村上軍とて大打撃を負うだろう。それが村上義清の恐ろしさでもあり、「故郷の地を守る」という以外の野望を持たぬ者の強みでもある、と板垣は思った。この戦いののちも四方で次々と合戦を繰り広げねばならぬ武田軍には決してできぬ無謀な突撃だ、と。いや、それこそが御屋形様の弱みであったのかもしれぬ、と板垣は思う。

 

 ともかく、時間を稼がねば、御屋形様を逃がせない。時間さえあれば、勘助がなにか起死回生の策を閃くやもしれぬ。策が見当たらなくても、逃げることはできる。

 

 板垣隊は川岸で陣を整え始める。川の流れの中を突き進んでくる村上義清と槍衾部隊の進撃をわずかでも阻もうとした。板垣に長年仕えてきた兵士たちも、大将の意を汲んで即座に川岸へずらりと並び、人間と馬とで「壁」を築きはじめていた。後方から甘利虎泰隊が、板垣を救おうと慌てて突進してくる姿が見えた。

 

「馬鹿者め。甘利は相変わらず、人情だけで動いておるわ。御屋形様をお守りせよ、拙者は捨て殺しにせよと怒鳴りつけたいところだが――何十年もともに戦った男だ。あやつの性格は今更変えられぬ」

 

 いつもそうだった。戦場においては拙者がさかしらに策を練り采配を振るい、大殿と甘利がその武の力を惜しみなく発揮して拙者が頭でひねり出した策の足りぬところを補ってくれたのだ。

 

 すでに大殿は駿河。拙者たちが追ったのだ。大殿の役目はすでに御屋形様に。策を練る役は勘助に。武を発揮する役は、まだ若い横田や飯富が負うことになりつつあった。この一戦に勝利し信濃を平定すれば拙者も甘利も引退する潮時であったが、それほど甘くはなかった。

 

「甘利。拙者とともに死ぬつもりか」

 

 それも良いと思った。しかし、そこで板垣の心に迷いが産まれた。

 

 だが、だがもし拙者と甘利が同時に死ねばどうなる。我らを家族と言ってくださるあの心優しい御屋形様だ。ひどく傷つくことになるだろう。あの大殿を駿河へ追いやった一件でも、辛そうにしておられた。あのお方は身近なものが死ぬことに慣れておらぬ。このままでは、御屋形様の御心は張り裂けてはしまわぬか…。それは我らの望む所ではない。ならば拙者のやることは一つだけではないか。

 

「すまぬな、甘利。先に逝く」 

 

 そう呟き、彼は辞世の句を素早くしたためる。そして青い空を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

「いかんな。もしも大殿が村上義清であったなら、御屋形様はきっとかかる追放劇などを決行することもなかったろうに、などとありえぬ世迷い言を……拙者の天運は、尽きていたらしい」

 

「うおおおお! 勝手なことを抜かすな、板垣よ! ともに大殿を駿河に追っておきながら、この正念場で御屋形さまを置いてさっさと討ち死にしようなど、貴様は昔から考えすぎる!」

 

 甘利隊が近付く。板垣は渾身の怒声で盟友に叫ぶ。

 

「愚か者!我らが密集してどうする。村上の思う壺だ。やつにはまだ奥の手が、第二の矢があるはずだ。それ故に信繁様もすぐに退けと仰ったのだ。ここで二人が一気に死んでは意味がない。拙者が踏みとどまる。戻れ!」

 

「板垣! 老いたうぬ一人では苦もなく村上に斬られるわ! わしが一騎討ちを仕掛ける! この戦の勝機はそこにしかない!」

 

「戯け!あれに勝てる訳なかろう!ここで我らが両方とも討たれれば御屋形様の御心はどうなる。お主は生きて、最後まで御屋形様をお守りせよ!ここで死ぬのは拙者一人で十分だ」

 

「板垣…お主ッ!」

 

「頼む。生涯唯一にして最後の頼みだ。ここは退いてくれ。そして拙者の分も御屋形様を!」

 

 甘利は板垣の覚悟を読み取った。その上でなお迷う。だが、板垣はおそらく何が何でも自分を退かせるだろう。無力な自分を呪いつつ、己の思想よりも甘利は生涯の盟友の頼みを選んだ。

 

「必ず生きて戻って来い!」

 

「応、そう簡単に逝ってたまるか。戻ったら一杯やろう」

 

「っ!旨い酒を用意して待っておるぞ!!」

 

 甘利隊が反転していく。去り行く背中を見送りながら、板垣は念を送っていた。

 

「頼むぞ、甘利。どうか生きて、拙者の分まで、御屋形様の天下を見てくれ…!」

 

 

 

 

天を突く勢いで、渡河を終えた村上軍が、突進してきた。あの、槍衾隊である。人と馬とで築いた即席の「壁」は、容易に突き崩された。漆黒の鎧に身を包んだ村上義清が、左右に走らせている旗本隊を引き連れ、板垣信方が待ち受ける陣中へと乱入してきた。

 

「板垣信方か。悪いが時間は稼がせぬ。俺の流儀ではないが、一瞬で終わらせる。天の時がわが頭上に輝いているならば、まもなく晴信は死ぬ。だが天の時が晴信のもとにあるならば、俺は武田晴信率いる武田軍を新たに生まれ変わらせるという大仕事を手伝ってやったということになろう――」

 

 馬上で咆哮する村上義清を見上げながら、板垣信方は答えていた。

 

「そうとも。今日の勝ちはそなたのものだ。しかし御屋形様はこの経験によって、お強くなられる。日ノ本一の武将になられる」

 

「いや、まだだ。まだひよっこだ。女は、武将にはなりきれん。なりきる前に、俺がその首を落とす」

 

「ならねばならぬ、御屋形様はな」

 

 村上義清が馬に鞭を入れ、板垣めがけて再び走りはじめた。板垣も腰の得物を抜き放つ。突進する槍と待ち構える刀とが交錯する。刹那——板垣の口から血が噴き出す。胸からも鮮血が迸る。崩れ落ちる板垣。

 

 薄れゆく視界の中、彼の瞼に見えるのは、己にとどめを刺さんと欲する村上義清の槍の穂先ではなかった。 

 

「おお、おお!見える、見えるぞ。京の街に、武田菱がはためくのが…!」

 

 かつて若い頃に一度だけ訪れた都。その大通りに武田の威風堂々とした騎馬が行進する。誰もが笑い合う。御屋形様に大殿が声をかけている。今まで良く頑張ったと。ああ、素晴らしい。

 

 今際の夢に板垣信方は笑う。彼の望む幸せがそこにはあった。行進する馬の爪音が聞こえた。

 

 そして――――――

 

 槍が胸を貫くと共に彼の意識は深い闇へと落ちていった。その口元には確かな笑みが浮かんでいた。

 

  

 

 

 

 飽かなくもなほ木のもとの夕映えに 月影宿せ花も色そふ

 

 彼の辞世である。花は落ちた。されど戦は終わらない。

一つ、アンケートを取らせて下さい。内容はこの世界の本願寺の扱いについてです。原作では、本願寺は猫神を信仰する、不思議な力を持つ門主の導く本猫寺でした。この作品では、原作にあったファンタジー要素はなるべく削ってます。現実の戦国時代と乖離しすぎるからです。ただ、匙加減に迷ってるので回答お願いします。

  • 本願寺でいくべき
  • 本猫寺で良いだろ
  • どちらでも可。作者の好きにしろ
  • 半兵衛ちゃん可愛い。早く出せや

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