その「ワン」という吠え声は、吠えるというにはあまりにも弱々しく、どこか寂しさを私に伝えているようだった。

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「ジャック」

 今年も梅雨の季節がやってきた。もう朝だというのに薄暗い部屋に、ジリリリリと目覚まし時計の音が響きわたる。ベッドから起き上がり、窓のカーテンを開ける。いつもここから見えていた輝かしい東京の姿とはうって変わって、鈍色に沈んだ街がそこにはあった。ポツポツ、ポツポツ、と冷たい雨粒が一定の間隔で窓を叩く音が耳につく。その果てしなく単調で不快なリズムは、私に早く仕事に行く準備をしろ、と窓をノックし催促しているかのようだった。

 

 いつも通りの朝だ。立ち上がって顔を洗って、歯を磨く。パンを食べて化粧をして、会社に行く準備を整える。

 

 いつも通りの朝だ。再び東京の姿を眺めると、空をきっと睨みつけ、はあ、と溜息をつく。私は梅雨が好きじゃない。化粧は崩れるし、毛先が広がる。足は濡れるしジメジメする。けれど10人に1人の割合で梅雨が好きな人がいるというのだから、世の中には不思議な人もいるものだ。この時期が来るたびに、私はそんなことを考える。

 

「ジャック、おはよう」

 

 私はその犬にジャックと名前を付けた。ジャックは黒と白に毛色の分かれた子供のチワワで、黒い真珠のような綺麗な瞳が特徴的だった。チワワはその小柄で愛らしい見た目とは裏腹に、意外と荒々しい。躾をしっかりすればおとなしくなることもあるけれど、大抵の飼い主は甘やかして育ててしまい、その結果大人になった時に手がつけられなくなる。躾をしても知らない人が来たら暴れだし鬼の形相で吠えたてるなんてこともしばしば。チワワは子供の頃からおじいちゃんになるまで、ずっと暴れんぼうなのだ。けれど、ジャックはそうではなかった。

 

「ワン!」

 

「おはよう」という言葉に呼応するかのように、ジャックは弱々しく吠えた。ジャックの一番特徴的なところは、この鳴き声だ。別に声が小さいというわけでもないし、仕草を見るかぎりは全力で吠えているようだが、どうにも張りがないというか。元気というものが感じられなかった。初めてこの子に出会ったとき、私はその独特な吠え方に驚き、面白がったが、どこか寂しげなその声に強い興味を抱いた。ジャックという名前の由来はこれといって深い意味があるわけではなく、寂という漢字を音読みするとジャクだから、ジャック、という安直な名前である。我ながら、自分はなんてネーミングセンスが無いのだろうと、ジャックの瞳とにらめっこしながら頭の中でツッコんだ。

 

「ジャックは寂しいからそんな吠え方をするの?」

 

 私の呼びかけに対し、ジャックは「ワン!」と寂しげに吠えた。

 

「いつか、ジャックの元気な声を聞ける日が来るのかなあ」

 

 見下ろしながらため息混じりに言葉を吐き出し、肩から落ちかけた鞄をかけ直す。この声が気に入ったとはいえ常日頃そんな声を聞かされると、心配にもなってくる。しばらくジャックを見つめ続けていた私はハッとして、スマートフォンで現在時刻を確認する。

 

「じゃあ、今日も行ってくるね」

 

 ジャックに手を振ると、会社へ向かうために、その重たい足を動かした。歩き出した私の背中を押すかのように「ワン!」と寂しげな声が私の背後で聞こえた。

 

 私の勤めている会社の業務内容はそこそこハードで、夜遅くまでの残業が日常茶飯事だ。世間一般でいうブラック寄りの企業ではあるが、入社して間もないし、やりたくて始めた仕事だし、給料自体は良いので、今はここに落ち着いている。今はといっても、私は生活環境が変化するのが嫌いだから、顔にシワが浮き上がるまで、ずっとこの生活を続けるだろう。

 

「お先に失礼します。お疲れ様でした」

 

 時計の短針が9の字を通り過ぎたころ、私は毎度のごとく定型文を述べる。会社を後にした私は、同僚と気になる職場の男の話をしながら、すっかり姿を変えた夜の街を闊歩する。

 

 私は仲の良い女性の同僚は多くいるが、男とはまるっきりであった。別に奥手というわけでもないし、男が苦手というわけでもない。食事に誘われたりすることもあるのだが、いつも何かしら理由を付けて断ってしまう。失敗しちゃうのが怖いから断っていると同僚にはいつも話しているが、同僚はそれが理解できないようで、世の中には不思議な人もいるもんだなあ、と私に言った。その言葉に私はどこかで聞いたフレーズだな、とデジャブを感じつつ、眠らぬ夜の街を歩いて行った。

 

 

 

 

 今日も東京の空は、分厚い雲で蓋がされていた。異例と言われた5月の猛暑はとっくに過ぎ去り、忘れ去られたようで、雨に濡れた街には、肌を撫でるような冷気が満ち満ちていた。

 

「ジャック、おはよう」

 

 ジャックは、やはり「ワン!」と吠えた。

 

「今日は一段と元気がないね」

 

 ジャックはその場に縮こまり、体を動かそうとしない。黒と白の毛並みも相まって、それは大きなおにぎりのようにも見えた。元気がないのはいつも通りといえばそうだが、チワワというのは寒さに弱い犬種だから、ひょっとしたら外の冷たい空気を感じ取って、こんなに元気がないのかもしれない。ふと、丸くなったジャックに既視感を覚え、私自身の虚を突くように、ぽつりと私の口がその名前を零した。

 

「コタロウ」

 

 唐突に零れたその名前に自分で驚きながらも、一呼吸置き、たった今呼んだその名前の主に思いを馳せるように、ジャックに話しかける。

 

「コタロウも寒い日はこんな感じだったな」

 

 私がコタロウと呼んだその犬もまた、寒い日はこうやってゲージの隅で丸くなっていた。

 

「ジャックも暖かくなったら元気に吠えられるようになるかもね」

 

 私の声に反応したのか、わずかに尻尾を振る。その仕草が再び私に遠い昔の思い出を呼び起こさせる。その思い出の断片を、水の中からすくい上げるように、言葉を紡ぎながら、私はジャックに言う。

 

「私昔ね、犬を飼ってたの。きみによく似た」

 

 それは私が小学生だった頃の話である。その犬の名前はコタロウといい、ジャックと同じ黒と白に毛色の分かれたチワワだった。幼いころからずっと犬を飼いたいと親にせがんでいたようで、ついにコタロウが家にやって来た時には、あまりに嬉しくて泣いてしまったのを憶えている。

 

「よく似てると言っても、ジャックみたいな吠え方はしなかったけどね」

 

 それからは少しでも時間があけばコタロウと一緒に外に出て、公園や野原を駆け回り、日が暮れるまで遊んだ。それまでずっと一人っ子だった私は家に帰って夜になってもコタロウと家中を走り回り、それでよくお母さんに怒られていた。冬になるとコタロウは私の布団に入り込んできて、仲良く一緒に寝た。その温もりと布団が毛だらけになってしまったことが昨日のことのように思い出された。

 

「でもね、夏が来るちょっと前かな。コタロウはね、亡くなっちゃったんだ。」

 

「コタロウが来たときはね、私に弟ができた、って思ったの。一人っ子だったから、家でも遊び相手ができて、本当に嬉しかった。親友以上の、家族みたいな存在だった。」

 

「だからね、亡くなった時は私はまだ子供だったから、コタロウが死んだっていうのがなんだかよくわからなくって。車に乗ってと言われた時の父さんや母さんの真剣な顔を見て、その瞬間にはじめて不安や恐怖が襲ってきて。それで動かなくなったコタロウを見て、ようやく死を実感したんだ。大切なものがいきなりいなくなるなんて思いもしなくって」

 

 その薄暗い記憶が鮮明にこの瞳に焼き付き、こびりついて消えようとしない。

 

 私は言葉に詰まり、ジャックに何を話しているんだろう、と俯く。その姿を見たジャックは何かを感じとったのか、私の顔を覗き込み、いつもの声で「ワン!」と吠えた。その声で我に返った私はスマートフォンで現在時刻を確認する。

 

「やば、もう行かないと遅刻しちゃう!」

 

 電車が出発する時間が迫っているのに気づいた私はスマートフォンを鞄にしまい込み、肩にかけた鞄をよいしょとかけなおす。

 

「じゃあ、今日も行ってくるね」

 

 ジャックに手を振り、背を向けて歩き出す。遠のく距離を埋めるかのように、「ワン!」と寂しげな声が私の背後で聞こえた。

 

 

 

 

 雨曇りの重たげな土曜日の朝に、お天気キャスターがまもなく梅雨が明けるでしょう、とにこやかな笑顔で告げた。ここのところずっと雨が続いていて、空が青いという周知の事実を久しく確認することができていなかった。梅雨が大嫌いな私にとっては憂鬱な毎日だったから、それはここ最近で一番の朗報だった。小さくガッツポーズをしてから、ウキウキで職場へ向かう準備を進めた。

 

 まもなく梅雨が明けるとは言うが、雨は今までよりも一段と強みを増していた。窓に叩きつけられた雨音はもはやノックというよりは、怒号のようにも感じられる。東京の街並みは暗い雨底に沈み、そこにいる私の体が溺れていくような感覚を覚えた。学生の頃だったら、大雨警報でも出ないかなあと期待していただろうな。会社に行く準備を整え、使い古したパレットのように濁りうねった空を見上げると、いつまでも学生気分じゃいられないなと自分に言い聞かせ、鞄を手に持った。

 

「おはよう、もうすぐ梅雨が明けるってさ」

 

 ジャックはいつも通り「ワン!」と弱々しく寂しげに吠えた。その声にはもはや安心感を覚える。

 

「ジャックも梅雨が明けたら元気に吠えられるようになるかもね」

 

 ジャックは眠たそうに口をもごもごさせている。ほとんどの人は雨が好きじゃないけど、犬にとってはどうなんだろうか。ジャックは外に出ないから雨なんて関係ないかな。

 

「じゃあ、今日も行ってくるね」

 

 ジャックに手を振って職場へと向かう。いつも別れ際に聞いていたジャックの寂しげな声は、打ち付ける雨にかき消されたのか、この日だけは聞こえなかった。

 

 交差点にやってきた私は、同僚が歩いているのを見つけた。朝は同僚と他愛もない世間話をしながら会社へと向かうのだが、この日の彼女は待ってました、と言わんばかりの笑顔で私に話しかけてくる。彼女がこんな笑顔で話しかけてくるのは、どうせ好きなアイドルグループのライブチケットを手に入れた時くらいだろう。そう切り込んでくると予想し、彼女に挨拶をしたが、次の瞬間思いもよらない言葉が彼女の口から飛び出し、私は驚きのあまり大声をあげた。

 

「え! それ本当なの!?」

 

 なんと、気になっていた人をこの前に酔った勢いで食事に誘ってみたら、オッケーが貰えたのだという。つい最近まで同僚は、断られるのが怖いから誘われるまで機を待つ、と気の遠くなるような話をしていたのに、酒の勢いってのは偉大だなあ、と感服した。だから今日は一足先に帰るね、と同僚は言う。じゃあ、休憩時間になったら男と食事をする時の注意点を総復習しよう、と口約束をして、私たちは職場へと向かった。

 

「お先に失礼します。お疲れさまでした」

 

 時計の短針が9の字を通り過ぎたころ、私は毎度のごとく定型文を述べる。いつもならこの後同僚と飲みに行くのだが、今日は先輩や後輩たちと共に過ごし、帰路に就く。いつもは同僚と一緒の駅までの道のりも今日は一人だ。今頃同僚はどうしてるかな、緊張でアガってないかな、と彼女の安否を思う。彼女が羨ましいとか、そういった感情は湧いてこない。ただ純粋に、同僚の勇気に尊敬の念を抱き、私もそろそろ男との付き合いというものを考える時期なのかなあ、と街明りに映し出された灰黒色の空を見上げ思った。街灯の光が雨に乱反射し、曇天に星が煌めいているようにみえた。

 

 

 

 

 

 激しい雨音に、目を覚ます。外は相変わらず、淀んだ雲が空を支配している。まだ夜なのかと思うほど部屋は暗かったが、ジリリリリ、という目覚まし時計の音が、私の脳に朝を知らせた。

 

「お天気キャスターは今週から梅雨明けだって言ってなかったっけ……」

 

 いまいちど窓の外の空色に目をやった私は、雨が降っているのが夢ではないことをしっかりと確認し、ふあぁ、と大きなあくびをしてベッドから起き上がった。

 

 いつも通りの朝だ。立ち上がって顔を洗って、歯を磨いて。パンを食べて化粧をして、会社に行く準備を整えて。鞄を手に持ち、玄関へ向かう。

 

 いつも通りの朝だ。家を出て、空をきっと睨みつけると、溜息をつく。傘をさし、階段を下りていく。坂道を下り、駅へと向かう。蒸し暑い満員電車に身を揺さぶられながら、会社の最寄り駅で降りる。

 

 いつも通りの朝だ。

 

「おはよう、ジャック……」

 

 いつも通りの挨拶は、空になったゲージに吸い込まれ、虚空へと消えた。そのつかの間の沈黙は、何が起きたのか、それを私が理解するには十分すぎるほど、長く感じられた。

 

 私はしばらくその場に立ち止まり、そして我に返ったようにあたりを見回し、黒と白の毛色の犬を探した。ペットショップの中を歩き回り、その面影を追いかける。けれど、いくら探しても、ジャックの姿を見つけることは出来なかった。

 

 今はもう誰かに飼われているのか、別の場所に里親を探しに行ったのか、それともブリーダーの元に帰っていったのか。考えを巡らせてから、右前方にいる店員に顔を向け、唇を噛み締める。仕事にいそしむ店員を、泳ぐ目でしばらく見つめ続ける。体が自然と動こうとし、右足に力が入るのを感じた。私は足が地面から離れてしまうのを恐れ、それを防ぐように、右足にこめられた力で、根を張った木のように力強く地面を踏みしめた。バランスを保つように左足にも力を入れ、鼻で大きく深呼吸をして、体から徐々に力を抜いていく。私の体は落ち着きを取り戻し、呟く。

 

「今はもう寂しくないかな、ジャック」

 

 再びジャックのいたゲージに目を向ける。敷かれていた布や餌用の台も取り払われ、あたかも最初から何も無かったとでも言うように、殺風景な部屋がそこにあった。ゲージの中の窓ガラスに私の顔が反射し、私は映し出された自分の顔を見た。

 

「いいや」

 

「そうじゃなかったんだね」

 

 私はそう呟き、目を瞑って立ち上がる。不思議と、体が軽くなったような感覚に襲われた。

 

「じゃあね、ジャック」

 

 そう言って出口の方へと歩き出す。そのときに、ペットショップの自動ドアの向こうから溢れんばかりの白い光が差し込んでいるのが見えた。何だろうと思い、外の景色を眺める。

 

 いつしか、空にこびりついていた曇天は消え、澄んだ青が自動ドアのガラスを通し私の瞳に反射した。自動ドアが開くと、あの不快な雨の音はどこかに過ぎ去り、今まで雨にかき消されていた街の喧騒が、ブワッと風に吹かれたように飛び込んできた。

 

 その喧騒をまるで自分は初めて聞いたかのような感覚に陥る。さっきまで街に満ち満ちていた冷気は、梅雨明けの暖かい空気となって、私の体を包み込んだ。街は梅雨など忘れたかのように輝きを取り戻し、眩しいと思うほどに賑やかに東京の姿が映った。

 

 私は手を強く握り締めると、会社へ向かうために、その足を動かす。

 

「あ! おはよー、ユイ!」

 

 私の名前を呼ぶ声が聞こえる。目を向けると、同僚が手を振って歩いてくるのが見えた。

 

 私は息を深く吸い、周りの喧騒にかき消されてしまわないように、大きな声で、

 

「おはよう!」

 

 と返した。

 

 

 雲忘れの夏空に、ジャックの声がこだましたような気がした。

 


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