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境井は自身の迂闊さに歯噛みした。
能く訓練されたであろう鷹は、隠れていた己の居場所を暴き出した。その警戒音は、蒙古の同士討ちが鳴らす、てつはうの音に紛れて気づくのを遅らせた。少しずつ減らそうと思っていた敵を、半ば減らしたところで手持ちの暗具がほぼ底をついた。
(血を流しすぎた……)
ふらつく頭を気力で支える。戦の高揚で痛みが麻痺しているだけで、腕や脇腹に傷を負っていた。帷子のお陰で致命傷は避けたが、動けば動くほど血は滲む。
どうにか建物に逃げ込んだが、軒下も全ての戸も全て塞がれているだろう。屋根の上に登るとしても同様だ。袋の鼠とは正にこの事。窮鼠猫噛むとはいえ、猫が十も二十も居てはひとたまりもない。ましてや相手は猫ほど上品ではない獣どもだ。如何にして俺を甚振るか、知恵を絞っているところだろう。この建屋ごと火攻めにする可能性も、十二分に考えられる。
一か八か、太刀を抜いて飛び出すか?それでどうにかなるのは恐らく最初の2、3程度だろう。こよりのように繊細な集中の糸を、この頭で保てる可能性は無いに等しい。手持ちの武器を再度漁る。くないは無い。煙玉無し。てつはう無し。
すると、手持ちの暗具で一つだけ残っているものがあった。混乱毒の吹き矢が、一つ。
(今更吹いた所で、敵が真っ直ぐ俺のところに来るだけだろうな……待て?)
この混乱毒は、百合から教えられたものから更に強化されている。混乱そのものではなく、使われた者の攻撃能力を、である。使われた者は肉体の限界を一時忘れ、敵と視認した者には怒りとともに、その強大な力を振るう。
ではこれを、己に使うとどうなる?
致死性は低いとはいえ毒は毒、それも自分に使った事など無い。其の上、理性の飛んだ己が果たしてどうなるのかというのも未知数。頭に血が登ってふらつきが無くなれば御の字。
だが、他に道らしい道が見当たらない。
「ええい、南無三!」
叫ぶが早いか、左腕に針を突き刺した。
刺した針先から冷えた水のようなものが身体を駆け巡る感覚があり、波が過ぎ去ると今度は身体が熱くなる。先程まであった不安は嘘のように消え去り、代わりに脳裏を支配するのは有象無象への怒りと、強い酒が入った時のような高揚感。死への恐怖は消え去った。それどころか、今の身体ならばいくら刺されても死なないのではないかという、過剰なまでに心地よい法悦。
「ははは」
意識せず、面頬の隙間から笑い声がこぼれていた。手を握っては開いてを繰り返す。手の先まで血潮がめぐり、心臓が強く鼓動する。手の感覚も、耳も目も余す所無く外界の情報を伝えてくる。むしろ前より感度が良い位だ。
障子戸の向こうには二つの陰が見える。なんだ。かんたんなことだ。まとめてきってしまおう。
蒙古兵たちは割れんばかりの大音声で叫び立てながら、侍が逃げ込んだ家を囲んでいた。あれが噂の冥人、仕留めればコトゥン・ハーン様から直々に莫大な恩賞を頂ける。その高揚たるや、誰もがその輝かしい未来を疑っていなかった。
戸の前に居た二人の首が、戸ごと両断されてずるりと落ちてしまうまでは。
破れた障子を蹴倒して現れた冥人に、先程までの息絶え絶えとして様子は全く無い。どころか目は血走り、喉からくつくつとした唸りを上げていた。ゆらりと屈んだと思えば、地を這う姿勢のまま、獣が駆けるがごとく目の前の兵に向かう。左手で地面に爪を立て、右には抜身の太刀を構え、足先は土を抉るほど。
蒙古兵たちは恐怖に負けぬよう鬨の声を上げる。そして最も近くに居た兵が、槍先を突き出した。その穂先は冥人の顔を捉えたが、ぎりぎりで躱されて右耳の下を掠め、皮膚と面頬の紐を切り裂いた。
冥人はそれに全く構う素振りを見せず、槍兵の鎧の裾を鋒で跳ね上げ、足元をくぐり抜けるように転がりながら太刀ごと二、三回転。その斬撃は、槍兵の股間、大腿、腱などあらゆるものを太い血管ごとずたずたに引き裂いて、一瞬にして夥しい量の血が吹き出した。叫びとともに崩れ落ちた頭を鷲掴み、飛んできた矢をその頭と付いてきた兜で受け止める。
その様子を伺っていた近くの兵が剣を振りかざしたが、それは力づくに振られた太刀で弾かれた。くるりと振り返ったその刹那、面頬の外れた冥人の顔が見えた。面頬同様に弧を描く口と、返り血で紅に染まった顔。
(怒りに任せるとはここまで心地よいものだったか。気分がいい。蒙古どもが怯えるのも気分がいい)
てつはうを飛ばしてきた者が居たので、横に転がって避ける。爆破の衝撃で、先程の槍兵の骸が、首から上を吹き飛ばした肉塊になって足元に飛んできた。丁度いいので腹を裂き、まろび出たはらわたを刻んで近くの兵どもに投げつけた。
蒙古兵たちが明らかに怯んだ素振りを見せるので、冥人はその隙を見逃さず駆け出して、てつはうを投げてきた兵の鼻先を全力で殴りつけた。
猛烈な量の鼻血が気管に入って噎せたところの首根っこを掴み、そいつが懐に持っていたてつはうを抜き取って転ばせる。そして息をしようと大口を開けたところに、抜き取ったてつはうを詰め込んでやる。嫌がるので親指を切り、太刀の柄頭でてつはうを叩いて押し込み、火を付けてから距離をとった。
近くに居た剣兵が恐怖の叫びを上げたが、それは次の瞬間、首元に飛んできた刃で止められた。目の前で繰り広げられた狂気の宴に混乱していた他の兵も、ようやく正気に戻ったか次々襲いかかる。
だが、冥人は剣が肩に突き刺さったまま、嗤いながら兵の脚を蹴り飛ばし、転がし、その胸を太刀で縫い止めるよう突き刺した。転がった身体の首元を足蹴にし、全力で体重を掛ける。意図に気づいたか脚を掴もうとしてきたが、近づいた時に親指を落としておいた。
遠くから飛んできた矢が頭を掠めたが、その流れる血にも頓着を見せない。気づいて居ない様子で腹を一刺ししてぐりぐりとかき回す。動かす度に剣兵の悲鳴が響き渡り、びくりびくりと痙攣し、そしてそれが急速に小さくなっていく。最後には首からごきりと堅いものが折れるような音がした。
(蟋蟀の脚を毟るのとは訳が違う。やはり人との命のやりとりでなければこの高揚感は味わえん。圧倒的な力の差で蹂躙する事は、湯や飯や女どころではない快楽だ)
肩に刺さった敵の剣を抜いて適当に構え、次の兵の短刀に剣を砕かんばかりにぶつける。そして無防備に曝け出した敵の目に、右手の人差し指と中指を深く突っ込み、ぐいとかき回した。耳障りな悲鳴だったが、更に奥に突っ込めば何も言わなくなった。
次の兵は、硝子体がこびりついた右手を晒すだけで、一瞬怯えた顔を見せた。その隙を突いて近づき、短刀を首元に突っ込んだ。頚椎の間を剥がすように刃を通すと眼前の顔は血のあぶくを噴き出し、そのまま腕を左右にひねればあっさりと胴と頭は泣き別れした。
ねじ切ったばかりの首を向かってきた剛兵の鼻先に突き出せば、一瞬にして動きが止まる。その陰で短刀を納め、空いた右手で鉤縄を持ち、盾にひっかけて力任せに引く。すると予期せぬ動きに剛兵は体勢を崩し、大きく転んだ。
そこで太刀がどこかに行ってしまった事を思い出した。だからその辺りに落ちていた敵の槍を拾い、柄を短めに持って見様見真似で突き出した。腿を貫いた。槍の刺さり具合は分からないもので、何度も抜いて差して繰り返し、動かなくなる頃には他の兵は蜘蛛の子を散らすように逃げていた。
周りを見渡すと、兵の胸に突き刺さったままの太刀があった。脚をかけて抜き、血振りをして納刀する。
あれほど倒したのに、胸の奥にはまだ物足りないような燻るものがあった。周りは肉片とずたずたになった肉塊だらけで、熊が食い荒らしたのかという程だ。しかし、今はその血と汚物が混ざりあった濃いにおいこそ、気分を高揚させる薬だった。
そして境井は、次の瞬間に耐え難い程の吐き気と全身の激痛に襲われた。
胃の中のものを全て地面にぶちまけても止まらず、胃液を全て出しつくしてもまだ止まる気配がない。口元から固くて白い破片が落ちたと思えば、無意識に噛み締めていた奥歯の破片だった。自らの顎の力で砕いてしまったのだ。
目眩が酷い。立つことすらままならず、身体を引きずるようにして動かし、どうにか近くの厩に身体を預けた。
あれほど熱かった身体は急激に冷めていき、頭に登っていた血は今やどこにあるのか分からない。身体を横たえると、まだ吐き気の波が押し寄せた。
(混乱毒の副作用、か。思ったより酷い。今回は幸いだったが、まともな戦には使えぬ)
興奮で忘れていた傷口の痛みだけでなく、無理に動かした腕や脚の筋が痛みを訴えている。一時的に強くなったとしても、反動が大きすぎる。以降、この使い方はしないだろう。
何よりも、恐ろしい懸念があった。
(心を支配されてしまう。使い続けて、民を助くる心さえ忘れてしまいかねない程に)
そして境井は気絶するように目を閉じた。