魔法少女あすみ☆マギカ ~Rainy Ambivalence~   作:Κirish

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第8話「永く生きている事を願うわ」

 佐倉杏子が私──暁美ほむらへ打倒神名あすみの話を持ち掛けて数日して今日。今頃、神名あすみとの決着が着いた頃だろうか。それとも……もう、佐倉杏子は──。

 ──もしそうであれば、結局は私一人でアイツに立ち向かうしかない。

 どの道一度は諦めた戦力だ。神名あすみに絆され、汚染されたモノと私の中で断じた。美樹さやかのみならず、まさか志筑仁美までもが神名あすみに葬られてしまった。となれば残るは巴マミだが、佐倉杏子とは違って本当の意味で懐柔されている事だろう。もはや戦力としては一切アテに出来ない。とは言え佐倉杏子が生きてたとしても、必ずしもワルプルギスの夜の討伐に協力してくれ得るとは思えなかった。彼女は利害が一致しなければこちらへ靡く事は無い。私が盗んできたアセトンと引き換えにワルプルギスの夜の討伐を、一応は口約束してはくれたものの、あくまでも今周回の彼女の利とは千歳ゆまの命だ。それ以上のリスクを、今後一切彼女が侵すとはとても思えない。

「……まどか……」

 闇夜に包まれた廃ビルから眺める景色は、街の灯りが宛ら星空の様──。

 そんな光景を眺めながら、愛する者の名を独り呟く私。

 神名あすみは私に、独り善がりのエゴだと言った。別に、特段それを気に病む事もない。私は私の道を歩むだけ。まどかが平和に人間として……いつまでも暮らせる世界を夢見て、無限回路を歩むだけ。

 でもどうしてか、少しだけ胸に蟠る。

『あの子の為なんかじゃない。暁美ほむら──オマエ自身の為だけよ。もうそれって、独り善がりのエゴよね?』

 舌足らずでありながら、されど嘲笑うあの幼げな声が、私の頭の中から離れずにいる。

「やぁ、暁美ほむら」

 いつだってコイツは神出鬼没ね。

 吐き気を催す程に聞き慣れ過ぎた、少年の声色。

「インキュベーター……!」

「……やはり、君は僕を敵視している様だね。君をそこまで駆り立てた覚えが僕には無いんだが……」

 相も変わらず白々しく無感情に悪意を向けるこの獣。──否、コイツに悪意と言う概念はない。そもそも感情が無いのだから。

「今日は君にお願いがあって来たんだ」

「私がお前の言う事を聞くとでも思うのかしら」

「いや、こればかりは聞かざるを得ないと思うんだ」

 そして、決まってコイツが私に話しかけて来る際の話題はどれもこれもがロクでもない事ばかり。それも『お願い』と言うなら猶更だ。と言うのも──。

「──神名あすみを討伐して欲しい」

「は──」

 どう言う風の吹き回しなのか。キュゥべえの事だ。神名あすみと対峙した一部始終もどこかから監視して既に知っているに違いない。だからこそ、こうして誰かに──それも私に肩入れする事は珍しい。そのうえ願ってもない神名あすみの討伐を──だ。言い知れぬ気味の悪さが背筋を舐めずる中、暫くは出方を待つ事とした。

「……」

「おや? どうしたんだい? 君の得にもなる話の筈だよ?」

「何のつもりかしら」

「僕はただ君の為にもなる提案をしたまでだ。君に害が及ぶことをしよう等とは思った事がない。それに彼女は鹿目まどかをも狙おうとしている。しかも契約前に殺害しようとしているつもりだ。僕としてはそれだけは避けたいんだ」

 ──ああ、そう言う事ね。

 確かに彼女であらば、まどかをも食い物にしようと奔放するだろう事は想像に難しくはない。ただ契約前に──と言う点だけが意外だった。彼女であれば、世界を不幸に貶めるべく全人類を殺害する兵器としてまどかを利用しそうなまではあると睨んだけれど──。自分の命だけは惜しい──と言った所だろうか。

 とにかく、神名あすみ討伐の件は──。

「言われなくとも、彼女は葬るつもりよ」

「それは良かった。君が彼女を倒してくれなければどうしようかと思ったよ。君以外に唯一彼女を亡き者に出来得るであろう織莉子は、あすみへの接触をどうも拒んでいる様子だったんだ」

 美国織莉子一派も彼女の危険性は認知していたと言う事となる。未来予知によるものなのだろう。それだけに、いっそう彼女らへの警戒が堅い物となった。

「けれど神名あすみを亡き者にすれば、巴マミからはいっそう敵視されるでしょうね」

「いや、マミにはすべてを伝えたよ。神名あすみが何をしていたのかをね──」

 こいつ──! 余計な事を──!

「あなた……! 自ら魔女化の話をしたと言うの──!?」

「やっぱり知っていたんだね」

「っ……!」

 迂闊だった。いや、もうそんな事はどうでも良い。どの道インキュベーターには知られる事だ。私が魔法少女システムの全貌を知っている事がコイツにバレる事など今更。それよりも魔女化の真実を知った事により、もう巴マミの心は──。

「生憎だが、彼女ら──巴マミと佐倉杏子には、魔法少女がいずれ魔女になる事は伝えてはいない。千歳ゆまだけはあすみの手により知ってしまった様だけれどね。僕はあすみが何人もの魔法少女を騙し、そして呉キリカとは別の──何の関係も無い、別口の魔法少女狩りだったと言う事だけを伝えたよ」

 強張った胸の緊張が解れる。これで巴マミの魔女化は避けられる。巴マミには、もう神名あすみが大量殺戮者だと言う事が知れ渡っている。言うなれば彼女からしてみれば忌み討つべき敵でしかない。上手くいけば、一度は諦めた更なる戦力として使う事が出来るかもしれない。千歳ゆまに魔女化を知られてもそれは些細な問題だ。彼女だけは、この残酷な真実を乗り越えられる事を私は知っているのだから。けれど──。

「神名あすみの魂は、もう限界に近い」

「──!」

 つまりは、神名あすみの魔女化──。

「彼女が魔女へと成長する事により、マミの魔女化が見込めるんだ。彼女の愛したあすみがよりにもよって魔女と化す。突如突きつけられる現実を前に、彼女は絶望する他無いだろうね」

 ──ああ、そう言う事──。

 何も神名あすみ討伐とは、私と利害が一致しているから──と言うだけではなかった。コイツらはいつでもそう。人間の価値観が通用せず、そして人間には思い浮かばない外道が如き所業を平気で成し遂げる。神名あすみですら、インキュベーターからすれば餌の一つでしかないのだろう。そしてコイツの口ぶりからして──神名あすみの正体を知ろうとも、巴マミは依然として彼女に肩入れしていると言う事。

「これでも僕たちは君たち人類の為に働いているんだ。感謝すらして欲しいぐらいさ。それに美樹さやかと志筑仁美のみならず、マミに杏子にゆま、そして神名あすみが消えるとなれば残る魔法少女は君だけさ」

「美国織莉子らはカウントしないのね」

「彼女達も処分対象だからね。まどかを亡き者にしようとしている事はもう分かり切っているんだ。そこで、君に彼女達の処分もお願いしたい」

「そして魔法少女は私だけになる」

「そうさ。これでまどかを守れる魔法少女は、この見滝原において君──暁美ほむらたった一人以外すべて居なくなるんだ」

「──つくづく下衆の者ね。あなた達は」

 巴マミの見ていない所で神名あすみを葬ったとしても、きっとコイツを介して伝えられてしまう。もう、全てが無駄だろう。巴マミはもう使えない。佐倉杏子も、きっとワルプルギスの夜の討伐には協力してくれない。我が身の方が一大事だろう。だったなら、例え巴マミが居ようとも私がこの手で神名あすみを葬り、まどかを守って──。

『あの子の為なんかじゃない。暁美ほむら──オマエ自身の為だけよ。もうそれって、独り善がりのエゴよね?』

 ──まただ。また頭の中にて繰り返される神名あすみの声。

 私はまどかの為ならば、永久の迷路に囚われたって良い。その思いを胸に抱いてここまで繰り返してきた。けれど、それは独り善がりだと言うの?

「どうしたんだい?」

 黙りこくる私に、首を傾げるインキュベーター。

「……神名あすみの討伐に、一つ条件を加えるわ」

「何だい? 僕に出来る事であれば良いけど……。それに鹿目まどかの契約をしないと言う条件なら受け付けられない」

「えぇ、どの道その手のお願いにはハナから期待していないもの」

「そうかい。で、条件と言うのは?」

「……」

 コイツにとっては人間とは、資源である以上の価値を見出してはいない。だが、それ故に私怨と言うものを抱かない。まどかを執拗に付け狙うのも個人的な恨みなどではなく、全ては宇宙の為。けれど──。

「あなたにとって、エゴってどう言うものかしら」

「おかしなことを聞くね。それは君たち人類が一番分かってる事なんじゃないかな」

「御託は良いわ。さっさと答えなさい。でなければ要請には応じないわよ」

「あすみがまどかをも害する可能性があるのにかい?」

「……」

「君に残された道は一つだ。あすみを排除するしかない──とは言っても、その質問に答えられない道理はないからね。分かったよ。答えるよ」

 ある意味ではこの世に於いて最も中立にして中庸な立ち位置に居るのかもしれない。であれば、そんな立場から見た人間のエゴとは如何なるモノなのか、少しだけ聞いてみたくはあった。

「エゴの無い人間が居ると仮定するにしても、それはおかしな話だ。人類種の全個体がとりわけ強い自我(エゴ)を持っているからこそ、我々インキュベ─タ─は目を付けたんだ。この様な種族は僕らの星には滅多に見られず、また感情を持つ事自体が精神疾患だったからね」

 結局、コイツはこう言う種族だったわね。

 至極当然な回答だった。人類の事を燃料以上にはどうでも良いからこそ割り出せる俯瞰的な見解。つまりは人間である限り、ひとりひとりがエゴを抱いている。エゴこそが人間らしさの証。

「──聞くにバカバカしい返答ね」

「聞いてきたのは君じゃないか。訳が分からないよ」

 ああ、本当に馬鹿々々しい。こんな当然の事をキュゥべえに諭されるとは──。苛立たしさを紛らわすべく溜息をつく。けれど──。

「問題は片付いたわ」

「そうかい。それは良かった」

 頭の中を占める神名あすみの『声』が聞こえなくなり、胸の蟠りが解れた。矢張り神名あすみとは、玩具を手にしてはしゃいでいるにしか過ぎない。至極当然であるモノを揶揄せずにはいられない、愚かしい子供(餓鬼)と称して言い過ぎではない。そしてそのココロについては、私からすれば殊更どうでも良い。彼女が如何にして藁を掴んだのかは興味が無い。美樹さやかや志筑仁美、巴マミに佐倉杏子を害し、ゆくゆくはまどかをも亡き者にせんとする。魔法少女ではあるが、この所業を魔女──否、魔女よりも性質(タチ)の悪い悪魔と言わずして何と呼ぼうか。

「さぁ、行くわね」

「ああ、期待しているよ」

 そして私の所業により、巴マミから恨みを買うだろう事は必至だ。だがそれがどうした。私は私の(エゴ)を貫く。

「────」

 三つ編んだ名残りか──二又に分かれた長髪を撫で、風に乗せて靡かせる。私はどんな犠牲を払おうとも、私自身を犠牲にしようとも、まどかが人間として幸せに暮らせる世界を掴んでみせる。それこそが私の(エゴ)であり、私が私らしくあれる証。美樹さやかに巴マミ、そして佐倉杏子。所詮は他人でしかない連中からどう思われようが知った事ではない。彼女達にどう思われようと私には関係ない。現に今では佐倉杏子も──ましてや巴マミも頼りにならない。だから今周回では神名あすみを殺す。

『アンタは鬼よ! 悪魔よッ!』

 かつて美樹さやかがそう言ったかしら。

 えぇそうよ。結構よ。

 まどかを付け狙う美国織莉子を葬る。そして神名あすみも亡き者とする。一切の慈悲など無い。まどかに仇なすモノは全て排除する。まどかの幸せを害するモノは全て殺める。まどかさえ生きていてもらえるならば、私はまどか自身にすら嫌われたって良い。まどかの幸福こそが私の幸福。まどかだけが私に残された生きる意味。まどかが生きている事こそが私のたった一つの希望。その為ならば──。

 

 ──たとえ『悪魔』に成り果てようとも、私は構わない──。

 

◆◇◆◇◆

 

 不思議と体は軽かった。

 瞼はこんなにも重いのに。

「──んぅ」

 輪郭が定まらず、ぼんやりと差し込む光。

 ──わたし、死んじゃったのかな。

 居心地の良い温もりに、現世である事が疑わしい。

 わたしは杏子に貫かれ、そして呉キリカに痛めつけられたんだ。

 あの雨の路地裏の中、水溜まりを紅に染め上げながら息絶える筈だったんだ。

 だからこれは──きっと夢なんだ。

 だって──。

「──あすみちゃんっ……!」

「──マミ──おねえちゃ──」

 ──マミおねえちゃんが、こんなところに居る筈ないもの。

 わたしを抱きしめてくれるなんて、ありえないもの。

「よかったぁ……! 目が覚めてっ……!」

「……」

 こんなにも、あすみの肩を濡らしてくれるなんて──ありえないもの──。

「よかったっ……! 本当にっ、良かったっ……!」

「……」

 これが、死の直前に見せた幻だったなら──。

 これが、死の直前に味わう業だったなら──。

 これが、死の直前に償う罪々だったなら──。

「……うん、ごめんなさい……っ」

 ──なんて、温かくて残酷だったのだろう。

 

◆◇◆◇◆

 

「──ごめんね。杏子おねえちゃん。ゆま」

 眠りに落ちている杏子とゆま。指で無理やり瞼を開かせ、ひとりずつにわたしの瞳を合わせて共鳴させて──。

「これできっと大丈夫。二人共もう危なくなんてない。怖い思いなんてしない。だからあとは眠らせてあげてね……?」

「……よかった」

 精神汚染はもう解いた。グリーフシードを押し当てずとも、命を脅かす程にまで穢れる事も無い。その上ゆまには、かつての悪夢を打ち消す夢──杏子に必要とされる夢を植え付けておいた。魔女化の真実があろうとも、ゆまならきっと乗り越えられる。

「あの、マミおねえちゃ──」

「──その前に。ちょっとだけ待っててね? 今用意してくるから……」

「……うん」

 

◆◇◆◇◆

 

 窓の外を見やれば、遠くの景色は霞み、ぽたぽたと雫の滴る音と共にしんしんと雨に降られている。皮膚を冷やす空気は、そんな夜の雨により湿り気を帯びていた。

 ──『あの夜』も同じだった。

 おかあさんが『幸多かれ』と、橙薔薇の髪飾りをくれた最期のあの夜と──。

「はい、召し上がれっ」

 ことっ、とガラス張りのテーブルに置かれる紅茶とケーキ。

 でも、このケーキは──。

「……覚えてるかしら? あすみちゃんと、初めて出会った夜の──」

 ──そう。あのとき初めて食べた、マミおねえちゃんのシフォンケーキ。そして紅茶。

「……いただきます」

 フォークで一切れ、お口に運ぶ。

 初めての夜──。あの時わたしは、泣きながらケーキを味わってたんだっけ。もっと食べて良いの──って、ビクビクしながら味わってたんだっけ。

「美味しい?」

「……」

 そんなの、聞かなくても分かるのに。

 マミおねえちゃんのケーキは、いつだって──。

「……うん、おいしい」

「よかった……」

 にこっ、と微笑むマミおねえちゃん。

 その笑顔が、あすみには眩しい。

 ふんわりと甘く蕩ける──このケーキの味の様な優しさも。

「……」

 琥珀色の紅茶を啜る。胸を通って、体の中から──手足の指先まで温めてくれる香りと味。やっぱり、マミおねえちゃんの紅茶はこんなにも──。

「ふふっ。紅茶の淹れ方には自信があるの」

 ──こんなにも、不味かった(美味しかった)んだ。

 

「……ごちそうさま」

「はい、お粗末様でしたっ」

 食器をテーブルから下げ、洗うわね、と台所へと片していった。

「……」

 ソーサーにティーカップ……ケーキを彩ってた皿を洗ってく。その他に立たせられる音なんて無く、夜の静寂に漂うは沈黙と言って良い。言葉を紡がれる事のない空気がもどかしくもあり、でもどこか安らぎにも似た落ち着きを、カチャカチャと食器を洗う音と共にもたらしてくれていた。

「ねぇ、あすみちゃん」

「……なに」

 食器を洗う水音も、洗剤に擦れる音も止ませて。

「──全部、キュゥべえから聞いたわ」

 ああ、やっぱり──。

 マミおねえちゃんにも、全て知られてた。

 マミおねえちゃんにだけは知られてなかった──なんて、都合の良い話がある筈なかったんだ。

「聞かせてくれるかしら……? あなたが今までやってきた事の、本当の理由を──」

 ──話しても良かった。

 あすみの正体を目の当たりにして、呪詛を喚き魔女に沈んでった人達は大勢いた。でも、マミおねえちゃんは違った。こうしていつになく神妙な眼差しで、今でもあすみを見据えて話を聞こうとしてくれている

 けれど、優しい優しいマミおねえちゃんも──きっとこれで終わり。

 あすみのココロを話せば、きっとマミおねえちゃんにも嫌われる。

 だったなら、それはいつもと同じこと。

 いつもと同じことを──いつも通り繰り返すだけ。

 ──嫌われたわたしは、マミおねえちゃんから離れるだけ。

「……あすみね。おかあさんとお父さんが大好きだった。ううん……おかあさんは今でも大好き。愛してる。あたたかくって、やさしくて、しあわせで──自慢の家族だった」

 おかあさんの事を想うと、いつも胸が締め付けられる。

「けどお父さんとは離れ離れになっちゃったんだ。お父さん、外国にお仕事に行ってるんだ──って、おかあさん言ってた」

「……」

「それからは、おかあさんといっしょに二人っきりで──頑張って過ごしてた。帰ってくるのはいつも遅かったけれど、一緒に居られる間はとても楽しかった。幸せだった。おかあさんといっしょに頑張って生きる日々が、とても尊かった」

 締め付けられた胸の中で最期の夜を──あの髪飾りの事を思い出す。あの髪飾りが、今でもあすみの手元にあってくれたなら──あすみは──。

「──けど、死んじゃったんだ……」

「っ……」

「お仕事のし過ぎで、死んじゃった……」

 下唇を噛み、目を伏せるマミおねえちゃん。そう言えばこの人も、愛していた両親を──今でも──。

「それでね……? 伯父さんの家に連れてかれちゃったの」

「……まさか……」

「うん……。新しいお父さんって、前に言ってたよね……? 伯父さんのことなんだ。そこで毎日あすみはいじめられるの。殴られて、蹴られて、馬鹿にされ、罵られ──甚振られ、嬲られていじめられるの」

 どんな仕打ちを受けたかなんてまでは、マミおねえちゃんには言いたくなかった。でもあすみからしてみれば、別に言っても良かった。むしろ聞いてほしかった。あすみはこんな目に遭ってた。あすみはこんなにも辛かったんだ、って。──でも、マミおねえちゃんにだけは言いたくない。マミおねえちゃんには、あんな世界──知らないままで居て欲しかった。あんなにも汚れきった世界なんて、知らない方がいい。

 ──知らない方がいい、のに──。

「あすみ、毎日裸にされて……っ」

「──! そ、れ……って……」

 零れ出した言葉は止まらない。口を噛み締め妨げようにも、ポロポロと溢れ出てしまう──。

「毎日毎日っ……、伯父さんが、っ……」

 妨げたい唇は震え、呂律も回らない。あの時を思い出す度、あすみがあすみで無くなる感じがして──。

「し、知らない男の人を連れてきて、あ、すみの、っ……カラダを──っ」

「ひっ……!」

 マミおねえちゃんの小さな悲鳴。そこであすみは我に返った。

「──あ……」

 知らない方がいいのに、話してしまった。

 聞いてもらうことで、満足しようとした。

「っ、ご、ごめんなさ──っ」

「う、ううん……っ。大丈夫っ……」

 ──おかあさんとの、最期の夜と同じだ。

 あすみはいつも自分勝手で、わがままだ。

 無償の愛情だけを求める卑しい子。

 会いたい会いたいだけ言って、頑張るおかあさんを泣かせる悪い子。

「……それでね? お父さんに助けてもらおうって思って、お父さんのところに行ったの」

「……えぇ」

「けどお父さん、あすみの事なんて忘れちゃってたんだ。新しい家族を作ってたの」

「っ……そんな……!」

 あすみの誕生日も忘れ、知らない男の子と知らない女と共に、草原でピクニックに興じていたお父さん──いいえ、あの男。おかあさんとあすみを捨てたあの男。おかあさんが死んじゃったのに、何の感情も抱いていないあの男。あすみが毎日いじめられてるのに見向きもしないあの男。

 そしてあすみは毎日──毎日毎日毎日、伯父たち男共にカラダを弄ばれた。

 だからあすみは──あの男を──あの伯父も──学校の奴らを──!

「──みんな許せなかったっ!」

 決壊は止まらなかった。

 胸の底から焼ける──憎悪にあすみを内側から焼かれるこの感じ。

「あすみの苦しみを知らないでっ! みんなみんな、あすみを見て見ぬ振りするのッ!」

 あすみの声に、あすみの喉が引き裂かれる。

「知らない振りしてッ! 幸せな日々を悠々と過ごしてる奴らが許せなかったッ!」

 あすみの声に、あすみの喉が焼かれ切る。

「伯父さんも、あすみのカラダをめちゃくちゃにした男共も! そんな事も知らないでいじめてきた連中も、先生もッ……! そしてお父さんもっ……!」

 焼かれたあすみの叫びは止まらない。

 あすみだけが悪者にされるんだ。

 あすみだけが悪者にされたんだ。

 あすみと言う悪者を、誰も見てくれなかったんだ。

「みんな──みんな許せなかったっっ!! 不幸になっちゃえば良いんだって思ったっっ!!」

 あすみの声が、あすみの耳を劈く。

 こんなに叫んだの──『あの時』以来だ。

 あすみの声が──まるであすみの声じゃないみたい。

 そして『あの時』こそ──。

「──だから、キュゥべえにお願いしたの」

「それが、あすみちゃんの願い……」

 ──自分の知る周囲の人間の不幸。

 あすみが『あの時』に、一度(ひとたび)その願いを──ううん、呪いを口にして──。

「──呪いで産まれた魔法少女。それがわたし──ううん、あすみ。神名あすみ」

「……その人たちは……」

「もちろん死んだ」

「……っ」

 今度こそ、詳しい事は言いたくない。言えばマミおねえちゃんを、きっとびっくりさせちゃうだろうから……。

「それからのあすみは、色んな不幸を撒き散らした。希望に満ちた人々を──希望から産まれた魔法少女達を相手に──。その嘆き、その愛憎、そしてその絶望を糧としたの」

 ──でも全て──全てが正当化だった。

「──あすみが生きてきた、今までの日々(トキ)を『普通』にする為に──」

「っ……あすみちゃん……」

「人を甚振る事で、悲しい事も嬉しい事へと変えてしまえる。世界に『不幸』なんてないんだ、って思い込める。だからあすみの生きてきたセカイって──『普通』なの」

「……っ」

 ふるふると、首を横に振るマミおねえちゃん。唇を噛み締め、目を瞑り、目じりに珠の涙を溜めながら、首を横に振る。

「そうやって絶望と不幸に染まってしまった方が心地良い……からっ……」

「……違うっ……。そんなの違うっ、あすみちゃんっ……!」

「うん……。違うって、わかってるの」

「だったらっ……!」

「あすみのやってきた事、ぜんぶ無意味だったって事──わかってる」

 いろんな人を殴って、蹴って、馬鹿にして、罵って──甚振って、いじめて、嘲嗤っても──ぜんぶ──ぜんぶ虚しかったって、もうわかってる。あとは芋虫のように這うしかないって、もうわかってる。だから──。

「だから、もういらない」

「……あすみちゃん……?」

「あすみ、幸せなんていらない。もう、あすみに幸せなんてない」

「そん、な……っ」

「だって、あたりまえな事なの。あすみ、何人も殺して来た。──そして、ずっと作って来た。ニセモノのわたし(・・・)を作って、悦んだフリしてた。みんなを不幸にしてしまえば、あすみだけが幸せになれる。あすみが『不幸』だったことを、『普通』のことだったんだ──って思えたんだ。ぜんぶぜんぶ、自分のため。あすみのために──」

 こんなにも身勝手で、自分の為に人の人生を使い潰して、卑しくて卑しくて──。そんな売女が、幸せを手に出来るわけなんてない。マミおねえちゃんの可愛がってたさやかお姉ちゃんだって、あすみが殺した。そのお友達な仁美お姉ちゃんも、果ては二人が大好きだった恭介お兄ちゃんも──。

「だから、幸せなんてあすみにはこない。そしてもう、いらない。──だって、ないものなんて絶対に手に入らないから──」

 そうして、マミおねえちゃんに背を向けて──。

「あすみちゃん……?」

「……さようなら、マミおねえちゃん。ケーキおいしかったよ。紅茶もおいしかった……」

「……っっ」

 ──ここまで赤裸々にすれば、マミおねえちゃんにだって嫌われる。むしろ嫌われたかった。誰から見てもあすみは『魔女』。人々を喰らって生き永らえる『魔女』。マミおねえちゃんにとっても、他の人達みたいに罵るべき『魔女』でしかない。それに、マミおねえちゃん自身も言ったんだ。あすみが悪い魔女だったんだとしたら、泣きながら殺すって。だから、もう後腐れなんてない。あすみは、マミおねえちゃんを喰らおうとした悪い魔女。あすみを想ってくれる人なんて、居る筈がない。

 ──なんだ、いつもと同じだよね。

 あすみはいつだって拒絶されてきた。今更マミおねえちゃんに嫌われたとしても、あすみは痛くはない。

「──じゃあ、行くね──?」

 でも──こんなにお話を聞いてくれたのは、マミおねえちゃんが初めて。あすみのお話を最後まで聞いてくれたお礼に、殺さないであげる。──ううん。たとえ嫌われちゃっても、殺す気になんてなれない。

 ──だってマミおねえちゃん、優しいんだから──。

 ──マミおねえちゃん、おかあさんみたいだもん──。

「ばいばい、マミおねえちゃん──」

 ドアノブに触れれば最期、もう二度とマミおねえちゃんに出会う事はない。そして触れ合う事もない。

 ──それがマミおねえちゃんの為なんだから──。

 

「──え──?」

 ──温かみを帯びる左手。

 ──後ろから握られる左手。

 ──白魚の様に細やかな指に握られる、あすみの左手。

「──行かせない」

 ──なんで。

「行かせるもんですか──!」

「────……?」

 ──なんで。

 ──なんでなんでなんで──?

 ──なんで……?

 振り向けばマミおねえちゃんが、あすみの手を握ってくるの。

「あすみちゃん。嘘だったの……? 私のケーキも紅茶も、おいしいって言ってくれたのも……。泣いちゃいながら言ってたのも、あの涙も……。全部全部、嘘なの……?」

 それも、金色の睫毛を濡らしながら──瞼を赤く腫らしながら、なおもあすみの手を握ってくるの──。

「……っ!」

 ──あぁ、そうか。そう言う事なのね。

 この女。言って聞かせても分からないドアホだったのかしら。

 なら、話が早いわよね──?

「──だったら何だって言うのぉ?」

 握られる──白魚の様な指をした、マミおねえちゃんの手を払いのける。そうして口を裂き、嘲笑にあすみの表情を染め上げる。

 ──ああ、そうよ。またいつもと同じにすれば良いのよ。あすみは──いや、わたしは──!

「ここでわたしを殺しちゃう? 裁いちゃう? 正義の味方として? っアハ──! マミおねえちゃんって薄情者だったんだぁ!?」

「……」

 状況の分かってない白痴のアホ女。コイツに嫌でも話を分からせて、その涙を徹底的に嘲嗤ってやればいい──!

「──いいよ、やってみせてよ。ここで『魔女』を殺してみせてよ! あぁ……ずっと見たかったの……! マミおねえちゃんが裏切られてっ……、絶望の涙を流しながらわたしに殺されるところをさぁ!」

「……あすみちゃん」

「どうしたの? さぁ、早くやってよ。目の前に『魔女』がいるんだよ? 裏切りの『魔女』がいるんだよ? いつもみたいに、偽りの正義の味方みたいに裁いちゃってよ! ティロ・フィナーレってさぁっ! ねぇッ!?」

 ──なんだ、簡単な事よね。

 結局コイツは餌にしか過ぎないんだ。

 こうすればまだ、わたしはわたしのままで居られるんだ──!

「──もうやめて」

「はあ? 何を? 何が? どうやって? わたしは『不幸』の使者にして死神。何人もの命をこの手で食い散らかした呪いの魔法少女よ? さぁ、早く銃抜きなさいよ。でないとマミおねえちゃんも、わたしのデザートとして──」

「もう、やめて……っ!」

 あぁ……っ! 最高……!

 ついに、ついに見る事の出来たマミおねえちゃんの汚い涙──!

 わたしを前に泣いて縋る、正義の魔法少女サマの惨めな姿!

 まさに滑稽(可哀相)、そして可哀相(滑稽)

 わたしの嗜好とする極上のビタースイーツが、いまここに──!

「っあははっ! 何? 泣きたいの?」

 これよ……! わたしはコレが見たかったの……!

 わたしはこの為だけに! 何週間も掛けてマミおねえちゃんを育て上げたの!

 掛けた時間の甲斐があった!

 手を込めた甲斐があった!

 ここまで騙した甲斐があった!

「じゃあ泣いちゃえ! わたし、絶望の涙が蜜みたいに何よりも好きで──」

「ちがうっ……!」

「っあははははははっ! 何がぁ? どうしてぇ? 日本語分からないのぉ? マミおねえちゃん、どう見ても泣いて──」

「ちがう……っ。あすみちゃんっ……ちがうっ……。だって、だってっ──」

 

「──泣いてるの、あすみちゃんじゃない……」

 

「──……」

 ──は──。

「もう、無茶しないで……っ、お願い……っ」

 ──気付けば、雨に打たれていた。

「……」

 わたしの指で、頬に触れる。

 わたしの指は、濡れている。

 わたしの指で、拭い去った。

 けれど──頬が乾いてくれる事はない。

「あすみちゃん、不幸の魔女だって言ってたわよね……?」

 マミおねえちゃんの指が、頬に触れる。

 マミおねえちゃんの指も、濡れている。

 マミおねえちゃんの指で、拭ってくる。

 けれど──雨に打たれるように、わたしの頬が濡れてゆく──。

 マミおねえちゃんも同じで──。

「──だったら、何でそんな顔してるの……?」

 ──桜色の頬を濡らし、涙に濡らした瞳で──あすみのお顔を見つめてくるの──。

「っ……」

 ──なに、これ──。

 わたし、こんな──こんなのっ──。

「ねぇ……。なんで……?」

 ──るさい──。

「なんで私を殺さなかったの……?」

 ──うるさい──。

「……私のこと、いつでも殺せたのに……」

 うるさい──っ!

 だまれ!

「それに本当に死神だったなら、なんで……そんなにまで悲しそうなの──!」

「──ッ!」

 ──違う。

 ちがうちがうちがうちがうちがう!

 わたしは悲しくなんてない。

 わたしはマミおねえちゃんを殺したい。

 わたしは泣いてなんかない。

 わたしは──わたしは──っ!

「────……」

 ──殺せ。

「──えぇ、そんなにも──」

 ──殺せ殺せ。

「そんなにも──殺されたいのね?」

 ──殺せ殺せ殺せ。

「だったら殺してアゲル──!」

 そうだ殺せ。

 殺せ。

 殺せ。

 殺せ殺せ殺せ殺せ。

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ──!

「お望み通り、殺してあげるんだから──ッ!」

 水銀状の魔力があすみを包み込む──変身を遂げる。

「……」

 マミおねえちゃんは変身しようともしない。

 いつもの歴戦の戦士としてのマミおねえちゃんはどこへ行ったの──!

 何もかもが遅い、遅すぎる(・・・・)──!

 隙だらけだ。

 ガラ空きだ。

 殺すチャンスだらけだ──!

「──死ねェッ!」

 握りしめたモーニングスター(鉄球鎚)を、マミおねえちゃん目掛けて突き付ける。

 今日がマミおねえちゃんの命日だ。

 今日はご馳走だ。

 今日はマミおねえちゃんの血と肉でパーティーだ。

 マミおねえちゃんの泣き声に悲鳴を聞けないのは残念だけれど、それよりも今は殺したい──!

 ──っあははッ!

 ──ざまあみろ巴マミ!

 ──お前はずっと独りっきりで──。

 

「……」

「……え……あ……っ……?」

 

 ──何で。

 何で、まだ居るんだ。

 何で、マミおねえちゃんは死なないんだ。

「……もう、やめよう……?」

 何で、腕が動かない。

 何で、わたし──武器を持つ手が、震えて──。

「ぁ……っ」

 ゴトリ──と鈍い音を立て、得物があすみの手から零れ落ちる。

「っ……ぅあ、えぅ……っ!」

 コレは何だ?

 頬に伝う温かさは何だ?

 この温かな雫は何だ?

 わたしは──こんなモノしらない。

 わたしはいつだって『不幸』の使者──神名あすみ。

 みんなに『不幸』を知らしめなければならない、呪いから産まれた魔法少女。

 そんなわたしが──この込み上げるモノなんて知らない。

 涙の理由なんて──知る訳が無い。

 なのに、なんで──。

「……あすみ、ちゃん……。あすみちゃん……っ!」

 なんでこんなに苦しいんだ。

 なんでこんなに切ないんだ。

 なんでこんなに悲しいんだ。

 なんで、なんでわたしを──。

「──なんで、あすみを──罵ってくれないの──?」

「っ……」

 なに泣いてるの──。

 マミおねえちゃんは、わたしを──あすみを罵る側なのに──!

 唇噛み締めて、大粒の涙を流して、あすみに大きい感情を抱く側じゃないのに──!

 さぁ──さっさとしてよ──!

「わたしを罵って。わたしを拒んで。わたしを蔑んで──っ!」

 じゃなきゃ──。

「あすみの『不幸』が全部ウソになってしまう。 あすみは『普通』じゃなくなってしまう──!」

 じゃなきゃ、わたしは──。

 ──あすみは──ずっと悲鳴をあげなきゃいけなくて──。

 

「──あすみはもう二度と、『普通』になんてなれなくなるんだからっ──!」

 

「……ばかね……っ」

 わたしを包み込む、柔らかで温かなマミおねえちゃんの体。

 ──何で抱きしめるんだ。

 ふざけるな。

 あすみは、あすみはっ──。

「あ、すみっ、……のろいのっ、……魔法、少女……だもんっ……」

「……ううん」

 首を横に振るマミおねえちゃん。

 喉がつっかえて、声が出てくれない──。

「っ、なんでっ、なんで今更あすみをっ、抱きしめ、てくれるのっ……!」

「なおさら行かせられないからよ……」

「……行かせて、よぉ……っ。マミおねえちゃんの傍、居たくない……っ、のろいの魔法、少女っ……、だもん……っ……!」

「……いいえ。ずっと一緒に居て……。お願いっ……」

「なんで……っ」

「そんなにいっぱい傷ついて、ひどい目に遭って……。私が居なきゃ……誰があすみちゃんの傍にいるの……?」

 もう、あすみは前が見えない──。

 目の前がぜんぶ、潤いで揺らいでる。

 視界がもう、涙色だけ。

「……あすみ、いっぱい、いっぱいひどい目に……っ、遭わせてきたんだよ……? いっぱいっ、人だってっ、……殺しちゃったんだよ……? なんで、あすみが傍に、っ……いられるの……?」

 喉が潤いに堰き止められ、声なんてもう出ない。

 声がもう濡れている。

 こんな声、あすみ──出したことない。

 出したく──なかったっ──。

 もう──いやだっ──。

「あすみちゃん。あの時言ってくれたから……。こんな私の傍に、ずっといっしょに居てくれるって……!」

「だって、それはっ──」

「だったら……! 『おねえちゃんの居場所』になってよ……! 『おねえちゃんの助け』になってよ……!」

 ──ズルいよ。マミおねえちゃん……。

 そんな、ことっ……。

 あすみ、あの時言った……。

 言った、けれど……!

「……あすみ。あすみを、っ……許せない……っ。許せ、るっ……わけ……っ……」

「うん……。だからね……? これからいっぱいいっぱい幸せになるの」

「あすみに、幸せなんてだめだよ……っ」

「ううん。いっぱいいっぱいひどい目に遭ったから、ひどい事をしちゃったの。だからもう、二度と悪さが出来ないように、私が『幸せ』にしてあげられたらな──って思うの……」

「っ……なんで……」

「……それがあすみちゃんへの、罰だから」

 ──あぁ、マミおねえちゃん。やっぱりいつものマミおねえちゃんだ。

 いつだって変わりやしないんだから……。

 いつも意地悪で。

 いつもクサい台詞が吐けて。

 こんなにも、あすみに入れ込んできて──。

 おかげであすみのココロ、土足で踏み込まれて丸裸っ──。

 だからあすみ、マミおねえちゃんのことっ──。

「っ……マミおねえちゃんなんて大嫌いっ……!」

 結局、いつもこうなんだ。

 あすみが、マミおねえちゃんの胸を濡らすんだ。

 声をあげて、涙に喉を濡らして、泣きじゃくるんだ……。

「マミおねえちゃんなんて大嫌いっ……! マミおねえちゃんなんてっ、大嫌い……っ! マミ、おねえちゃん……っなんて……っ……!」

「……もう大丈夫っ……。大丈夫だから……っ。あすみちゃんを虐める人なんて、もう居ないんだから……っ」

 だから、あの時も聞いたの。

 マミおねえちゃんなんでそこまで優しいの、って──。

 あすみ、そんなマミおねえちゃんがね……?

「っ……っっぅぁぁぁぁぁぁああああああああっ……!」

 

 ──マミおねえちゃんが、ずっと大嫌い(だいすき)だったの──。

 

◆◇◆◇◆

 

「……マミおねえちゃん」

「うん……」

 泣き疲れちゃって、ソファーにもたれ掛かりながら二人で肩を摺り寄せ合う。

 あすみとマミおねえちゃんも瞼がもう真っ赤になっちゃって……。

「ずっと思ってたこと、あって……」

「……うん」

「マミおねえちゃん、おかあさんみたいって……」

「……」

 うん。前にも言っちゃったこと。

 おせっかいで、世話焼きで、母性的。

「あの時言ってくれたこと、もしかして……」

「うんっ。ほんとのあすみ」

「……ふふっ。やっぱりウソじゃなかったんだぁ、って……」

「えへへっ……」

 そんなところが、おかあさんみたいなんだもん……。

 おかあさんはひとりしか居ないけれど、マミおねえちゃんは──あすみのおかあさんみたいな人。

「でもね、あすみちゃん。私ね……? やっぱりお母さんなんて柄じゃないと思うの……」

「う……」

 やっぱり本心からそう言っちゃったってなると、怒られちゃうのかな──。

「私……お姉ちゃんでも先輩でも、そしてお母さんでもないの……」

「あ、う……ごめんなさい……っ」

「ううん。そんな立派なものじゃないの。結局『正義の味方』なんて大嘘だったんだから」

 あの時はまだ言えなくて。それでも、いずれ話すって言ってくれたあの話──。

 ずっとずっと気になってた。マミおねえちゃんが──あすみよりもずっとずっと大人なのに、正義の味方なのに。それでも正義の味方じゃなかったのなら、なんだって言うのかな。

「私って……誰かと一緒に居たかっただけなの。正義の味方ぶってたのも、外面だけ良く繕ってただけ。嫌われるのが怖かった……」

「……」

 ……なんだ、そんなこと……。

 ぎゅっ……と隣から、マミおねえちゃんの柔らかくて温かい体を抱きしめて──。

「……あすみちゃん……」

 頬を桜色に染めながら、はにかんでくれるマミおねえちゃん。きっとマミおねえちゃん、そんな事でいつも怯えてたかもしれないけれど、あすみは──。

「……あすみは嫌われたかった」

「もうっ。大好きっ、なんて言ってくれる子……嫌いになんてなれる訳ないじゃない」

「だからっ、マミおねえちゃんは正義の味方じゃなくって……あすみのおかあさんみたいな人っ」

 正義の味方だったなら、あすみのこと──嫌ってしまえる筈だから。

「ふふっ……。もうっ、お母さんって歳じゃないのに……」

「えへへっ」

 ──ああ、そっか──。

「……ずっとずっと、楽しかったんだよ? 心の中で、あすみに言い聞かせるように色々いじわる言ってたけど──ほんとはね、マミおねえちゃんと過ごす時間、とっても楽しかった……」

「楽しい事なんて、これからいくらでもあるわよ。ずっとずっと、どこまでも──ね」

 最初からこうしてれば、『幸せ』になれたのかな──。

 あすみは──『幸せ』に──。

「ねぇ、マミおねえちゃん……」

「うん……?」

 マミおねえちゃんは、誰かと一緒に居たかった。そして一緒に居たい子に、あすみを選んでくれた。あすみを守ってくれた。あすみを抱きしめてくれた。あすみを愛してくれた。だったら、もう──。

「──これからのあすみはね……? マミおねえちゃんの中で生きてくの──」

「──え──」

 見開かれる、澄み切った金色の瞳。

「マミおねえちゃんの魂と、ずっと一緒に──」

「──あすみ──ちゃん──?」

 ピシピシと、亀裂の入る音。

 あすみと言う存在に、ヒビが入る音。

「あすみ、幸せになってもいいんだよね……? いっぱい……いっぱいいっぱいわがまま言っても良いんだよね……?」

 ──きっとあすみは、もう永くない。

 だから、最期に叶えたいお願い(わがまま)──叶えなきゃ。

「──ッ! あすみちゃん──! ソウルジェム──っ!」

 ヒビだらけの宝玉は、もう水銀色だなんてなかった。

 黒く深く、こびり付く様に黎く染まり上がるあすみの魂。

「答えて……。あすみ──『幸せ』に──」

「え、えぇ……! 幸せになって良いに決まってるじゃない……! さっき言ったわよね……!? ずっとずっと、私の傍に居るってっ……!」

「……よかった……ぁ……」

 視界が黒く染まってく。

 マミおねえちゃんが声を切る中、音も朧に淀みゆく。

 あすみと言う存在が、もはや希薄になってく──。

「最初で最期のあすみのわがまま──聞いてくれる──?」

「っ……! 最期って何よ……! そんなの、いつでも良いのにっ! いつだってわがまま聞くのにっ……! もっとわがまま言っても良いんだからっ!」

 でも、これで良い──これで良いの──。

「いかないで……! もっと傍に居てよ! 約束したじゃないっ! 言ってくれたじゃないっ! 私の助けになってくれるって! 私の居場所になってくれるってっ! ねぇ……っ!」

 泣かないで──。

 あすみ、やっと『幸せ』を知る事が出来たんだから──。

 これは別れなんかじゃない。

 あすみは、あすみの(グリーフシード)をマミおねえちゃんに使ってもらえる。

 これからずっと──ずっとずっと、マミおねえちゃんの傍に居られる。

 マミおねえちゃんの気持ちを、叶えてあげられる。

 だからね……?

 マミおねえちゃん──。

 

「あすみの分も、生きていてほしいな──」

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Entbehrliche

Braut

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 ──魔女が顕現した。

「──あ、すみ──ちゃ、ん──?」

 あすみちゃんのソウルジェムから、魔女が顕現した。

"Ektoirhos Iamsu ow─!!"

 結界に響き渡る──少女とも獣ともつかぬ叫び声。

 ──かつて、暁美さんに言われた事があった。

 ソウルジェムが黒く濁りきれば死に絶える、と──。

「──な、に──? なん、なの──?」

"Uhkaay esti─!! Odteina Nhaohmcuar in─!!"

 あすみちゃんのソウルジェムは、確かに黒く穢れ切った。

 そして穢れ切ったソウルジェムからは、こうして──花嫁の様な姿をした魔女が産まれた。

「──なん、で──ねぇ、──!? どうして──っ!?」

 魂の宝玉(ソウルジェム)

 灯台下暗し──とも言うべきその暗喩を、私の頭は拒んでいた。

 認めたくない──。

 ソウルジェムから──魂の宝玉から、魔女が顕現した。

 だったなら──あすみちゃんは──!

「──神名あすみ」

 音もなく傍に降り立つ、制服を思わせるモノクロ基調の魔法少女衣装の、無感情な声色をした少女──。

「──あ、暁美さん──!?」

 ──嫌な予感しかしなかった。

 魔女に対峙する魔法少女。

 こんな──こんな当たり前の構図が、これほどまでに悍ましく見える時が来るなんて、夢にも思わなかった。

 そして、カチッ──と何かのスイッチの様な音がしたと思えば、再び暁美さんの姿が忽然と消え──。

「──ッ!?」

 腹の底から震わせ響かせる、重低音が如き轟音。圧縮された空気に撃たれ舞い上がる塵が、火薬の臭いと共に私の頬を──全身を撲つ。

"Iiat─!! Ettaesku─!! AAAAAAAAAAAAaaaaaaaaaaaa─!!"

 体を穿つ、幾多もの銃痕。先の爆発により、体の一部が削れ抉れる魔女の体。あすみちゃんの(ソウルジェム)変化(へんげ)して産まれた花嫁の魔女。であれば、あの魔女は──!

「──や、めて──」

「────ッ!」

 抱えたロケットランチャーの様なモノで、魔女──あすみちゃんのお腹に、風穴を開けてく──。

"Aidya─!! Ettaesku─!! Nhaohmcuar ankan in ukkoartoesra ina─!!"

 肉体を──魂を削がれたあすみちゃんの、耳を劈く痛々しい悲鳴。

 ──いやだ──。やめて──っ。あすみちゃん、あすみちゃんを──っ──!

「あ、けみさん……! やめ、て……!」

 一、二、三発──。

"Aidya oyraem─!! Iamsu ah Imma noanhece ot oihss in uirki n ad─!!"

 今度は三発同時に、どこからともなく砲弾が現れ、あすみちゃんのカラダを絶ってく──。

 ──だめ。これ以上は──あすみちゃんが──!

「やめて……! お願いっ! やめてぇっ!」

 喉なんてもう潰れていい。声なんて出なくなったっていい。叫びながら私は、暁美さんの足元へとしがみ付く。這いつくばって縋る。けれど──。

「ぁう……っ!」

 すぐさま足蹴にされる。なおもあすみちゃんへ、熾烈な猛攻が続く。

"Iiat oy ... !! Ettaesku ... !! Iamsu, Imma noanhece ot oihss in uir on ... !!"

 別の地点へとテレポートしながら、あすみちゃんのカラダを挽いてく──。

"Imma noanhece on asbo in eit aaygkean ... !! Imma noanhece on asbo in iiat on ... !! Ioange, uhkaay Iamsu ow ektoirhos Imma noanhece ... !!"

「……やめて……やめてよ……! あすみちゃんを、これ以上不幸にしないでよ……!」

 頬を濡らしながら懇願しても、攻撃が──轟音が鳴り止む事なんて知ってくれはせず、爆炎に照らされる砂埃に、視界が白く染められゆく。

 あすみちゃん。確かに重すぎる罪を犯してしまった。

 けれど、それは『幸せ』を知らなかったから。

 みんなに虐げられて、魔法少女になる前までのあすみちゃんが、一体何をしたって言うの──! どんな悪い事をしたって言うの──!

 ただ愛してもらいたかった! ただ誰よりも愛に飢えていた! たったそれだけだったのに、なんで──なんでこんな目に遭わなくちゃいけないの──!

「──次で決める」

 宣告者が告げる、冷酷な声。そこに一切の感情も、温もりも無い。

「……いや……っ……!」

「──神名あすみ。お前を──狩らせてもらうわ」

 下されるは、死刑。齎される贖いは、償いでなく死あるのみ。

 ──あすみちゃんが、殺される──。

「いや……いやいやいやいやぁ……っ! いやいやいやいやいやぁあっ……!」

 走馬灯のように、あすみちゃんの顔が次々と思い浮かぶ。

 怯えながらも、初めてケーキを口にしてくれたあすみちゃん。

 私なんかの為に、お礼のケーキを買って来てくれたあすみちゃん。

 紅茶を美味しいって言ってくれたあすみちゃん。

 いっしょに朝ごはんを作ってくれた、笑顔のあすみちゃん。

「やめて……!! お願いっ!! やめてぇっ!!」

 私を受け入れてくれて、私の居場所になってくれると約束してくれた、頬をほんのり桜色に染める微笑みを向けてくれたあすみちゃん。

 佐倉さんとゆまちゃんと、一緒にオムライスを頬張ってくれたあすみちゃん。

 涙ぐみながらも、悩みを打ち明けてくれたあすみちゃん。

 そして──本心を明かしてくれて、一緒にいっぱいいっぱい泣いて、肩を寄せ合って、瞼を赤く腫らしながらも微笑んでくれたあすみちゃん。

 そんな──そんなあすみちゃんを──。

"Ngeom en... Imma noanhece... Oihss in uikraanre et..."

 弱々しく、魔女の鳴き声を絞り出す──あすみちゃん。

 それを最期に、私の縋りも聞いてもくれずに、暁美さんの盾から──小気味よいスイッチ音だけが鳴り響き──。

 

「いやぁぁああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 ──魔女の肉(あすみちゃん)が、弾け潰された──。

 

◆◇◆◇◆

 

 ──結界が解かれ、いつもと変わらぬ光景──私のマンションへと塗り移り戻る。

「……」

 そして暁美さんの手には、あすみちゃんの魔法少女紋章のついたグリーフシードが握られていた。

「……あ……」

 膝から崩れ落ちた。

 あの魔女はもう、この世界には居ない──。

 だったなら──あすみちゃんは──もう──。

「──な、んで──」

「……」

 口を開こうともしない暁美さん。

「ね、ぇ……どうし、て……っ……!」

 それどころか、音もなく早足で立ち去ろうとまでする。

「ねぇっ!!」

 その脚にしがみ付く事で、ようやく止まってくれた。──あすみちゃんを殺すのは、止めてくれなかったのに──。

「……あすみちゃん、幸せになるべきだったの……」

「……」

「幸せに、なるべきだったの……っ!」

 あすみちゃん、さっき言ってくれた……。幸せになってくれるって。私の傍に、ずっと居てくれるって……! ソウルジェムにヒビを入らせ、魔女になっちゃいそうな中で言い遺してくれたの。あすみちゃんの分まで生きて欲しい、って。その最期の時まで、私なんかを想ってくれていたの。なのに──。

「……なのに、なのにあなたは……! 暁美さんは……っ!」

「……」

「ねぇ、なんで……?」

「……」

「な、んで……なんで殺してしまうの……っ……」

「……」

「……もっと、もっと幸せになってくれれば……っ……! 元にっ……戻れたかもしれないのにっ……!」

 魔女になったからって、元に戻れないなんて理由──あるはずなかった。花嫁の魔女の姿から、あすみちゃんの魂に戻れたかもしれなかった。

 それを暁美さんは、有無を言わさず殺したんだ。

 あすみちゃんを──亡き者にしたんだ。

 そんな一向に口を開いてくれない暁美さんを見てると、しがみ付く腕が力み、震える気がした。

「──彼女は敢えて、腐敗した世の中を受け入れた」

 やっとの事開かれた口は、相も変わらず氷のような声色を鳴らす。

「そして、歪んだ幸せを見出した。歪んだ正義に生かされていた魔法少女が、真っ当な正義や幸せを見つけた時──今までの自分が犯してしまった過ちに対する後悔と懺悔と共に、魔女へと成り果ててしまう」

 ──なによ──それ──。

 あすみちゃん、きっと──ずっとずっと悩んでた。

 自分は魔女なんだ、って。人殺しなんだ、って。

 あすみちゃん、本当はあんな事したくなかった筈なの。

 優しいお母さんに包まれながら、おいしいご飯においしいデザート──お紅茶を味わいながら、『普通』の暮らしがしたかっただけなの。

 なのに──『普通』になれたら、魔女になってしまうと言うの──?

 そんな──そんなの、惨すぎる──!

「希望から産まれた魔法少女が絶望を抱き、そして魔女となる事はよくある話よ。私──そして巴マミ、あなたもね」

 ──私も──いつか魔女に──?

「──彼女の場合『幸せを知って絶望する』と言う事になるわ」

「……」

「……キュゥべえの言っていた事よ」

 ──だったなら、あすみちゃんを助ける事なんて──あすみちゃんが、本当のあすみちゃんを曝け出してくれた時から……もう──。

「そもそも、彼女を救うと言う事自体──絶対に不可能(・・・・・・)。──だった事なのよ」

 ──違った。

 あすみちゃんは、誰にも助けられなかった。

 魔法少女になった時から、あの子の運命は決まっていた──。

「──けれど、まどかは違う。まどかだけは絶対に救える。──救ってみせる」

 もう、暁美さんが何を言っているのか分からなかった。

 私の心はとっくに私の手から放されていて、言葉が私を素通りしてゆく。

 音と文字が、私の体をすり抜けてく──。

「できれば貴女達も救いたい。けれど彼女だけは──神名あすみを救う事だけは、絶対に無理」

 呪いの魔法少女を演じ、悲鳴をあげるココロに蓋をして、数多の命を──血肉を啜る事でしか、呪いと言う名の毒沼に浸る事でしか生きる事を叶えられなかった──。

 ──ああ、そうか──。

 また私は──。

「──悪いけれど、私はワルプルギスの夜を斃さないといけないの。必ず、この手で──。だから、このグリーフシード(カンナアスミダッタモノ)は頂くわ。そしてきっともう、貴女は決して永くはない。──けれど最期の時まで、せめて──永く生きていることを願うわ」

 仕舞われてしまう、あすみちゃんの印のついた黒い宝玉。

『あすみの分も、生きていてほしいな──』

 あの子のグリーフシードは、暁美さんにだけ消費される。

 だから──もう、あの子の遺言は──。

「──さようなら、巴マミ」

 零度をした声の残滓は、さながら冷気のように温もりを奪う。暁美さんの姿など、もう残されてはいなかった。あるのは、ひとりぼっちになった私と──部屋を包み込む冷気(・・)に殺された、冷え切った皮膚をしたあすみちゃんだけ。忽然と、いつものように──どこか遠くへと飛び去ってったのだろう。

「────……」

 あすみちゃんの魂はもうどこにも無く──あるのは、抜け殻と化した亡骸のみ。あすみちゃんの残滓──花嫁の魔女のグリーフシードも遺されてはいない。全部──暁美さんに奪われた──。

 もうあすみちゃんは居ない。

 もう二度と、あすみちゃんに抱きしめてもらえない。

 世界中のどこを探しても、あすみちゃんには会えない。

「っうぅ……ぅぅ……! ……ぅぅ……ぅぅっ……! ……ぁあ……っ!」

 そう気付いてから、止め処なく涙が溢れてきた。

 後悔と寂しさが、私の胸を締め上げる。

 息が出来なくなる。

 あすみちゃん、ごめんね──。

 私──あすみちゃんのこと、全然分かってあげられなかった──。

 あすみちゃんと、一緒に居てあげられなかった──。

「ぁぁ……! ……っああ……! ああっ……!」

 私は──その手をまた掴めなかったんだ。

 私は──その手を引っ張り上げられなかったんだ。

 私は──また自分だけが生き延びたんだ。

「ぅ……ぇう……っ……! ……ぐす……っ……ぅぅ……うう……っ!」

 ──また私は、大切な人を犠牲に(のこ)ったんだ。

 

「っぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああッ──!!」

 

 光差さぬ真夜中の部屋にて、慟哭が凍てつく空気を引き裂いた──。

 

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