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ナターリャのお話。
魚の腐ったような臭いがした。それが、彼女の兄の国のにおいだった。臭いとは感じるけれども、嫌いではない。かと言って好きというわけでもないけれど。
国境の駅に降り立 てばいつでも、たとえそこが海から遠く 離れていても、そのにおいがした。
長い間会っていなかったから、それだけで兄が近くにいるような気がする。
ずっと会えなかったのだ。しょうがない。自分も兄も1つの国家として民衆を導いているのだから。兄のことはもう、それは、それは本当に大好きだったけれど、自分の存在意義を忘れてしまうほどナターリャは愚かではなかった。
兄さん、私と会ったらなんと言うだろう。
兄との非公式な会見を明日に控え、古 いホテルの一室で、ナターリャはホテルメード に淹れさせた紅茶を複雑な気分ですする。
熱くて、濃くて、甘ったるいジャムの添えられた紅茶。けれど、その香りは伝わらない。 においのせいで頭痛がする。このにおいは、やはり不安を煽る。また、拒絶されたらどうしよう。
けれど、窓 を開けさせる気にはならなかった。北国の冬の夜の空気は冷たい。寒いのは嫌。寒いのは怖い。
何かいいアイディアはないだろうか。 淀んだ空気を一掃してしまうような。紅茶より も強い芳香を持つ、何か。
「厨房にレモンはある?」
ナターリャはぼんやりと立ち尽くしていたメード に声をかけた。
「ございます」
驚いて、すこし怯えたような声。愚かな小娘。 最後の独裁国家はそんなに怖いのか。 とって喰ったりしないのに。
「それなら、ひとつ持ってきて。レモンを入れた紅茶が飲みたいの」
戸惑うメードにさぁ、早く、と一瞥をくれてやると娘は震えながら部屋を出て行った。暫くして戻ってきたその手には小振りなカナリヤ色の果実が握られている。防黴剤のきつい臭が鼻を突く。
馬鹿みたい。
ナターリャは思わず、口に出して言ってしまいそうになった。
こんな防黴剤に塗れたものをどうして、紅茶に入れられるというの。
確かに私達には大抵の毒物なんて効かないけれど。
だから、お切りします、そう言うメードの言葉は無視して、ナターリャは自分のナイフを取り出した。何かに取り憑かれているかのように普段から熱心に砥いだナイフは、寂れた食堂の貧しい照明でもきらきらと光る。
その光にますます怯えるメードを尻目 に、彼女はレモンにナイフを突き立てた。
その瞬間、レモン特有の冷たい、明るい香りが立ち上る。淡い色の果汁が飛沫を上 げて小さく飛び散る。
その光景を一目見た途端、ナターリャは自分の仕事に満足した。
暗い色調のテーブルの上。皿にも乗らず転がされ たレモン。黄の表面を切り裂いて深々と突き刺さるナイフ。部屋中に広がる芳香にふさわしい。暴力的で潔い静物。
「ずっとマシになった」
そう言う自分の声が何処か遠くで聞こえる気がした。 もう一度、紅茶を口に運ぶと、今度は ちゃんとその味がする。珍しい、ラズベリージャム入りのお茶。甘酸っぱい香りは身体に染み渡るよう。
カップを傾け、背筋を伸ばして座る彼女の中には、明日への不安も、現在の不快も、もう無くなっていた。
読んでくれてありがとう!
どこかのエッセイで林檎に似合うのは良妻、檸檬に似合うのは乙女だと読みました。レモンにナイフを突き立てるナターリヤ嬢の姿が浮かびました。