「本当にお疲れ様。もう退院なんてあっという間だね」
「先生、また跳べるようにしてくれてありがとう。これでまた生きていける」
世話になった病室を今一度見渡してから自分の足と肺を復活させてくれた医師にペコリと頭を下げた紘平。医師もまた頭を下げて「勿体ないお言葉をありがとう」という意思表示をする。
紘平の手術が成功してから数カ月が経った年明けの一月。リハビリにリハビリを重ねた紘平は、すっかり回復して今では全力疾走でフルマラソンを走り切れるようになっていた。力の加減のやり方を覚えた紘平は、コンクリートの地面を易々と破壊したり病院を跳び越えたりできるようになっていた他、普通に生活できるようにもなっていた。
「いやあ、いきなり近所から通報が入ったから何事かと確認したら、君が病院を跳び越していると聞いた日はビックリして腰が抜けるかと思ったよ」
「なんかすんません」
「いやいや。いい思い出だよ」
何かしでかすごとに近所から通報されたことを良い思い出と割り切る医師に、紘平はクスっと笑みを零した。
「それじゃあ、僕はもう時間だから。メンテの間隔は三カ月に一回。忘れずに来てね」
「了解っす」
「それと、お見舞いに来てくれていたお嬢さんたちによろしく言っておいてくれ。メンテの時に進展があったら教えてくれよ?」
「善処しますよ。それじゃあ……本当にありがとうございました」
リュックを背負って上着を羽織り、医師にもう一度頭を下げ、家ではなく学校に足を運ぶ紘平。数カ月ぶりに歩く外の世界。病院という閉塞的な空間を感じさせない外の空気に彼は軽く背筋を伸ばしながらテクテクと歩く。
正午近くなため公園に小さい子供が見られる以外は人気が殆どない。しかしキャッキャとはしゃぎ回る幼い子供の姿を見て紘平は寄り道のつもりで公園に足を踏み入れた。
「見ていて微笑ましいなあ」
「あれ、貴方は学生さんですか? 学校行かなくても大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。実はついさっき退院したところで、学校は休んでいるんです」
「あ、あらあら。これは失礼しました」
「おにーさん! あそんで!」
「こら、困らせたらダメよ。すみません、突然……」
「いや、良いですよ。そんな謝らないでください」
服の裾をクイクイッと引っ張って遊んでほしいと催促してきた幼女に目を細め、謝ってきた母親を軽く受け流して遊ぶことを快諾した紘平。
多少なりとも思うところがあるのか、その瞳の奥にはとても深い感情が見られる。小さい子供が好きなのか、あるいは亡くした妹を思い出したのか。それを知るのは彼のみである。
「おにーさん、おにごっこしよう!」
「分かった。それじゃあ鬼はどっちがやる?」
「おにーさんがやって!」
「よし、分かった」
キャーキャー言いながら走り去っていく幼女。それを追いつくか追いつかないかのギリギリの距離をキープして追いかける紘平。
傍から見れば年の離れた兄妹がじゃれ合っているようにしか見えない光景である。しかし目を惹くのは、幼女よりも良い笑顔を浮かべている紘平の姿だろう。
普段は絶対に見せない心からの笑み。それを出している理由はただ一つである。
「そら、捕まえた」
「おにーさんはやい!」
「そうかな? それよりほら、こんな高いところから公園は見たことないだろ?」
「たか~い! おにーさんはちからもち!」
軽々と幼女のことを肩車して公園を母親の目が届く範囲で歩き回る紘平の瞳は、今では随分と昔に感じる記憶を呼び起こして誰も気がつかないうちに濡れていた。
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「ありがとうございました。長い時間遊んでくれて……」
「いえ、気にしないで。小さい子と触れ合うのは嫌いじゃないから」
いつの間にか長い時間が経過しており、日が傾き始めた午後三時頃まで紘平は公園で幼女と遊んでいた。
時計を見て行かなければ、と思った紘平は駄々をこねる幼女を宥め賺して落ち着かせると、礼を改めて言ってきた母親に軽く手を振って公園を立ち去った。
紘平はもう一度時計を見ると、人気のない場所まで歩いてから思いっきり跳び上がった。一瞬でマンションの屋上に跳び乗った紘平は、学校のある方角を確認して再度跳び上がる。
音もなく一軒家の瓦屋根や屋上をあっという間に駆け抜けて、紘平はアッサリと学校へ到着してしまった。
「せ、せせせ、先輩!?」
「久しぶりだな。これから部活だろ。少し見ていっても良いか?」
体育館へと向かう通路の前に着地した紘平のことを偶然真衣が見つけ、思わず素っ頓狂な声を上げる。それもそのはず、彼は空から突然“降ってきた”のだ。驚かない方が無理である。
「あ、今日退院でしたか? 家でゆっくりすれば良いのに……」
「久しぶりに皆の様子が見たくてな。それと勘を取り戻す前に視覚的なところから始めるっていう意図もあるぞ」
「なるほど……あ、椅子を用意しておきますね。それと愛生はもうトランポリンでアップを始めていますよ」
「助かる。それじゃあまた後で」
着替えるために体育館近くにある更衣室へ向かった真衣を見送った紘平は、真っ直ぐ歩いて体育館に足を踏み入れた。
中では既に愛生がトランポリンの“音”を聞きながら飛んでおり、調整を済ませようとしている。最後に見たときよりも高さや精度が上がっている愛生を見て、彼は満足したらしい。
「随分と腕を上げたみたいだな、愛生」
「へ? ……先輩!?」
「久しぶりだな。最近は見舞いに来ないから心配してたんだが……元気そうじゃないか」
その原因を作ったのは紘平自身である。その事に気がついている上で、しかし心配していたこともまた本当なため、紘平はあえてそんなことを口にした。
愛生はというと紘平の凄惨な過去を聞き、とても顔合わせ出来るような状態ではなかった。想像していた紘平の過去などとは比べ物にならないほど悍ましく、異常なまでの凄惨な過去。
彼女は自分が堪らなく恥ずかしかったのだ。興味本位で聞き出してしまった紘平の醜く歪んだ過去を話させてしまったことを。
「あ、その……なんというか」
「過去のことか? そこまで気にするんじゃない。人は誰しもが暗い過去を持っている。俺の場合は偶然にも真っ黒だっただけだ」
「……本当に優しいんですね」
フッと微笑んだ愛生は、口ではそう言いながらも心の中ではこう思っていた。
“私に出来ることはあるのかな”と。
しかし何一つ思い浮かばなかった愛生は、すぐにその思考を止めてトランポリンへヒョイと再度跳び乗った。
トランポリンの基本はストレートジャンプだ。しかしそのストレートジャンプですらも体幹がしっかりしていないと殆ど高さを出すことができない。基礎がしっかりしているからこそ、トランポリン選手は宙返りを繰り返せるのだ。
そして今なら分かるだろう。軽く数メートルの高さまで上がれる愛生の体は、外から見るなら分かることの出来ない筋肉に覆われていることが。
「へえ……上手くなったな。ジャンプも宙返りも。来年度はエースになってそうだ」
トランポリンの基本的な宙返りの姿勢である、
抱えては体を一本の棒のようにピンと伸ばして“浮きながら回っている”ように見せる愛生の宙返りは、紘平からしても上手く見えているのだ。
「
「あ……そうですか?」
紘平の声を聞いた途端に跳ぶのを止めて駆け寄る愛生の姿は、恋愛感情を封印している紘平であっても思わずドキリとする物であった。
極力心の動揺を隠して紘平は続ける。自分が見ないうちに随分と上手くなった。この調子では自分もアッサリ引き離されてしまうだろうと。
「いやいやいや! 褒めすぎですよ。先輩の技術はトランポリン部でもズバ抜けてます。それをアッサリ抜かすなんて無理ですって!」
「相変わらず謙遜するな。だが愛生、人の技術の善し悪しは他人が決めるもんだ。いくらお前が謙遜しても、他人が上手いと言えば事実でしかないんだよ」
「そう、ですか?」
「ああ。お前は上手い。他の誰よりもな」
どことなく甘い空気が充満する。いつの間にか彼らの周りには多くの部員が集まっており、全員例に漏れず砂糖を口からオロオロ吐き出している。中には恨めしそうな視線を向ける部員もいるが、紘平が人睨みすると情けない声を上げてその場に座り込んだ。
「さて……これで全員集まったらしいから練習始めるか。先輩に対して随分な態度を取るぐらい元気があるなら、さぞかし技術も向上しているんだろうな?」
その後、彼の口車に乗せられて真っ先に飛んだ後輩が速攻でダメ出しされて涙目になったのはまた別の話しである。