BOOK   作:ゴマ助@中村 繚

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肉じゃが【Past】+α

 今夜はちょっと系統が違う夢を視た。

 50年前の蔵人の手にあるのが『古事記』の【本】ではなく銀色のフォークであり、場所は霧深きロンドン市内ではなく椅子とテーブルが置かれたダイニングだ。もっと言えば、蔵人がイギリス滞在の拠点としているフラットであり、龍生と光孝も共にテーブルを囲んでいる。

 年期の入った飴色の木製テーブルの上には、硬そうな麦パンと出来合いのマッシュポテト、濃い橙色に煮込まれたトマト味のビーンズが一枚の白い皿に乗っている。皿の隣には、木製のボウルに入ったキャベルのサラダ。日本の物よりは色味が濃くて葉質がくしゃくしゃしている。

 今夜の夢は、朝食の風景だった。夜なのに朝の夢とは、これいかに。

 肉々しいタンパク質が少ない朝食を前にして、誰も手にしているフォークを伸ばさずにどこかうんざりしたような表情をしていた。

 

「……飽きました」

「白米と味噌汁が食いたい。蕎麦でも良い」

「イギリスのご飯は、不味いです」

 

 どうやら、イギリスの飯が不味いことに嫌気が差して来た頃の記憶のようである。

 読人の時代では改善が見られつつあるイギリス料理であるが、蔵人たちが滞在した頃の時代では不味いままなのだ。それは、以前に視たフィッシュ・アンド・チップスの夢でも証明されており、この頃のイギリス人たちにとって食ことの味は二の次で手っ取り早く腹が膨れればいいのである。

 そのせいで、世界でもあまり類を見ない食にアグレッシブな日本国民の胃袋が、悲しい悲鳴を上げていた。

 

「何でしょうかね、イギリスの料理……と言うか、食材に手を加えただけの、料理とは言えない中途半端な食べ物たちは。付け合わせのホウレンソウは茹ですぎてペースト状で、鶏肉は焼きすぎでパサパサとした食感で。イワシが飛び出たパイとは、二度とお会いしたくはない」

「あれは狂気の沙汰ですよ。シェパードパイは、まあ美味いですけど店には当たり外れあるし。フィッシュ・アンド・チップスばかり食っていたら、たまには刺身とか淡泊なもんが食いたくなるし」

「贅沢は言いません。でもせめて、お肉が柔らかいシュラスコが食べたいです」

「光孝君、それはかなり贅沢なお願いですよ。仕方ありませんね……日本の最先端技術の結晶にお湯を注ぎましょう」

「イカンです蔵人さん! そのチキンラーメンとカップラーメンは、いざと言う時の非常食です! 気持ちは分かりますけど手さ付けたら駄目です!!」

 

 濁った両目で日本から持ち込んだチキンラーメンとカップラーメンを手にする蔵人を、龍生が必死に止める。じゃあボンカレーを温めましょうと言ったが、そういう問題ではない。ラーメンが駄目でカレーはOKと言うことではない。そもそも日本米がない。

 今ここで、まだ春の訪れも実感できない時点で胃袋が折れてそれら非常食に手を出してしまったら、本当の非常事態の時に泣きを見る羽目になるのだ。【戦い】は長い、こんな序の口で日本の最先端技術の結晶に助けを求めることはできないのである。

 ちなみに、日本人のみならず全世界の人間の胃を3分と言うお手軽短時間で満たしてくれるカップラーメンは、1970年代に誕生した。アメリカ人がチキンラーメンを小さく割って、紙コップに入れてフォークで食べていたところから発送を得たと言われている。

 発売当初はさっぱり売れなかったが、1972年に発生した浅間山荘事件が切っ掛けで世間に知れ渡り、読人たちが暮らす現代に至るまで人気商品の座に君臨し続けているのだ。

 そんな大変貴重な日本の非常食は、大事に大事に段ボールの奥にしまっておかなければならない。なので、蔵人たち3人は、観念して大人しく硬い麦パンを齧って朝食を終えた。

 

「昼はマダム・ココのお店のカレーにしませんか」

「そうしたいのは山々ですが、あまり外食ばかりでは懐具合が気になってしまうんですよね」

「うっ……確かに」

「でも、日本的なカレーライスも食べたいですね。マダム・ココがお作りになるココナッツ風味のカリーも美味しいですけど……」

 

 駄目だ、すっかりホームシックだ。しかも胃袋から来たものだ。

 朝食後は、せめて美味しい食材がないかと感じたのか、彼らはフラットからほど近いマーケットにやって来ていた。

 海外のマーケットは日本のスーパーマーケットや市場とは違う風景だ、まるで縁日の屋台が連なる神社の境内に見える。

 まだ泥が残る採れたれの野菜が無造作に積まれ、肉や魚もむき出しのままで店先に重ねられ時々猫が泥棒して行く。日本から一歩も出たことがない読人にしてみれば、本の中やテレビの向こうの光景としてでしか見たことがない風景だ。

 周囲から聞こえるマーケットの店員たちも呼び込みが日本語で聞こえるのは不可思議な体験だが、初めて見る野菜やハーブ類には、どうやって食べれば良いのか首を傾げてしまいそうになる。実際には、枕の上の頭を捻っているだけだが。

 

「そう言えば龍生君、料理はされますか?」

「できないです。台所さ入れば猛烈に叱られました」

「おや、男児厨房に入るべからずですか?」

「んにゃ、邪魔だちょす(触る)なって理由で、直ぐに叩き出されました。野菜の皮さ剥いたり、切ったりはできると思いますけど料理はできません。蔵人さんは?」

「簡単な自炊なら日本でもやっていましたけれど、あくまで日本の家庭料理に限ります。醤油も味噌もない現状では、聞きかじった西洋料理もできるかどうか……光孝君は」

「……」

「あ、無理そうですね」

 

 蔵人が光孝へ視線を移せば、彼は冷や汗をかきそうな真っ青な顔と虚ろな視線で屋台の店先にぶら下がっているエシャロットの束を眺めていた。1970年代、男性の家事・育児も広く浸透しない時代の日本男児たちに、慣れぬ異国の地で自炊しろと言うのは難易度が高い要求である。

 しかし、イギリス・ロンドンは三食外食するにも覚悟がいる都市だ。懐具合を鑑みても、これからは自炊に着手しなければならないのである……この、妙な色をした野菜は、どう料理したら良いのだろうか。

 なるべく日本でも目にするような食材と、それっぽい調味料を探しながらマーケットを冷かしていた3人だったが、その道中で見知った食材ではなく見知った女性を発見した。

 

「あ、紫乃さーん」

「貴方たち……はぁ、もう諦めましたわ」

 

 紫色のリボンが付いた白いボーラーハットを被った小柄な女性が魚屋の屋台の前にいたのを龍生が発見した。茶色い紙袋を抱えた紫乃である。

 龍生が人懐っこい笑顔で彼女を呼べば、こちらを向いた紫乃の柳眉が少々吊り上った。彼女にしてみれば、同じ日本人と言うだけで仲間でも味方でもない、思いっ切り敵の立場なのにこんな風に友好的に声をかけられるのはいささか迷惑だ。

 だけど、いくら言ってもこいつらは改めないと感じたのだろう……龍生と蔵人、そして光孝を視界に入れた彼女は、諦めたような呆れたような表情で溜息を吐いた。

 

「こんにちは紫乃さん、お買い物ですか?」

「ええ、そうですが」

「紫乃さんは、こちらでの食事はどうなさっているのですか?」

「私は、基本的に自炊しておりますが」

「えっ、イギリスの食べ物で自炊ばしているんですか?」

「紫乃さん料理上手なんですね。メニューはヨーロッパの料理ですか?」

「いえ……日本食です。日本から、醤油や味噌などの調味料は送ってもらえるので」

 

 紫乃の口から、欲して止まない調味料の名前が出てしまったらもう駄目だったらしい。日本食に飢えた3人の喉が分かりやすくゴクリと鳴った。醤油、味噌、ついでに梅干しも。鰹節でも可。

 不老不死と『竹取物語』を巡る【戦い】は始まったばかり、完全なる勝利を手に入れるのは1人だけ……紫乃が言った通り、周りの者は全て敵だと噛み付くことは間違ってはいない。同じ日本人でも、慣れ合うのは良しとしないのだろう。

 が、背に腹は代えられない。胃袋の欲求には、素直に従わなければストレスが溜まるのである。

 

「紫乃さん……ご飯、作って下さい」

「「お願いします」」

 

 マーケットのど真ん中、日本人らしく腰を90度に曲げて紫乃に頭を下げた男3人に対し、紫乃は呆れるのでも迷惑がるのでもなく……ただただ、仰天して戸惑っていたのだった。

 今までの夢の中で、彼女のこのような表情――あまりにも隙だらけな、焦りを見せたのは初めてだった。

 

「……何で、こんなことに」

 

 そして、次の場面では紫乃は蔵人たちのフラットのキッチンに立っていた。

 使い込んでいる感じの見られないそこに並んでいるのは、龍生と光孝が先ほどのマーケットで買って来た食材が並べられている。大振りのジャガイモに長い葉のニンジン、掌に収まるほど小さなタマネギにカブに、ホウレンソウやよく分からないハーブ。肉は、ちょっとオマケしてもらった。

 その前に並んでいるのは、紫乃に頼み込んで譲ってもらった日本の醤油と味噌だ。日本米は……流石にそこまで厚かましくはないので、マーケットを駆け回って何とか発見したタイ米を代わりに茶碗に盛ろう。だが、このキッチンに炊飯器はないのである。

 

「蓋付きのお鍋はありますか?」

「えーと……こちらでよろしいですか」

「結構。それにしても、貴方たち。少しは自炊をしなさいな。今の時代、男も台所に立たなければならなくなりますよ」

「確かに、女性たちも今以上に社会へ躍進するでしょうね。肝に銘じておきます」

「ですが、今は邪魔なので出て行って下さい」

「……はーい」

 

 包丁を手にした女性に逆らってはいけないのは、古今東西変わらないのである。

 ブラウスの袖を捲り上げた紫乃に、素直に従った蔵人はそそくさキッチンを退出した。綺麗にウェーブのかかった髪をまとめて三角巾の中にしまい込み、調味料を取りに帰った時に一緒に持って来た自前のエプロンを着けるとタイ米を研ぎ始めた。蔵人が出した鍋に米と水を入れる、どうやら鍋で米を炊こうとしているようだ。

 米を炊いている間におかずの準備。多種多様な野菜を数秒眺め、何を作るか決めた紫乃は米を炊いている鍋よりは小ぶりな物でお湯を沸かし始めた。

 

「紫乃さーん、何かすけ……手伝いことあります?」

「結構です」

「はーい……」

 

 龍生がキッチンに顔を出したら、にべもなく断られてしまった。

 それでもそのままいなくなる訳ではなく、紫乃が料理する後ろ姿を黙って見詰めながらうろちょろしていた……これは、アレだ。お手伝いがしたくてたまらない小さな子供だ。

「一緒にやりたい」と言う、無邪気な好奇心が駄々洩れで背中に突き刺さっているのである。

 

「……」

「……」

「……お暇でしたら、ジャガイモの皮を剥いて下さいませんか」

「っ! はい!」

 

 ほら、居心地が悪くなった紫乃が声をかければパァっと顔が明るくなって嬉しそうにキッチンに入って来た。

 包丁が一本しかなかったのでナイフを手にしたが、龍生は器用にジャガイモの皮を剥いて行く。ピーラーを使わなければ野菜の皮を剥けない読人とは、エライ違いである……あ、変色しないように水に漬けろと紫乃に注意されている。

 

「紫乃さん、芋で何を作ってくれるんですか?」

「肉じゃがにします」

「肉じゃが、イギリス生活にピッタリですね」

「え、何故ですか?」

「肉じゃがとは、イギリスのビーフシチューを日本で再現しようとして誕生してしまった料理なんですよ。よく見れば似ていませんか。ジャガイモとニンジンと牛肉が、茶色く煮込まれていますよ」

「そういえば!」

「手伝わない人は出て行って下さい」

「ごご、ごめんない!」

「配膳はお手伝いしますね」

 

 光孝に蘊蓄を披露していた蔵人が叩き出された。

 紫乃と龍生が並んで野菜の皮を剥き、適当な大きさに切っているその姿。

 若い男女がキッチンに並ぶその姿は通常、夫婦にも見えるかもしれない。だが、龍生が器用にジャガイモの皮を剥いて、その仕上がりを紫乃に確認を取ってから冷水に浸す姿が母親のお手伝いをするやんちゃな息子にしか見えないのは何故だろうか……。

 

「んー、出汁の匂い。紫乃さん、それ何ですか?」

「顆粒出汁です。鰹節で取った出汁より味は劣りますが、お湯に入れるだけで出汁の味が付くので時間の短縮になります」

「へー、そんなもんがあるんですか。便利な世の中になったっきゃ」

 

 現代ではお馴染みになった顆粒出汁は、この時期に発売され始めたが世間に浸透し始めたのはもう少し先である。鰹節で出汁を取る手間もコストも省けるため、日本の食材が手に入り難い海外生活には強い味方だ。

 カブを煮る鍋の中に顆粒出汁を入れれば、その様子を見ていた龍生の顔が懐かしそうに緩む。読人に匂いは伝わらないが、過去の彼には懐かしい出汁の香りが鼻を抜けて脳に響いているのだろう……キッチンの向こうからも、蔵人の感嘆の声が聞えて来た。

 湯掻いたホウレンソウは胡麻和えにして、出汁の中のカブに遅れて葉を投入して煮込んで味噌を溶かせば、カブの味噌汁が完成。

 深めのフライパンでは、遂に肉じゃがの調理が始まった。タマネギと牛肉に火を通し、ニンジンとジャガイモ、水、そしてここでも顆粒出汁を入れて煮込み始める。本当は味醂も欲しいところだが、残念ながら紫乃が持ち込んだ調味料の中に味醂はないので、砂糖を少し多めに入れていよいよ醤油の登場だ。

 フライパンより小さめの鍋の蓋を落とし蓋とし、沸騰したところでガスを弱火にしてグツグツと煮込む。肉じゃがにしっかり味が染み込んで最高の食べ頃になれば、蒸らしていたタイ米もふっくら炊き上がった頃であった。

 イギリス・ロンドン生活最初の日本食フルコースは、紫乃特性の肉じゃがとホウレンソウの胡麻和え、カブの味噌汁。そして、炊き立ての白米である。

 

「うわあぁぁ……! 銀シャリに味噌汁、醤油……!」

「副菜を作って下さるとは、紫乃さん素敵です」

「美味しそうです……いいえ、絶対に美味しいです!」

「では、いただきます」

「「いただきます!」」

「……召し上がれ」

 

 やはりと言うべきか、フライパンごと出された肉じゃがに一斉に箸が集中する。

 醤油と砂糖の甘じょっぱい汁が絡んだ肉と、ほっくり煮込まれたジャガイモを湯気が立つ米の上に乗せてそのまま頬張れば、胃袋が死んでいる顔をしていた3人には生気が戻ったのだった。

 

「っ、うめじゃーー!」

「あああ……美味ひいです、紫乃ひゃん」

「紫乃さん、本当に……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 龍生は肉じゃがと米をかっ込んで、光孝は身に沁みる故郷の味に感涙し、蔵人は最初に一口を何度も噛み締めて飲み込んでから紫乃へ深々と頭を下げる。そして紫乃は、自身が作った料理を絶賛されても照れることはなく、まるで腹を空かせた子供に向けるような眼差しでそう返したのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 深めのフライパンに油を引いてタマネギと牛肉に火を通し、適当に切ったジャガイモとニンジンを入れて少しだけ炒めてから水を注ぐ。そこに、事前に取っておいた鰹出汁と砂糖、味醂、醤油を加えてから落とし蓋をして煮込み、沸騰したらさやいんげんを追加して弱火にする。

 50年以上も作り続けた肉じゃがのレシピであるが、かつての物とは少々違う。若い頃に作っていたレシピよりも味醂が多く、甘めの味付けになってしまったのは亡き夫がその味付けを好んでいたからだ。

 自分から申告して来た訳ではない。ただ、おやつに大学芋やみたらし団子を作れば、早々と食べてしまったその姿を見て、この人は甘党なんだと感じたからちょっとだけ味醂を多くしたのだ。

 糖質の取りすぎは身体に悪いと口酸っぱく言いつつも、大匙一杯増の味醂は許してしまっていたのだから、若い頃と比べれば随分と焼きが回って来てしまったものである。

 40年以上作り続けた肉じゃがは、ホックリ甘く仕上げたジャガイモに甘じょっぱい汁を吸い込んだ牛肉と、ニンジンの赤とやさいんげんの緑のコントラストが目に美味しい。このまま蓋をして蒸らしておけば、もっと味が浸み込んで美味しくなる。

 日が経ってしまった牛肉を使い切ろうとしたら、老人の1人暮らしでは食べ切れない量になってしまった。冷めたら桐乃と読人に持たせてやろう。割烹着タイプのエプロンを脱いだ紫乃は、ついでにタッパーも準備しつつバイトたちに任せている店へと戻って行った。

 

「読人」

「はい」

「お前さん、肉じゃがは好きかい」

「肉じゃが、ですか? 好きです」

「作りすぎたから、持って行きなさい」

「ありがとうございます」

 

 紫乃の肉じゃが。50年前、異国の食材で作られた肉じゃがは夢の中でも湯気の温かさや醤油と出汁の匂いが伝わって来そうなほど美味しそうだった。

 夢を視た翌日の夕飯は思わず肉じゃがをリクエストするぐらい、食べ盛りの胃袋に非常に優しくない過去の出来事だったが……まさか、その肉じゃがを食べられるなんて、思ってもいなかった。

 藤色の風呂敷に包まれた少し大きめのタッパーがバイト上がりの読人に手渡された。まだほんのり温かい。家族3人だから、少し大めにお裾分けしてくれたのだろう。だが、実は本日の黒文字家は2人家族である。

 今日は、母が職場の飲み会のため男2人で侘しい惣菜ディナーなのだ。この肉じゃがはかなり有り難い。

 夕飯を買うついでに、バイト上がりの読人も拾って行くと言っていた父を『若紫堂』の最寄駅で待っていると、父の職場方面からやって来た銀の自動車がロータリーに入って来た。

 

「ただいま」

「お帰り、読人」

「これ、肉じゃが。奥島さんからもらった」

「美味しそうな匂いだ。後でお礼の連絡をしておこう」

「母さん、何時ぐらいに帰って来るかな?」

「出版社さんとの飲み会でそんなに長居はしないはずだから、9時前には帰って来るはずさ」

 

 助手席にはエコバッグに入った惣菜が置いてあったので、読人は後部座席へと乗り込んだ。エコバッグの中身はきっと、市役所の近くにあるスーパーマーケットの惣菜だろう。あそこは、弁当やおにぎりに使われる白米は固くてあまり美味しくはないが、惣菜は下手な駅地下のデリより美味しいのだ。

 父が好きなリンゴの細切り入りのポテトサラダとニンジンサラダ、2割引きシールが貼られたマグロとサーモンの刺身、パック詰めのから揚げとエビチリも入っている。

 このエビチリは、幼い頃の読人が好きだった物だ。

 お店で食べるエビチリとは違い、一口サイズの海老が分厚い衣で二回りほどかさ増しされているし辛味もあまりないが、その衣がアメリカンドックの衣のようにほんのり甘く、控えめの甘辛いタレと相まって子供の舌に美味しいのである。

 そのことを覚えているからか、父はこのスーパーで惣菜を買う時はこのエビチリは必ず買って来るのだ。

 自宅に到着すれば、父が乾燥器の中の洗濯物を取り込んでいる間に読人は惣菜を皿に移して電子レンジへ。紫乃からもらった肉じゃがは、牛肉を摘まみ食いする火衣を追い払ってからタッパーごとテーブルに置く。赤と茶色に偏ってしまった夕食の出来上がりだ。緑の要素が刺身の大葉ぐらいしかない。

 まあ、母が不在の日ぐらいは良いか。父は発泡酒を用意して読人は白米を茶碗に盛っていざ、いただきます。

 

「あ、肉じゃが美味しい!」

「読人、ポテトサラダ食べるか?」

「うん」

 

 牛肉とジャガイモを白米の上に乗せて汁を浸み込ませ、そのまま頬張れば糖分の甘さと牛脂の美味さが舌を刺激する。甘めでしっかりとした味付けなのが意外に感じたが、それでも母が作る肉じゃがとは違う美味さだ。

 肉じゃがを食べてポテトサラダも勧められてと、芋ばかり食べているように見えるがニンジンサラダや父が買って来てくれたエビチリから揚げもしっかりいただいた。

 男2人のちょっとだらしがない食卓は、茶碗の中の白米がなくなり二本目の発泡酒が半分以下になってしまっても、テレビのバラエティを観ながらだらだらと続いていた。

 

『当時、喫茶店のウエイトレスとして働いていたのだが……偶然来店した大物プロデューサーTの目に留まり、翌年アイドルデビュー。同時に発表したデビュー曲『シンデレラの忘れ物』は、オリコンチャート初登場1位に輝くなど、正に昭和のシンデレラガールと言うべき伝説のアイドルなのだ』

「シンデレラか……そう言えば、読人には言ったっけ?」

「何を?」

「母さん、昔のあだ名はシンデレラだったんだ」

「初めて聞いた」

 

 何となくチャンネルを回したバラエティ番組は、往年の名曲を現代のアーティストがカバーして披露すると言う歌番組。その中で、両親の世代よりももう少し昔に大活躍したアイドルの紹介をしている中で有名な物語のヒロインの名前が出た。

 灰被りと呼ばれて苛められていた少女が魔法使いに素直で純粋な心を評価され、魔法をかけられ舞踏会で王子様に見初められ、ガラスの靴にカボチャの馬車と誰でも知っている要素が詰め込まれたおとぎ話『シンデレラ』。彼女のように、一夜にして大逆転の成功を者はシンデレラガール・ボーイと呼ばれることがあるが、まさか読人の母がそう呼ばれていたのは初耳だった。

 

「母さんとは、友達の友達みたいな繋がりで、飲み会で出会ったんだ。当時はみんな若かったからな、日を跨いで何軒もハシゴするのはざらにあったけれど、母さんはいつも12時前には帰っていた。翌日が休日でも、友達に引き留められても帰ってしまう」

「それで、シンデレラ?」

「そう。おじいちゃんが厳しかったから、12時まで門限があったんだよ。母さんも、それをきちんと守っていた人だった。それに、父さんも助かっていたよ。あの頃の父さんは、一般の会社に勤めていて早朝の現場とか多かったから、母さんに乗っかって飲み会を抜け出していた」

「へー」

 

 それが、2人の馴れ初めらしい。元々、早々と帰ってしまう母を気になっていたが、一緒に早い時間に飲み会を抜け出して帰りに駅まで送る短時間を積み上げて結婚に至ったのである。

 今でこそ市役所に勤めている父であるが、大学を卒業してから数年は一般の建設会社に勤務していた。市役所に入ったのも母と結婚して黒文字家に入り、読人が産まれて将来のことを考えてだそうだ。

 優しい気質の父であるが、色々と苦労して来たのだ。

 母の、かつてのあだ名はシンデレラ。埃塗れの灰色の少女は一転、シャンデリアの如くキラキラ光り輝くプリンセスへと変身した。そんな、物語の大きな変化は起きなかったけれど、シンデレラは12時の鐘が鳴る前に華やかな席を抜け出して勤労な青年と出会い、幸せに……過ごして、いるのだろうか。

 

「ただいま~」

「お帰り。どうだった、飲み会?」

「んー……長年、営業に来てくれた人が春から異動になるって。ちょっと残念」

「あの、気が利くって言っていた人か。何か食べる? 奥島さんから肉じゃがを頂いたよ」

「じゃあ、お茶漬けと肉じゃが食べたい」

「了解」

 

 読人が入浴中に、母はタクシーに乗って帰宅した。何杯か飲んだのだろう、頬がほんのり薄紅色に染まってほろ酔い気味だった。

 母は酒が入ればちょっと甘えたになる。こんな風に、皿洗いをしていた父にお茶漬けを強請ってジャケットが皺になるのも気にせずにソファーに半身を横たえる。

 シンデレラは12時の鐘が鳴る前に華やかな席を抜け出して勤労な青年と出会い、ほろ酔いで美味しいお茶漬けと肉じゃが食べてとても幸せに暮らしているのである。

 取りあえず、その幸せの大切なピースである読人は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してから母を「お帰り」と出迎えることとしよう。




基本的には、顔も体格も母親似なよっくんだが、おでこや眉の形は父と瓜二つ。耳の形はおじいちゃんに瓜二つ。

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