ニヤニヤする。だらしなく緩む頬を、自分の意志ではコントロールできない。
スボンの尻ポケットに入っているスマートフォンに夏月の連絡先が登録されていると言うだけで、高校入学と同時に買ってもらったそれがかけがえのない宝物のように感じられた。
「読人、何をニヤけているんだい」
「え、ニヤけていました?」
「締まりのない顔になっているよ」
『そうだ、キビキビと働け~』
「火衣の言う通りだよ。シャキっとしなさい」
「はい!」
頭の上に飛び乗って来た火衣の小さな手に、ビシビシと額を叩かれた。そうだ、今はバイトの最中……『若紫堂』の店内で、書籍の整理をしている最中なのだ。
この古書店は紫乃が1人で営んでいる。バイトは桐乃と読人だけだ。
営業時間は朝の10時から夜8時まで。全国チェーンの古本屋とは違い、マンガの単行本やライトノベル、ゲームの攻略本等は取り扱っていない。
今のご時世、そんな営業形態で儲かるのかどうかと疑問に思うが、紫乃曰く「生活に困らない程度」には儲かっているらしい。しかも、定期的に大口歳入もあるとか。
つい数分前も売り上げがあった。30代前半ぐらいの男性が、古雑誌のコーナーに並んでいたビニールで梱包された雑誌を五冊ほど抱えて紫乃がいるレジへと持って行くと、嬉しそうに財布を開いて惜しげもなく諭吉を渡し、数人の野口が紫乃から手渡されていた。
どうやらその雑誌は、昭和の終わりに廃刊となった物でマニアの間では高値で取引される物らしい。値段は当時の購入額の十倍となっていたが、それでも男性は「安い」と言って満足そうに店を後にしたのだ。
「ありゃ常連になるね」と、紫乃がちょっと悪い顔をして読人にこっそり呟いていた。うん、うちの師匠は中々に商人根性がたくましい。
「シャキっとするついでに、テープのりのカートリッジを持って来てくれないかい。居間の棚の、上の段にあるはずだ」
「はい、一つで良いですか?」
「頼むよ」
紫乃は、よく新聞やネットニュースの記事をノートに切り貼りしてスクラップにしていた。趣味かどうかと訊いてみたら、今年限りの趣味らしい……【読み手】の気配がする記事を片っ端から集め、軽く情報収集をしているとか。
「どうぞ」
「ありがとさん」
『どうだ紫乃、【戦い】の情報は何かあるか?』
「ああ……どうも、派手にやっている輩がいるようだよ。読人、見てごらん」
そう言って紫乃が開いたページにあったのは、邦人の女性がオーストラリアで怪死していたと言うこと件だった。そのページには、新聞の記ことだけではなく様々なネットニュースが、それこそ片っ端から集められて密集している。
「会社員の
「そう。不思議だろ。夏真っ盛りのオーストラリアのビーチで凍死だ。しかも彼女だけじゃない、その事件の10日後にフィリピンのホテルで韓国籍の男が亡くなっているが、そいつの死因も凍死だ」
「っ」
別のページには、フィリピンを訪れていた韓国人の
どうやって人間を凍死に追い込んだ?夏のオーストラリアで、寒波に襲われることがないフィリピンで?
非現実的な怪事件であるが、今年は日常が非日常になる一年だ。頭を抱えるようなニュースには、【本】を手にした【読み手】が関わっている可能性が高い。
「二度目は偶然かもしれないが、もし三度目が起きたらそれは確信さ。人間を凍死させるほどの冷たいナニかを創造した【読み手】が、倫理も何も関係なく好き勝手やっているということさ。凍死した2人も【読み手】だったはずだ」
「……死は、
「行きすぎた能力を持ってしまった人間は、想像できないほど傲慢で不遜になるもんだ。読人、警戒しておきな。ニュースにはよく目を通しておくんだね。微かな情報を事前に頭に入れておくだけで、無知な状況とは大きく変わるものさ」
「はい!」
読人が持って来たテープのりを本体に付け替えて、また新しいページにネットから印刷した記ことを貼って行く。
今の時代は、情報を手に入れるのに苦労しなくなったと紫乃は言っていた。こんな風に、まだ見ぬ【読み手】の不気味な気配を察知できるほど、世界中にネットワークと言う名の情報網が敷かれている。
50年前の紫乃は一体どんな【戦い】をしていたのだろうか?
インターネットも携帯電話も広く普及していない時代に、紫乃と蔵人はどうやって【戦い】を勝ち抜いたのだろうか?
「師匠。師匠とおじいちゃんが参加した50年前の【戦い】の話、聞かせてくれませんか」
「絶対に嫌だね」
「えー?!」
『そもそもお前、聞かなくても知る手段があるだろ』
「でも、朝起きると大体の内容は忘れちゃうし……実際に話を聞くのと、夢で視るのは違うことだし」
「聞いても参考にならないと思うよ。50年も間が開くんだ、【戦い】はその都度、全く違う物になる……読人、お前さんは自分の【戦い】をしなさい。現代に生きるのは、お前さんら若い世代なんだから」
凛とした厳しい声が空気をピリピリと震わせるが、その声色には母親が子供を諭すような優しさも感じられた。
紫乃は読人と桐乃にとっての師匠であるが、彼女は自分の意志を弟子兼バイトたちは押し付けなかった。あくまで自分の意志を貫き通せと、選択肢は自分で選べと言ってくれた。
だた、人道の外れるようなことはあってはらないとだけキツくキツく言い渡されていたのだ。
「はい! じゃあ、聞かないことにします」
「そうしなさい」
「すいませーん」
「いらっしゃいませ」
「文庫本って、外のワゴンにあるだけですか?」
「いえ、中にもありますのでどうぞご覧下さい」
今度は大学生と思われる女性のご来店だ。さあ、バイトモードに切り替えよう。
特別忙しいとは感じず。書籍の整理をしたり本棚の埃を払ったり、小さな雪がちらほらと降って来ると外に出している文庫本のワゴンを店内に撤収したりしていたら、あっと言う間に夕方5時半を過ぎていた。
読人のバイトは午後6時まで。あと30分もすれば終わりである。
「そう言えば師匠、桐乃さんはいつからバイトに復帰するんですか?」
「大学の試験が終わってからだから、2月には戻って来るよ。あの子は学業に対しても真面目さ。追試の心配はしなくても良さそうだ。それより読人、お前さんの期末試験はいつからだい?」
「2月の半ばです」
「試験期間はバイトを休んで勉強に集中しなさい。もし赤点でも採ったら、時給下げるよ」
「胆に銘じておきます!」
『頑張れ、高校生』
うちの店長は、仕事も厳しいが学業にも厳しかった。高校生より早い時期に行われる大学生の期末試験のため、ここ一週間、桐乃は『若紫堂』に顔を見せていない。
しかし、世の中には試験期間中でも出勤を強制されるブラックバイトなるものがあるため、それに比べれば時給が低くとも快適すぎる職場環境だ。赤点を採ったら、もっと時給が低くなってしまう可能性もあるけれど。
再び、頭の上の火衣が額をビシビシペチペチと叩かれながらハタキを片手に本棚の掃除を再開させると、入口に人の気配がした。反射的に「いらっしゃいませ」と口からでると、上質なカシミアのコートを着た白いヒゲの紳士が小さく手を挙げながらにこやかに来店なさったのだ。
「こんばんは紫乃さん、しばらくぶり」
「どうも、久方ぶりです」
「最近どうも忙しくて、顔を出せずにいましてね。何か、良い本は入りましたか?」
「ええ、ありますよ。読人」
「はい」
「地下の23番の棚のもんを持って来ておくれ」
「分かりました」
『若紫堂』の地下には、書籍を保管しておくための倉庫がある。そこに収められているのは、気軽に店内に置いておけないほど高価な物たちで、本を傷ませないために温度や湿気が徹底管理されている。
勿論鍵がかかっており、紫乃から鍵を受け取った読人は階段を下って倉庫に向かうと『二十三』と彫られた棚に収められている白木の箱を持って来た。
バイトを始めた頃にこの地下を案内されたのだが、この倉庫に収められている本たちは、その価値の解る人間からしてみれば宝の山らしい。値段を付けるとしたら、数百万も下らないとか。
「どうぞ」
「ありがとう」
「新しい従業員?」
「はい、先日からお世話になっています」
「若いね、高校生? 紫乃さんが高校生を雇うなんて珍しい」
「ちょっとした縁があったのさ」
両手に白い手袋を着けた紫乃が壊れ物を扱うように白木の箱の蓋を空けると、中からは油紙に包まれた二冊の本が姿を現した。和紙の表紙とページが糸で製本されており、墨で書かれたタイトルは崩れすぎていて読むことができない。
紫乃は神妙な表情になったのとは反対に、お客は新しい玩具を見付けた子供のように表情が明るくなった。
この本は、江戸時代の中頃の物だとか貸本で人気だったとか、これだけ状態の良い物は珍しいなどとの会話が2人の間でされていたが読人には半分以上理解できない。大人しく本棚の掃除に戻ってハタキを動かしていると、お客が懐から一枚の札状の紙を取り出した。
あれは、ドラマとかでよく見る物だ……所謂、小切手である。
「いつものように、紫乃さんが望む値段を書いて下さいな」
「いつものように、この本に相応しい値段しか書かないよ」
そう言っているが、万年筆を握った紫乃の手は0を何個も連ねている。0が五個……本日の、最高売上額となりました。
嬉しそうに箱を抱えたお客……様を、「ありがとうございました!」と頭を下げてお見送りすると、彼は店の外に停められていた高級そうな自動車に乗り込みお帰りになった。後部座席のドアが勝手に開いてそちらに乗り込んだので、運転手付きのようである。
「師匠、さっきの人は?」
「関東の近辺で、いくつか会社を経営している人だよ。古書集めが趣味でうちがお気に入りなんだとか」
「はあ」
「つまり、定期的の大口歳入。パトロンさ」
そう言って、五個の0が並ぶ小切手を見せた紫乃はどこかお茶目に微笑んだのだった。
夢で視た彼女の若い頃よりも華やかなその表情を見て、きっとさっきのお客は店ではなく紫乃がお気に入りなんだろうな~っと、頭の片隅で思った読人であった。
そんなこんなしている内に、町内で午後6時を知らせるチャイムが鳴り出した。これにて読人のバイトは終了。何だか今日は、1日の内容が濃かった気がする。主に昼から夕方にかけてが。
「それじゃあ、気を付けてお帰り」
「はい。お疲れ様でした」
『読人、メッセージ通知が来ているぞ……ん? ナツキって誰だ?』
「勝手に見ないでよ!?」
『ロックのパスワードは、誕生日以外にしておけ』
いつの間にか読人のスマートフォンを手にリュックの中から顔を出した火衣は、勝手知ったる顔でロックを解除し、メッセージアプリを起動した。
小さなハリネズミの手からそれを取り返すと、メッセージの送り主は確かに夏月である。『バイト終わった?』から、『今日は楽しかったよ』と来て、『また誘ってね』と言うメッセージの後に『Thanks』と書かれた旗を持った兎のスタンプが送られて来た。
自分のバイトが午後6時に終わると聞いて、それに合わせてメッセージを送ってくれたんだと悟ると、胸の奥からジーンとしたナニかが湧き上がって来る。あ、やっぱり好き。
「うわ、うわあああ~!」
『頑張れよ、青少年……ふ、青春だな』
両腕で顔を覆って道路の真ん中にしゃがみ込んだ読人は、確かに甘酸っぱい青春をしていたのだった。
一方、彼にメッセージを送った夏月はと言うと。
「……送っちゃった。男の子に、またお茶に誘ってとか送っちゃったよ~~!」
と、彼女もまた、読人に負けないぐらい顔を赤くしてクッションを抱き締めて、自室のベッドの上で丸くなっていた。
火衣の言う通り、どちらも青春していたのだった。
Name:竹原夏月(タケハラナツキ)
Age:16歳
Height:162cm
Work:都立暦野北高等学校1年B組
Club:剣道・薙刀サークル