「うん、どうぞどうぞ~」
玄関で円香を迎えながら、手に持っていた袋から数粒ポップコーンを取り出して自分の口に放り込んだ。そんな僕を一瞥して淡々と靴を脱ぎ始めたのを確認すると、僕は袋を輪ゴムで止めてキッチンへ向かう。
飲み物の準備を終え部屋に向かう頃には円香は既に僕の部屋に入ったようで、扉が開きっぱなしになっていた。手足の指で数えきれないほどうちには来ているので、流石に案内するまでもないみたい。
「相も変わらず、汚い部屋」
入って数歩のところに突っ立ってる円香に心外なことを言われた。
「え、片付いてない? この前結構ガッツリ掃除したんだけど」
全く失礼しちゃうよ。まるで人の部屋がゴミ屋敷みたいに言うんだもんな。確かに前までは足の踏み場がないこともたまーにあったけど、最近はそんなことないんだから。
今だって、床にはもの一つ見当たらない。テーブルとカーペットがあるくらいだよ。
「机の上、プリントの山積み。勉強してないの丸出しで、恥ずかしくないの?」
「いやー、今更円香に見られて恥ずかしいとこなんてないよ」
「でしょうね。そんなセリフを言えるあなたに、恥じらいがあるほうが驚く」
ため息を吐きながら不機嫌そうに僕のベッドに腰かける円香。同時に小さなカバンからDVDのケースを取り出して僕に渡してきた。
「はい、浅倉から借りたやつ。1枚目のディスクが映画本編ね」
「ありがと! 準備するね!」
そう言ってケースを受け取り、僕はベッドの反対側に鎮座してるTVのほうに向かった。映画を結構な数見てる透が面白すぎて思わず買ってしまったと言っていた一本を円香と見れる日を、実はけっこう楽しみにしていた。
すっかりDVDプレイヤーと化しているゲーム機にディスクを挿入し、円香の隣に腰かけた。クッションを抱えて、ベッドと隣接する壁にもたれかかっている円香は、心なしかわくわくしているように見えた。
……そのクッション、僕が枕代わりに使ってるやつなんだけど、まぁ今それを言って余計に不機嫌になられても困るから黙っておこう。
雰囲気を出すために電気も消す。カーテンも閉める。テレビの音量もいつもより3割増しにした。これで準備万端。僕は再生ボタンを押した。
やばい……、思ったよりも涙腺に来た……。
開始から156分経ちエンディングロールが始まると、僕はポロポロと零れていた涙を袖で拭った。
映画の内容自体はなんて事のない悲恋の物語。好きな人がいる、でも一緒になれない理由がある。溢れるほどの”だいすき”を伝えることができないもどかしさに縛られているうちに、別の人が意中の人を射止め、当人は姿形も消えてしまうというお話だ。現代版の人魚姫みたいなオーソドックスな話だった。
大きなひねりがない分、ストーリーの巧さや映像技法などがより目立ち、それでグイっと引き込まれた。ハッピーエンドではなかったが、めちゃくちゃ面白かった。透がハマるのも納得だ。
僕が天に息を吐いて満足感に浸っていると、隣から鼻をすする音が聞こえた。
何気なしに視線を向けると、円香がクッションをギュっと抱きしめて、顔を半分ほどうずめていた。エンドロール中──つまりこの部屋唯一の光源であるテレビ画面がほとんど真っ暗に近い──ということもあり確信はないが、その瞳には涙が溜まっているように見える。
潤んだその瞳は光を乱反射していて、宝石のようにきれいで、そしてなにより貴重だった。
最初の一粒が瞳から零れ落ちた瞬間、彼女は人差し指の腹で優しくそれを受けた。そんな美しい所作から、僕は目を離せないでいた。
「……何? いつまでもジロジロ」
声をかけられて我に返った。
気が付くと、円香は目を細めて僕に視線だけを向けていた。
僕はどれだけの時間、僕は彼女を見つめていたのか。
なぜ、僕はこれほどまでに彼女に釘付けになっていたのか。
円香のことが好きだから。
もちろんそれもある。けれど、それだけでは説明がつかない。
ここ数日で自覚した恋愛感情ではなく、もっと深く、そして重い感情が言葉になろうと、体の芯から染み出してきていた。
映画を見て、感動して、涙を流す。そんな彼女に──
「見惚れてて……」
「みと……え?」
無意識にそう口にしていた。だけど、言った瞬間、自分のその言葉が胃にすとんと落ちた。
見惚れていた。
十数年一緒に過ごしてきて初めて目にした、円香の涙。
決して、彼女が悲しんでいることを喜んでいるわけではない。ただ、その雫に籠められている数多の意味の美しさに、僕は思わず心奪われていた。
そう自覚すると、ついに言葉は溢れだした。言葉では足りない、思いと一緒に。
「初めて見たから。今まであんまりさ、喜んだり感動したりとか見せてくれなかったから。だから、嬉しくて、綺麗で、見惚れてた」
──やっと円香の心に触れられたみたいで
「……本当に無いんだ。あなたには恥ずかしさってものが……」
彼女は気まずそうに、シラウオのようなその手で自分の口を軽く覆った。視線の定まらない彼女からは、いつものような余裕は感じられない。頬がわずかに紅潮していることも相まって、少しだけ幼く見えた。
円香に見られて恥ずかしいものなんてない。
手痛い失敗も、汚い勉強机も、僕の本心も、何一つ。
カーテンから漏れ出る光だけが、この無音の部屋を装飾する。いつの間にか、映画のエンドロールも終わっていたみたいだ。画面は真っ暗で、そこには何も映っていない。ただ、黒い光だけを垂れ流していた。
「円香」
「……なに?」
「好きだ」
「──っ!」
今日、告げようとは思っていた。
ほんとはこの後のデートプランもきちんと考えていた。でも、どうしても今言いたかった。彼女の心に少しでも近づけた今こそ、この思いの丈を伝えたかった。
言葉にした途端、緊張のあまり内臓がぐっと圧迫されたような息苦しさに襲われた。思わず拳にも力が入る。言う前にすべきだった緊張がまとめて体に圧し掛かってきた。でも同時に、ちゃんと緊張している自分に、円香との関係の変化を覚悟できてる自分に、少しだけ安心した。
円香は声を出さず、目を真ん丸に開いてこちらに体を向けた。わずかに頬に赤みもさしていたが、やがていつもの表情に戻り、大きくため息をついた。
「知ってる。家族みたいなものだって、恥ずかしげもなくいつも言ってたでしょ」
「違うよ。いや、もちろんそれもあるけど。それ以上に、僕は円香のことが大好きなんだ。僕の、恋人になってほしい」
「……何、今更」
勇気を出して告げた言葉に、円香は低い声でそう返すと、クッションをかなぐり捨てて僕のほうへその体をずいっと近づけた。吐息が顔に触れるほどの近さ。ベッドについた円香の手が、かすかに僕の手に触れた。
重ならない、ただ皮膚と皮膚が触れているだけなのに、それがたまらなく愛おしく思えた。
円香の鋭い眼差しを見るまでは。
「友達、幼馴染、家族。そんな都合のいい関係を散々押し付けて、今度は恋人になりたい? 勝手すぎ。ふざけないで」
「……ごめん。でも、ふざけてないよ。僕は本気だ」
僕も円香を見つめ返す。互いに見透かそうとするような、そんな無言の視線の交差がしばらく続く。胸のバクバクは未だに止まらず、むしろ次第に強くなる。
先に目を逸らしたのは、円香のほうだった。
ゆっくりと視線を下げて、僕の胸のあたりにそれを止める。
しばらくの無言の後、彼女の手は自分の視線の先、僕の左胸に優しく触れた。
彼女のその行為と思いふけるような耽美な表情は、僕の動悸をより速め、体を火照らす。
「心臓、早すぎ。らしくもない」
「うん、このまま死んじゃいそう」
「そう」
円香の手は僕に触れたまま、左胸から肩へ、肘へ、そして手の甲へとゆっくりと移動した。
そしてその手が、じわじわと僕の指に、僕の手に、深く絡まっていく。
温もりが広がっていく。
あのとき、バスの中では触れあっていただけだった手が繋がれ、今度は僕が目を見開く番となった。高鳴る心臓が僕のわずかな余裕さえも失わせ、身体を停止させる。何か言葉が出そうで、何も出ず、ただ吐息だけを漏らす。そんなことを僕は繰り返した。
「ほんと、勝手。強引。理解した気になって、それで満足している」
こぼれるような弱弱しい言葉だった。
しかし、ふわふわと浮かれていた僕の胸に刺さるには十分すぎるほど、鋭利な言葉。思わず目を閉じた。
理解した気になってる。
まさにその通りだと思った。
10年以上の長い付き合いの中で、彼女のことで知らないことは殆どないと思っていた。先程の円香の涙を見て、僕は彼女の心を知った気になった。
しかし、そうではなかった。
円香が僕との関係性を“押し付けられている”と思っていたとは露とも思っていなかった。彼女の望む関係性が、今の僕たちのそれよりも進んだものか退いたものなのか、その判断は僕にはできない。彼女がどんな思いで僕と過ごしていたのか、どんな思いでその言葉を口にしたのか、僕には推し量ることはできない。
ただ一つ言えることは、僕は彼女を傷つけていたということだけだ。
強気な言葉、拒絶するような口振り。
それとは正反対に、弱弱しい声色と、絡まる指。
僕はただ、応えるように、伝えるように、握り返すことしかできなかった。
絡まった僕たちの指は、最初から一つだったかのように、融解していく。混ざり合う。
円香の温かい手は、時折僕の存在を確かめるように力を入れたり、握ったままの指で僕の甲をなぞったりしていた。そのこそばゆさは、手から感じただけではなかったと思う。
その手は、少し濡れていた。拭かれた涙が残っていたのだろう。
彼女は、いったい何を考えているのだろうか。
喜び? 不安? 苦痛? 怒り? 幸福?
繋がれた手のひらから、近づいたはずの心から、それらを感じることが出来なかった。
僕は、円香に思いを伝えてしまって良かったのかな──。
円香をより苦しめるだけになってしまったのではないかと思い、微かな後悔が胸に宿った。
その時、部屋に光が指した。
反射的にそちらへ目を向けると、テレビ画面に2人の男女が映っていた。どうやらエンドロール後に本編の続きがあるタイプの映画だったようだ。
嫌でも映像と音声が頭の中に入ってくる。結局この2人が結ばれた。エンドロール前に女性はどこかへ消えていたし、男性も別に恋人がいたはず。あまりに予想外の展開であった。
「……駄作。あのまま女の人が消えて、この男がどこの誰だか分らない人と幸せになってたほうがよかったんじゃない」
樋口も映画のほうに注意を向けてたらしく、芯のない声で呟き、同時にわずかに手に力が入った。
何か返事をしたほうがいいのだろうか。冷静に返せるだろうか。
告白したときの勇気はどこへやら、すっかり弱った僕はそんなことさえ不安に思った。
「言えてるかもしれない」
僕はなるべく平静を装って、言葉を返す。繋がれた手にも、力を籠める。
「でも僕はこれでよかったと思うよ。ハッピーエンドのほうが、なんというか、安心する」
彼女のそれは独り言だったかもしれない。返事なんて望んでいないかもしれないのに、あまつさえそれを否定するなんて、僕は何をしてるんだろう。
「この男の人、流されてるだけでしょ。恋人が別にいるのに、ただ雰囲気で結ばれて、それって本当にハッピーエンドって言える?」
突然の展開に、確かに男性が雰囲気に流されて女性と結ばれたように見える。僕もご都合主義的に感じた。けれど、それでも良いって思えた。
きっと、場面の外では素敵なドラマが多数あって、その末のこの結末なんだと。だから、今はこのハッピーエンドを祝福しようと。その言葉は、僕の口から出る前に消えることとなった。
「今のあなたも、同じ。流されてるだけ。映画の雰囲気に呑まれて、思ってもいないことをつらつら喋ってる」
「そんなこと……!」
僕が即座に否定しようとするも、それは叶わなかった。
今度は円香に手を強引に引っ張られ、ベッドに寝転がってしまったのだ。
当の円香は、それを
突然の状況に僕は固唾を飲んだ。僕の胸を強く打つ動悸は、円香に押し倒されていることからきている高揚ではなく、彼女の行動や発言の目まぐるしさに対する不安からきていた。
自分自身が原因ではあるが、乱高下する自身の感情に振り回されて、僕もかなりいっぱいいっぱいになっているというのもある。
「誰でもいいって、あなたはそう思ってる。この場にいたら、映画を見たのが私じゃなかったら、あなたはどうしてた?」
「ま、まどか……」
「優しさのつもり? それとも同情? あなたのそういうところ、ほんと嫌い」
その声は、語気こそ強いが震えていた。
その顔は、今にも泣きだしそうに見えた。
それは、僕が作ってしまったものだ。
僕がもっと円香のことを考えていたら。もっと早くに自分の恋心に自覚していたら。円香が僕のことをどう考えているかは未だに確信はないが、少なくとも、そんなもしもがあれば、円香に辛い思いをさせることは無かった。
以前、円香は僕のことを悪い人だと言った。まさしくそうだと思う。
今の僕にできることは、ひたすら伝えること。過去をなかったことにはできないが、現在の飾らない本心を伝えることなら出来る。
本当は今すぐにでも抱きしめたい思いを堪えて、僕は思いの丈をぶつける。
「ごめんなさい。今まで、僕は何もわかってなかった。円香にどんな苦しみを強いていたか。でも、これだけは言える。僕は円香が好きだ。この状況じゃなくても、それは変わらない。明日も明後日も、おじいちゃんになっても、僕は言い続けるよ」
今の円香は、多分何を言っても信じてもらえない。それは、今までの不誠実の積み重ねだ。今何を言っても、僕の言の葉は軽い。だから、何度も何度も何度も僕は言う。その結果フラれてしまっても、嫌われても、後悔はない。
互いの思いが伝わらず、曖昧な関係性でいる。そんな状態から脱しないと、彼女は今後も苦しむかもしれない。
「ほんと、嫌い」
「それでもいい。円香に好きって言ってもらえるように頑張るから」
円香はだらりと首から力を抜き、僕から視線を外した。
「優しいところ、その日あったことを嬉しそうに話してくれるところ、いつも私のことを助けてくれるところ、そのくせ人の気持ちに全然気が付かないこと、全部嫌い」
「優しいところ、僕の話を黙って聞いてくれるところ、いつも僕を助けてくれるところ、口下手だけどみんなのことをちゃんと想ってるところ、全部好きだよ」
再び円香から力が抜ける。
僕の胸に優しく額を乗せて、深く呼吸をした。
「……どうして、そう言えるの?」
「好きだから。言葉にしないとさ、やっぱり伝わらないこともあるなって思って」
「……同感。でも、私はあなたじゃない。あなたみたいには出来ない」
円香は僕の襟元をきゅっと軽く掴んだ。額がより強く、僕の胸に押し付けられる。
「心臓、やっぱりうるさい」
「耳当てなくても伝わっちゃう?」
「全部、聞こえてる。全部、何もかも──」
襟元を掴む手が離れた。
代わりに、僕の両耳にその手が優しく覆いかぶさる。
途端、音が消えた。
映画の結末も、僕の心臓の音も、円香の声も、何もかもが聞こえなくなった。
先ほどまで僕の胸に額を押し付けていた円香は顔を上げ、僕をじっと見つめる。久しぶりに、意思のこもった強い目をした彼女を見た気がした。
目に見える整った笑顔、体に乗る重み、親しみ深くもときめく花のような香り、僕の全てが円香に支配された。
「──だいすき」
耳が塞がれていた僕の耳に、ごくわずかに届いた声。
胸へ吸い込まれて、そのまま鼓動の早い心臓によって全身へと巡っていった。
僕はそのまま円香を抱きしめた。
その存在を確かめるように。消えてしまわないように。応えるように。
お待たせしてしまい、ほんとにすみません。
彼女のデレはむしろ恋人関係になってから分かりにくく加速しそうな感じもあるので、そっちも書きたい感じはありますが、樋口編はいったんここで終わります。(一応幼馴染ものを謳ってるので恋人になった後の話も書いていいのかなという葛藤)
次回からは黛冬優子編を開始します。
ただ、以前取ったアンケートとは違う展開になるかも。
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