BOOK   作:ゴマ助@中村 繚

10 / 75
一寸法師×ジャックと豆の木【Past】01

 その夢は、毎晩読人の前に現れるという訳ではなかった。

 例えば、課題も予習も復習もきちんと終わらせてお風呂でポカポカに温まり、心配事も何もなくリラックスしてベッドに潜り込んだ夜になると耳の奥からパラパラとページを捲る音が聞こえて来たりする。

 これがきっと、例の夢を視ると言う合図なのだなと読人は寝ぼけた頭でそう思った。50年前、若き日の蔵人や紫乃が参戦した、イギリスを舞台とした【戦い】のアルバムが開かれる合図であると。

 この夢を視始めた時から、読人は1970年代のイギリスについて少しだけ調べてみた。

 この頃のイギリスは、英国病とも呼ばれた長期の不景気に悩まされ多くの人々が苦しい生活を余儀なくされた、労働者の時代らしい。1973年にはオイルショックの衝撃も受けた。1979年にサッチャーが首相に就任してやっと不景気から脱却できたと物の本には書かれている。

 一方、蔵人が青春を過ごした日本はと言うと、1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万国博覧会に代表される戦後の高度経済成長を経た好景気の延長にあった。しかし、やはりオイルショックでその好景気には終止符が打たれ、徐々に下降して行ったらしい。

 オイルショック、恐るべし。

 そんな、調子に乗った日本から遥々イギリス・ロンドンまでやって来た蔵人は、同じく渡英して来た紫乃と出会った。そして彼は今、屋台が並ぶ夕暮れのロンドンでイギリス名物のフィッシュアンドチップスを購入していた。

 

「お待ちどう」

「どうもありがとうございます」

 

 読人には香ばしい匂いや新聞紙越しの熱は伝わらないが、揚げ立ての白身魚のフライとフライドポテトは見ているだけでも食欲をそそられる。蔵人は無愛想な店員に料金を支払ってから商品を受け取ると、屋台の前に置かれている塩とビネガーを軽く振り掛けてから帽子を取って会釈をした。

 フィッシュアンドチップスがイギリスの外食産業としての地位を確立したのは20世紀かららしい。

 労働者の時代はとにかく忙しい、食事なんてゆっくりとっていられない。なので、片手で直ぐに食べられてエネルギーになるファストフードが流行し、労働者たちが帰宅する時間帯になるとこんな風にたくさんの屋台が軒を連ねるのだ。

 ちなみに、味はピンからキリというのはやはりイギリスである。この時代は、イギリスの飯がマズイ事情に拍車をかけたとか、かけなかったとか。

 

「いただきます……うん、失敗。美味しいフィッシュアンドチップスを提供してくれるお店には、いつ巡り合えるのでしょうか」

 

 新聞紙で作られた包み紙を手に、屋台の周辺に置かれているテーブルの一つに座った蔵人はフライを一口食べてこう感想を言った。日本語なので、聞かれても多分大丈夫。

 彼はここ数日、美味しいフィッシュアンドチップスの屋台を探していた。色々と食べ比べていたのだが、今日のは今までで一番の失敗だったようである。

 白身魚のフライはゴムのような歯応えがあって味がない、フライドポテトは芯があってオマケにどちらの衣もギドギドのベトベト。サクっとした歯触りの欠片もない。油の質も良くないようだ、新聞紙に滲んだ油が右手を汚し酷くつやつやしてしまっている。

 一口食べただけで胃が油っぽくなり、二口目の勇気は削がれてしまった。この味の割には高かったなと辟易し、口直しにどこかのパブでジン・トニックでも飲んで帰ろうかと思い始めていた。

 

「だからよ、ヒースの奴が面白いもんを見せてやるって言っていたんだよ。なのに、アイツ、待ち合わせの場所にいたら腰を抜かして倒れていたんだ」

「どうした、死んだお袋さんがマリリン・モンローのドレスで化けて出たのか? あいつのお袋も、相当なダイナマイトだったろう」

「俺もヒースに訊いたんだよ、何があったんだって。そしたらあいつ、「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人にやられた」ってよ。だから何があったんだって!? やられたって言っていた割には、あいつのズッキーニみたいな顔には青タン一つなかったんだぜ。しかも、勉強をすれば吐き気に襲われるとか何とか言っていたのに、本を持ち歩き始めたんだ」

「おお、不景気から脱却できる前兆だな! そんなトチ狂ったことが起きるなんて」

「高そうでキレーな白い本をだったぜ。確か童話だったはずだが、何の本だったかな……」

「で、結局ヒースの言っていた面白いもんは見れたのか?」

「それがよう、ヒースの奴誤魔化しやがった! 魔法が使えなくなったとか抜かしやがって」

 

 蔵人の後ろのテーブルでは、泥で汚れたズボンを履いた男たちが何やら盛り上がっている。

 揚げた豆とフライドポテトを肴に安いエールを咽喉に流し込みながら、今日一日の鬱憤を晴らすかのように声を高くして「ヒース」の話題を振っていた。

 勿論英語で話しているのだが、夢を視ている読人にもしっかりと日本語で理解できたのは不思議だ。

 盗み聞きは良くないが、あちらの大きな声が聞こえてしまったなら仕方がない。「高そうでキレーな白い本」、ねぇ……そのワードを耳に入れれば、蔵人だけではなくロンドンにいる【読み手】は勘付くだろう。「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」の【読み手】が、【戦い】に勝利したのだと。

 

「ふーん……ジン・トニックは、諦めますか」

 

 指に付いた塩を舐めながら呟いた蔵人の声は、誰にも聞こえていなかった。

 歴代で最高に不味いフィッシュアンドチップスを何とか平らげると、新聞紙をそこら辺のゴミ箱に捨ててから興味半分で「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」の【読み手】を探しに、夜のロンドンへと足を踏み入れた。

 今日のロンドンは珍しく霧がない。天気も良い。一年の半分が雨に覆われるこの都市にしては珍しく、ビッグ・ベンの文字盤が遠目にもしっかりと見えるほど空が澄んでいた。

 

「新月なのが残念ですね。さてと……八咫(ヤタ)君」

 

 蔵人が自身の【本】を開くと、光と共に彼の背後には巨大な鏡が出現した。歴史の資料集に載っていそうな太古の銅鏡に似た真円の鏡面が水面のように揺れると、鏡の中から一羽の烏が現れる。

 赤いビーダマのように透明な目と漆黒の羽根を持つ烏は、鷹を始めとした猛禽類とそう変わらない大きさだ。それだけでも普通は違うのだが、よく見れば脚が三本ある。三本の脚を器用に使って、蔵人の腕に止まっていた。

 

「八咫君、ちょっと偵察に行って来てもらえませんか? どこかで、【戦い】が起きているかどうか」

 

 八咫君と呼ばれたその烏は低く一声「カァ!」と鳴くと、蔵人の腕から飛び立ち真っ黒な新月の空へと染み込んで行く。彼は蔵人が想像して創造した存在なのだろう、八咫君と言う名前からして恐らくモデルは『八咫烏』だ。

 八咫君が空の彼方へ消えて数分後、まだ冷たい夜風の中を佇んでいた蔵人は彼が飛んで行った方向から見える羽根吹雪に気付いた。桜の大木が風に吹かれて花弁が散るように、漆黒の烏の羽根が深夜の空から地上へと降って来ているのがしっかり見えているのだ。

 あれが八咫君からの合図だ。八咫烏は導きの使者とも呼ばれている。八咫君は飛んで行った先で目当てのものを見付けたら、遠くにいる蔵人にこうやって教え導いてくれるのだ。

 

「八咫君の元へ一瞬で移動できる手段も、創造しておけば良かったですね……仕方ありません。走りますか」

 

 幸いにも距離はそう遠くない。あの方向は――ロンドン塔だ。

 テムズ河畔にあるこの城郭はかつて、イギリスの国事犯たちが何人も投獄されていた。確か、読人の記憶が確かならば世界文化遺産に登録されているはず……1988年、蔵人がイギリスを訪れた後の時代だ。

 普段は入場料を支払わなければ内部は見学できないが、深夜の時間帯に拷問器具が展示される城内を見物する物好きは少数派だろう。八咫君に導かれなければ昼間に来たかった。

 

「誰かいましたか八咫君? それとも、好みの大烏の女の子でもいました……痛い痛い。八咫君、君はいつから啄木鳥になったんですか?」

「ガ!!」

 

 ちょっと茶目っ気を出した声色でそう言ってみたら、八咫君が啄木鳥のように嘴で蔵人を連打した。

 彼は真面目に導いてやっているのに、こんな茶々は不愉快だったのだろう。お怒りだった。

 ちなみに、ロンドン塔では烏が飼育されている。ここから烏が消えてしまったらイギリスの崩壊と言われているので、風切羽を切られて飛べないようして飼育されているのだ。

 

「と言うのは冗談で。八咫君、ここなんですね……【読み手】がいるのは」

 

 そして、もう【戦い】は始まっているはずだ。

 何で解るかって?ロンドン塔入口を警備している警備員が、蔵人の隣でぐっすりと安眠しているからである。

 強制的に眠らされている。警備員たちに見られたくないことが城内で起きているからだ。

 では、この口髭の警備員をあちらのベンチに寝せておきましょうと、自分より体格の良いその人を背負った蔵人だったが、警備員を背負い上げた瞬間にロンドン塔の方から轟音が響いた。爆発音とも違う、大きな物理的力量を持った物質が壁に無理矢理突貫して来た崩壊の音が静寂な深夜に劈いたのだ。

 警備員を放り投げるようにベンチへ寝かせると、堀と街路を隔てる柵に身を乗り出して音の方へ視線を向ける。月のない夜でもはっきり見えた。

 絡み合う二つの色。うねり、流動する水流と蔦が。

 

「あれは、植物の蔦と水? 何の【本】でしょうか」

「カァ」

 

 水のない、草の生えていない堀に躍動する青と緑が飛び込んだ。鞭のように撓る水流が生き物のようにロンドン塔の周りを蛇行する。

 それを追うのは太く伸びる三本の太い蔦だ。所々に若葉が顔を出して、実に活き活きと水流を追いかけている。

 三本の蔦はお互いを絡ませ合って三つ編み状態になると、より一層太く硬くそして長く伸びた。追いかけられる水流は堀へ雪崩れ込み、鞭の状態から波となる。

 目が回るほどの高速で行われているこれらの一部始終を目にした蔵人は、水流を走る人物に気が付いた。

 否、走ると言うよりは水流を統べるように乗っていると言った方が良いだろう。サーフボードで大波に乗るようにうねる水流を走る姿は、サーフィンとはまた違う。あれは何と言っただろうか?

 両足にローラーを付いた靴……そうだ、ローラースケートだ。

 

「ローラースケートのようですね。体格的にも、彼が「フィッシュアンドチップスを持ったアジア人」でしょうか」

「カァ! カァ!」

「どうしました八咫君……あ」

 

 蔵人は暴れ回る水流と蔦を追うのに意識を集中しすぎて、それらがこちらに向かって来るのに気付かなかった。あ、これ駄目な奴だ……と、鉄砲水のような水の鞭と何本にも枝分かれしている蔦を前にして、夢を視ている読人までも恐怖した。

 おい八咫君、君1人(?)だけで飛んで逃げないで下さい。【読み手】を見捨てないで。

 蔵人は隣から飛んで行こうとした八咫君に手を伸ばすのも虚しく、水流と蔦は止まることもなく、柵を破壊して蔵人もその衝撃で吹っ飛ばされたのであった。

 だけど、吹っ飛ばされているその時に見たのだ。自在に水流に乗って滑り駆ける彼の存在に。

 吹っ飛ばされる蔵人とすれ違ったのは、確かに小柄で細身のアジア人の青年だった。

 少し長めの黒髪にハンチング帽を被ったその表情……蔵人の存在に驚いて目を見開いているのが、すれ違っただけでもよく解るほど接近していたのである。

 

「アンタ! 大丈夫か?」

「あー……はい。一応」

「早く逃げろ! 巻き込まれんぞ」

「はあ」

 

 やはりまだ若い。蔵人よりも、紫乃と年齢が近いかもしれない。

 蔵人を【戦い】に遭遇してしまった一般人とでも思っているのだろう。酷く険しく焦った表情をしていたが、目尻と眉尻が下がった顔はどこか飄々とした小僧の印象を与える。

 そして、青年を追って来た蔦の群れも蔵人の存在に気付いたようだ。先程までは暴れ回っていた蔦たちが急に大人しくなり、一本一本が絡まって天に届くほど長い蔦となっている。

 この光景は、どこかで見た事あるような気がする……雲の上まで伸びた木を登って、巨人の棲家に迷い込んでしまった少年の物語の中で。

 しかし、蔦の上一本にいたのは少年ではなく、赤毛の混ざるブルネットを撫で付けた口髭の男だった。夜空の色と同じ黒の執事服を身に纏い、優雅な仕草で蔵人に頭を下げた紳士が立っていたのである。

 

「こんばんは、異国の迷い人。出会って早速ではございますが、眠って頂きましょうか」

「お構いなく。私も【読み手】なので。貴方がたの【戦い】はあちらで見物していますので、どうぞご自由に」

「今、聞き捨てならねえこと言った!?」

「ほう、貴方様も【読み手】でしたか」

 

 執事服の紳士の足元には女神の彫刻が付いた竪琴がある。どうやら、あの音色で警備員を眠らせたらしい。一般人を眠らせて【戦い】の現場を見せないようにするための創造能力か……良いかもしれない。

 で、青年曰く「聞き捨てならねえこと言った」本人はこの場から退場し、ただの観客になろうとしたがそうは問屋が卸さない。

 現在は3月、【戦い】は序盤。多くの【読み手】たちは自身の【本】をレベルアップするために、紋章集めに集中する。そんな中で、現れた蔵人は絶好の鴨だろう。一気に2人分の紋章が手に入るのだ。




現在では衛生上の問題もあり、新聞紙を包装紙に使ったフィッシュアンドチップスの提供はされておりません。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。