黙ってお弁当を食べていた樋口が、お箸でコロッケをつつきながら唐突に聞いてきた。
僕は質問の脈絡のなさに、本当に自分に投げかけられた言葉なのか疑問に思ってあたりを見渡した。だけど、この昼休みの空き教室には、僕と僕の正面の机に座る樋口の二人が存在してるだけだった。
僕が合点のいかない顔をしているからか、樋口はため息交じりに箸をおいて言葉を続けた。
「最近いつも目で追ってる。バレてないとでも思った?」
「あー、いや、それは……」
目で追っている、か。
自覚はあまりなかった反面、そう思われる心当たりはあった。だけど、正直あまりそのことには触れたくなかった。そのせいか、僕は今すごい複雑な顔をしてる気がする。目をせわしなく動かしたり、口をもごもごさせたりしてる自覚は大いにあった。
「何? はっきり喋ることもできないの?」
「ひぃっ!」
かすかな苛立ちが籠められた声に、我にもなく小さな悲鳴を上げてしまった。
仕方ないかな。正直に白状しよう。
「うーん、あんまり言わないでほしいんだけど、実は雛菜のことが気になってるんだよね」
「……」
僕がそう答えると、樋口は口元をかすかに力ませて目を閉じた。
大事な幼馴染が男につけ狙われてると知って、少し怒りを覚えてるのかもしれない。ここから先は言葉を選ばないと、僕が殺されちゃいそうだ。
「あ、でも僕の弟はすっごいいいやつだしそんなに不安にならなくても大丈夫だよ! むしろ雛菜の尻に敷かれないかとかが不安で仕方ないくらいで!」
「……何の話?」
「え? だから、僕の弟が最近雛菜のことが気になってるって話。それを聞いて以降僕も雛菜を見ると弟の姿がチラついちゃって目で追っちゃってたかもなーって」
弟とはいえ、さすがに人の色恋を吹聴するのは双方に悪いなーと思ったけど、まぁ樋口になら知られても大丈夫でしょ。言いふらしたり、余計な茶々を入れたりするような人じゃないからね。
特に口止めをされていたわけではないが、弟にはお詫びに何か美味しいフルーツでも買って帰ろう。そんなことを考えていると、僕の脳が急に警戒信号を出してきた。コードレッド! 攻撃を受けてるっぽい!
「樋口さん? 樋口円香さん?」
「何? 急にフルネームで呼んだりして。私はあなたと違って、自分の名前を忘れるようなおバカさんじゃないんだけど」
「僕も自分の名前くらいは忘れないよ! 違くて、足! めちゃくちゃ踏んでるんだけど!」
机の下をのぞき込むと、樋口のかかとが僕の足の甲に突き刺さっていた。ねじる様に丹念に力を入れてる様は、さながら嫌いな虫を踏みつけてるようだった。
呑気に考え事をしてる場合じゃないんだけど、何か考えてないと余計に痛いんだよ!
「踏まれてるのには気づくんだ。ミスター鈍感でも」
「踏まれてると言うには殺意が籠められすぎてるよ! まもなく踏み千切られるよ!」
僕は机を軽くタップして降参の意を示すと、樋口は踏みつけるのをやめてゆるりと机に頬杖を突いた。
「心配して損した」
ため息交じりに樋口はそうこぼした。台詞のわりには、安心よりも呆れを強く感じてしまったけど、意図的なのかな。
お弁当はもういいのだろうか、箸に再び手を付ける様子はない。
「心配って?」
「雛菜が悪い男に捕まらないか。決まってるでしょ?」
決まってるんだ……。
あの子はあの子で結構したたかだし、悪い男の子に引っかかるイメージはあまりないけど、樋口は保護者気質なところがあるからなー。雛菜のことを手のかかる幼児か何かだと思ってるのかもしれない。そう考えると、その心配にも納得がいった。
「じゃあ大丈夫だね。弟はいいやつだよ! 優しいし、腹筋も割れてる!」
「弟くんがいい子なのは知ってる」
とはいえ、一応弟が悪い男ではないことを言葉を尽くして説明しようと思ったが、どうやら不要だったようだ。樋口は僕の弟とは数年程ちゃんと会っていないはずだが、しっかりと彼の人となりを覚えてくれていたみたいだ。
僕はそのことが少しうれしく、思わず口角が上がってしまった。
「何笑ってるの? 私はあなたのことを言ったんだけど」
「え、僕?」
僕が雛菜を捕まえる”悪い男”だってこと?
今まで一切考えたことなかったけど、それを聞いて僕が雛菜に告白するシーンを無意識に想像してしまった。
『やは~、先輩って~雛菜のこと好きだったの~? いつから~? でもごめんね~、先輩と付き合ってもしあわせ~って感じにはならなさそーかな~』
……勝手に想像して、勝手に振られ、勝手にダメージを受けてしまった。本物はもう少しマイルドに振ってくれると思うけど、なんかごめんね、雛菜。
それ以前に、樋口からしたら僕ってそんな悪い男に見えてたんだ。
まぁ、僕が雛菜のことが好きだと勘違いしていたとしたら、そう考えるのもわからなくはないかも。もし十年来の幼馴染に急に告白して関係性を壊したりなんてしたら、他の人たちは少し気を使っちゃうもんね。樋口もきっとそういうのは望んでいないんだろう。
そう。
樋口はきっと、望まない。
想像雛菜ダメージや樋口からの悪い人認定のダブルパンチよりも、何故かそのことが心に深く刺さった。
「あるんだ、心当たり」
肩を落とした僕を見てそう思ったのだろう。樋口の追撃で我に返った僕は、何事もなかったかのように言葉を返す。
「あ、いや、今のとこ悪い人と言われる心当たりはあまりないというか、勝手に凹んでただけというか」
「ふーん、じゃあもっとよく考えたら? 自分の胸に手でもあてて」
てっきり未遂の犯行(というより濡れ衣)のことで悪い人認定していると思っていたけど、どうやら僕はしっかりと罪を犯していたみたいだ。樋口の辛辣な言葉を聞いて、僕は首を傾げ自分のした悪行を思い出そうと胸に手を当て目を閉じる。
うーん、僕が何気なくやってることも周りから見たら悪い行いに見えてたのかな……。だとしたらちょっと生活態度を改めないといけないな。でも、どうやったらいいんだろう。そもそも悪って何なんだろう。
……これを考え詰めると泥沼にはまりそうだし、深く話を掘り下げられたら最悪泣かされちゃうかもしれない。
僕はそう考えて、先ほどの話で少し気になった点に話を戻すことにした。
「ていうか、雛菜のことちゃんと心配してるんだね。いつもバトってるのに」
雛菜のことを心配していること自体には驚きはない。樋口はなんやかんや友達や家族は大事にするタイプだ。
ただ、心配してることを明言したことには少し驚いた。
特に雛菜とは普段から言葉のプロレスを交わす間柄だ。間違っても本人には知られたくないことだろうし、そもそもそういうことは口に出さないタイプだと僕は思っていた。
「……バトってない。雛菜が突っかかってくるだけ」
「あ、否定するのそっちなんだね」
心配してない、とは決して言わない。
はぐらかしたり言葉にしなかったりはするが、自分にも他人にも嘘はつかない。
いや、逆かな。
嘘はつけないから、はぐらかし、ほのめかす。
そしてそれは、嘘が嫌いなのでなく、嘘が怖いものだと思っているからではないか。僕は勝手にそう推測している。
嘘は容易く信頼を打ち砕く。嘘は容易く自己を否定する。嘘は容易く心を蝕む。
家族や友達を大事にしているが、自己肯定感が低く自分をあまり大事にしていない樋口にとって、それはただの毒であって薬にはなりえない。
樋口のいいところでもあり、同時に悪いところでもある。
僕は樋口のそういう繊細さが好きだった。
だからこそ、危うさに転じる前に手助けが出来ればと思っていた。
「……何が言いたいの?」
「いーや、樋口もやっぱりあの幼馴染3人のことが大好きなんだなーって」
睨みを聞かせる樋口に僕は笑いながらそう返した。さすがに先ほど考えていたことをそのまま口に出すのは憚られたので、少しばかりかいつまんだ内容だけど。
「うるさい」
これも否定しない。思えば、樋口って意外とツンデレの素養があるのかもしれない。
「えぇい、かわいいやつめー!」
そう考えると、綺麗な顔立ちが途端にかわいらしく見えてきて、気が付いたら樋口の頬杖付いていないほうの頬っぺたを指でツンツン突っついていた。
「ちょっと、触らないで」
「はーい」
手で払いのけたり顔を引いたりはせず、眼力と嫌そうな表情だけで制止を促す樋口に僕は素直に従った。僕が突いてたところを元に戻すかのように揉んだり引っ張ったりしてる樋口はやはりかわいらしくて、また頬を突きたくなってきた。
樋口頬っぺた無限ループに入っちゃいそうだ。
「てか、あなたもでしょ」
樋口は自分の頬をむにむに触りながらそう呟いた。
僕もって何が? 僕もかわいいってこと? やったね。
「幼馴染。──どうでもいいけど」
「あぁ、そっちね。言われてみれば、確かにそうだね」
「忘れてたの? 本当におめでたい人」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけど」
本当に忘れてたわけじゃないけど、樋口にとって、あの3人と僕が同じ幼馴染のカテゴリなのかは疑問だった。
……ん?
あれ、なんでそんなこと思ったんだろう。付き合いの長さも深さもそう変わらないはずなのに。いまだに5人で遊んだりもするのに。特に樋口のことは家族同然のように思っているのに。
なぜかそんな風に思ってしまった。
彼女にとって、僕はどんな存在なのだろうか。
「なんか分かんないけど、ちょっと違う感じがしちゃってたかも」
最近の僕は変だ。
「ふーん……」
じろりと僕の目をにらみつける樋口に、僕は品定めをされてるような感じがて少し背筋が伸びてしまった。
樋口の手が、静かに僕のほうに伸びる。
蛇に睨まれた蛙のように動けない僕は、ゆっくりと僕の顔に迫るその手から逃れられない。1cm、2cmと少しずつ近づくにつれて、動悸がしてくるのが分かる。
そして、目の前でその優しい手のひらを大きく開いた。
僕は思わず呼吸を止めた。
そのままその手は、僕の頬を挟むように力強く閉じられた。
「おごぇ‼」
あまりに唐突な攻撃に思わず聞くに堪えない悲鳴を上げてしまった。悲鳴と同時に、久しぶりに呼吸を吸い込んだ肺がむせ返った。
「ひょ、ひぐひ、いたいんだけど!」
「──じゃあ、どんな関係?」
頬を掴まれているため、満足に話すことができない。
樋口はまだ、僕の目をじっと見つめている。
どんな関係?
樋口の言葉が脳内にリフレインする。当たり前の質問。10年以上変わらぬ関係性だった僕たちにとっては、そんな質問はする意味すら存在しないはずのものだった。
しかし、彼女は問うた。
そして僕自身も言葉に詰まっていた。今の僕にとって、その質問はドロドロの原油のように何よりも重く、そして深く沈み込むものだった。
当たり前の質問には、当たり前の回答をする。1+1は2であると答えるようなもののはずなのに、僕の口からはその回答がしばらくでなかった。
彼女にとって、僕はどんな存在なのだろうか。
僕は再度、自分に投げかける。
「え、お、おさななじヴウゥ」
幼馴染だと答えようとしたが、その途中で樋口が握る力を強めたため、最後まで言い切ることが出来なかった。
彼女は、僕のことをどう思っているのだろうか。
「あ、えっと、か、かぞグフェ」
再び力が入る。
樋口の表情は依然変わらない。
僕は彼女と、
「え、えっと……」
次の答えを言うことが出来なかった。今度は樋口が止めたからじゃない。冗談混じりの答えを言おうとしたら、喉がキュッと狭くなったのだ。
やがて樋口は力を緩め、僕を開放した。
「ほら、やっぱり悪い男」
その小さな声が、今までのどんな罵倒よりも僕の脳を打った。
なぜ、こんなにもその声が重く聞こえたのか。
なぜ、樋口は僕に答えさせてくれなかったのか。
口に出せなかったある答えとともに、僕はその疑問を飲み込んだ。
樋口は、それを望んでいない。
勝手にそう思っていたから。
樋口の言ったとおりだ。
僕は、本当に悪い人だ。
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