紘平が手術を終えて歩けるようになってから更に一ヶ月が経過した。回復がとても早かった紘平は、あっという間に走れるまで調整が完了して専門医を驚かせている。
「本当に疲れないんだな。もう数キロ走ってるとは思うが、一向に体が疲れる気配がない」
病院が保持する運動場のトラックをかれこれ数十周しているのだが、紘平は息一つ乱すことなく涼しい顔をしている。
勿論、長距離走だけではない。短距離走も以前の数倍は速く走れるようになっており、地上でのジャンプ力もべらぼうに高くなっている。誰が見ても“人外”なのは明らかだ。
「一段落したし水でも飲むかな……」
「あ、先輩! こんな所に居たんですね!」
「愛生。今日はお前か」
フルマラソンに近い距離を息一つ乱さずに走りきった紘平が休憩のために水を飲もうとトラックの真ん中で座り込むと、パタパタと可愛らしい足音を立てながら愛生が走り寄っていく。
ここ一ヶ月の間、愛生と真衣は一日おきに交代して彼の元へやって来ていた。来る度に人外へとなっていく紘平のことを献身的に支えて精神が壊れないようにしてきたのは他ならない愛生と真衣である。
突然与えられた底の知れない巨大な力。それを一人でコントロール出来るはずはなく、紘平も仮に一人だったとすればアッサリと精神を壊してしまっただろう。
「一体どのぐらいの距離を走ってたんですか? この前は十キロで妥協してましたけど」
「フルマラソンと同じ距離。だけど息一つ上がらないし疲れも感じないな。多分百キロ走っても問題ないと思うぞ」
「スポーツ選手からすれば喉から手が出るほど欲しい能力ですね。絶対に疲れないとかズルいです」
「唯一の欠点は金属疲労があることだな。定期的にメンテナンスしないと動けなくなってしまう」
「先輩ならそれも簡単に克服してそうですけどね」
スポーツドリンクの入っていた空のペットボトルを手に取ってプラプラと揺らしながらそんなことを口にする愛生。一点の曇りもない彼女の瞳は、紘平が簡単に欠点を克服することをほんの少しも、それこそ一ミリも疑っていないことが手に取るように分かる。
どこまでも純真な愛生を見て紘平は少しだけ表情を緩めた。彼の愛生への認識は部活が一緒の後輩で大きく変わりはない。しかし大きな決断をするキッカケとなってくれた愛生には少なからず好意を抱いている。それが恋愛感情ではなく親愛感情ではあるのだが、何か大きなキッカケがあれば恋愛感情に変わりかねないほど紘平は愛生に好意を抱いているのである。
なお、紘平が真衣に対して持っている感情は高嶺の花と親愛の混ざった複雑な物だったりする。恋人になれた人はきっと幸せになれるだろう程度には考えているため、一切その様なことも考えない愛生よりほんの少しリードしているとも人によっては考えられる。
「あの、そういえば前から聞きたかったことがあるんですけど」
「聞きたかったこと? トランポリンの技に関してか?」
「……確かに教えてもらいたい技は沢山ありますけど、今回はそれではないです。私が聞きたいのは、どうして先輩が恋愛に興味がないのかです」
愛生は知っていた。紘平は自分に対しては勿論の事、他の女子にも一切の恋愛感情を持っていないことを。彼の周りにいる友人から恋愛相談を持ちかけられても“どうでもいい”と言って相手にしないことを。その際に見られる表情は苦々しいことを。
「学校中から注目されても先輩は歯牙にも掛けないですよね。恋愛事に関しては特に」
「まあ、確かにそうだな。それがどうかしたのか?」
「これはただの予想なんですけど、先輩って恋愛事から意図的に遠ざかろうとしてませんか?」
「……」
少し強い風が二人の間を通り抜ける。紘平の髪が崩れて閉じたままの左目が露わになった。愛生を見つめる紘平の右目は、普段以上に底のない井戸のように暗くなっている。徐々に右目が細められていき、黙っていることで幕末の志士以上の迫力を出し始めている。
しかし愛生も一切引き下がる気配は見せない。紘平に負けないぐらい強い眼光で見つめ返し、一歩も引かないという決意をこれでもかというぐらいに見せつける。
「……なぜ、恋愛事を避けていると思った?」
「どう考えてもおかしいからですよ。真衣や他の人からあれだけ迫られてものらりくらりと、でも必死に躱そうとして話題を急転換するんですからね。バレないと思いました?」
「……いや、愛生なら気がつくかもな。別に不思議にも思わない。だが、そこまでして俺が恋愛事を避けている理由を知りたいのか?」
「モヤモヤして毎日七時間しか寝てませんよ。勘弁してください」
「充分睡眠を取れてるじゃねえか」
思わず苦笑いしてツッコミを入れる紘平。此処ぞとばかりに発動する愛生の天然スキルは、殺伐とした空気の調和には丁度良い。現にこうして、紘平は毒気を抜かれている。
「聞いても面白くない話だぞ? それでもか?」
「当たり前です。苦しい顔をしている理由をどうしても知りたいですから」
「……最後の確認だ。本当に、だな? 後悔はしないな?」
「当たり前です。先輩のことですから」
紘平の右目を真っ直ぐと見つめて意思表示をする愛生。今の彼女を退けられる人間は誰一人として存在しない。
それこそ、テコでも動かすことが出来ない。そのことを紘平は察したのか、盛大にため息をついて肩を大げさに竦めた。
「……はあ、分かったよ。俺の負けだ。だからそんな真面目な顔で俺の目を見つめるな。こっぱずかしいだろうが」
「先輩に恥ずかしいっていう感情あったんですね。初耳です」
「お前、俺のこと何だと思ってるんだよ。まあ良いか……とりあえず、俺が恋愛事を避けているのは本当だ。できることなら話題に出したくないぐらいには避けている」
愛生から目を逸らしつつも話を始めた紘平。その様子を可愛らしくて微笑んでいる愛生を尻目に、彼は語り始めた。
「まず気になっているであろう、俺が恋愛に興味があるのか。これはイエスだ。俺だって絵に描いたような甘酸っぱい恋愛をしてみたい」
「なら何故……」
「まあ落ち着け。確かに恋愛に興味があるが、俺は意図的に恋愛感情を持たないように気をつけているんだよ」
「それなら尚更言いたいですよ。“何故?”って」
恋愛には興味がある。したいとも思っている。しかし恋愛感情を持たないように意図的に気をつけている。語られる事実に、愛生は眉をひそめた。
恋愛をしたいという願望があるなら何故、わざわざ恋愛感情を封印するのか。愛生には理解も予測も出来なかった。
「今となってはかなり経ってしまった感覚だが……三年前、つまり中学二年生の頃。俺は彼女が居た」
「え……!?」
「幸せだったよ。俺にとっては初めての彼女だったから何もかもが手探りで、時には失敗した。だがそれも俺たちからすれば恋人同士でイチャつく一環でしかなかったよ」
懐かしい記憶を呼び起こしたのか、何処か遠くを見るような瞳で当時のことを語る紘平。楽しかった。悲しかった。だが其れ等を全て含めて“良かった”と思えた。そんなことを語る。
しかし紘平の過去を顧みて穏やかになっていた表情は、唐突に無表情へと切り替わった。
「だが、俺は舞い上がりすぎた。当時付き合っていたあいつは学校どころか地域でも知らない人は居ないほどの人気者だった。対して俺は、トランポリンをやっている以外は極めて普通の男だった」
「極めて普通……?」
「別にイケメンでもない。男前でもない。ガタイだけは少し良い、その辺にいる男だったのさ。そんな奴が人気者と特別な関係になったと知れば人間はどうすると思う?」
「……嫉妬する?」
「半分正解。答えは狂うぐらい嫉妬して強硬に及ぶ、だ」
まず手始めに物がなくなった。最初の頃は探してみたが、どうせ見つからないのでそのうち必要な物だけ保持して諦めた。
挨拶代わりに殴る蹴るは当たり前。時には一クラス分の人間から集団リンチを受けた。反撃して傷つければ全て俺に責任が飛んできた。故に反撃するのは止めた。生傷が増えても反撃することはなかった。
家族までもが被害に遭った。突然殴られる。物を盗まれる。後ろ指を指されて嗤われる。最終的には幼い妹にも被害が及んだ。
「そんな……そんな酷いことがっ」
「こんなもんじゃない。確かに当時は最悪だと思ってたけどな。それよりも最悪な出来事が起きた」
「最悪よりも、最悪?」
「まず、住んでた家が放火された。次に俺の目の前で父さんが四肢の皮を剥ぎ取られて殺された。母さんと妹が強姦されて最後には生首となって目の前に献上された」
淡々と、当時あったことをそのまま伝える紘平の表情は“ない”。悲しみも、怒りすらも見受けられない。ただ、ひたすらに無表情である。
そんな紘平を見る愛生の表情は恐怖一色。彼の送ってきた人生に同情するよりも紘平に対する恐怖心が浮き彫りになっている。
「そして最後には……あいつも殺された」
「え……」
「驚いたよ。まさか目の前で強姦されたあげく、ゆっくりと指一本ずつ千切り取られていく様を見せつけられたんだ。完全に息絶えたら今度は死体にも鞭打つように強姦だぞ?」
「うぐっ……」
「吐くならこのビニール袋を使え。遠慮はするな。堪えたら後に響く」
「す、すびまぜっおええええええ……」
耐えきれなくなって差し出されたビニール袋に嘔吐する愛生の背中を紘平は優しく撫でてやる。平然と恐ろしいことを吐き出しまくった己の業を恥じながら。
やがて胃酸をも吐き出したのか、苦しそうに咳き込む愛生に紘平は携行していた水を含ませてうがいさせる。そして水を吐き出してから泣き出した愛生のことを優しく撫で続けた。
「ひっぐ……ごめんなざい……」
「気にするな。重たい話だったからな」
「不用意に聞くことじゃなかったです……数分前の私をぶん殴りたいですよ」
「気になるのは仕方ない。特に女子は恋愛事にすぐ食いつくからな」
「あはは……それより、先輩が恋愛感情を封印しているのは、以前彼女を喪ってしまったからということですか?」
「そうだな。俺は特別な関係になった人をまた喪う恐怖に打ち勝てていない。だから恋愛事からは遠ざかってるのさ」
無表情が消えて憂い気な笑みを浮かべた紘平。たまに見せるフワフワとした微笑みではなく、今にも消えてしまいそうな笑み。
コロコロと分かりにくいながらも表情を変える紘平に、愛生の心は穏やか……ではなく荒れに荒れまくっている。
興味本位で聞いた最愛の人の生きてきた道が、まさかここまで凄惨な物だとは予想できなかったのだ。むしろ予想できる方がおかしいのは置いておく。
「あまり人のことを探るもんじゃない。たまに薮蛇を引き当てるからな」
紘平の言葉が愛生の心に重く響き渡るのだった。
どこからがR-18なんでしょう……このぐらいの表現ならR-15なんですかね?()
※その音色ryでも言いましたが、火曜日から木曜日まで中間テストですので更新されていたらラッキーだと思ってください。