BOOK   作:ゴマ助@中村 繚

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4月1日から6月30日まで
雪の女王01


「アナタ、観光ですか? それとも、仕事? いいところに案内できます。一緒に行きませんか」

 

 3月28日、神奈川県横浜市。

 横浜中華街として親しまれる飲食店が並ぶ一角の中華料理店の冷凍室において、女性従業員・(コン)沐婧(ムージン)の遺体が発見された。

 死因は凍死。遺体からは争った形跡やその他暴行の痕跡が見付からず、現場となった冷凍室が鍵の故障で開かなくなっていたことから、被害者は誤って中に閉じ込められて死亡したと判断された。

 警察は事故と結論付けた。他殺の可能性を欠片も考えなかった。

 しかし、彼女は背の高い男性と腕を組みながら付近のホテルへと入っていったのを目撃されていた。

 

「ねぇ、何でコート、着ているの?」

「冷え症なんだよ」

「本当だ。冷たい身体ね……温めてあげる」

 

 その日は、今年一番の暖かさを迎えた春の日だった。

 こんな暖かい日なのに、沐婧と共にホテルで休憩していた男性は冬物の黒いロングコートを着ていた。警察に調べられることはなかったが、ホテル内の監視カメラにも季節外れな姿がしっかりと映っている。

 ベッドに雪崩れ込んだ男女は密着し合い、沐婧は男の衣服を脱がそうとコートに手をかけた。シャツの上から胸に手を置けば、ひんやりと冷たい体温が伝わってくる。まるで冬の記憶を呼び起こすような冷たい身体だ。

 男の身体に細い腕を回してごそごそと衣服をまさぐり、男の手も女の服に伸びて邪魔な隔たりをゼロにする……かと思われた。

 そのまま濡れ場にシーン突入するかと思ったか。残念でした。

 女の手が男の背に伸びて硬いナニかが指を掠めたその瞬間、冷たい大きな手で口を塞がれ、ベッドに頭を叩き付けられて拘束される。

 必死にもがいて抜け出そうとするがそれが叶わず、身体はガタガタと震え始め背筋は凍った。比喩ではない。本当に、氷の槍で突き刺されたかのような冷たい痛みが走ったのだ。

 

「いけない人だ。僕の服ではなく、隠していた【本】に興味を持ってしまうなんて」

「……っ!」

「まあ、最初からそのつもりだったんだろう。僕が【読み手】と知って誘って来た、僕は君の不恰好な誘惑に誘われてあげた。甘いねぇ、君の容姿でそう簡単に男を誘えると思っていたのかな。それとも、僕は穴があれば何でもいいと考える男にでも見えたのかな。業腹だね」

「~~っ、~~!」

「休憩だから時間がない、単刀直入に言おう。君の【本】はどこにある? 大人しく紋章を渡してくれれば、凍えずに済むんだけど」

 

 この男は、最初から知っていた。

 沐婧はこの男が【読み手】だと知っていて近付いたことを。そして、男も彼女が【読み手】だと知っていた。

 浅はかな企みほど直ぐに露見する。【戦い】を経ることなく、服を脱がせるだけで勝者になろうなんて甘すぎる考えだ。

 唇に触れている男の手が氷のように冷たい。唇から頬へ、頬から顔全体へ、顔から首を経由して身体まで冷気が浸透して体温が奪われる。

 抵抗のために男の手に爪を立てようとするが、冷気によってガタガタと震える指先は満足に動かずに抵抗もできない。自身の持つ【本】の在り処を白状すれば、この冷たさから逃れられるだろう……しかしもう、口すらも動かない。

 青紫色に変色した唇は凍りつき、上下に動かして言葉を発することも喘ぐことすらもできなくなっていた。

 

「もう一度訊こうかな。君の【本】はどこにある? タイトルは別に興味はないよ。紋章さえあればそれでいいんだ……さあ、答えなさい」

 

 優しく、甘く、生娘を安心させるが如く問いかける男だが、その目からは温もりが感じられない。

 まるで氷のように、透き通った冷たい目を最期に……金沐婧は、冬の眠りに付いた。【本】を閉じられて脱落した後、凍死体となって冷凍室に遺棄されることとなる。

 最も美しい死体は凍死体であると、誰かが言った。

 生を凍りつかせて氷の中に閉じ込めて、死の眠りへと誘う。凍傷で指が腐り落ちる暇もなく、身体の芯まで凍えてしまえば光の粒に抱かれた白い死体ができるだろう。

 だがしかし、死体が美しいなんてことはあり得ない。

 後は腐るのを待つだけの人間なんて、美しくはない。

 

 

 

***

 

 

 

「紫乃さん、お祝いして下さい」

「嫌です」

 

 何故そんなことを言い出したか。理由を聞く前にバッサリと切り捨てたら、蔵人は解りやすくショボンとした表情になった。

 同情してやるものか、そんなワザとらしい悲しい顔なんて。

 お気に入りのカフェでティータイムを楽しんでいた紫乃は、後から来店した蔵人に遭遇してしまい、出会い頭でこう告げられた。勝手に相席をして、勝手に自分も紅茶を一杯注文する。

 イギリスにもやっと春が訪れた頃の話だ。温かい春風の到来とイースター休暇を控えたロンドンは、どこか浮足立って少しだけ陽気が飛んでいる気がしていた。

 

「今日、誕生日なんですよ」

「どちら様の?」

「私の」

「……」

「嘘ではありませんよ。正真正銘、4月1日が誕生日なんです。それに、もう午後ですよ」

 

 4月1日、エイプリールフール――四月馬鹿。それが、暦の上での日付である。

 こんな日に突拍子もない発言をして来たら嘘と疑ってしまうが、時計の短針が「12」を過ぎているので時刻は午後だ。エイプリールフールは好き勝手に嘘を吐く日ではない、きちんと明確なルールがあり嘘を吐いて良いのはその日の正午までだ。

 既に正午は過ぎ去って、今はアフタヌーンティーの時間。なので、これは嘘ではありませんと、蔵人は腕時計を指示して現時刻をアピールした。

 

「今日で28歳になりました。龍生君と光孝君から、「おめでとう」のお祝いの言葉をいただきました。嬉しいですね、誰かに生まれた日をお祝いしてもらうのは」

「……知ってしまったからには、無視はできませんね。お誕生日、おめでとうございます」

「ありがとうございます、紫乃さん」

 

 それが、ちょうど50年前のロンドンでのやり取りだった。

 

「懐かしいことを、思い出しちまったね」

 

 不意に、50年前の4月1日を思い出した。

 あれから年号が二回変わった。紫乃が日本で迎える七十数回目の4月1日。

 点けっぱなしのテレビからは、真新しい社会人たちの様子やどこかの会社で行われた入社式の映像が流れている。

 今日から新年度だ、他愛もない嘘で楽しんではしゃぐのは子供たちぐらいだろう。それぐらい、社会人の4月1日は忙しい。

 けれど、自由気ままな自営業には日常の1ページにしか過ぎない。今日も今日とて、本と人間の出会いを斡旋するのが紫乃の仕事だ。

 そう言えば、今日のバイトは桐乃だけ。件の4月1日生まれの孫は、本日はお休みである。

 

「……何で、今年に限って思い出してしまったのでしょうか」

 

 今年が、【戦い】の年だからだろうか。

 

 

 

***

 

 

 

 本来ならば、今年の4月1日は黒文字蔵人の78歳の誕生日だった。

 毎年この日になると家族全員でお祝いをする。おじいちゃん誕生日おめでとうと、蔵人の家に集まってみんなでささやかな食事会をしてプレゼントを贈っていた。60歳を過ぎても70歳を過ぎても、祖父は誕生日をお祝いされるのをとても楽しみにしていたのだ。

 生まれて来たことを祝福されるのは、とても嬉しいことなのだと幼い読人にそう語っていた。勿論読人も、祖父の誕生日を心から祝福していた。

 

「読人、今日はおじいちゃんの誕生日だし、チーズケーキを買って来てくれない? お金はここに置いておくから」

「はーい」

 

 久し振りにスーツで出勤する母が、財布から5千円札を出してテーブルに置いた。

 蔵人の誕生日を祝う際のケーキは、毎年同じ物である。『いせのや』と言うケーキ屋のチーズケーキだ。

 ベイクドでもなくレアでもなく、マスカルポーネのチーズムースが柔らかいスポンジに挟まれ、上にはアプリコットジャムが塗られたケーキが祖父の好物だった。

 ふわふわのスポンジケーキと甘さ控えめの、それでいてしっかりとチーズの風味が利いたムースはとても軽い口当たり。そこに甘酸っぱいアプリコットジャムが乗せられることで、口の中がサッパリ爽快になるため、3ピースほどペロリと食べてしまう美味しさだ。火衣ならば、2ホールぐらい食べてしまうかもしれない。

 幼い頃の読人は、チーズケーキと言えばこのケーキしか食べたことがなかったので、小学校の給食でベイクドチーズケーキが出て来て驚いたことを覚えている。『いせのや』のチーズケーキが出てくると思っていたのに、全然違う物が出て来て困惑したのだ。

 昨年は、このチーズケーキを蔵人宅に持ち寄ってちょっと良いお寿司を出前して、ついでに読人の高校進学も一緒にお祝いをした。今年から家族のイベントがなくなったことに久し振りの焦燥感を抱きつつも、母を見送った後に読人は火衣を連れてケーキを買いに出かけたのだ。

 

「すっかり春だ」

『風も温かいな~』

 

 すっかりお気に入りになったベストを薄手の長袖のパーカーインナーの上に羽織って、ボディバッグに財布と【本】を突っ込んだだけで家を出た。

 本日の最高気温は20度越え。気圧配置の影響で場所によっては強風注意報が出ているが、その風も先月発生した春一番のように温かく吹き荒れている。

 パーカーフードの中に火衣を入れて春の風に誘われながらふらふらと町を歩いていると、『いせのや』がある商店街へ向かうための橋の真ん中で脚が止まった。

 橋が架かる小さな川の縁には、大きな桜の木が一本だけ植えられている。その桜の枝は橋の中にまで伸びているのだが、今日は薄桃色の桜がお邪魔していたのだ。

 東京の桜は今週が見頃とニュースの天気予報士は言っていた。満開の桜が、春の風に揺られて圧倒的な存在感を誇っているのである。

 

「うわ~、いつの間にか満開になっている」

『春になったら、桜の下でお花見をするんだろ。稲荷寿司と巻寿司の弁当を持って、飲んで食って大騒ぎ』

「見てない、食べているだけ!」

『桜餅も季節だな~』

 

 このハリネズミの頭の中は、どっちに転んでも花より団子のようだ。でも、確かに桜餅は食べたい。稲荷寿司はひじき入りの酢飯が良い。

 最後にお花見をしたのはいつだったかと、橋の高欄にもたれかかって桜の花を眺めていた読人だったが……そこで突如、今日一番の突風が何の前触れもなく巻き起こった。

 小さな薄桃色の欠片を舞い上げて、橋を歩行中の女性の髪も読人の髪もボサボサに舞い上げて、火衣の小さな身体を吹っ飛ばしていったのである。

 

「うわっぷ!?」

『みぎゃっ!?』

 

 不意打ちの突風は読人の長い前髪をぐしゃぐしゃにして通り過ぎ、その衝撃で前髪を止めていた三日月のヘアピンが外れてしまったのだ。きっちりセットした前髪がぐしゃぐしゃのボサボサになって視界が塞がり、しかも絡まって元に戻らない。ついでにいうと、桜の花弁が二、三枚ほど頭に乗っている。

 前が見えない状態で絡まった髪に悪戦苦闘していたら、米神にヒヤリと冷たい指が触れて来た。

 

「っ!」

「落ち着いて。ゆっくり」

「……はい」

 

 心地の良い低音が旋毛に振って来て、その声の主の手が読人の髪をゆっくりと梳いた。その指が随分冷たいのに驚いたが、困っていた読人に手を差し伸べてくれた良い人だ。多分。

 絡んだ髪が解かれ、両目を覆う長い前髪を横に流せば手を差し伸べてくれた人の顔が見える。けれど、最初に目に飛び込んで来たのは顔ではなく、コートを着た腕だった。春の季節に似合わない黒いオーバーコート……左腕のボタンが、一つない。

 その腕に沿うように視線を上へと移動させれば、冷たい指先の主の顔がはっきりと見えたのだ。

 

「大丈夫かい?」

「はい」

「桜が付いているよ」

 

 そう言って、その人は読人の頭に乗っていた花弁を取り払ってくれた。

 背の高い、壮年の男性だった。歳の頃は読人の父親よりも上、50歳ぐらいだろうか……先日還暦を迎えたのに、全然そうは見えない若々しい俳優にどこか似ている気がした。

 というのも、俳優のようにハンサムな男性だったのだ。

 白髪交じりで綺麗なグレーになった髪は丁寧にセットされ、顔に刻まれた皺は深くなく大人の男性の渋みを強調させる働きしかしていない。声も、とてもダンディだ。憂いと色気が混在している。

 だが、読人に触れた指と頭一つ上から見下ろしていた視線が……磨かれた氷のように、鋭く冷たかった。

 

「ありがとうございました」

「どういたしまして。それでは、失礼」

 

 背の高い男性は読人の頭から取り払った桜の花弁を春風に乗せて、橋を渡り切ってその場から去って行った。

 何だったんだろうか、今の一連の流れは?

 まるで一昔前の少女漫画だ。少し大人向けの。

 もし読人が女子高生だったら、地味な女の子がダンディな年上の男性と出会って一時的な触れ合いを経て別れ……その後、思いもよらぬ再会を果たして物語が開幕するだろう。

 が、現実は頁の上の物語のようには行かない。読人は男子高校生だし、年上のオジサマにときめいたりもしない。そして、運命を感じた奇跡的な再会が訪れるなんてとんでもない低確率だ。

 きっと、あの人とは一期一会。少しだけ、助けてもらってさようならのはずだ。

 

『凄かったな、さっきの風』

「火衣、大丈夫」

『おう。ほらよ、落ちてたぜ』

「あっ! ありがとう」

 

 飛ばされた火衣が、前髪から外れてしまった三日月のヘアピンを咥えて帰って来た。何でも、さっきの強風で高欄から川に落ちかけたらしい。マスコットの極小サイズでは、簡単に飛ばされてしまうのである。

 火衣からヘアピンを受け取って適当に前髪を止めた。また強風の餌食になる前に早く『いせのや』へ向かおう。火衣を再びフードの中に入れた読人は、男性とは逆方向へ向かって花弁が舞う橋を渡り切った。

 本日の強風で満開の桜が散ってしまう恐れがあるため、お花見をするならば今週中がオススメです。




ベイクドでもないレアでもない、スフレチーズケーキ!

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