アンハルト王宮、その第一王女アナスタシア居室。
「で、パレードの様子はどうだった?」
第一王女相談役たるアスターテ公爵がワイングラスにワインを注ぎ、それを口に含む。
まだ昼であるが、酔いたい気分であった。
要するにヤケ酒である。
正妻問題。
もはや、ファウスト・フォン・ポリドロが独身であることは許されない。
当初のアンハルト王家の計画では、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の愛人となり。
アスターテ公爵の末子をポリドロ領の領主とする、その予定であったのだが。
ファウスト・フォン・ポリドロはそれを知らない。
ヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ。
その愛人の立場となり、アンハルト国内の地方領主から最大の注目を集めている。
今のファウスト・フォン・ポリドロはそれを知らないのだ。
「最初は和やかに笑顔をお見せになりました。ヴィレンドルフ戦役を共にされた公爵軍の兵が立っていましたので」
「ああ、ウチの兵相手なら会釈ぐらいはしてくれるだろうさ」
第一王女親衛隊長。
パレードの様子を、より正確にはポリドロ卿の様子を見届けていたその口から、アナスタシアとアスターテ二人に対する報告が為される。
「ですが、途中、国民からの歓声が上がると同時に渋い顔をされました」
「まあな」
「そうなるでしょうね」
報いなかった。
アンハルト王国の市民は、ヴィレンドルフ戦役後のそのパレードにおいて、救国の英傑にして武功第一を誇るファウスト・フォン・ポリドロに何も報いなかった。
ヴィレンドルフ戦役は局地戦である。
あくまで、アンハルトとヴィレンドルフの国境線にて起きた戦争に過ぎない。
だが、一つ穴が穿たれればアンハルトの土地欲しさにヴィレンドルフの各地方領主が参戦し始め、国が窮地に陥りかねなかった。
重要な戦であった。
それでも、憤怒の騎士ポリドロ卿を市民が歓声で迎えることは無かった。
殺してやろうか。
地獄のヴィレンドルフ戦役を共にしたアナスタシア第一王女とアスターテ公爵はそう考えたが、侮蔑をした市民には罰を与えられども、何もしなかったことを罪とする事はさすがの二人にも出来なかった。
苦い苦い想い出である。
その武功に与えられた報酬はポリドロ卿自身が望み、リーゼンロッテ女王がそれに応えて与えた金銭のみであった。
だが、どうでもよい。
ファウスト・フォン・ポリドロの良さは、あの地獄を経験した我らのみが理解できていればそれでよい。
なに、我ら二人がポリドロ卿を独占することを考えれば、この環境はむしろ丁度良い。
そうとまで考えていた。
が、状況は変わった。
このまま座視していた場合、ファウストにはヴィレンドルフからの正妻が与えられる。
そして、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の野望は水泡に帰す。
アスターテは語る。
「ファウストはヴィレンドルフとの実現困難とも言える和平交渉を達成し、その代償に貞操を切り売った。これに王家が報いるには? アンハルト王家と保護契約を結んでいる地方領主の誰もが納得する、その報酬とは?」
「土地か血統。或いはその両方。土地は駄目だ。王領の土地を切り取るのは構わないが、飛び地になる。ファウストは嫌がるであろう」
ワイングラスから、ワインを一滴残らず飲み干す。
アスターテ公爵は再びワイングラスにワインを注ごうとしたが、それを止め、瓶からワインをラッパ飲みし始めた。
「では血統。つまり結婚といっても、相手誰にすんだよ」
「ヴァリエールが相応しいでしょうね。いえ、相応しいと言うか一番マシだわ」
アスターテに相対するアナスタシアが、舌打ちをした。
血統。
もはやポリドロ卿に与える血統は、王家とその親族に連なる血でなければ。
「私では駄目か?」
「無理よ。私か貴女の夫、王配か公爵家の夫はさすがに無理」
「今回の功績を以てしても?」
アスターテ公爵がワインのボトルを放す。
手の甲で唇に残った僅かなワインを拭う。
何とか、自分の夫に出来ないかと思索する。
王位継承権。
第三王位後継者の私より、第二王位後継者のヴァリエールが相応しい理由は?
「わざわざ私の口から言わせないでよ。ヴァリエールは所詮私のスペア。数万を数える領民を持つ公爵家を継ぐ貴女とは違うわ」
アナスタシアがため息混じりに、アスターテに答える。
アスターテは口内で舌打ちしながら、視線を第一王女親衛隊隊長に向ける。
そして、会話の秘匿性の高さから、給仕の代わりを務めている彼女に声を掛ける。
「アレクサンドラ、お前はどう思う」
第一王女親衛隊長、アレクサンドラ。
身長は190cmと高く、その身は全身に特別製の筋肉をうっすら帯びている。
そのバストサイズは豊満であり、侍童が姿を見ると騒ぎ出すような麗人であった。
ある世襲貴族の次女で、アナスタシア第一王女自らスカウトしてきた超人。
昨年行われたアンハルト王家主催のトーナメントでは優勝もしている。
発狂した王族、バーサク状態に入ったそれを除けば、アンハルトではファウストに次ぐ実力第二位を誇る。
もっとも、その実力差はファウストに大きく空けられているが。
「それは私に、ポリドロ卿の嫁に行けという事でしょうか? それならば喜んで」
「違うわ馬鹿者」
アスターテはげんなりとした顔を見せる。
ヴィレンドルフ戦役。
腰まで泥沼に浸かったその戦場にて、ファウストの武勇に魅せられた女は想像以上に多い。
「きっと良き超人の子が産まれると思いますのに」
「童貞を私にくれるなら、お前ならば正妻にしても良いと考えるが。状況がそれを許さん」
アレクサンドラの、次代の超人を産むぞとの言葉。
アナスタシアによる、その言葉の否定。
アナスタシアは、アスターテからワイン瓶を奪い取り、その手のワイングラスにワインを注いだ。
舐める様に、それを嗜む。
「血統。それも誰が見ても、ファウストに報いたと言える血統。それが条件だ」
「じゃあ、やっぱりヴァリエールしかいないか」
「いない。ファウストの童貞はヴァリエールに言い聞かせて、私に譲らせよう」
アナスタシアは、ファウストの童貞に固執する。
それだけは誰にも譲れなかった。
あの貞淑で無垢でいじらしく、朴訥で真面目な童貞のファウストに、その身体を手折られた花のように、自ら自分に開かせる。
それがアナスタシアの私人としての第一の欲望であった。
第二は、ファウストに耳元で愛を囁く事。
第三は、ファウストの子を産む事。
アナスタシア第一王女は、ファウスト・フォン・ポリドロにどこまでも惚れ抜いていた。
「ヴァリエールは納得するかな?」
「納得させる。なにせ、ヴァリエール本人は未だ、自分は将来僧院に行くものと思い込んでいる。弱小地方領の領主とはいえ、僧院に行くよりはよっぽどいいでしょうよ」
何せ、僧院とは違って自由の身だ。
アナスタシアは、ファウスト・フォン・ポリドロを求める。
それはそれとして、今は妹であるヴァリエールが可愛くないわけでもなかった。
「だが、ファウストは?」
アスターテは、アナスタシアに奪われたワイン瓶の残量を心配しながら口を開く。
それを察したアレクサンドラは、代わりのワインを取ってこようと二人から離れた。
アナスタシアは、舌打ちで答える。
「……納得するだろう。ファウストは、先代にして自分の母であるマリアンヌの汚名を濯ぐ事を望んでいないわけではない。王家の血をポリドロ家の血に組み込めるならば、それは達成したも同然」
「まあ、理屈はわかるけどね」
8歳差。
ファウスト22歳、ヴァリエール14歳。
貴族の結婚と考えれば珍しい話ではないし、むしろファウストが婚期を少し逃している。
立場を考えれば、ファウストは否と言うまい。
普通に考えれば。
だが。
「私さあ、ファウストは何か納得しない気がするんだよね」
「何故? ヴィレンドルフの女王カタリナに心を惹かれたとでも?」
「それとは少し違う」
アスターテが唇に指を触れながら、考える。
何か、ズレてる気がする。
アスターテは生まれつき、直感に優れた人間であった。
動物的嗅覚と呼ぶべきか、第六感と言うべきか。
ヴィレンドルフ戦役においても、その直感を用いて部下を生き延びさせた。
自らも命を長らえた。
だが。
「うーん、何と言ったらいいか。ヴァリエールはファウストの好みじゃない? そんな気がする」
「好みじゃない?」
「うん、そう」
失敗するんじゃないかなあ。
これは願望じゃなくて、直感でそう思う。
アスターテはそう語る。
私の妹が不服かと、イマイチ納得のいかない顔でアナスタシアは答える。
「じゃあ、どうすんのよ」
「いや、まあ説得するしかないだろ。ついでに、私達の愛人になるよう勧めよう」
「ファウストに、今更囲い込みかよと取られない?」
ヴィレンドルフに取られそうになったから、ファウストを囲い込もうとした。
一歩出遅れた。
ヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフに一歩出遅れた。
アンハルトに伝播した英傑詩を信じるならば、ファーストキスまで奪われた。
アナスタシアは奥歯を噛みしめながら、引きつった苦笑いを浮かべる。
「ファウストが、カタリナ女王をここまで魅了するとは思ってもいなかった。あの女は知る限り、ヴィレンドルフの美的感覚を持たない。ファウストの容姿を見たところで愛するとは思わなかった」
「判る女には判る。そう言う事だ。ファウストの心の美しさを知れば、心惹かれる女は沢山いる」
我々二人のように。
だが、何はともあれ。
アンハルト王家も、そして私達二人も追い詰められた。
ここが勝負どころだ。
「とにかく、説得だよ。ファウストの正妻はヴァリエール。正妻が決まり、ポリドロ領の跡継ぎを産む相手が決定すれば、私達二人の愛人になる事も嫌とは言うまい」
「貞淑で無垢でいじらしいファウストの事よ。カタリナ女王の件は別枠として、正妻のみに身を捧げると言いださないかしら」
「アナスタシア、お前は何も判ってない」
アスターテが首を振る。
ファウストの事を何にも判ってない。
そんな顔で、愉悦気味に語りだす。
「ファウストは、貞淑で無垢で、私が身体をくっつけて、耳元で愛の言葉を囁くだけで顔を真っ赤に染めるいじらしい男だ。だがな、アイツは絶対ベッドの上では淫乱だ」
「お前は何を言いだしてるのか。18歳の腐れ処女に何が判ると言うのか」
呆れ顔で答えるアナスタシア。
だが、アスターテは一顧だにしない。
「私には判るんだよ! あの真面目そのものの朴訥な表情の裏には、女達に好き放題されたいという願望が眠っているんだって!! 尻触っても決して嫌そうじゃなかったもん!! その後、私は領民に殺されかけたけど」
「もう完全にお前の願望だろ。お前の」
昼は貞淑、夜は淫乱な男。
ファウスト・フォン・ポリドロにはそうであって欲しいとは思う。
私とベッドを共にするときには激しく乱れて欲しい。
それはアナスタシアもそう思う。
だが、それは私達処女二人の勝手な言い分という物であろう。
妄想にも等しい。
アナスタシアは軽く首を振り、馬鹿な妄想を打ち払う。
トントン、と。
丁度妄想を打ち払うと同時に、ドアからノックの音がする。
「失礼します、アナスタシア様、アスターテ様」
「何だ、アレクサンドラ。勝手に入れよ」
さっさとワインの代わりを持ってきてくれ。
そう言いたげに、アスターテがノックに返事をする。
「いえ、ワインを取りに向かった道すがら、ポリドロ卿と出会いまして。アナスタシア様とアスターテ様に話があると、こちらまで」
アレクサンドラの言葉。
それに、二人は顔を見合わせる。
はて、何の用か。
とりあえずアスターテの猥談は聞かれなくて何よりだったが。
「ドアを開けてもよろしいでしょうか」
「少し待て。ファウストは一人か?」
「いえ、従士としてマルティナ嬢をお連れですが」
少し、考える。
何の要件だ?
リーゼンロッテ女王への今回の和平交渉の正式報告、それまでには旅の垢を落とすという名目で今日一日の休みが与えられている。
パレードを終えた後、その貴重な一日を潰してまで私達に何か話したいことがあるのだろうか。
「マルティナ嬢には、部屋の前で待機してもらえ」
「はい、私も同様に致します。ポリドロ卿のみ中へお入りください」
ドアから身長2m超え、鋼のような肉体を持つ男騎士の姿がぬっと現れる。
その男は開口一番、こう呟いた。
「アナスタシア第一王女、アスターテ公爵、しばらくぶりです」
「まだ一か月も経っておらんがな。待ちわびたぞ。和平交渉の件はご苦労であった」
「まあ、私の横に座れよ」
ポンポン、とアスターテが自分の座る長椅子の横を叩く。
ファウストは頑丈な長椅子を軋ませる事なくそこに座り、その巨体を揺すりながら呟く。
「リーゼンロッテ女王に報告に上がる前に、お二人に話が有って参りました」
ファウスト・フォン・ポリドロのその表情は、いつもの朴訥な様子とは違い、真剣そのものであった。