いつもの通りに雲と霧の厚く覆う、六月のことだ。月も太陽も、朝も夜もない異空間、ナイトレイブンカレッジのイグニハイド寮。
「何だったんだいったい……」
つい三十時間ほど前に半千年紀に及ぶ未練が人の娘の形を取ったものから冥婚の申し出を受けた青年、イデア・シュラウドはその地上二階にある自室にいた。
「無許可の冥婚とかあまりに許されざるだし拙者も実家も許可なんて出すわけないんだが?」
自分でも分からない恐怖のような焦燥のような何かから逃れようと、書きかけの自作プログラムを引っ張り出して眺める。部屋の防音は完璧、機械仕掛けの弟はスリープモード。誰も聞いていないのをいいことに、普段の会話などより余程大きな声でイグニハイドの寮長は独りごちた。
嘆きの島は冥府の一端であり、その地下は死者の国と地続きで、イデアも死者の国どころかその先、悲嘆の王の座す冥界まで赴いたことがある。その嘆きの島でさえ、死者と生者の婚姻には両者の合意以外の物が必要だ。嘆きの島のハデス神殿の承認があって初めて、生者を巻き込むような冥婚は正式に受理される。そりゃあイデア・シュラウドが厳密に生者かと言われれば、女の腹から生まれたわけでもない
「ゴーストならゴースト同士でお幸せにどーぞ、拙者を巻き込まないでいただきたかった。真剣に」
そうすればまあ、イデアだって祝福と嫉妬のじゅもん「リア爆」の一言で済ませて部屋に戻ったのだから。
「だいたい普段散々僕らのことを馬鹿にしといて結婚したいとかふざけてるでしょ好感度ゲージ見直せください」
ゴースト違いなのは承知の上でそうぼやく。生命の糸がアトロポスの鋏によって断たれ、しかし精神は肉と魂とを未だ結んでいる、生と死の狭間、地上と冥界の中間に住むもの。死者の国の住人たち。ゴーストは自分が最早生きていない分、肉の体をまるで枷か何かのように扱うことがあった。
たとえばオルト・シュラウドの機械の体を蔑む、廃墟寮に取り憑くものたちのように。
「可哀想に」
ゴーストは言う。イデアの弟に。かつてオルト・シュラウドの脳に収まっていた記録と反応をアクティブな状態で残すために捧げられた、イデアの魂に。イデアはゴーストではないし、シュラウドの嫡子として生まれてこの方ずっと黄金の瞳は生者の魂を映してきたから、実際のところイデアとオルトが彼らの目にどう映っているのかを知らない。
ただ彼らはオルトのことを憐れんで(あるいは個体によっては嘲って)くるので、何かには気付いているのだと思う。その何かが、果たして肉体と繋がれたまま別の
科学の申し子、オルト・シュラウド。イデアの弟──電子情報として書き出されたその脳の中身──とイデアの技術の粋を集めたアンドロイド──それから、イデア・シュラウドのものだった魂。それらで構成されたイデアの「弟」は、イデア・シュラウドという人間がこの地上に今日のこの日もしがみついている理由の全部だった。死後を売り渡してでも、魂を差し出してでも、あの日のイデアは弟を諦められなかった。
晴天に遠雷の響くあの日、イデアは間に合わなかった。オルトの魂が、朝焼け色の瞳と
神殿で伺いを立てれば、地の底に御座す不可視の君は、魂は魂で贖われなければならないと語った。冥界から魂を呼び戻すのであれば、代わりの魂を一つ、冥界へ旅立たせなければならないと。それは、できなかった。イデアの魂を代償にしてオルトを喚び反すわけにはいかなかった。
オルト・シュラウドの肉体を、もし用意できるとしたら自分しかいないのだとイデアは理解していたから。歴代でも最上の「シュラウドの嫡子」たる、イデア・シュラウドしか。
空の受精卵、人為的に操作された高濃度の魔力情報、厳密に管理された培養槽の中での十月十日。シュラウドの嫡子──神の似姿への最新の挑戦として、イデア・シュラウドという「人間」は十八年前、そういった物から造られた。
ひとよりも優れた頭脳を、ひとよりも多くの魔力を、ひとよりも神に近い在り様を求めてイデアは造られた。その試みがどこまで成功したのかは置いておいて、事実としてイデアには、優れた頭脳と魔法力と、それから権能にさえ近しいまでの魔力特性がある。幻覚魔法、召喚術、魔導工学。理念だけの世界からこの現実へと、形あるものを下ろしてくる術がイデアにはあった。
電子の海と概念界と、それからこの肉の世界との間の障壁を感じたことが、イデア・シュラウドにはない。頭の中で思い描く夢物語と現実世界の差異を、他人の中にしか感じたことがなかった。一時的な幻術にせよあるいは工学による物にせよ、イデアにはそれを現実へ落とし込めるだけの才があったから。
しかしそれを反転すれば、イデアの被害妄想と纏わりついてくる幻を撥ね除ける術もまた、ないのだった。
「空っぽのあなた」
オヒメサマの幻が言う。
嘆きと悲しみ、悩みと苦しみ、それから死んだはずなのにのうのうと地上を闊歩するものへの憎しみ。そんなものだけを燃やして空中でくるりと回り踊る娘の腕が、抱きしめるように絞め殺すように背中側からイデアの首をぐるりと囲む。
「空っぽのあなた、肉だけのあなた。魂だけの私とお似合いじゃない?」
思わず舌打ちを飛ばしてからそのことに気がついて、一瞬だけすまなそうな表情になったイデアは、しかし相手がひとでないからと謝罪を飲み込んだ。
「黙ってくれ。僕の魂は
棘のある声音でそう吐き捨てて、目線をホログラムスクリーンに戻す。ゴーストは肉体と魂の繋がりが切れないままに死んだ霊魂だ。朽ちて骨になって終いには溶け落ちるか、焼けて骨と灰になるか、あるいは鳥獣の腹に収まるか。そうやって形をなくした肉体と同期するように、ゴーストは生前の形を忘れていく。あの姫君とやらは、腐食を恐れた誰かの手でさぞ丁寧に処置されたのだろう。あるいは酸素から遠い沼の中か。イデアの魂だってすぐそこにある。それを指す名前こそ変わったけれど、イデアが地上のものであると疑いようがないくらいにはそれは、標本のラベルをすり替えてしまうような許されがたい暴挙がなされてもなお、イデアのものだった。
「おかしなあなた。骨だけになってしまっても同じことを言うつもりかしら」
くすくすと笑う少女の見ている先は顔でも心臓でもない。白く長い手袋に包まれた細い手指が、貫いてしまいそうなほどに強くイデアの喉元を押し込んだ。そこに青が灯っているはずなのを知っているぞと、そう言うように、強く。五百年前に滅んでしまったあの国では、今よりもずっと彷徨う死者の扱いは悪かった。今でさえ、そういう妖精種に生まれついたもの以外の
「そうなって僕がまだ僕だったら、ダンスの一曲くらいは踊ってもいいよ」
彼女が本物のゴーストだったならこんなことは言えなかっただろうと思う。地下のくらがりに安堵を覚えないもの、魂を癒やす冥界の冷炎の元で休もうとしない死者は、その多くが明るい性格をしている。害意なく他人を追い詰め、殺意なくイデアの心を轢き潰して気づきもしない、愚かで優しくて顔も見たくない人間たちと同じ様なものが相手だったのなら、イデアもこんなことは言わない。
けれどこの少女はイデアの魔力が編んだ幻だ。地の底、死の河から這い出した霊魂の幻影。悪意と憎悪、悲嘆と苦悩だけでできたものであるなら、それはイデアの隣人だった。
「もちろん唇がないんだから、誓いのキスはできないけど」
「まあ、酷いお方」
そう言って笑うその口元だって声帯だって、結局は幻だ。イデアの人の身には有り余る魔力と、現実と紛うほどに克明な妄想とが映し出す、一番原始的な幻覚魔法。イデアの無意識が傷と思考を整理するために築いた魔導回路の産物。ここが紛れもなくイデアの領域である以上、それ以外のものではないことがイデアには分かる。
いつか本当にそうなればいいと言って薄れて消えていく名前も知らない彼女の、首元で燃えるファイアオパールの色だって、今日の授業終わりには痕跡ごと世界のどこからも消えてなくなるものでしか、ない。魔法とはそういうものだ。術者の手を離れてしまえばそれだけであっさりと、薄れて消えていくものだ。プレパラートのカバーグラスよりもある意味では儚いもの。割れて壊れてしまえば後には流体のように素早く散逸する魔力の痕跡しか残さないもの。そんなものに、今日も頼っている。縋っている。たぶん、イデアが本当に骨になってしまうまで。