魔法少女あすみ☆マギカ ~Rainy Ambivalence~ 作:Κirish
『幸せ』なんて、失くして初めて気付くもの。
誰が最初にそう言ったかなど知りもしない。知りもしないけれど──これはきっと事実なのだろう。
『普通』が一番なんて、異端となってから初めて気付くもの。
誰が最初にそう言ったかなど知りもしない。知りもしないけれど──これはきっと真実なのだろう。
これは、あすみが『
これは、わたしが『
とある雲一つ無き晴天の空の五月の日。天色に浮かぶ白き太陽の光が、その温もりと共に家族──神名家を抱擁していた。鼻を透かす新緑の木々や草の香る中──。
「もうすぐあすみの誕生日よね」
彩色華やかなフルーツサンドを口にしつつ、頬を緩ませるおかあさん。あすみ──神名あすみの誕生日は
「そう言えばもうそんな頃だったか──」
空の先まで遠く眺めるように呟く父
「あらもうっ、お父さんったら忘れちゃってたの?」
「──いいや、そんな事は無いさ。時間ってのは一瞬だな──と思ったんだ。にしても……そうか。あすみ、もうそんな歳なんだな。ついこの前まで赤ん坊だった気がするけど」
「あすみ赤ちゃんじゃないもん……!」
あすみはどちらかと言えば背伸びをしたがるきらいがある。周囲の子供たちに比べ大人びたがろうとするとも。だから赤ん坊扱いされるなんて、あすみにとっては恥ずかしく堪ったものではなかった。
「ははっ、ごめんな。私が言いたいのはそうじゃなくてだね──」
「あすみ、ずっと早く大人になっちゃうものだからお父さん驚いてるのよ。ね?」
「まぁ、そんな感じだよ」
「……ほんと……?」
「あぁ」
「あすみ、赤ちゃんじゃないよね……? ほんとに赤ちゃんじゃないよね?」
「もちろん。こんなおっきい赤ちゃんが居てたまるか、と思わないか?」
眉をハの字に、けれど頬を緩ませつつ困り気味に微笑む父。
「……うんっ。あすみ大人だよっ。おかあさんやお父さんよりもずっとずっと大人だよっ」
「ふふっ、頼もしいわね」
「参ったなぁ。ははっ」
笑い合う娘に、おかあさんに、父。ちょっぴり背伸び気味な娘。ピクニックにお手製サンドイッチを作ってくれる母。一家を支える父。なんてことのない『普通』の家族。
今あるこの姿こそが『幸せ』だったんだ、と気付くべきだったのか。
否。気付いて『しまった』からこそ、全てが拗れてしまったのか──。
「それであすみ。誕生日プレゼント何が良いかだが──」
「──いっぱいいっぱいのお花がいい。薔薇がいいの」
驚きか、見開き気味の父の瞳。
「そんなので良いのか? もっと他にも一杯買ってやれるぞ? ぬいぐるみなんてのも良いかもしれない」
「ううん、お父さん。薔薇の花言葉って何か知ってる?」
花言葉には疎くてね──と瞼を細めながら困り笑む。
「『愛』なのよ?」
「──それはまた、どうして」
「あすみ、おかあさんとお父さんのこと大好きで、ずっとずっと一緒に居て欲しくてっ」
「……」
呆気に取られたかのようにあすみの瞳を眺める。
けれどその瞳は、どこかあすみを見ていないような気がして。
空を見ていた時と同じく、遠くへ──遠くへと視線を投げていて。
「──でもそれなら、私達へのプレゼントと言う事にならないか?」
「良いじゃないお父さん。買ってあげましょうよ?」
「だ、だがしかし……」
「あすみにとっての何よりのプレゼントって、私達家族の絆なんじゃないかしら」
「えへへっ。うんっ」
頬をほんのり桜色に染めつつ、満面の笑みを浮かべるあすみ。
やっぱりおかあさんは、あすみの事分かってくれてたんだ……。
「ほらね? だから薔薇の花買ってあげましょう? 悪い話じゃないと思うの」
「──……」
サンドイッチを持つ手を口に当て、しばし一考に耽る父。
「──分かった。考えといてあげよう」
「わぁい!」
「でも何で花言葉なんて知って──?」
「言ったわよねっ。あすみ、おかあさんよりもお父さんよりも大人なのよっ」
「ははっ。確かに父さんより物知りだよあすみは。これは敵わない」
「ふふんっ」
けれど、あれから一年ほどして──もう1回目のあすみの誕生日。
「お父さん、いつ帰ってくるのかな……」
心細げに、か細い声で。
あれから数か月ほどしてから父がこの家から居なくなった。おかあさんが言うには、外国へお仕事に行ってるからしばらくは帰れない、らしい。
「……おかあさん……」
それからのおかあさんは、毎日のように仕事に明け暮れている。夜遅くに帰ってくるのが殆どで、あすみが眠りについてしまうまでに帰ってきてくれる方が珍しいほど。
今日こそおかあさんに会えるのかな、今日こそおかあさんに温かく抱きしめてもらえるのかな、と……眠るその時まで毎日毎日心待ちにしてた。
「あすみ、だめな子なのかな……」
おかあさんだって頑張ってる。
あすみの為に今も必死にお仕事している。
なのに、心細さに胸を締め付けられ、今すぐにおかあさんに会いたいと思ってしまっている。
「っぐす……。おかあさん……っ」
あすみは頑張ってるおかあさんの邪魔をしたい悪い子なんだ。
会いたい心細さと罪悪感に、あすみと言うココロが水の染む布の様に浸され、涙として溢れ出る。
「……っ、泣いちゃだめ。おかあさんに、心配かけてしまう……」
卑しい卑しいあすみが嫌になる。
今日もおかあさんに会えない……と先に眠りについたとして、濡れる睫毛に頬を伝う涙のあと、その全てがおかあさんへの寂しさ──依存を物語る事となる。
例え言葉になんてしなくても、例え声として発する事が無くても、その涙こそがおかあさんを責め立てる。
どうして早く帰って来てくれないの、と。
今あすみに出来ることは、おかあさんの為にその涙を堪え、明日も変わらず学校に行って、いつの日か父も帰ってくる日を待ち続ける事。
だから、今日が誕生日だとしても我慢しなくちゃいけないんだ。
小さな小さな手で瞼を擦り、涙を拭い去り、今日のところも寝床につこう、としたとき──。
「──!」
こんな音を聞けるなんて何日ぶりだろう。
いや、何週間ぶりだろう。
ガチャリ、と玄関から鍵音が響く。
「おかあさんだ……! おかあさ──」
けれど、しばらく見ないうちに──。
「──あすみ……」
あすみに向けてくれる、その包み込むように温かな微笑みは変わらない。だけどその瞼は隈に染まり頬はこけ、見るからに痩せ細り過ぎたおかあさんの姿があった。
「っ──おかあさんっ──!」
泣いちゃだめだ。
おかあさんも頑張ってるんだ。
抱かれる胸の中を涙に濡らしちゃだめなんだ。
でも目の潤みは止んでくれず、抱きしめるおかあさんの胸を濡らしてしまう。
「っ……ごめんね、あすみ……っ。ずっと、ずっと会えなくて……っ」
おかあさんの声も涙に潤む。
その抱擁はとても温かくて、冷えた心ごと……身体の芯まで温めてくれるみたいに心地良くて。
それなのに、あすみが泣かしてしまった。
今日も頑張ってくれたおかあさんを笑顔で迎えるべきだったのに。
久々に対面する時には、二人とも笑顔であるべきだったのに。
「っううん……っ。あすみこそ、ごめんなさいっ……! わがままでっ、ごめ──っ!」
わがままでごめんなさい。
がんばってるおかあさんのこと何も知らないで、ただ会いたいだけのあすみでごめんなさい。
心からの罪悪感に、こみ上げる熱さが収まってくれない。
汚い泪で、ごめんなさい。
「馬鹿ね……っ。子供はわがままじゃなきゃだめよ……? わがまま一つすら言えない子供なんて、子供じゃないもの……っ」
「っ……でも、おかあさん……っだけ、頑張って……っ。あすみ、だけ……っ。うぅ……!」
「ふふっ。『おかあさん』ってのはね? そんなわがままな子供のためなら、どこまでも頑張れちゃうんだから……」
いたたまれなかった。
なんで、どうしてこんな──。
少し触るだけでも崩れ折れてしまいそうな程に細くなってしまってるのに。
そんなカラダになっても、涙を蓄えながらあすみに微笑みを向けてくれるの……。
「っ……うわぁあぁあぁん……!」
「……っあすみ。あすみ……っ」
お互い抱きしめ合いながら、この夜を泣きはらした。
ぎゅ、と抱かれる体がいっそう締め付けられ、ぽたりと雫が髪に滴った。
真夏も近いと言うのに、今宵の雨夜はいっそうシンと冷えていた。
会えない人に会いたくて、それでも許してくれなくて。
そんな二人のココロを表したかのような夜の雨。
けれど、今夜は暗いだけじゃないんだ。
灯される暖色のロウソクの光がぼんやりと温かくて、あすみの歳の数だけある。
「……それじゃ、あすみ……」
「……うんっ」
ふわっと息を吹きかけ、火を掻き消す。光が失われ闇に染められたけれど、おかあさんがすぐに灯りを点けてくれた。
「お誕生日おめでとうっ。あすみ」
「えへへっ。ありがとうっ」
「……えいっ」
「わわっ」
あすみの後ろから腕を回し、椅子越しに抱き着いてくるおかあさん。
「うふふふふっ」
「もうっ、おかあさんっ」
ちょっぴりくすぐったくって。冷たい夜だけど、この時だけは温かかった。
「あすみ、いくつになっても可愛いんだからっ」
「もぉ! くすぐったいよっ」
「ふふっ。けど良かったぁ……。あすみとお話出来た……。お誕生日ケーキも間に合った……」
冷えた体も心も、『氷』を溶かしてくれたんだ。
「あすみ、あなたは幸せになる為に産まれてきたのよ。だから、そんなあすみの誕生日……祝えちゃって本当に良かったぁ、って」
「……でも、おかあさん。明日もお仕事なんでしょ……?」
おかあさんもあすみも、本来とっくに寝ているべき時間のはず。
こんなにお話して、大丈夫なのかな……?
あすみなんかのために……。
「もうっ。言ったでしょ? もっと私にわがまま言いなさいって」
「でも……っ」
「その代わり、私のワガママも聞いてもらうんだからね?」
おかあさんの言う事……?
だったらあすみ、なんでも聞くよ?
おかあさんの言いつけだったなら、何だって守る。
ぜんぶ守る。
だから、おかあさんのわがままって何……?
催促してみると──。
「あすみに今夜いっぱい付き合ってもらっちゃう事っ」
「え──」
「おかあさんもねぇ、結構寂しかったんだよ~? 帰ってくるとあすみ寝ちゃってるし、ずっとずっとお話する暇も無かったし……」
「う、あ、ご、ごめんなさ──」
「……ふふっ。冗談。むしろ今夜はこんなに起こしちゃって、私がごめんなさいしなくっちゃ」
あすみよりもずっとずっと大人なはずのおかあさん。
けれどこの時のお顔は、どこかいたずらっ子のように子供のようで、またその笑顔が眩しくって。
「──そうだ。あすみっ、これあげる──」
おかあさんの鞄をまさぐり、机の上に出したもの。それは──。
「──! これ……っ」
いつかあすみが誕生日に欲しがっていた薔薇──を模した髪飾り。太陽のように明るく、自由奔放なオレンジ色の薔薇。
「あすみ言ってたわよね……? お誕生日には薔薇が欲しい、って」
薔薇の花言葉は『愛』。けれどそれは紅い薔薇のこと。
オレンジの薔薇なんてあすみは見たことがなくて、だからその花言葉も知らなくて──。
「オレンジの薔薇はねぇ……『絆』を表すの。それに他にもたくさんあるのよ? 『信頼』に、あと……『幸多かれ』。あすみにぴったりだと思って、オレンジにしてみちゃいましたっ」
やっぱり、おかあさんはあすみなんかよりもずっとずっと大人だった。
あすみのココロをずっとずっと分かってくれていて、あすみよりも色んな事を知ってる。
あすみはおかあさんよりも大人だ、なんて言い張ってた自分が馬鹿みたい、って思えてしまう程に。
「でも、本物の薔薇じゃなくてごめんなさいね……? あすみ、本当の薔薇をすっごく欲しがってたのに……」
「ううん。すっごく嬉しい……! これならずっと枯れないから……っ。ずっと、おかあさんのプレゼント着けてられるからっ……」
おかあさん、覚えていてくれた。
あすみの誕生日のこと覚えてくれてて、何が欲しかったかまで覚えてくれてた。
──ううん。欲しかった以上のものをあすみにくれた。
家族の『絆』に『信頼』に『幸多かれ』。
あすみの願ってたもの全部、おかあさんがくれたの。
「似合う、かな……?」
「うんっ。とっても──」
これでずっとずっとおかあさんと居られる気がする。
離れていてもこの髪飾りがある限り、おかあさんと繋がっていられる気がする。
だからあすみも、どこまでも頑張れる気がするんだ。
「──せて、よかっ──」
「え──?」
消え入るように小さな、おかあさんのつぶやき。
けれど、その声はあすみの耳に届くこともなくて──。
「……なんでもないっ」
「う、うん……?」
「……さて、美味しい美味しいケーキ食べちゃいましょっか。あすみ果物好きだものね。見ての通りすっごくたくさん乗せてもらったからねっ」
「うんっ!」
この時のお話は、きっとずっと忘れられなくなってるんだと思う。
「ふふっ、ケーキどう?」
「なんか、こんなにおいしいケーキ食べた事なくてっ……」
ホイップが重くなくて、舌に乗っかれば即座に溶ける。
甘すぎなくて、くどくなくて、上品な味のケーキ。
それに──。
「あすみ。今日のお茶どうかな……?」
「あったかい……」
おかあさんの淹れたお茶も、とっても温かくて──。
さっきまで泣いちゃってたあすみがウソみたい。
寒かったカラダもすっかりポカポカと温かい。
隈にまみれたおかあさんのお顔も、少しだけいつものおかあさんに戻ってた気がした。
「ごちそうさまっ」
「ふふっ。お粗末様でしたっ」
お茶で温まってお腹もふくれて、瞼も徐々に重くなってった。
「……眠い?」
「うん……」
「じゃ、おやすみしちゃいましょっか」
「あ──」
名残惜しくない。そう言ってしまえばウソになる。
でも今のあすみにはこれがある。おかあさんから貰った薔薇の髪飾り。
これがあれば、もう寂しくなんてない。
この時のおかあさんの優しい微笑みも、温かさも、すべて……すべて思い出せるから。
「んふふっ。あすみ可愛いっ……。今日は抱っこして寝ちゃいましょ」
抱きしめられながら寝てしまうなんて、幼稚園ぐらいの歳以来だ。流石に気恥ずかしくってしょうがないんだから。
「む……。あすみそんな子供じゃな──」
「──お願い」
無邪気な子供のようでいたのに、一転して小さく震えた声で囁くおかあさん。
声は小さいけれどそれは、どこか──縋るような、甘える子供のような、心細さに潤す瞳をしていて──。
「……」
寂しかったのはあすみだけじゃないんだ。
おかあさんも、きっと同じだった。
涙のあとを引いたあすみの頬を見ながら、きっと触れ合えずの毎日におかあさんも頬を濡らしていたんだ。
「──うんっ」
あすみだって、おかあさんを寂しくなんてさせない。
おかあさんがあすみの為に頑張るのなら、あすみだっておかあさんを抱きしめてあげる。
おかあさんが帰ってきたあと、あすみを抱きしめてくれたみたいに。
「──ありがとう、あすみ。愛してるわ──」
今夜はずっと抱きしめ合ったままおかあさんと眠る。きっと今晩はココロが冷えることなんてなくて、きっと今日は怖い夢なんて見ない。誰もいない部屋の中で、冷えた朝の風を感じることもない。明日の朝の風はきっと温かで心地よい。
よかった。おかあさん──。
安堵に胸を撫でられて、おかあさんの腕の中でその意識を手放した。
イヤな事も何もかもを忘れて、夢の世界に沈みゆく。
深く、深く、どこまでも深く。
綿に温かく包まれる眠りの心地。
そんなあすみの頭を愛おしく愛おしく撫でながら、おかあさんは──。
「──渡せて、よかった」
それはどこか
それはどこか自らの死期を予期していたようで。
けれど──。
「──大丈夫。絶対に生き延びる。生きて、あすみと一緒にいるんだ──」
死んでやりたい。
そんな気持ちなんて毛頭も無くって──。
「あすみを置いてなんて絶対、いけないわ──」
あるのは、その最期の
そして、おかあさんがまた帰ってくることなんてなかった。二度となかった。だって──。
「なんで……っ。ねぇ、なんで、どうして……っ!」
あすみのおかあさん、居なくなっちゃった──。この世界から。
もう二度と──二度と、会えない。
「っ……おかあさんっ……! やだよ……! おかあさんっ……!」
もっとあすみを抱きしめてよ。
もっとあすみに抱かせてよ。
おかあさんの温もり、もう一度感じたいよ。
おかあさんの笑顔、また見たいよ。
なのに、なんで──。
「やだぁ……っ! おかあさん……っ! いやだぁ……! やだよ……!」
なんでそんなに体が冷たいの?
なんで何もしゃべってくれないの?
なんで微笑んでくれないの?
あすみをもっと撫でてほしい。
あすみともっとお話ししてほしい。
あすみと一緒に笑い合ってほしい。
あの夜が過ぎてから怖い夢なんて見なかった。朝の風が心地よかったの。
「っぁあっ……! おかあさんっ……! ぅぁ……ぁあああっ……!!」
もっとあすみのわがままを聞いてほしかった。
もっとあすみにわがままを言ってほしかった。
だって──だってこんなにも──。
「ぁあぁあぁあぁあぁあぁあっ……!」
──おかあさんがくれたこの薔薇の髪飾り、まだこんなにも温かいのに──。
──神サマ。
いるとするなら、それは残忍で──あすみたち親子を嗤っていたに違いない。
ううん、寧ろ神サマなんていないのかも。
そこに在るのは神サマなんかじゃなくて『
そしてその
──おかあさんとの思い出に浸るひと時さえも──。
あの時、逃げていれば変わったのかな。
ううん、逃げた先があのザマだった。
あすみのおかあさん亡き後、母方の親戚の家に引き取られる事となった。
大好きな大好きな──今でも愛してるおかあさんのお兄さんだから、きっと優しい人なんだって思った。
でも、そんな証拠どこにも無かったんだ。
ううん、寧ろ──。
──ここからが、地獄の始まりだった。
「こンのクソガキィ!」
「──っ! いや──!」
咄嗟に腕で頭を守るも、そんなのお構いナシに男のゲンコツがあすみの腕を薙いだ。
「ぁう──!」
地面に突っ伏す。
じんじんと腕に熱を帯び、次第に痛みへと変わってく。おかあさんのお家だと感じた事のなかった痛みに、堪らず涙があふれる。
「わからへんの? ワシは仕事で疲れてんさかい! メシすら満足に作れんて、そりゃあテメエどう言う了見なんや!? なあ!?」
「っはは。あすみちゃんさぁ、何でここ住まわせてもらってんか分かってんの? もしかしてぇ、タダで住めるとか思っちゃった? あはは!」
壮年の乱暴な口調をした、あすみを殴ったほうの男はおかあさんのお兄さん。つまりは伯父さん。大声で嘲る、伯父さんと同年代らしき男は伯父さんのお友達らしい。よくこのお家に来てアルコールの沁み込んだ壮年の臭いを振り撒きながら、葉を燻ぶらせる独特な鼻をつくニオイ──タバコ臭を浮かばせてる。
「ってなワケや。今すぐ作り直さんかい。ッたくアイツはメシの作り方すら教えへんかったんか使えへんなぁ!? 酒持って来んかいもっと!」
「っははハハハッ! おぉこわいねぇ~。コイツの趣味に合うメシ作るの今から勉強しないとだね! ブハハっ!」
アイツとは、おかあさんのこと。
父が外国に行くまで、あすみはいつだっておかあさんにお料理を教えてもらってた。特に大好きだったのはオムライス。包み込む玉子がすごくおいしいの。食べたらいつもおかあさんの包み込むような愛情を感じられて、あのご飯よりおいしいものなんて他にはなかった。
なのにこの男、おかあさんから教わったご飯を──!
「あーマズマズクソマズゲロマズっ。こら酒のアテにもならんて」
ザザッと、ごみ箱へと流し込んで──。
「っ……! やめて……!」
「あ?」
「──っ」
振り返りもしないまま、ギロリと眼だけがこちらへと向けられる。その仕草一つからもひどく侮蔑されてるようで。あすみを心底鬱陶しがってるようで──。
「なぁ、お前今ナニ言うた? なぁ?」
「ぁ──あっ──」
一歩一歩と、伯父が歩み寄る。
「お前今ナニ言うた? なぁ、もう一度言えや。なあ?」
あすみへと詰め寄る。外敵を目前とした、穢れ切った肉食獣の様に。
「もう一度言えや。なぁ? どうなん? えぇ? どうなん言うとんねんゴルァ! なあ!?」
「ひっ──!」
伯父の怒号は宛ら獣の威嚇のよう。怒号が空気を震わし総毛立たされる。重低音に響かされ、体の力が抜けきっていた。縮み上がってた。怖くて怖くて仕方が無かった。今すぐに逃げ出したかった。でも、あすみの小さな躰じゃきっと逃げ切れない。逃げようとすれば、きっとこの男共にすぐに追いつかれて、もっと酷い目に遭わされてしまう。
「あ~おやっさん」
男が伯父に、咳払い混じりに──。
「その……あんましさ。イジメ過ぎちゃうとさ? そのさ?」
「ン? あ~オウオウ悪い悪い。せやったな」
「っ……ひっ、う……うぅ……っ!」
よくわからないけれど、助かったの……?
いいえ、違う。寧ろここで威嚇され、殴られてただけの方がまだマシだったのかもしれない。
「っつかヨ、テメェ『██』せえへんか?」
「──エ、いいンスか?」
あすみには言ってる意味がまるで分からなかった。
男が言うように何が『良い』のかも──。
「ただし、貰うモンは貰っとくさかいな」
「チッ。ケチクセぇくねえッスか?」
「あ? 割り引くにキマっとるやろがい。そこまで薄情ちゃうわ、ワシとテメエン仲やさかい」
「はァ~タダでいけっかと思ったんスヨね~。ホイよ」
「ヘイ毎度アリっとォ」
男が火のついた煙草を咥えつつ伯父にお金をやっていた。
あすみを震え上がらせるには充分な、酒に枯らした不愉快な声をしながら──。
「ンじゃ、あすみちゃんさぁ」
「っ……な、何ですか……っ」
薄目でいて、口角を引き裂いたかのような下卑た笑みを浮かべながら男に見下ろされる。
「オレ、たった今キミを『██た』からさ」
『██た』……?
──まさか、こいつらは──あすみを──。
「ひっ──!」
『ソレ』が分からないあすみじゃなかった。
大人の男性が、█を『█う』と言うのなら──。
「おめぇメシ作れんかったらソレぐらいしか使い道無えだろうが、なぁ? ちゃうか?」
「そうそうそうそうそう~。ンじゃおやっさん手伝ってよ。あっち運ぼうさ~」
そう言って男は、あすみの手を掴んで──!
「やだ……やだぁっ! いやっ! やだやだぁあっ!」
「──ッチ!」
色んな悪い想像が頭の中を駆け巡る。今すぐに逃げ出したくて、男の手を力いっぱいになんとか引き剥がそうとする。けど出来る訳ない。あすみの小さな手じゃ、大人の男の人の
「おいおやっさん! 手伝ってよ!」
「ッしゃ~ないなぁ~。ォラよっ!」
「いやぁっ! やだぁっ! 助けて! 誰か助けてぇっ! いやぁあっ! おかあさぁんっ!」
いちばん助けに来てほしい人。けれどあの人はもうこの世にはいない。誰も助けてくれない。
あるのは髪飾りに残る、温もりだけ。
「ゃだぁあっ! いやぁあっ! 放してっ! 助けて! っぁああっ!」
汗に汚く蒸れた男に覆い被さられる。視界はコイツしか目に入らない。息は荒く、湯気が立ち昇りそうなまでの悪臭が鼻を刺す。
「ゃだっ! 放してっ! ぃやぁあっ! いやぁあっ! やぁあっ!」
コイツの息なんて吸いたくない。身の毛がよだつ。胃の中の内容物をすべて曝け出したくなる程にまで込み上げてくる。
「やだやだやだぁっ! 助けて助けて助けて怖い怖い怖いっ! おかあさん助けてっ!」
「お母さんなんてもう居ないよ」
うそ言わないで!
おかあさんはまだ居る!
あすみの髪飾りに居るの……!
この髪飾り、まだ温かいの!
これがある限り、おかあさんはあすみの傍に居てくれる……!
ずっとずっと見守っててくれる……!
「ア? ッつかコイツのアクセサリー邪魔やな。危ないし取らんとさかい」
──え──。
「ア~それ俺も思ってたんスよ。取りましょか?」
──やだ──。
「そうせえそうせえ」
──いやだ──。いやだいやだいやだいやだ──!
「──触らないでっ!」
ぺち、と男の手を払いのける。
この髪飾りにだけは触らないでっ!
この髪飾りはおかあさんだからっ……!
この髪飾りさえあれば、ずっとずっとおかあさんと繋がっていられるからっ!
おかあさんとの絆の証だから!
おかあさんが見守っててくれるからっ!
「ッ──このガキャァッ! 誰にモノ言うとんねん! もうちょい考えろやゴミィッ!」
「やだぁっ!! 触らないでっ!!」
「うっさいねん! 謝れやァ! お兄さんに謝れやァ! 叩いてごめんなさいって謝れェァ! 謝れ言うとるやろこのクソガキィ! 育ち悪いんじゃボケェ! 聞こえんのかこのツ█ボォァッ!」
「これだけはやだっ!! 嫌ぁッ!! やめてっ!!」
喉が枯れるどころか、張り裂けそうな程にまで叫ぶ。もうあすみのカラダなんてどうなってもいい。でもこの髪飾りにだけは触れられたくない。おかあさんまでをも汚されるように思えて堪らない。
おかあさんだけは守るんだ。
おかあさんだけは『幸せ』にするんだ。
おかあさんの絆を守るんだ。
おかあさんに言われた通り、あすみは『幸せ』にならなきゃいけないんだ!
おかあさんだけは──。
「オモチャ一つぐれえでキャンキャンやかましいんじゃボケェァッ! 発情期の雌猫かいなァ! 謝れやカス!」
ドン──と蟀谷を侵す鈍痛に、瞬時のあいだ思考を止められてしまう。「ぁう──!」と呻くと共に『おかあさんを助けて欲しい』と言う叫びも掻き消されてしまう。
「おッ? 大人しくなったッスねぇ。はいコレ」
『おかあさん』が剥ぎ取られて──。
「ンなもんどっかにほっとけや。後でホカしとくさかい」
「はいよ」
見向きもしないで、『おかあさん』を放り投げる──。
「それじゃ、あすみちゃん。キミはあんなオモチャ一つや二つ簡単に買えるぐらいに稼げるからね~? だから今日はお兄さん達の言う事聞こうね~?」
「……っひ……ぐ……っ」
──『おかあさん』があすみから離れてく──。
──『おかあさん』との絆が断ち切られる──。
──『おかあさん』の温もりが遠のいてく──。
「……っぅあぁ……ぁああっ……!」
いっぱいいっぱい──伯父さんだけが私腹を肥やすんだ。あすみはその為の道具。もう『おかあさん』が傍に居てくれない。もうあすみはもう二度と『幸せ』になんてなれないんだと思う。だって──。
「っあ、やべ。おやっさんどうしよう」
「かめへんかめへん」
──あすみ、きっとこれから『花嫁』になんてなれなくなるんだから──。
「──ぅぅううぅぅううううぅぅぅぅ──っ!」
とっくに枯れ切った声を漏らし、唇を噛み締めながらしゃくり上げた。
──ごめんね、おかあさん──。
おかあさんの言いつけ、守れなかった──。
『幸せ』になってって言いつけ、守れなかった──。
「────」
全部。全部終わった。
「────……」
灯り一つない暗い闇の中、あすみは布団の上に捨てられてた。
「──おかあ──さん──」
──髪飾り、探さなきゃ──。
──『おかあさん』、探さなきゃ──。
おかあさんとの『絆』の証。
おかあさんがいつまでも見守ってくれている証。
まだ、まだ大丈夫──。
あの髪飾り──薔薇の髪飾りさえあれば、あすみはおかあさんと繋がっていられる。
あすみはずっとずっとおかあさんと居られる。
たとえ──たとえもう『幸せ』になんてなれなくても、どれだけ苦しくても、あすみは『おかあさん』さえ居ればどんな所でだって、もっともっと頑張れる。
「──!」
窓から覗く月明かりを映し、一抹に輝く光があった。
──あった! おかあさんの髪飾り──!
よかった……!
あすみ、まだ『おかあさん』と一緒にいられる……!
あすみ、大丈夫だよ……!
あすみ頑張れるよ!
『おかあさん』と一緒に生きていられるよ!
どんな所でだって、あすみ……ずっと『おかあさん』と一緒だから……!
「おかあさ──」
──ジャリ──とした、砂を掴むような手触り。
この手触りが、あすみの最後の『希望』を砕いた。
「──おかあ……さん……?」
赤い灯火のついた煙草を踏み消されるように。
念入りにその灯りをかき消すべく、足先で躙るように──。
──髪飾りも、きっとそうして粉々にされたのだろう。
「──ぁ────」
──『おかあさん』があすみから離れてしまった──。
「ぁぁ──ぁぁああ──っ──」
──『おかあさん』との絆が断ち切られてしまった。
「っああぁぁ──ああああぁぁぁぁ──!」
──『おかあさん』の温もりが、とっくに感じられなくなってしまった──。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ──っ──!」
涙に濡れる慟哭が、あすみの喉を──ココロごと引き裂いてしまう。
おかあさんがくれたこの薔薇の髪飾り、今ではこんなにも冷たくなっちゃった──。
「──ぁう──!」
転校先の学校で毎日のように殴られる。
「クッソキモっ!」
「陰キャだ陰キャ! 陰キャ過ぎて幽霊か!」
「ギャハハハハ!」
ボールを顔にぶつけられ、バケツいっぱいのワックスを浴びせられる。
「っ──!」
子供の姿をした獣共──餓鬼畜生。目の色は宛ら──獲物を前に蔑み嗤う肉食獣のよう。あすみは涙を蓄えた瞳を向け、睨みつけようとも──。
「はア? そんな目して良いと思ってんの?」
「誰に向かって口利くつもりだよ? キンモ」
「言っとくけど、オレ素手で殴ってないから暴行には当たりませ~ん! ただボールで遊んでたら神名がぶつかって来ただけです~!」
「俺も掃除当番してたのにあすみが勝手に浴びに来たんやぞ~!」
「ぎゃははははははははっ!」
餓鬼共は喜劇を前にするかの如く、大きく耳障りに嗤い転げる。
涙に震えるしかなかった。奥歯を噛みしめて、濡れる瞼をぎゅっと瞑って、指を握りしめ、体をわなわなと震わせじっと堪える。じゃないと──。
「うわ~! 神名に殴られる~! 先生に言ってやろ~!」
「おぉこっわぁ~! 逃げろ~!」
全部、あすみだけが悪者にされるんだから──。
「神名さん? 原尾くんから言われたんだけど? 神名さんが彼を殴ったって」
いつだって先生はあすみなんか見てなくて──いいえ、あすみを見下ろすの。
流れ作業のように、仕事のように。
「そんなことしてないよ……っ」
「じゃあ何だって言うんです? 原尾くんがウソつきだと言いたいんですか? 私は神名さんと原尾くんどっちを信じれば良いんですか?」
「で、でもあすみやってな──」
「言い訳はしないッ!」
いつもこうやって大声で遮られる。あすみの言う事なんか──声なんか聞きたくないってばかりに。喋らせるもんですか、とばかりに。
「とにかく! ちゃんと原尾くん達に謝る事! いいね!?」
「あすみやってないっ!」
「言い訳無用って聞こえなかったの!?」
「お願い聞いてっ! この前だって給食にシャー芯と鉛筆削りカス入れられて──!」
「それも神名さん自身がふざけてやった事でしょう!? なに他人のせいにしてるの! そう言う所でしょう!?」
伯父さんからはロクに食べ物なんて与えられてない。お口に入れられるのは██か痰か██だけ。そんなあすみが──たとえ味が悪かったとして、おかあさんのお料理に比べたら臭くて食べられたものじゃなかったとしても、今の生活で唯一食べられる食糧を使って自ら遊んで無駄にするなんて馬鹿げてる。どうしてこの先生は──大人なのにあのガキ共の言う事だけを鵜呑みにするの──?
「──とにかく、私は神名さんの言う事も原尾くん達の言う事もどっちも信じたいんです。だから嘘をつく事だけはやめましょう! いいですね!?」
「……っ」
「返事ッ!」
悪いのはあのクソガキ共。
あすみは何もしてない。
なのに、なんでこの人は信じてくれないの?
なんであすみだけを見て見ぬ振りするの?
なんであすみを『不幸』から救ってくれないの?
「そういえば神名さん、あなたの所のお父さん一度も家庭訪問させてくれませんよね? 一体どうなってるんですか?」
「……伯父さんは……」
あんな悪魔がいちいち学校の家庭訪問に受け応える筈がない。
興味があるのは酒にたばこに──それこそ売春婦だけ。
「……ご両親さんに言いつける事も出来ないなんてね。お父さんとお母さんと仲悪いのか何かは知らないけど、神名さんが信じてあげないからそうなるんですよ?」
信じられるもんか。
あの男は███も同然──いや███だ。
それにアイツに何か言えばガラスの重い灰皿が飛んでくるか、もしくは夜の薄暗い部屋で██に███ながら『█████』だけ。
「これからの神名さんの課題はまず嘘をつかないこと。そしてお父さんお母さんとちゃんとお話しする事。じゃないと神名さんが辛いだけですからね? 全部神名さんの自己責任になりますからね? さあ、返事は?」
「……」
もう、茶番にしか感じられなかった。
いつもこうだ。
あすみの言う事を大声で遮って、その目はあすみを見てなくて──絶対に見るもんかとばかり逸らして、威圧的に、高圧的に詰問する。
もう、何もかも全部ばかばかしかった。
はやく終わらせたかった。だから──
「……っ」
口を噛み締めたまま黙って頷くしかなかった。
『はい、分かりました』なんて、死んでも言いたくなかったから──。
あすみの受ける責め苦は、これからも一生続く──。
あすみの味わう悔しさは、これからも一生残る──。
あすみの流す大粒の涙は、これからも一生滴る──。
おかあさん──。
あすみ、頑張ってるよ──?
頑張ったねって、撫でてほしい──。
大好きって、ぎゅっと抱きしめてほしい──。
おかあさんが注いでくれたあの愛が、もっと欲しいの──。
とある雲多き石色の空の十一月の日。鈍色の雲に紛れる太陽の光は、冬の冷たさと共にあすみを芯まで凍て付かせる。鼻を燻ぶる枯れ木や草の香る中──。
「もうすぐ███の誕生日ね」
湿った海苔もまた香ばしい握り飯を口にしつつ、頬を緩ませる母。███の誕生日まで、おおよそあと二ヶ月ほどだった。
「そう言えばもうそんな頃だったか──」
空の先まで遠く眺めながら父が呟く。
「えぇ? お父さん忘れてた?」
「──いいや、そんな事は無いさ。時間ってのは一瞬だな──と思ったんだ。にしても……そうか。███、もうそんな歳なんだな。ついこの前まで小さかった気もするけど」
「███はガキじゃねーよっ!」
███はどちらかと言えば背伸びをしたがるきらいがある。周囲の子供たちに比べリーダーでありたがろうとするとも。故にただのガキ扱いされるなどと、███にとってはダサい事このうえなく気に食わない。
「ははっ、ごめんな。私が言いたいのはそうじゃなくてだね──」
「███、つくづく立派になったもんだからお父さん驚いてるんじゃなあい? ね?」
「まぁ、そんな感じだよ」
「……マジ……?」
「あぁ」
「███、ガキじゃねえよな? 俺ってすげえよな?」
「もちろん。こんなおっきい子供が居てたまるか、と思わないか?」
眉をハの字に、けれど頬を緩ませつつ困り気味に微笑む父。
「……へへっ。俺サマこの家のボスだからなっ!」
「ふふっ、頼もしいね」
「参ったなぁ。ははっ」
笑い合う男の子に、母に、父。ちょっぴり背伸び気味な息子。お弁当を作ってくれる母。一家を支える父。なんてことのない『普通』の家族。今あるその姿こそが『幸せ』なの? あなたは何故気付かなかったの──? ──どうして──。
「それで███。誕生日プレゼント何が良いかだが──」
──ねぇ、お父さん。
「──PS5! アレすっげえんだぜ!? マジでモノホン! Switchなんてもう時代遅れだよなー!」
──そいつら、誰なの。
「ハハッ。分かったよ。PS5だな。よし──」
──そこは、あすみの席なの。
「ほんと、あなたが来てくれて良かったわぁ。前までじゃこんな『幸せ』なんて考えられなかった──」
──そこは、おかあさんがいるべき場所だった。
「私もだよ。私こそ以前まではこんな『幸せ』、考えた事もなかったさ」
──お父さん、『幸せ』じゃなかったの……?
おかあさんとあすみ。二人と過ごしていて『幸せ』なんて思ったことなかったの──?
おかあさん、ずっとずっと頑張ってたんだよ──?
あすみを『幸せ』にするって言って、壊れかけの体を引き擦ってまで、
おかあさん居なくなっちゃって──死んじゃってからも、こわかった──!
ずっと──ずっと助けてほしかった──!
知らない人たちに、ひどいめに遭わされた──!
なのに、お父さん──いや、オマエは──。
──おかあさんを、あすみを──!
「──る──せない──」
許せない──。
「許──な──い──!」
許せない──。
「──許せ──い──!」
許せない──。
「──許せない──!」
──許せない──!
許せない許せない許せない許せない許せない──!
許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない──!
許せない──!!
みんな──みんなあすみを見てくれない──!
あすみの『不幸』を、知ろうともしない!
これだけ苦しんでるのに、これだけ『幸せ』を踏みにじられたのに、これだけ『不幸』なのに──!
だれも──だれもあすみを見て見ぬ振りする!
あすみは家族を喪った!
あすみはおかあさんに会えなくなった!
あすみは二度と『花嫁』になんてなれなくなった!
あすみは、おかあさんのくれた『証』までも壊された!
あすみは──あすみはもう全部失った!
なのに──なのにオマエ等は──!
オマエ等は全部──全部あすみのせいって言う!
あすみだけが悪いんだって、あすみに押し付ける──!
『力が欲しいかい?』
頭の中に少年のような声が聞こえる。
みんな──みんな不幸になっちゃえばいいんだ──!
あすみを捨てた人も!
あすみをいじめる人も!
あすみを見て見ぬ振りする人も!
あすみの大切なものを壊した人も!
──あすみを捨てた世界、全てが『不幸』になればいい──!
「──あすみの知る周囲の人間の不幸──!」
もうあすみは前が見えない──!
目の前が全部怒りで染まってる──!
目の前が紅い──!
あすみのはちきれそうなこの
さあ、叶えてよ──!
「あすみのこの
──この瞬間から、もう後戻りは出来なかったんだと思う。
『契約は成立だ。君の
けたたましく、黒い塵と共に耳を劈くラバーとアスファルトが擦れるスキール音。
目の前の風を斬り裂き、排気ガス香る鉄の塊が突っ切る。そして目の前には──。
「っ──! いやぁあああああああああああっ!!」
「お、親父っ! 親父ィッ! ぅぁああああああああああああああッ──!?」
そして、あすみのもたらした因果はそれだけに留まらない──。
「せ、先生ぇ……! 先生ェッ!」
泣き叫ぶ生徒たち。引ん剥かれた眼球に焦点の合わない瞳。黒髪は脂に垂れていて、肌は垢にまみれたか浅黒い。薄黄色く歯垢にまみれた口で、唾を撒き散らし
「俺にはもうこれしか──コレしか無いんだァッ!」
胸に突き立てられる包丁。ケチャップの様に飛び散る赤い液体。糸の切れた人形のように崩れ堕ちるカラダ。こうして先生は、間もなくしてその命の灯火を消す事だろう。
「っヒハハ! 次は……次はァア!」
「──に、逃げろ原尾ぉ……! 原尾ォッ!」
「ぁ──ぁああ──ぁああああッ!?」
ここで逃げていればまだ助かったものを──。恐怖の前ではその正常な思考すら汚染されてしまうのか。椅子を両手に掲げ、刃物男へと振り翳し──。
「──お前だァアァア!」
──して、地面が紅色に染まりあがった。
暴行の容疑で逮捕された二人の男を乗せる護送車が車に突っ込まれて横転した。一人は即死。だが生き残った方はこれはチャンス──! とばかりに、警官の腰から拳銃を奪い逃走を試みるも──。
「止まれッ! 止まらなければ撃つ──!」
「ヘヘヘヘッ!」
アスファルトを抉る銃弾。間一髪で転がり回避する警官。壮年の犯罪者は高笑いと共に──。
「こんなトコで捕まる訳にはいかん! ワシにはぎょうさん味方がおるんや! 客がおるんや!」
「──ッ!」
耳を劈く破裂音。硝煙の香りに、鈴の様に小気味よい音を立て地に落ちる薬莢。
「っぐぁああァアアアアアアアアアアァアアッッ──!?」
███の█辺りが抉れ、██の█の様な███が赤い汁と共に飛び散る。
「ヒギ──ァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ──!?」
溢したジュースの様に赤は多量に滴り、体の器官を一つ失う痛みが脳天ごと神経を焼き切る。
「っ──せ、先輩、私は──っ」
人ひとりの命を奪いかねない程の傷を、いくら犯罪者相手でも刻み込んでしまった。己が行為の後、拳銃がその手から零れ落ち、震えに止まらず──。
「──よくやった、正当防衛だ。お前のお陰で俺らは全員残らず無事だ。運ぶぞ」
「っは、はいっ!」
──ミニシルクハットの、血の様に染まりあがった薔薇の飾りは、きっともう『
「──それが君の願いがもたらした結果だ。満足かい?」
「──」
お父さんは轢殺されて即死。学校のクソガキ共と教師は、気の違った刃物男に全員惨殺された。そしてあの伯父──悪魔は、██と暴行の疑いで逮捕された挙句その途中で事故り、██を失いながらムショ行きと来た。単に死ぬよりも惨い。それに囚人たちのカーストでは、████は一番最下層に位置するのだそうで。せいぜい苦しみに苦しみ尽くす事ね、███野郎。また、奴を撃ち抜いた警官が咎められる事は無く、全て正当防衛として片づけられ、しかも警官の全員が無事だった。なおあすみを██た█共は、全員が何らかの形で死を迎え、特にあすみの██を██たあの█に関しては護送車の時に即死した様だ。
ああ、なんて──。
「──フフ──アハハ────ッ──!」
なんて、傑作な事なの──!
わたしを虐げた奴らが、こんなにも──!
あっけなく『不幸』に堕ちた!
それも全て──全てわたしに都合が良く──!
「あぁ──堪らない──っ──! これがわたしの魔法──! これがわたしの因果──! これがわたしの『幸せ』──!」
伯父にしてはどうだ?
これからは酒もたばこも、ましてや██を失った体では█の味も愉しめない!
わたしを自己責任と罵った教師もキ█ガイに殺された!
わたしを虐めたあのクソガキ共も恐怖に怯えながら皆殺しにされた!
そしてお父さんは、わたしを捨てて手に入れた新しい家族の前で死に散らし、間違いなく母子の心に一生消えない傷を負わせた!
なんて──なんて愉快でしょうこと──!
「満足なようだね。けれど──どうするんだい、あすみ? 君の願いはもう叶えられたんだ。あとは魔女と戦うだけだが──」
──叶えられた、ですって?
「──まだよ」
まだ──足りない──!
みんながわたしを見てくれなかった。
わたしの『不幸』を知ろうともしなかった。
あれほど苦しんだのに、あれほど『幸せ』を踏み躙られたのに、あれだけ『不幸』だったのに──。
だれもがわたしを見て見ぬ振りした。
わたしはおかあさんを喪った。
わたしはおかあさんに会えなくなった。
わたしは二度と『花嫁』にはなれない。
わたしは、おかあさんのくれた『証』までも壊された。
──世界はわたしと──おかあさんを捨て去った。
ならば、わたしのやる事はたった一つ。
「──この世界を染め上げてやる」
このセカイは喜劇だ。
「いやぁっ! 助けてぇっ! ママぁっ! ママぁあっ!」
「うふふふフフフフフ……ッ!」
少女のカラダが飲み込まれゆく。ギャリギャリと、骨ごと肉を擦り抉り断つ音が結界内に響く。
「っぎぃぁぁあああああああアアアアアアアアアアアアッッッッ!!」
「あははハハッ! そうよそうよぉ……? 良い声で鳴くじゃない? これだけ恐怖に染まってれば、使い魔も直ぐに魔女へと肥えるわよねェっ!?」
「ああぎぎギギぃぁぁあああああああああああああああアアアアアアアッッッッッッ!!」
べつにこの少女、特段悪事を働いてた訳でもない。どこにでも居る普通の女子高生でしかない。不幸の使者となったわたし──神名あすみは、適当に目につけたソイツを使い魔の餌にしてやった。そうして魔女へと育て上げたうえでわたしの養分にするのが日課。
下半身から徐々に物理的に食われるだなんて……予想だにしなかった理不尽に、今もこうして目の玉を引き剥いて、おおよそ女だってことを忘れたかの様な鬼のような形相で悲鳴をあげる少女の滑稽なこと滑稽なこと。
「あぎ──ィイ──ヒぁ──」
でも、そんな悲鳴も長続きしなかった。電池切れのラジオの様に、その華々しい音色をプツン……と途絶えさせてしまった。
「……あーあ。ショックで死んじゃったの? 勿体ない」
もうちょっとバックミュージックとして聞いてたかったのに。でもまぁ、しょうがないか。
わたしとしては、こうして平和な連中がのうのうと生きていられる事自体を憎悪していた。だから死んだとしても結果良ければ全て良し、と言う事。
「お、お母さん! やめてよ! なんで、なんで僕の事殺そうなんてッ!」
「う、うるさい! お、お前の為よ……お前の為よぉっ!」
「おかしいよっ! 僕の為ってわけわかんないよォッ!」
「こ、こここんな訳の分からない世界に居ても、どの道苦しむだけだよっ! だったらせめて、あ、あたしの手でお前をッ!」
魔女結界の中、ナイフを手に互いに互いを刺すか刺されるかの戦いに興じる親子。
「ンふふッ……。あぁ最高ぉ……♡」
この親子間のバトルロワイヤルで生き残った方がこの結界から解放される。そんなルールをとある家族三人に課し、ソレを高所から眺めるわたし。足を組みつつ、手の平でパチパチと……乾いたクラップを鳴らして。既に父親の方は、多量の血溜まりを広がらせながら俯せとなっている。このクソ息子、真っ先に母親を刺しに掛かったもので、家族愛など嘘偽り絵に描いた餅だ。
「っぁぁああああああッ!」
母親が息子に飛び掛かり──。
「っがフ──」
その心臓に刃を突き立てる。
「はァッ! アァッ! はぁアァッ!」
ズブリズブリと……何度も、念入りにナイフを刺しては抜いて刺す母親。
「おかあ──さん──」
紅い噴水に塗れながら、何度も……何度も何度も何度も。やがては父と同じく血の池を作りつつ、大地を紅く染めながら斃れる息子。
「っはァ……はぁっ……! やった……! やったわ……!」
「うフッ。
実の息子に『お前の為』だなんて言った母親がして良い顔ではなかった。目は血走り、口は吊り上がり、顔は紅く浮いている。まさしく狂気。生き残る為なら、我が子すらをも捧げるその汚らわしさ。
あぁ……まさにわたし好み……!
「こッ、これで解放してくれるのよね……!? この地獄からッ、あたしを出してくれるのよねェッ!?」
「あらァ? わたし、解放するとしか言ってないわよ?」
「──は」
充血した白目に浮かぶ瞳が、点の様に縮こまる。もはや生存狂気に囚われた母親のカラダは──。
「っひギィイッ!?」
まず半身から食われる。それも下半身ではない。上下でなく──左右だ。
「ぁギ──ッィィァァアアアッ!?」
「くヒィッ──! ほら見なさい? 家族なんてモノは所詮は他人! 血の繋がってるだけの他人でしかないのよ!」
ゴキリゴキリと、肋骨の砕ける音と共に魔女の使い魔に肉として消費されゆく音。
「ぎギギ──っヒギぃいいいぃぃぃぃぃっ──!」
下調べしたところ、この家庭も特別に異常と言う訳でもなく、寧ろどこにでも有り触れた家庭でしかなかった。愛情もお金もいっぱいいっぱい注がれた一人息子。それがこの異世界──魔女結界に放り込まれたらどうだろう? わたしが命じれば殺し合いを始めた。
真心なんて、この世界には在りはしないのよ。
「じゃあね~♪ 善良ぶったクソババァ」
「ひギ──」
間の抜けた──喉から風音がひゅっと抜ける声を漏らし、体の左右半分を超えた辺りを食われた所で、その命を散らしきった。
「うふ──♡ ごちそうさまぁ……♡」
わたしのやる事はたった一つ。
それは、『不幸』を知らしめること。
見て見ぬ振りであれ、本当に見えてないモノであれ、オマエ等のすぐそこに『不幸』はいくらでも転がっているのだと。オマエ等が気付かぬフリしていた『不幸』に自らが染まりあがる事だってあるのだと。オマエ等は『幸せ』が当然のモノだからって、『不幸』に気付きすらしてないだけなんだと。
わたしはソレを、身を以て知らしめてやらなくちゃいけない。
オマエ等が『不幸』に塗れている事こそが『普通』なんだ、と──!
わたしの味わわされた『不幸』は、オマエ等も味わうべき『普通』なのだ、と──!
──世界を蝕む、このチカラで──!
「──キュゥべえ」
「どうしたんだい?」
「どぉかしら? わたしのこのチカラ──!」
「良い傾向だね……。キミは故意に魔女も作ってくれるんだ。僕はその能力をとても評価しているよ」
おかあさん。わたしやっと分かったんだ。
わたしが心から望んだから──この
『幸多かれ』と。
──だから、見ててねおかあさん──!
わたし──この世界で一番『幸せ』になってみせる──!
「──これがわたしのサヨナラ勝ちよ──!」