恋人になった隆士と梢。お休みの日に買い物へ行くときもふたりは意識するようになっていて、幸せな時間を過ごしていた。でも、ちょっとしたことで梢の人格が変わるのは相変わらずで。

※2005年に某所へ投稿した作品を手直ししたものです。
※棗と恵のお話「ことばのいずみ」も投稿しています。

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本日のスープ

「ん……」

「大丈夫?」

 

 改札を抜けて、びゅうっと吹き付けた風に彼女が身を縮ませる。

 

「あ、はい。ちょっとびっくりしただけです」

 

 そう言って、彼女――梢ちゃんは乱れた髪を直しながら頷いた。

「ならいいけど、寒くなかった?」

「いえ、さっきまでずっと暖まってましたから」

「そういえばそうだね」

 

 さっきまで電車の暖房にあたっていたせいか、僕の頬はまだ少し火照っていた。 梢ちゃんの頬も、心なしかちょっと赤らんでいる。

 

「けど、やっぱり外に出ると寒いね」

「そうですね。もう少しで暖かくなってくると思うんですけど」

 

 息を吐いてみれば、白い息が空を漂って消えていく。そして、空を見上げてみれば澄んだ空が茜色から深い蒼へのグラデーションを描いていた。

 あと一ヶ月ぐらいで暦は春に変わるけど、まだまだ冬が続きそうな気配だ。

 

「あの、白鳥さん」

「うん?」

 

 夕飯前で賑やかな駅前通りに出ると、ふと梢ちゃんが口を開いた。

 

「今日は付き合って下さって、本当にありがとうございました」

「そ、そんなにかしこまらなくていいよ。僕も課題が一段落したところだったし、その、こうやって……一緒にお出かけしたかったしね」

「あ、は、はい。その、私も……」

 

 僕たちはお互いに顔を赤くして、ちょっとだけ視線を逸らした。

 ……手を、ぎゅっと繋いだまま。

 

『ちょっと欲しい食器があるので、隣町まで行ってきますね』

 

 梢ちゃんのその言葉から、今日一日が始まった。

 朝ご飯を食べていた僕が同行を申し出ると、最初梢ちゃんは申し訳なさそうにしていたけど、その……梢ちゃんと一緒にいたかったし。

 本当なら、僕のほうから誘わなきゃいけないんだろうけどね。

 桃乃さんや珠実ちゃんにからかわれながら鳴滝荘を出た僕らは、電車に揺られて隣町のデパートへお出かけ。お昼には一緒にハンバーガーを食べたり、少し寄り道をしてウインドウショッピングをしたり。そして、梢ちゃんが欲しがっていた食器もちゃんと買って、僕が手にしている紙袋の中で静かに揺られている。

 

「帰ったら、早めに夕飯の用意をしないといけませんね」

 

 八百長さんで買い物を済ませた僕らは、足早に鳴滝荘へと向かっていた。

 

「ちょっと遅くなっちゃったからね……よかったら、僕も手伝うよ」

「大丈夫ですよ。学校の用事で遅くなった時とか慣れてますから」

「そう? でも、何かあったら遠慮無く言ってね」

「ありがとうございます」

 

 嬉しそうに笑ってくれる梢ちゃんを見て、僕もほんのりと嬉しくなった。

 恋人になったからってわけじゃないけど、何か手助けしてあげられることはしないとね。

 左手には、デパートの紙袋。

 右手には、梢ちゃんの温かい手。

 一緒にお出かけして、一緒に手を繋いで帰って……

 桃乃さんたちに付き合わされる宴会も慣れたけど、こういう穏やかな一日もやっぱりいいな。

 

「うん?」

 

 ブロロロロロ……

 

 もうそろそろ、日が暮れようかという時間。

 鳴滝荘への静かな道を歩いていると、後ろからエンジン音が聞こえてきた。

 振り向いてみると……って、バイク!?

 

「し、白鳥さん!」

「危ないっ!」

 

 僕はとっさに梢ちゃんを抱き締めると、ブロック塀に急いで身を寄せた。

 

 ブオンッ!

 

「うわっ!」

「きゃっ!」

 

 バイクは僕たちの横をかすめて、猛スピードで道路を駆け抜けていった。そんなに広くない道なんだから、あんなにスピードを出さなくたっていいのに……

 

「あっ、大丈夫?! 梢ちゃん?」

「…………」

 

 僕の腕の中で、梢ちゃんは固まっまま俯いていた。

 

「……こ、梢ちゃん?」

「…………」

 

 カタカタカタカタ……

 

 しばらくして、突然梢ちゃんの体が震えだして……

 って、これってもしかして?

 

「あ、あのー」

「しぃ~らぁ~とぉ~りぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃい」

 

 や、やっぱり人格チェンジ?!

 

「あ、あのっ、そのっ、えーっと」

「いつまで……いつまでアタシの許可無く抱き締めてるんだよっ!!」

「うわっ!」

 

 梢ちゃん――人格が変わった早紀ちゃんは、バッと顔を上げると睨み付けるように見上げてきた。

 

「あ、あの、早紀ちゃん? そんなに顔を近づけなくても」

「え?」

 

 僕の言葉に、早紀ちゃんが怪訝な顔をする。

 

「ん……」

 

 そして、僕のことをぼーっと見て、

 

「あ……」

 

 ほっぺたが真っ赤になって、

 

「!!!!!!」

 

 顔全体が真っ赤になった。

 

「しししししししししししししししらとり!!」

 

 その途端、早紀ちゃんは僕から飛び退いて叫びだした。

 

「さ、早紀ちゃん?」

「まてぇぇぇぇぇっ!!」

 

 早紀ちゃんに近づこうとすると、彼女は両手で止まれというポーズをした。

 それから、足下に転がっていた石を手にして地面に一本の線を引く。

 

「あ、あのー」

「だぁぁぁぁぁ!! ダメダメダメダメッ!!」

 

 そう叫びながら、早紀ちゃんは足下の線を指さしてみせる。

 

「いいか、ここから近づくなっ! 境界線! 境! 界! 線!」

「あの、早――」

「領海ー!! 領海侵犯ー!!」

 

 僕がその線を越そうとした瞬間、早紀ちゃんが僕の足下に石つぶてを投げつけてきた。

 怪我するほどじゃないからいいけど、そんなに恥ずかしいのかな。

 

「ま、まず落ち着こう? ね? 早紀ちゃん」

「ああああアタシは落ち着いてる! 正常だ! 至って元気だ!」

 

 そうは言うけど、相変わらず早紀ちゃんの顔は真っ赤で、

 

「ね、早紀ちゃん」

「近づくなぁぁぁぁっ!!」

 

 また近づこうとした僕を、拳で殴りつけようとして――

 

「……あぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 それを突然、塀のほうへ向けた。

 

「早紀ちゃん?!」

 

 僕は慌てて、空いているほうの手でその拳をかばおうとした。

 

「うっ!」

「し、白鳥?!」

 

 なんとか塀にはぶつからなかったけど、その衝撃は僕の手を痺れさせるのには十分だった。

 

「だめだよ、壁は殴っちゃ」

「あ……ご、ごめん」

 

 痺れをこらえて微笑むと、早紀ちゃんは申し訳なさそうにしゅんとなった。

 

「よかった、早紀ちゃんの手が壁に当たらなくて」

「し、白鳥は……大丈夫なのか?」

「うん、壁には当たらなかったから大丈夫だよ。

 

 でも、どうして壁を殴ろうなんて――」

 

「……白鳥を傷つけたくなかったんだよ」

「え……」

 

 早紀ちゃんが僕をさえぎって言ったことに、僕は声を詰まらせた。

 

「だから、白鳥を殴っちゃダメだって思って、その……」

「早紀ちゃん……」

 

 そう言って、僕は早紀ちゃんの手を両手で包んであげた。

 

「だけど、早紀ちゃん自身が傷つけちゃいけないよ」

「でもっ、ダメなんだ! 白鳥が好きで好きで、大好きでどうしようもなくなるんだっ! この気持ちをどこかにぶつけ……ぶつけないと、アタシはたまらなくなるんだっ!!」

 

 顔を真っ赤にしながら叫ぶ早紀ちゃんと一緒に、僕の頬も熱くなっていく。

 すっごく恥ずかしいことなんだけど……でも、それ以上に嬉しい。

 最初に早紀ちゃんが好きだって言ってくれたときは、ただ感情に流されるまま僕のことを投げたり押し倒したりしたけど、今はこうやって僕のことを思いやってくれる。

 梢ちゃんはもちろん、棗ちゃんも千百合ちゃんも、魚子ちゃんもそうだったように、みんながそれぞれ僕のことを想ってくれているんだ。

 

「早紀ちゃん、ありがとう」

 

 僕は包んでいた早紀ちゃんの手を、きゅっと握ってみせる。

 

「少しずつ、少しずつ慣れていこうよ。

 

 僕も、その……そう思ってくれるのは、嬉しいから」

 

「白鳥……うん」

 

 早紀ちゃんは、僕にストレートに想いを伝えてくれる。

 だからこそ、僕も早紀ちゃんにちゃんと伝えなくちゃいけない。

 

「その、サンキュな。手ぇかばってくれて」

「もうダメだよ、こんなことしちゃ」

「ったく、わーってるよ」

 

 少し悪びれたような返事。

 だけと、その顔は早紀ちゃんらしい元気な笑顔だった。

 

「そういえば、アタシって何してたんだ?」

「ああ、買い物帰りだよ。これから夕飯時だからね」

「そっか」

 

 さすがに何度も人格交代を見ていることもあって、こういうやりとりも少しずつ慣れてきた。 早紀ちゃんもどこか慣れたように、僕の言葉に納得する。

 

「んじゃ、とっとと帰って鳴滝荘の奴らにメシを食わせてやらねーとな」

「わっ」

 

 早紀ちゃんはそう言うと、僕の手を握り返して鳴滝荘へと歩き出した。

 

「ほら、行こうぜ白鳥。みんな待ってるからさ」

「うんっ」

 

 僕も、それに応えて足を踏み出した。

 

 *

 

「……んで、話はそこまでってことかな? 白鳥く~ん」

「隠しゴトがあったら、とっとと白状するです~」

「だから、これで話はおしまいですって!」

 

 帰ってきて早々、僕は自室で桃乃さんと珠実ちゃんに尋問を受けているわけで。

 珠実ちゃんはまだわかるけど、どうして桃乃さんまでいつも話を聞きたがるんだか……

 

「なーんだ、つまんないの。それじゃただのフツーのデートじゃないの」

「でも、梢ちゃんや早紀ちゃんの貞操が守られてて、ホッとしたです~。もし汚したりなんかしたら……この世から白鳥さんを滅殺しないといけませんからね~」

 

 だから、その笑顔は怖いって珠実ちゃん!

 

「しかし、梢ちゃんが早紀ちゃんに変わってたのがそういうことだったとはねー。まあ白鳥くんグッジョブってところかな」

「悔しいですけど、グッジョブです~」

「あ、あはははは……」

 

 ビッと親指を立てる桃乃さんと、下に突き立てる珠実ちゃん――って珠実ちゃん、それはちょっと違うんじゃ。

 

「あの、それでちょっと質問があるんですけど」

「ん、何かな?」

「何です~?」

 

 二人が座り直したのを見て、僕もテーブルの前に座り直す。

 

「あの、早紀ちゃんって料理……出来るんですか?」

「え?」

「あ~」

 

 そう。

 ここに来てもう大分経つけど、まだ僕は梢ちゃんの別人格の料理は食べたことが無かった。

 

「そうねー、出来ることは出来るんだけど……」

「言うならば『一球入魂』ですね~」

「あー、そうそう。そういう感じ」

「い、一球入魂ですか?」

 

 まるでスポ根のような……

 

「まあ、百聞は一見に如かずです~」

「そうだね、白鳥くんに見て貰ったほうが手っ取り早いか」

 

 がしっ

 

「いっ?」

 

 突然立ち上がった二人は、僕の両脇を抱えて、

 

「さーてっ」

「行きますか~」

「ちょ、ちょっと~~~~~~!!」

 

 そのままずるずると進み出した。

 ううっ、立ち上がらせてくれたっていいじゃないか……

 

「うぉりゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 だんっ! だんっ! だんっ!

 

「きぃえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 じゃりっ! じゃりっ! じゃりっ!

 

 な、なに? この絶叫と轟音は……

 

「おーおー、やってるねー」

「相変わらず豪快さんです~」

「うわっ!」

 

 二人はそのまま僕のことを引きずると、炊事場の前へ放り出した。

 

「ひ、ひどいじゃないですか!」

「まあ、よく見るです~」

「え?」

 

 珠実ちゃんに言われて、僕はドアの隙間から中を覗いてみた。

 

「とぉりゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 ざしゅっ! ざしゅっ! ざしゅっ!

 

「す、凄い……」

 

 早紀ちゃんが物凄い勢いで包丁を振り下ろす度に、まな板の魚の身が素早く、綺麗に切り刻まれていく。

 見た目は豪快だけど、大きさはちゃんと揃っている。

 それに、大鍋からはコンソメとかトマトとか、いろいろな調味料のいい匂いがしてきた。

 

「ほほー、さすがは早紀ちゃん。相変わらず腕がいいねぇ」

「今日のメインディッシュは期待できそうですわね~」

「本当、美味しそうな香りですね」

 

 梢ちゃんの料理もいつも美味しいけど、早紀ちゃんもその腕をしっかり持ってるってことなのかな。

 

「で、珠ちゃん。他に何か作ってる気配は?」

「ありませんわね~」

「あー、そっか……」

 

 桃乃さんの問いに、珠実ちゃんがすぐさま答える。

 確かに、このスープにだけ集中してるみたいだけど……

 

「さて白鳥くん、『一球入魂』の意味、わかったかな?」

「もしかして、おかずが一品だけしかないってことですか?」

「甘いですわね~。北海道名産『よいとまけ』以上に甘々ですわ~」

「ほらほら白鳥くん、炊飯器とかよーく見てみ」

「炊飯器……ですか?」

 

 桃乃さんに言われたとおり、テーブルの上にある炊飯器を見てみる。

 ……あれ?

 蓋は閉まってるけど、ランプはついてなくて……電源コードも……

 

「は、入ってない?!」

「はい、ご名答だけど減点いちー」

「ということは、夕飯はご飯なしで……」

「まあ、そこが早紀ちゃんのお茶目なところですけどね~」

 

 なるほど、「一球入魂」って「おかず一品に魂を込める」ってわけね。

 

「まあ、今回みたいに具だくさんならいいけど、前は茶碗蒸しのみとかあったからね」

「あの時は、鯛が一匹まるごと入ってて豪快だったです~」

 

 つまり、早紀ちゃんは豪快料理担当なのかな?

 

「でも皆さん、食べたあとにお腹空いたりしないんですか?」

「大丈夫大丈夫。足りなくてもあたしらで何か作ればいいし」

「わたしは梢ちゃんの料理だったら、大満足で食べられるです~」

「そ、そうですか」

 

 そこはさすがに、長年早紀ちゃんたちと接してきただけあるってことか。

 

「んじゃ、あたしは腹を空かせて待つことにしますかね」

「わたしも、じっくりたっぷり待つです~」

 

 そう言うと、二人は楽しげに自室のほうへと戻っていった。

 ……さて、僕はどうしようか。

 ただ一人、ぽつんとここに残されちゃったけど……

 また覗いてみると、早紀ちゃんはさっきの魚をフライパンで焼いていた。

 サラダ油、じゃなくて――ペペロンチーノとかでよく使われる香りの油の匂いが、ぱちぱちって音と一緒に、こっちまで漂ってくる。

 

「よしっ! あとはこれでじっくり煮込ませると!」

 

 早紀ちゃんはまくっていた袖を戻すと、勢いよくこっちのほうへ振り返った。

 

「…………」

「…………」

 

 となれば当然、

 

「…………」

「……や、やあ」

 

 目と目が出会ってごっつんこ、ってことで……

 

「ししししししししししし白鳥っ!?」

 

 そう言うと同時に、早紀ちゃんがこっちにやってきてドアを盛大に開ける。

 

「ご、ごめんね、なんか覗き見しちゃって」

「バカッ! 男だったら堂々と見ればいいのに……ほらっ、入れよ」

「あ、はい、お邪魔します」

 

 前だったら鉄拳が一発は飛んできたのに、今日はしょうがないっていう風に苦笑いしているだけ。

 やっぱり、僕のことを考えてくれてるのかな。

 

「なんだ、今日の夕メシが気になったのか?」

「あはは、なんだかいい匂いがしてきたから」

「そーだろそーだろ? なんてったってアタシの十八番だからな!」

 

 胸を張って言う早紀ちゃんは、どこか誇らしげに見える。それだけ、この料理に力を入れてるってことなんだろう。

 

「ところで早紀ちゃん、今日のこの献立って何なのかな」

「ああ、これはブイヤベースって言ってな、海の幸がいっぱいなスープなんだ。ま、ぶっちゃけて言えば外国の鍋物みたいな感じだけどな」

「へえ」

 

 ブイヤベースか。そういえば、母さんが作ったことがあったっけ。

 

「冷蔵庫の中にいっぱい魚があって、今日の買い物にも海老とかあったから使ってみたんだ」

「そ、そうなんだ」

 

 確か、今日は浜鍋とか梢ちゃんが言ってたけど、一応これも浜鍋……で、いいのかな?

 

「それに、これがあったからな」

 そう言いながら、早紀ちゃんは洗い場にある七枚の皿に手をやった。

「あ、これって……」

 

 それは、今日の昼間に梢ちゃんが買ったお皿――『スープ専用のお皿があってもいいかもしれませんね』って言って買った、少し深めのお皿。

 白くてシンプルだけど、ワンポイントのお魚柄があってかわいいって言ってたっけ。

 

「折角買ってあったんだし、これを使わない手は無いだろ?」

「そっか……そうだね」

 

 ――やっぱり、梢ちゃんの見立てはぴったりだったんだ。

 無意識なのか、それとも記憶の共有なのかかわらないけど、それを早紀ちゃんが引き継いでいるかもしれないことが、なんだか嬉しかった。

 

「な、なんだよ。突然笑ったりして」

「いや、早紀ちゃんの力作が早く食べてみたいなって思って」

「ば、バーカ! いきなり恥ずかしいコト言うなよ!」

「えっ」

 

 僕を軽く突き放すと、早紀ちゃんは顔を紅くしてそっぽを向いた。

 普通に言っただけなんだけど、そう言われると僕もなんだか照れてくるな……

 

「で、でも、折角ここまで来たんだからな、味見させてやるよ!」

「えっ、いいの?」

「ただし、一口だけ! あとは夕メシ時だからな」

「う、うん」

 相変わらず照れたまま、早紀ちゃんが鍋の蓋を手にしてゆっくりと開けた。

「……いい香りだね」

 

 瞬間、炊事場にふわっとコンソメとトマトの香りが広がる。

 少し遅れて、魚介類のいい匂いも漂ってきた。

 

「だろ? じっくり小魚からダシを取って、魚介のダシもだんだん出てくるからな」

 

 早紀ちゃんが自信ありげに言いながら、お玉で鍋からスープを少しすくった。

 手にした小皿に注がれたそれは、赤みががった――だけど、どこか澄んでいる色をしている。

 

「綺麗なスープだね」

「ま、まあ、飲んでみてくれって」

「うん」

 

 早紀ちゃんは相変わらず視線を逸らしたまま、その小皿を差し出してきた。

 それを受け取って、スープを一口すする。

 

「…………」

「ど、どうだ?」

 

 口の中に、コンソメの風味とトマトの酸味が広がっていく。

 それだけじゃなくて、いろいろな魚の風味もいっぱい感じられて……

 

「うん、美味しいよ!」

「ほ、本当かっ?!」

「もちろんっ」

 

 このスープは、とっても優しい味がする。

 豪快そうに見えた作り方だけど、早紀ちゃんらしいというか、なんというか……上手く言えないけど、そんな味がした。

 

「そ、そっか……よかった……よかったぁ」

「さ、早紀ちゃん?」

 

 安心そうに呟いて、早紀ちゃんはへたり込むように椅子に腰掛けた。

 

「大丈夫? 疲れたの?」

「い、いや、なんてーか、その……白鳥にそう言ってもらえて安心したっていうか、とっても嬉しくて」

「早紀ちゃん……」

「ほら、アタシの料理を食べてもらうのって初めてだから、緊張して…… でも、やっぱりいつも通りの料理を食べてもらいたかったんだ。アタシたちは恋人なんだから、よそ行きじゃなくていつものをって思って……」

 

 その言葉が、僕の心をほんのりと暖かくしてゆく。

 形は違うけど、みんながこうして僕のことを想っていてくれているんだ。

 それが、とても嬉しくて……

 

「ありがとう、早紀ちゃん」

 

 とても、愛しくて。

 

「し、白鳥!?」

 

 たまらなくなった僕は、早紀ちゃんの頭に手を置いて、

 

「あっ……」

 

 そっと、撫でてあげた。

 

「本当に、ありがとう。早紀ちゃんの優しさがいっぱい詰まったスープ、大事に食べるからね」

「ば、ばか……ハズカシイこと言うなよ……」

「だ、だって、早紀ちゃんが正直に言ってくれるから……」

 

 だから、僕もちゃんと伝えなくちゃって、そう思って。

 

「そう言ってくれると……アタシも、うれ……しい……」

「ん……」

 

 早紀ちゃんの顔が真っ赤だけど……僕も、きっと顔が真っ赤になってるんだろうな。

 

「そ……それじゃ、そろそろ晩ご飯にしよっか」

「そ、そうだな。もうそろそろ時間だし――ってあぁぁぁぁぁっ!!!!」

「うわっ!!」

 

 突然の早紀ちゃんの絶叫に、僕はたじろいで一歩後ずさった。

 

「ど、どうしたの?」

「ご、ご、ごっ、ごはんっ、ごはん忘れてたっ!!」

「あっ」

 

 そういえば、全然炊いてなかったんだった。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! どうすりゃいいんだ! これから米をといで水に浸して炊いたら、9時まわっちまうじゃんかよ~~~~っ!!」

「だ、大丈夫だよ、これから早炊きすれば――」

「ダメだっ! ダメダメッ!! 早炊きは味が落ちるんだから、今日のには合わないんだよっ!」

「そ、そうなんだ」

 

 さすがは料理に力を入れてるだけあって、完璧なものを作りたいんだろうな。

 

「あ~~~どうしよどうしよどうしよどうしよ、どうすりゃいいんだっ!」

 

 だからといって、早紀ちゃんがこのままだと可哀想だし……って、そうだ!

 

「ね、ねえ、早紀ちゃん」

「う~~……な、なんだよ白鳥」

 

 頭まで抱えちゃって、すっかり参っちゃってるみたいだ。

 

「あのね、家の母さんがやってたことなんだけど……冷蔵庫に、にんにくってあったかな?」

「にんにく……それだったら、さっき使ったけど」

「それじゃあ、バターと……あとパセリ」

「それもさっき使ったから全部揃ってるけど、何するんだ?」

「うん、ちょっとね」

 

 まだ落ち込んでる感じの早紀ちゃんに笑いかけて、冷蔵庫の横にストックしてあった食パンに手を伸ばす。

 

「前に母さんがブイヤベースを作ってくれたとき、付け合わせで出してくれたんだけど……」

 

 何枚かパンをまな板に用意して、冷蔵庫の中からバターとにんにく、パセリを取り出して一緒に置く。

 

「えっと、確かパンにバターを塗って、にんにくを刻んでその上にまぶして、パセリをかけるんだっけ」

「それって、もしかしてガーリックトーストか?」

「それそれ。ブイヤベースにはこれが似合うって、母さんが作ってたんだ」

「だったら、アタシも手伝う!」

「大丈夫だよ。早紀ちゃんも全力で料理して疲れたでしょ? だから、これは僕が作ってあげるよ」

「うっ……で、でもっ」

 

 一瞬嬉しそうだったけど、早紀ちゃんはどこか不満だったみたいで唇を尖らせた。

 

「じゃあ、一緒に作ろうか?」

「えっ?」

「パンにバターを塗っておいたり、にんにくを刻んだりしなきゃいけないからね。そうすれば早く終わるし、少しは楽になるでしょ?」

「あ、ああ。じゃあ、さっさと作ろうぜ!」

 

 早紀ちゃんは椅子から立つと、さっきとは打って変わって元気よく腕をまくった。

 

「そうだね、早く作らないと」

「んじゃ、アタシはにんにくを刻んでおくよ」

「それじゃ、僕はバターとパセリのほうをやっておくから」

「うんっ」

 

 そして、僕たちは二人並んで台所に立った。

 人数分だけじゃちょっと足りないかもしれないから、何枚か余分にバターを塗っておく。

 それに、パセリをぱらぱらっとふりかけて……

 

「なあ、白鳥」

「うん?」

 

 包丁を動かす手が止まったのを見て、顔を早紀ちゃんのほうに向ける。

 

「アタシも、ありがとうな。その……一緒にいてくれて。

 たまにムチャやっちまうけど、その度に白鳥がいてくれたから助かった」

 

 また赤らんでいる、早紀ちゃんの顔。

 

「でも、白鳥も何かあったら……あ、ああ、男なんだから、生半可なことで呼んで貰っちゃ困るけどな! その、えっと……いつだって、頼りにしてくれていいんだからさ」

 

 その表情は、本当に幸せそうで、

 

「……うんっ」

 

 ぽかぽかと暖まった僕の心にも……

 

「さ、さあ、早くやっちまおうぜ。みんな腹を空かせてるだろうしな」

「そうだね、急ごうか」

「おうっ!」

 

 幸せのスープが、たくさん満ちていきました。

 

 

 



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