アビゲイルとマスター、二人だけの秘密。
けして開くことのない、鍵を失った小さな小さな玩具箱の中身。

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紫水の微睡みに金色は眩く輝う

「あ……あぁ……?」

 夜更け、カルデアの一画に設けられたとある部屋。

 月明かりも入らぬ暗闇のなか、机に置いてあるランプだけがぽうと仄かな緋色の明るさを持って、この部屋を蠱惑的な幻想体系として組み立てていた。

 無機質で殺風景な部屋に置かれたベッドの上には男女が二人。

 女は仰向けで天井を向いており、男はその女の上に股を割り跨っていた。

 掛けていた毛布は剥がされ、衣服は乱雑にはだけ、ランプが灯す影は二人の重なり合う姿を映していた。ともすれば男女の逢瀬、交わりを照らしていた。

 

「……大丈夫よマスター、私を見て?」

 そのうちの少女、アビゲイルは先程まで同衾していたであろうマスターの頬に向けて腕を上げると、そっと手を当て、優しく子供に諭すように語りかける。

 その声に侮蔑、嘲笑、怒憎は含まれず、慈悲深き聖母の愛が彼の頬へと注がれていた。

 呟かれた言葉に耳を傾けることなく、彼は女に跨ったままに自らの両の手を、焦点が合わぬ虚ろな目でふらふらと見つめていた。

 

 この部屋で済まされた"事実"が密々に語られることはない。

 事態を歴々と述べるのであれば

「男が女の部屋に夜這いをかけた」

 そう、取らざるを得ない。

 が、明るみになることはない。口を閉ざすことで永遠に開くことはない。

 鍵を失った小さな小さな玩具箱であった。

 

「ちがっ、違う……」

「ええ、そうね。」

 ようやくアビゲイルの言葉を飲み込んだ彼は彼女の双眸へ向き合うと同時に、強く首を曲げ反発した。

「これは違う……ゆ、夢だ…………」

「そう。これは夢、貴方は何も悪くないもの」

 彼女は頬に当てていた手をそのまま下ろしてゆき、顎、首筋、肩を撫でながら腕に沿わせ、果てに彼の手へと合わせた。

 

「ひいっ!!」

 彼は憔悴したまま叫び、そのまま距離を取ろうと仰け反った。

 しかし、彼の身体が彼女から離れることはなかった。少女は見た目に反した力で彼を片手だけで押さえつけ、けして逃さぬよう縛りつけていた。

「痛みを持って人は原罪を祓われるの。痛みが全てを救うから」

 彼女のか細い首筋には、柔白い肌と対比して酷く青黒く染まりきった"痕"が残っており、逃れようとした事実から逃すまいと、痛々しく主張していた。

「すべて私が悪いの、弱い私が、小さな私が、そして、罪深い私が」

 細々と笑みを噛みしめるように酔い、愛おしげに首元を撫でる彼女。

 憔悴した焦りに身をやつし、焦点合わぬ両目で茫然と天井を見上げる彼。

 対照的な二人の姿だけがその部屋に彩りを持って存在していた。

 

「大丈夫、私は、許すわ。」

 

 その言葉に反応したや否や。

 彼は糸が切れたように意識を失い、少女に覆いかぶさるようにもたれかかっていった。

 アビゲイルは胸元で倒れこみ寝入ったマスターを、自身の肢体を軽くひねることでそのままベッドの上で横にすると、胸元に手を置き目を閉じた。

 

――――――――――――――――――――

 

 これは夢。夢でなければならない。

 明日に醒める夢。ぱっと溶ける泡沫でなければならない。

 秘に沈む夢。沈黙で秘さなければならない。

 

 卓上に揺れるランプの炎を、彼女はそっと手で覆い隠した。

 微かな炎が照らすことで朱に仄めいていた部屋の明かりは一転、そのまま瞬に消え部屋は暗く覆われる。

 …………はずであった。

 しかし、そうはならない。覆い隠して消えるはずの明かりはそのまま彼女の手に滔々と滲み出すと、徐々に手首、肘、肩へゆっくりと蠢き出した。

 そのまま歩みを止めず額に留まったかと思うと、眩い明かりは額の奥へ吸い込まれていった。

ぽう、と。

 マスターと二人きり、それ以外に何もない暗い部屋のなか、アビゲイルの透き通った艶やかな金髪、人の内面を透かす純粋な蒼眼が燦然と煌々として輝いた。

 瞬間、迸る白光は見る間に潰え漆黒が溢れ出した。

 純然たる黒の氾濫。

 空間を問わず止めどなく漏れ出す黒き触手はズズズと鈍に這い寄る音を零しながら、部屋の壁に至る壁を埋め尽くす。部屋が再び仄暗く色づきだした。

 

 反転、漆黒の中央から"銀の鍵の少女"が姿を現わす。

 それは先ほどまでマスターの側にいた彼女の姿に似ている体躯の少女であった。が、異なる存在であった。

 服と呼ぶには幾分か布地の足りぬ、薄くひらひらと靡いた布の合間から覗く体躯には骨が浮かぶ。見るものの目を穿つように輝いた金髪は一転して存在が吸い込まれる鈍紫に染まり、純粋な蒼色に満ちた瞳は紅く妖艶に光り違和感を結んでいた。

 先までマスターと語り合っていた彼女はベッドの上に。そう、これまでのやりとりなど何事もなかったかのように毛布にくるまり寝静まっていた。浮かべた微笑みからは幸せな夢に微睡んでいることが分かる。

 他方、ベッドの上に寝ていたはずの彼は壁に張り付けられていたようだった。

 ようだった、というのは"それ"が彼か確認できないためであった。触手に覆われた壁の一面には人型に浮き出たシルエット。さながらそれは触手で出来た檻、一片も逃さぬための拘束であり、身動きが出来ないよう雁字搦めにされているようであった。部屋を覆い尽くした触手は絶え間なく場を変え流動し続け、血管のように拍動を繰り返していた。

 

 中央に立ち構えた"銀の鍵の少女"は寝ぼけたようにその場に立ち尽くしていた。

 首をそっと傾け、ぱちくりとまばたきをした。そして彼の元に歩み寄り、暗鈍にうねる触手を掻き分け、優しく彼の体を撫でた。

 触れたら溶けてしまうような儚い氷像に触れるようにそっと、彼がそこにいることを確認するように撫でると、表面から確かな熱を感じた。

 真実は具象を持って事実を成す。真なる顕現を果たした"銀の鍵の少女"が不意に浮かべた表情は恍惚に歪み、口元からは妖艶な笑みがこぼれきっていた。

 人理が干渉を抱いてしまった外なる神、その巫術者が呼び戻した絆。永遠に終わらない夢がそこにあった。

 

「もう、二度と手放さないわ。――さん」

 



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