もしもその人が身近にいたならば、一体どんな存在になっていたのだろうか?
読人が産まれる前に亡くなった伯父は、過去の人物であった。想い出の中の存在。顔を知っているだけの伯父さん。血が繋がっているだけの赤の他人だ。
だが、その伯父を殺したと櫻庭の口から告げられたその瞬間に、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
ぐちゃぐちゃになった頭のままで身体は冷え続けて、読人の意識は途切れた。写真でしか見たことのない、書人の顔が脳裏に過りながら。
「…………、……っ?!」
『気が付いたか?』
「火衣! あの、人は……? 櫻庭は?」
『落ち着け。あいつは消えた、お前は生き残った。それで、ここは若紫堂だ』
「若紫堂……」
妙なデジャブを覚えたのは、今の読人の状況がつい3か月前と同じだったからだろう。『若紫堂』の同じ部屋で布団に寝かされて、目が覚めたら火衣がいた。
そして、朝顔が描かれた襖が開けられて色々な物が乗せられたお盆を手にした紫乃が入って来た。
「師匠……」
「今度は、驚かなかったようだね。身体はどうだい? 熱や怠さは?」
「大丈夫、です」
「そうか。異変を感じたら直ぐに医者にかかりなさい。凍死寸前だったんだ」
読人の体調を確認した紫乃が、お盆に乗せられていた熱めのおしぼりを手渡してくれた。だが、おしぼりで顔を拭いても一向に頭の中も顔もスッキリしない……理由は分かっている。
櫻庭の告白が原因だ。
「師匠」
「何だい」
「伯父さん……黒文字蔵人の息子の、書人さんを知っていますか?」
「……」
「知っているんですよね?! どうして死んだか、何故死んだか、何で殺されたか……!」
「……知ってはいるけれど、お前さんはそれを、私の口から聞きたいのかい?」
「あ」
「お前さんに、過去の真実を語らなければならないのは、私じゃあない」
誰かが読人に過去を語るのか……その“誰か”は、もう理解しているはずだ。
そう言った紫乃は、お盆に乗せられたピッチャーから冷たい緑茶をコップに注いでくれた。おしぼりと引き換えに緑茶を受け取って一気に飲み干せば、まだたくさん残っていた言いたいことが、一旦喉の位置に留められた気がした。
「これだけは言っておくよ。どんな酷く哀しい過去でも、それはすでに起きちまったことだ。戻せないしやり直せない、ただ飲み込むしかない。だけどね……そんな過去でも、これからの
「導……」
「考えなさい。お前さんが書人さんの真実を知って、それからどうするかを」
「……」
「……台所の冷蔵庫に、蔵人さんが好きだったケーキが入っている。もっていきなさい」
「え?」
「今更意味がないかもしれないけれど、私から蔵人さんへの誕生日プレゼントだよ」
初めてあげたけどね。ぬるくなったおしぼりと空になったコップをお盆に乗せた紫乃は、少し照れ臭そうに早口でそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
そうだ。結局、蔵人の誕生日のために買ったチーズケーキは、ひっくりかえってぐちゃぐちゃになってしまったんだった。
「……火衣」
『どうした?』
「俺、伯父さんは、書人さんは事故で亡くなったって……ずっと、そう聞いていたんだ」
遺影の中で優しく微笑むその顔は祖父に似ていたが、祖母にも母にも似ていた不思議な人だった。
もし、彼が生きていたら……蔵人によく似た、上品で美しい紳士となっていたら、読人にとってどんな伯父だったのだろう。
きっと優しくて、凄くカッコいい。蔵人や母よりも読人に甘くて、強請ったら綺麗な車でドライブに連れて行ってくれる大好きな伯父さん。かつて同級生が語った優しい伯父像を元に、大人になれなかった伯父を空想してみたことはあったが、長くは続かなかったのを覚えている。
現実味がなかったからだ。
読人にとって「伯父さん」という存在は、最初からいなかったし、いてもいなくても大きな変化はない存在だと思っていたからだ。
「書人さんが17歳で亡くなったって聞いた時、何故って感じた。どうして、そんなに若くしてって。でも、彼を語る母さんやおばあちゃんが凄く悲しそうだったから、みんなを悲しませちゃいけないってあまり口には出さなかった……俺は、書人さん自身に対して、親しみの感情は何も抱かなかった。だって、知らない人だったから」
『……だけど、今はどうだ?』
「頭の中がぐちゃぐちゃで、お茶を飲んだはずなのに口の中がカラカラに乾いて……喉の辺りが、ざわざわする」
『悲しいってことだろう、つまり』
火衣の言葉で実感した。
そうだ、自分は悲しいんだ……伯父が殺されたと聞いて、悲しいし悔しいし、怒っているんだ。
蔵人が亡くなった時、読人は悲しかった。
書人を殺したという櫻庭の言葉を聞いた今、この瞬間も悲しいんだ。そして、悔しいんだ。腹立たしいんだ。
書人について何も知らなかったことが。櫻庭に対して何もできなかったことが。何もできなかった自分が。
「俺、思った以上に書人さんのこと、好きだったみたい。会ったことがなくても、彼のことを知らなくても、俺の伯父さんだったんだ。おじいちゃんの、おばあちゃんの、母さんの大切な人だったんだ」
『じゃあ、行くか』
「うん」
過去を……黒文字書人を知る者のところへ、彼の真実を尋ねに行く。
紫乃が言っていた彼女からの誕生日プレゼントは、ひっくり返ってしまったケーキと同じ『いせのや』のチーズケーキ。読人が買った物よりも一回り大きい6号のホールケーキが、箱のまま冷蔵庫に入っていた。
チーズケーキを持って、紫乃に頭を下げてから読人と火衣は帰路に着いた。
もう時刻は夕方だ。思った以上に眠っていた彼の背中を見送った紫乃は、読人が寝ていた部屋と廊下を挟んで反対側にある、屋の夕顔の襖を開ける。そこには、ぬるくなったお茶と粗方消費されたお茶菓子と共に、5人もの少年少女が詰め込まれていたのだ。
「読人は帰ったよ」
「どうでした?」
「こちらがあまり口出ししなくてもよさそうだね」
「良かった……」
無意識に小さく呟いたのは夏月だったが、何が良かったのか自分でもよく分かっていないようにも見えた。
櫻庭が【戦い】を中断させて、ついさっきまで雪だるまのように冷たくなっていた読人を『若紫堂』に運び込んだのは、現場にいたその他の面々である。
成り行きで読人の搬入を手伝ってしまったハインリヒとビルネもいた。落ち着いてお茶を手にした時に、響平に「誰?」と問われて少し焦っていたのを桐乃と夏月にしっかり目撃されていた。
「読人に会いに来たけど、今日は会わない方が良さそうっスね」
「響平、お前さんも早く岩手にお帰り。龍生さんたちを、あんまり心配させてやりなさんな」
「はーい」
「夏月も送ろうか?」
「いいえ、大丈夫です」
「では、私たちもお暇します。シノ様、お茶とお菓子ごちそうさまでした。美味しかったです。帰りましょう、ハインリヒ」
マンションで待っている執ことに連絡して、途中まで迎えに来てもらおうと座布団の上から立ち上がったビルネに続いてハインリヒも立ち上がら……なかった。両手を膝の上に乗せたまま、首を傾げたビルネに彼はこう言ったのだ。
「……足が痛い」
慣れぬ正座で痺れていた。
***
「ただいま~」
「お帰り」
「三豚家の豚まん、今日で最後だって言うから買ってきちゃった。夕飯前だけど、食べる?」
「あ、うん」
「おじいちゃんにもお供えしちゃおっか」
「……母さん」
「なーにー?」
「書人さんって……殺されたの?」
4月1日午後6時21分頃、通勤に使う駅にあるとんかつ屋の袋を手に母が帰宅した。袋の中身は冬季限定の豚まんである。
スーツを着替えずに豚まんを温めよう台所に立つ母へ、思い切って声をかけてみればべしゃっという音が台所から聞こえた。母が豚まんを床に落とした音だった。
「読人……っ、どうして」
「事故じゃ、なかったんだ」
「……っ、誰から聞いたの?」
「お店に、若紫堂に来たお客さん」
まさか書人を殺害したと言う張本人から聞いたなどと言えずに適当に濁したが、母は観念したような表情で
落とした豚まんを拾って皮のカスが付いてしまった床を拭いて、豚まんの床に接してしまった皮は千切って捨てた。豚まんの処理を無言で行ってから読人へ座るように促した後、お気に入りのカップに紅茶を淹れる。
ブルーオニオンのマイセンは、結婚祝いに祖父母から贈られた物。自分へのご褒美や、何か特別なことがあった日にだけ使用される母の宝物のカップだ。
カップに口を付けて紅茶を一口飲んだ後、遂に母は閉ざしていた口を開いたのである。
「書人伯父さんのことは、お父さんやおじいちゃんたちと決めたの。読人には話さないでおこうって。でも、知ってしまったのね……」
「何があったの?」
「……30年前の3月21日、うちに強盗が入ったの」
「強盗……」
「その日は、兄さん――書人さんの17歳の誕生日でもあったわ。急に、冬に逆戻りしたかのように寒くなった日だった。あの頃、母さんたちは横浜に住んでいたわ。母さんがまだ中学生だった頃よ。その日は前々から外出する予定で、お祖父ちゃんの知人の方が来日して、都内のホテルであちらの家族も交えてみんなで食事をすることになっていた……書人さんの誕生日祝いもかねて」
その年の春一番は早かった。うららかな突風の到来と共に冷たい季節にさよならを告げたはずなのに、冬が踵を返して帰って来たかのように関東地方に寒波が到来した。
彼女は、当時は中学生であった栞はそのことをよく覚えている。急な気温の変化で体調を崩さないようにと学校の教師が言っていた。栞本人は何ともなかったが、書人が急な寒さで風邪をひいて高熱を出してしまったのだ。
「書人さんが風邪をひいてしまったら、食事会は中止にしようかとおじいちゃんが言ったんだけど、書人さんは自分に構わずに行ってこいと言ったの。だから、母さんたちは書人さんを置いて食事に出かけた……それが、兄さんと交わした、最期の会話だった」
「……」
未だに、その時の会話を覚えている……否、忘れるはずがない。
その日の食事会のために、ドレスコードがあるホテルのレストランへ来店するために買ってもらった、素敵なワンピースを書人に見せようと部屋を訪れたのだ。風邪が伝染るよと注意されたが、それでも彼は苦笑しながら妹を部屋に招き入れてくれた。
「似合う?」と尋ねれば、兄は「似合う」と答えてくれた。
「可愛い?」と尋ねれば、次は「可愛い」と言ってくれた。その受け答えが雑、適当だと文句を言えば少し掠れた声が笑った……その声で、書人は栞を送り出してくれた。
「食事を終えて、お土産にケーキを買ったの。誕生日ケーキ。それを持って、家に、帰ったらね……家の前には、パトカーとたくさんの野次馬がいた」
「パトカー……」
「ええ……家に強盗が入って、兄さんが殺されていた」
「……」
栞の表情が曇ると同時に、彼女の脳裏に当時の記憶がフラッシュバックする。書人に関する記憶の中で、これだけは忘れてしまいたい……けれど、忘れられない記憶。
寒い黒色に浮かぶ赤いパトランプ。自宅に押し寄せた近所の野次馬。引っくり返された本棚。散乱したたくさんの本と紙。その上に落ちた、赤い斑の染み……赤黒い血痕に囲まれた、兄の身体。
外出前に見送ってくれた書人は、確かクリーム色のカーディガンを着ていたはず。なのに、冷たくなった身体が羽織っていたのはクリーム色と臙脂の二色に変貌していた。
微かに現場を覗き見てしまった当時の栞がそう感じてしまうほど、書人の遺体は血に塗れていたのだ。
「犯人は、うちが留守だと思って侵入して、盗みを働いていたら兄さんに気付かれて……そこで、揉み合いになって刺されたっていうのが、警察の見立てだった。死因は出血死。刺された後に、凄く苦しんで亡くなったんじゃないかって……」
「母さん、もう……」
「でも、兄さんは犯人に抵抗したんだって。そのお陰で、犯人の物と思われる証拠もあったから、直ぐに見付かると思っていたのに……」
読人の静止も聞かず、30年前の記憶を必死に掘り起こす栞は、震える声で語り続けた。
母は泣いた。栞も、泣いた……やっぱり、書人だけを残さずに食事になんて行かなければ良かったと後悔した。蔵人は、警察署のロビーで泣く栞を抱き締めて胸を貸してくれた。
蔵人の表情は見えなかったけれど、栞を抱き締める腕が微かに震えていたのを今でも覚えている。ぎゅっと抱き締める腕の力は、いつもよりも強かった。
「……犯人は、逮捕されたの?」
「……」
栞は小さく頭を振る。
多くはなかったが、現場には証拠が残っていた。それでも捜査は難航してしまい、何年経っても犯人は見付からなかったのだ。
「当時の強盗殺人の時効は25年。時効廃止の目前に、成立してしまって……事件は、未解決になってしまったの。あれから、兄さんと暮らした横浜には居辛くなって、奥島さんの紹介でこよみ野の今のお祖父ちゃんの家に引っ越したの。お墓も、こっちに建てて」
「そう、だったんだ……」
祖父母は、何を思って息子が入る墓を建てたのだろう。自分たちよりも先に、息子が死後の住処に引っ越すことはどれだけ悲しかっただろうか、無念だっただろうか。
「強盗は、何かを探していたの?」
「警察の捜査では、金銭目的で盗みに入ったんだろうって。入った先がおじいちゃんの書斎で、そこで金目の物を物色していたところで兄さんに見付かって。そのまま、書斎にあった本を何冊か盗んで逃げたみたい」
「本……その本、タイトルは解る?」
「さあ。おじいちゃんはたくさん本を持っていたから。タイトルは覚えていないけれど……そうだ、白い背表紙の揃いの本だったわ」
「っ!」
白い背表紙の【本】……これで、繋がった。30年前、黒文字家に押し入った強盗というのは櫻庭で間違いない。彼は蔵人の持つ【本】を手に入れようとしたのだ。
櫻庭は、かぐや姫に恋をしたと言っていた。愛した、焦がれた。30年前、それが一度頂点に達して、蔵人が持つ『竹取物語』を手に入れようとしたのだろう。白い【本】目当てに書斎に侵入したが、書人と鉢合わせて揉み合いになり、ナイフで刺した。
その後は動揺したのだろうか、書斎の中で目に付いた白い【本】を手あたり次第盗んで逃げた。もしかしたら、盗まれた【本】の中には蔵人が手にしていた『古事記』もあったかもしれない。
読人の頭の中で、バラバラだった情報がピースになって一気に形作られた。
書人が亡くなったのも、櫻庭が書人殺しの犯人だと告白したのも、蔵人の『古事記』の【本】が見当たらないのも。ついでに、蔵人の家が築30年ほどなのも、全てが一つの事件に結び付いたのだ。
「これが、兄さんの死の真相よ」
「ねぇ、母さん」
「なに?」
「もし、もしだよ……今になって、犯人が名乗り出て来たら、どうする?」
時効が成立し、罪に問われなくなった現在で犯人が堂々と往来を闊歩し、しかも更なる罪に手を染めているなら……被害者遺族である彼女は、どうするのだろうか。
どうするか、それを母に尋ねてみれば、彼女はどこか悟ったような目をしてから大きく息を吐き、少し俯き気味だった読人の頭を撫でたのだ。
「実際に犯人が現れたら、怒るでしょうね。悔しくて悔しくて、この手で兄さんと同じ目に合わせてやろうって思うかもしれない。だけどね、頭の中でおじいちゃんがこう言うのよ、きっと」
「おじいちゃんが?」
「『犯人と同じ下種に成り下がるつもりですか』って……きっと生きていたら、それぐらい言っていたはずよ。きっと厚司さんにも止められる。あの人と読人を棄ててまで、これ以上あの犯人に人生を狂わされたくはない……あんな下種と同じにはなりたくない。だから母さんは、どうもしない。」
「母さん……」
「でも……やっぱり、しっかりと罪を償って欲しいな」
書人を殺害し、黒文字家の平穏を奪って傷を負わせた罪を深く受け止めて、贖罪の道を歩んで欲しい。
30年……少女が大人の女性となり、母になるほどの長い時間。栞が、復讐や憎悪よりも誇らしいものを手に入れるほどの長い時間が経っていた。
「あと、もう一つだけ教えて。何で、伯父さんの事件は母さんたちが家に帰って来る前に発覚したの?」
「それがね、近所の公衆電話から匿名の通報があったんですって」
「匿名の通報?」
「黒文字という表札の家で、人が死んでいる」。その通報で警察が現場に急行して、書人の遺体を発見した。しかもその公衆電話には、現場にあったある証拠と同じものが残っていたのだ。
「……伯父さんの事件には、もう1人、第三者がいた?」
「かもしれないって話よ。兄さんの瞼には、指紋が付いた血痕が残っていて、その指紋と兄さんの血が通報した公衆電話にも付いていたって」
書人の瞼に飛び散った血痕の上に指を乗せた……つまり、開いていた遺体の瞼を閉じた。そしてその足で公衆電話に向かい、通報したということになる。
思いがけず人を刺してしまい、家を荒らしたまま逃げ去った犯人がそんなことをするのだろうか。遺体の瞼を閉じるという、自分が殺した人間への憐れみを向けるような人間なのだろうか……櫻庭という男は。
当時の警察でも、その指紋と血痕の存在で捜査が難航した。指紋は犯人の物かもしれないし、新たに浮上した第三者の物かもしれない。だったら、その第三者とは誰なのか?
黒文字書人は、櫻庭聖一朗に殺害された。櫻庭は、蔵人が所有していた白い【本】を奪って行った。お目当ての『竹取物語』は見付けられなかった。
30年前の事件の大まかな筋書きはこの通りだろう。だけど、まだナニかが残っている……姿の見えない、スッキリと解決させてくれない楔が一本、残っているのである。
スッキリしないモヤモヤを無理矢理にでも飲み込もうと、すっかりぬるくなった紅茶を一気に飲み干したが、喉の辺りも頭も晴れなかった。
「この話は、これでおしまい」
「……ありがとう、教えてくれて」
そう言って深々と頭を下げれば、あまりにも丁寧な仕草をする息子へ母はちょっと困ったように笑いながらマイセンのカップを片付ける。水で軽く洗い終わったそのタイミングで父が帰宅する。少し足を延ばした先にあるリカーショップの袋に入った、タンカレー・ジンとウィルキンソンのトニックウォーターを手にしていた。
その日の黒文字家の仏壇には、チーズケーキと豚まん、ジントニックというハイカロリーな供え物が並んだ。生前の蔵人が好きだった物である。だが、豚まんは母の好物である。
夕飯のちらし寿司を平らげ、一番風呂の権利を母に譲ったその足で自室に戻った読人はノートパソコン(父のお古)を立ち上げた。
『どうした? 血相変えて』
「伯父さんの事件、もっと詳しく調べようと思うんだ。櫻庭が犯人であることには間違いない……だけど、目に見ない誰かがいる」
少し強めにエンターキーを押せば、「黒文字書人」の検索結果が出て来た。未解決事件を集めて管理人独自の推理・推測を行うサイトに辿り着き、30年前の事件のページをブックマークする。ページの上部で点滅している古いアイコン……「時効成立」の文字が、何だか切なかった。
「火衣……俺さ、許せない奴が1人できた」
『櫻庭か。あいつ、どうする?』
「時効が成立しているから、現段階じゃ櫻庭を法で裁くことはできない。伯父さん殺しの犯人として告発することはできないけれど、企みを阻止することはできる……!」
50年もの間憧れ、焦がれ、強盗殺人まで犯してのうのうと生きている櫻庭を狂わせた、『竹取物語』のかぐや姫……彼女との再会を阻止すること。
櫻庭を今年の【戦い】から蹴落とすことが、読人ができることだ。
「あいつに、『竹取物語』も火衣も渡さない。かぐや姫に会わせない……!」
また、キーボードのキーが強く叩かれた。否、力任せに殴り付けたと言わんばかりの乾いた音が自室に響く。
50年に一度の【戦い】が訪れた今年の4月1日は、過去の到来で夜が更けた。
祖母や母と同じ黒髪の少年は、右の口元にホクロがある以外は祖父に瓜二つだった。