「なんでもいいけど」
僕たちの乗っている遊園地発の高速シャトルバスの振動にかき消されそうな小さな声で樋口が言った。周りには遊び疲れて寝ている乗客もいるので、樋口なりの配慮なのだろう。
「え、う~ん。特に意味は考えたことなかったな~。なんか透は『透!』って感じしない?」
僕も樋口同様に細い声でそう答える。透の『透』っぽさは半端じゃないと思う。透-1グランプリがあったら、少なくともシード権は獲得できると思う。
「なにそれ。──でも、言えてる」
窓の外を眺めながら樋口は微笑んだ。高速で通り過ぎる夜景とテールランプ、そして僕たちを見つめるように佇む月と相まって、それは一つの作品のように見えた。
「まぁ最初は透くんって呼んでたし、それに比べたら自然じゃない?」
「浅倉は、今でも透くんって呼ばれても気にしないんじゃない? 知らないけど」
樋口の言葉を聞いて、何気なく自分の座ってる座席の隙間から後ろを覗き込む。そこには他の乗客同様に、疲れて眠っている透と雛菜と小糸ちゃんがいた。行きのバスではあんなに楽しそうに話していたのが嘘のようだ。
まぁ久しぶりの遠出で、しかも絶叫系の遊園地だったからね。無理もないか。ひときわテンションの高かった透と雛菜はともかく、その二人に振り回されていた絶叫苦手の小糸ちゃんはとばっちりな気がする。まぁなんやかんや本人も楽しそうだったけど。
そんな3人を見て、僕はあることに気が付いた。
「よく考えたら、小糸ちゃんと雛菜のことも名前呼びだね」
「それが?」
「いや、樋口が最初に振った話じゃん! そんなそっけなくしないでよ!」
僕が小声で責め立てると、樋口は明確に迷惑そうな顔をしてこちらに意識を向けたので、僕はぐぬぬ……と三下のような素振りで押し黙った。
そんな踏んだり蹴ったりな出来事にしょんぼりしていると、突然前の席から大きなくしゃみが聞こえてきた。唐突な大音量に僕は目を見開き、首を縮こませていた。樋口も少し驚いたのか、前のほうに目をやり、しばらくして僕を横目で見た。目が合って、僕たちはほんの小さく笑いあった。
「そういえばさ、昔は円香ちゃんって呼んでた気がするんだけど気のせいかな」
「さぁ。あなたがそう思うんなら、そうなんじゃない?」
「あれ、樋口も覚えてない感じ?」
僕は腕を組んで記憶の糸を辿る。うんと小さい頃、まだ樋口と出会って間もない幼稚園児の頃は、お互い下の名前で呼び合っていたというセピア色の記憶がかすかに残っていた。
あの頃の樋口は素直でかわいかったな~。今も素直といえば素直だけど、ちょっとばかりパンチがきいちゃってるからね。
「人の幼稚園時代、勝手に思い出さないでくれる?」
「そんな無茶な! 僕の小さい頃の記憶にはだいたい樋口もいるんだから……ん? なんで幼稚園の頃を思い出してるってわかったの?」
「その頃でしょ。円香ちゃんなんて、似合わない呼び方してたの」
「覚えてるじゃん!」
ここで声を荒げなかった僕を褒めてほしいくらいだ。僕をからかえてご満悦なのか、樋口は小さく笑っている。普段はあまり見せない無邪気な姿に一瞬ドギマギとし、次いで疑問が押し寄せた。
樋口のテンション、なんかちょっと高くない?
普段よりも毒が控えめだし、よく笑うし、言葉数も3割増しな気がする。樋口さんも実は遊園地でみんなと遊べて大満足なのかな。だとしたら、企画者としてこんなに喜ばしいことはないね。
そんな一抹の無邪気さを抱えたかわいらしい樋口を見て、僕は真に無邪気だった幼稚園時代の樋口の記憶が津波のように思い出されてきた。
「あ、そうだ。確か樋口に言われたんだよ。ちゃん付けで呼ばないでって」
「私が? なんでまた」
「そこまでは覚えてないなー。そういうお年頃だったんじゃない?」
「勝手に黒歴史みたいに言うの、やめてくれない?」
うむ、いつもならもう数撃の毒が飛んできそうだけど、やはり今日は少し控えめだ。テンションが上がっているのに加え、純粋に疲れてるのかもしれない。
それにしても、樋口が名前呼びを拒んだ理由かぁ。なんだっけなー。
確か、樋口は僕を呼び捨てするのに、僕がちゃん付けで呼んでくるのが気にくわないとか、そんなことを言われた気がする。曖昧な記憶なので確信はない。ただ、いまだに僕と樋口は苗字を呼び捨て合っていることを考えると、あながちただの妄想というわけでもないかも。
樋口は会話に飽きたのか、ポケットからスマホを取り出して操作しだした。しかし、大きく息を吐くとそれを仕舞い、再び窓の外に目を向ける。どことなく落ち着きのないその様子に、僕はうっすらと抱いていた疑問を投げかけた。
「もしかして、樋口も名前で呼んでほしいとか?」
僕は別に樋口と呼ぼうが円香と呼ぼうがどちらでもよいので、からかい半分恐れ半分でそう聞いた。普段の樋口なら『あなたに名前で呼ばれるなんて、どんな罰ゲーム?』くらいは最低でも言われそうだなと思ったけど、今の樋口なら単純なイエスノーで返してくれるかもしれない。
「あなたに名前で呼ばれるなんて、どんな罰ゲーム?」
……悪いほうの予想通り過ぎてちょっと面白くなっちゃった。
「ちょっと、何笑ってんの?」
「いやいや、笑ってませんよ……円香」
名前を口にした瞬間、バスはトンネルの中へと入っていった。ナトリウムランプのオレンジ色が車内を染め上げる。
からかうつもりだった。
なんてことない、ただ名前で呼ぶだけ。
透や雛菜、小糸ちゃんにしているのと同じことを、樋口にするだけ。
そのはずだったのに、その名前を口に出しただけで顔が火照っていったのが分かった。今にも噴火しそうなほどに熱を帯びた僕は、樋口の驚いた眼をただただ見つめることしかできなかった。
ここがトンネルでよかった。
きっと、僕の顔色の変化に、樋口は気づいてない。
「……は?」
僕の言葉からしばらく遅れて樋口は眉を顰めた。いや、もしかしたら数瞬で返していたのかもしれない。それほどまでに、僕にとって今の時間は長く引き伸ばされているように感じた。
樋口の言葉には、いつものような活力は籠められていなかった。
息を吐くように、零れ落ちるように、その柔らかな唇から言葉を漏らした。
樋口は、どうなんだろう。
僕に名前を呼ばれて、どう思っているのだろう。
トンネルのおかげで僕の顔色は樋口にはバレていないが、その逆もまた然り。ただでさえ隠される樋口の本音を、この環境で読み解くことは難しかった。
しばらくの沈黙。
反響する重い走行音だけがこの場に残っていた。
「呼んでみただけ、って言おうと思ったんだけど、なんかちょっと恥ずかしいね! やっぱり今のなし!」
僕はおどけたように、大きく身振りをしながら言った。空気を変えたかった、というよりは、僕自身の気持ちをリセットしたかった。
それこそ幼稚園の頃まで。
僕は気持ちをリセットしたかった。
最近の僕はやはりおかしい。自分でもわかっていた。
樋口の笑顔を見ると胸が弾む。樋口が近づくと胸が締まる。樋口のことを考えると胸が躍る。今までなかった情緒の糸が、僕を複雑に絡めとっていた。
大事な幼馴染なのに。
家族同然の存在なのに。
僕は毎回、そう自戒していた。
「はぁ、なに自爆してんの」
呆れたような樋口の声に、僕は内心安堵していた。
家族に近い関係性の男が急に馴れ馴れしく名前で呼び、あまつさえそのことに自分で照れていると知られてしまったら、気持ち悪がられてしまうと少しだけ思ったからだ。
いつも通りのそのトゲは、今の僕にとっては心地よいものだった。
樋口は正面を向き、背もたれに深く体重を預ける。首だけは少し上を向いており、傍から見たら何か考え事をしているようだった。
もしかして無理やり会話につき合わせちゃってたかな。樋口も疲れてるだろうし、ちょっとそっとしておこう。僕もちょっと落ち着きたいし。
そう考え、僕も樋口に倣い、椅子に深く座りなおして全身を脱力させた。シャトルバスにしては悪くない、柔らかな座り心地に包まれて、僕はどっと疲れが体にあふれ出てきたのを感じた。ホントは窓でも開けて火照った体を冷ましたいが、窓の使用権は通路側に座る僕にはなかった。
……こてん
そんな幻聴とともに、僕の右肩に何かが乗った。
肩だけじゃない。
僕の右半身には、軽くもなく重くもなく、それでいて確かに存在を感じる柔らかな圧力があった。
先ほどまで重苦しく感じていた自分の身体が、急にふわふわとした浮遊感に包まれた気がした。同時に胸は締め付けられて、息も苦しくなったように感じる。
夢かもしれない。
僕は先ほど椅子に深く座ったときに眠ってしまったのかもしれない。
でないと、樋口が甘えるように僕に体を預けるわけがないのだから。
樋口が眠っていないのはわかる。位置関係的に顔は見えないが、僕のほうに崩れ落ちてきたわけではなく、ゆっくりと、じっくりと、噛みしめるように僕のほうに寄りかかってきたから。
僕はただ口をパクパクさせることしかできなかった。口は乾ききっていて、到底言葉なんて話せなかった。
右肩に頭を預ける樋口にも、きっと僕の心臓の音は聞こえてしまっているのだろう。それほどまでに、胸は激しく鼓動していた。
そして、その激しい鼓動にかき消されそうなほど小さな声で、
──樋口は僕の
「え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
聞きなれたはずの声から不自然に紡がれる、僕の名前。
その声からは、これまで一度も発せられることのなかった、僕の下の名前。
そのことを何度も何度も反芻し、やがて脳が正しく認識すると、今度は痺れたかのように体が動かなくなった。呼吸の仕方さえ分からなくなり、溢れんばかりの思いだけが喉元を通り過ぎていく。
両親や弟、仲の良い友達に呼ばれるのとは全く違った。名前を呼んでもらえるだけでこんなに幸せに思ったことなんて、これまで一度たりともなかった。
樋口と触れ合っている肩、腕、そして、握るでも掴むでもなくただかすかに触れ合っているだけの小指。いつも強い口調で自分を守ろうとする彼女のそれは、細身でありながらも柔らかくて、いつも以上に愛おしく思えた。
「……呼んでみただけ」
樋口がそう言うと、ぶおんと空気を押し出す音が聞こえた。バスがトンネルを抜けたようだ。辺りを包んでいたオレンジ色が晴れ、こもっていた走行音はクリアになり、どことなく開放感に包まれた。
「樋口」
「……」
僕の呼びかけに、反応はない。
「……円香」
「……なに? さっきから」
「耳、真っ赤だよ」
トンネル内ではわからなかったその色が僕の目に入った。赤みがかった樋口の髪よりも更に真っ赤な耳は、この暖かな車内においては明らかに不自然だった。
相変わらず顔は見えない。
けれど、どんな顔色をしてるかだけは、想像できてしまった。
「うるさい。黙って」
「うん」
「罰ゲーム。名前で呼んだから」
「それは……」
それは、誰への罰?
「……何も、言わないで」
「……分かった」
バスを降りるまで、樋口はそこから何も話さなかった。
樋口の何気ない言葉が、ただ嬉しい。
樋口と一緒にいると、それだけで楽しい。
それらは元からあった感情だ。
しかし、次第に変化した。
樋口の何気ない言葉が、ただ嬉しい。
けれど、他の人にはもっと優しい言葉をかけているのかもしれない。
樋口と一緒にいると、それだけで楽しい。
けれど、樋口は僕以外の人といたほうが楽しめてるのかもしれない。
そんな暗い感情もいつからか付きまとうようになった。それから目を背け、見て見ぬふりをしながら、いつも通りに樋口と付き合ってきた。
今日までは。
優しく、温かい、緋色の心に包まれて、そんな悪感情なんてどこかに吹き飛んで行ってしまった。ここに残るは、ただの幸せ。この場所に、彼女の隣に入れてよかったという純粋な幸せだった。
思い出した。
僕は幼稚園の頃、円香が好きだったんだ。
僕の気持ちは、確かに幼稚園の頃までリセットされていた。
次回で樋口編はいったんラストです。
書き終わるのが先か、樋口のかわいさにやられて死ぬのが先か