修学旅行も待っている新年度。
高校生として最後に全力で遊べる高校2年生のスタートで、夏月と一緒のクラスになれなかった悔しさを抱いてベッドで不貞寝をしたら、例のページがめくる音が読人の耳の奥に聞こえて来た。
この状態で過去の夢を視るのか?
こんな日はぐっすり眠れないような気もしたが、意外と眠気に呑まれた。夢の中で視たのは50年前のロンドン……龍生の顔のアップで、蔵人の記憶が流れ込んで来た。
「聞いていますか、蔵人さん」
「はい、はい。イーリスさんの屋敷の台所で、野菜の下処理の仕ことを始めた、でしたよね?」
「はい! 午前中、ずっと芋とリンゴの皮剥きばしていましたけど、アルフレートさんさ上手いって誉められました」
「紫乃さんに肉じゃがを作っていただいた時もそうでしたが、龍生君は手先が器用ですね。きちんと勉強すれば、料理も上手になるのでは? これからの時代、男性も積極的に台所へ立たなければ」
新聞から目を離した蔵人の言葉に、龍生が嬉しそうに顔を輝かせた。
どうやら、先日紫乃と一緒に台所から立った時から龍生は料理に興味を持ち始めたようだ。
今度、響平に聞いてみよう。彼の祖父は台所に立って家族に料理を振舞うのかどうか……と、随分中途半端なところから始まってしまったが、どうやら今回の記憶は蔵人が滞在しているフラットから始まっている。
家主は現地のメジャーな新聞に目を通し記事を追いながら、アーベンシュタイン家での出来事を楽しそうに語る龍生の言葉にも耳を傾けていた。
「それにしても、よくイーリスさんが君を雇い入れることを許しましたね。一応、敵対していませんか? 私たち」
「ん~……イーリスちゃんとはそんな顔ば合わせません。基本的に、台所の裏しかいませんし。寝首を搔こうとも思わないし」
「敵認定、されていないのかもしれませんね」
「あ、そっか」
納得したよう手をポンと叩いた龍生だったが、「それで良いのか」と突っ込みを入れたい。夢の中だけど。
確かに、イーリスは蔵人に対しては敵意バリバリだったが、龍生には特に警戒していないような気がする。
まあ、龍生本人もイーリスと敵対する気もなさそうだからアーベンシュタイン邸で【戦い】が起こることもないだろう。精々、調子に乗って皮を剥きすぎた芋がテーブルに増えるぐらいだ。
「でも、手伝いでも雇ってくれたアルフレートさんには感謝していますよ。親からの仕送りがあるけど、頼ってばかりはできませんし。
「殊勝な心がけですね」
「そうだ、前々から聞きたかったんですけど、蔵人さんもわしらと同じなんですか?」
「同じ、とは?」
「わしや紫乃さんの家は、代々【本】を守って【戦い】に備えて来た家だから、こうして異国で家族の仕送りやフォローば受けられますけど。蔵人さんも同じかなって、このフラットだって外国人にそう簡単に貸してくれないじゃないですか」
「私は違いますよ。そもそも、私は龍生君や紫乃さんのような伝統ある家の出ではありませんし、元々は【本】との関わりもありません。戦争で一族は離散。父は私が産まれる前に戦場で、母は幼い頃に亡くなりました」
「……ごめんなさい」
「いいえ。気になさらないで」
初めて、蔵人の――祖父の身の上話を聞いた気がする。
祖父が天涯孤独の身だったことを読人は母から聞いていたが、自分の曾祖父母にあたる蔵人の両親の話は初めて聞いた。
蔵人が産まれる前に戦死した父、幼い彼を残して先立った母。何もなくなった蔵人は、隣人であり恩師である某有名大学の教授の後見を受けながらありがたいことに大学にも通わせてもらい、今も助手として在籍しているらしい
そして、ここにいる。50年に一度の【戦い】のためにイギリスへ赴いたと同時に、「面白そうだったから」という紫乃を腹立たせた理由で今ここにいる。
「なら、
「まさか。半分は私情で、もう半分は依頼と後援を受けて渡英しました」
「半分? その、半分って?」
「…………それは」
私情は、50年に一度の【戦い】が面白そうだったから。もう半分――依頼と後援を受けて渡英した、その理由。
新聞を畳み、使い込まれた飴色のテーブルに置かれたぬるい紅茶を手にして“理由”を語ろうとした……しかしその瞬間、窓の外で爆発音が轟いた。薄い窓ガラスをビリビリと震わせて、空気が人間を劈くような爆風と共に発生した轟音はロンドンじゅうの人々の心臓を驚かせたのだ。
窓を背にしていた蔵人は振り返る。赤い熱を孕んだ黒い煙が噴き出すその瞬間を目にした龍生は呆気に取られ、何が起きたか理解できない表情をしていた。
「な、何だ」
「あの方角は、ソーホーですね。何か、あったようだ」
この地で、【戦い】の優勝賞品である『竹取物語』があるこの都市では、必然的に【本】も【読み手】も集まって来る。意図もせずに、運命に引き寄せられるように。
だからこそ、この都市で何か起きてしまえば何でもかんでも疑ってしまうのだ。この爆発も、おとぎ話の中から出現した現象なのではと。
スリーピースのジャケットを着込み、愛用している中折れ帽を手に蔵人は龍生と共に爆発現場へ向かった。
ソーホー――ロンドンの中心、ウェストミンスター自治地区に位置している。
後の世では、チャイナタウンの通称で知られ星を与えられた中華料理屋を始めとした高級レストランが集まる街であるが、この頃は風俗と芸術の街として知られていた。
歩いているのは娼婦と酔っ払いと芸術家。そして、外国人。安価な飲食店と娯楽と快楽が集まりつつその地は、21世紀には歓楽街としてロンドンだけではなく、アメリカと香港にも人々が集まり同じ名前の街が拓かれる。
その未来の姿は欠片しか見えず、蔵人たちが現場に到着した時には立ち上がる黒煙から逃れようと、多くの野次馬と警察と消防士でごった返していた。
爆発したのは中国系の飲食店。その隣には、同じ系列と思われる風俗店もあったらしく、騒動の混乱に巻き込まれたらしい娼婦たちは千切れかけたランジェリー姿で男に縋っている光景が野次馬の隙間から見える。
「うわ~派手にやりおったな。これ、【読み手】の仕業でしょうか、蔵人さん。蔵人さん?」
自分より背の高い野次馬たちの後ろから現場をみようと、ハンチング帽を押さえながらぴょんぴょん飛び跳ねる龍生が声をかけたが、蔵人の視線は爆発現場に向いていなかった。風下の、黒い爆風が流るるその先にいた背の高い人影を見ていた。
その先にいたのは、大きな広つば帽子を被った白い細身のドレスを着た黒髪の女性……しなやかな痩身と、その背中にかかる豊かな黒髪は遠目からも魅力的だと分かる。だが、深く被る帽子のつばによってその顔は見えない。
身体の他に見えるのは、真っ白なテーブルクロスに零れた赤ワインのような真っ赤な唇だけだ。
その唇が、妖艶に誘うように少し微笑むと、未だ燻り続ける黒煙に紛れて立ち去ってしまった。
「ありゃまぁ……蔵人さんも隅に置けないでがんすねぇ」
「不埒な感情で眺めていた訳ではありませんよ。ただ、気になりましてね……龍生君、気になりませんか?」
「身体から、美人とは思いますけど。やっぱり顔が見えないと」
「いえ、あちらではなく、爆発された建物です。爆音を伴って炎上したのはチャイニーズレストランですが、これだけ建物が密集しているのに隣接している娼館は延焼もしていなければ、窓ガラスにヒビ一つ入っていません。不思議ですね、まるで魔法の仕業のようだ」
「と、いうことは」
「もうひと爆発、あるかもしれませんね。シンデレラが帰った後にでも探ってみましょうか。それに」
「それに?」
「あの方は……いえ、私の勘違いかもしれません」
「?」
蔵人は別に積極的に紋章狩りを行っている訳ではない。
けれど、興味をそそられる非日常が起きてしまえば首を突っ込まずにいられない質なのかもしれない。だって、そのために渡英したのだから。
龍生と出会った時もそうだった。【読み手】が絡んでいるかもしれない現場には積極的に脚を運んで、
蔵人は――50年前の読人の祖父はそうして、自身の私情・私欲を満たすためにロンドンの街を駆け回り、時には八咫君や同居人たちを巻き込んで来たようだ。
意外と振り回しているし、結構……というか、やっていることはかなり傍若無人だ。口調も仕草も丁寧で上品なだけに、その場で誤魔化されても後になって腹が立って来る。
その傍若無人に連れられて、シンデレラも帰宅してしまった深夜。日付が過ぎた頃に霧が立ち込める夜に繰り出した。半端者が生き残ることを良しとしない龍生も、蔵人とほぼ同じ私情の光孝も揃って、3人で未だ活気が残るソーホーの外れに来ていた。
「最近、ソーホーのチャイニーズレストランが物騒になったと聞きました。それに関係しているんでしょうか?」
「物騒?」
「マダム・ココのお店で、他のお客さんの話を小耳に挟んだだけなんですけど……立ち退きとか、中国がどうとか」
「立ち退き? 余所者は国に帰れって?」
「と言うよりは、帰りたくないんでしょうね。あと、昼間に爆発したお店は便宜上、チャイニーズレストランと呼んでいますが店主は香港の方らしいですよ」
「香港?」
「そう、中国であって中国ではない場所。どうも最近、中国側が香港を始めとしたイギリス領の返還を求める動きがあるようです」
「そうか、中国の一部はイギリス領でしたね」
「その通り。では、香港の他のイギリス領はどこでしょうか?」
蔵人は、まるで教育番組の講師のように龍生と光孝へと問題を出す。
1970年代、香港はイギリスだった。その地以外にもイギリスは中国に植民地を持っていた。
戦利品として持っていたのは香港島と、九龍半島。そして半島の一部である新界という地域だが、この地域は中国から期限付きで借りているだけ。1898年から99年間、イギリスは中国から新界を租借し、1997年の返還の際に一緒に他の二か所も戻って来たと読人は授業で習った記憶がある。
祖父たちの若い頃は、まだ中国の一部にイギリスがあり99年の租借にもまだ20年以上の期限が残っていたが、20年を待たずに声高らかに返還を求めている者もいたようだ。
「九龍半島と、その一部の新界ですね」
「はい。光孝君、正解です」
「蔵人さん、なしてそんな話を?」
「中国が返還に向けて動いているという話は、先週の新聞に載っていましたよ」
「ニュースでもやっていました」
「ゔっ」
「龍生君、折角なんですから現地の新聞やニュースにも目を通してみましょう。英語の勉強にもなりますよ。とまあ、イギリス国内外で盛り上がりつつある植民地返還の話題ですが……タイミングが良すぎると思いませんか。返還要求が持ち上がり始めたところで、香港のお店が爆発するなんて」
蔵人先生による引率で辿り着いたのは、爆発の被害にあった店舗からから少し離れた場所だった。ソーホーの端にある、何か怪しげな店である。
壁には複雑なのか適当なのかよく分らない落書きがされているだけではなく、中国語と思わしく漢字の羅列も書かれていた。時間が時間なので店内の明かりは消えているが、微かに見える窓ガラスの向こうには干からびた根っこや吊るされた葉が見えているので、どうやら漢方でも取り扱っているらしい。
否、もしかしたらもっと危険な物かも……きっと、夜でも昼間でも、気軽に立ち入れない店に間違いない。
蔵人は何故こんな店に?
過去の龍生も光孝も読人を同じ疑問を感じているところで、店の屋根の上から蔵人の腕に向かって大きな烏が舞い降りた。
「こんばんは、八咫君。偵察、ご苦労様でした」
「カァ!」
「いつの間に八咫烏を」
「八咫君には、定期的にロンドンの街を探ってもらっているんです。それで、少々気になる動きがありましてね……ここや、爆発したお店を始めとしたソーホーの香港系のお店は、とある組織のみかじめ料。所謂ショバ代を払って商売をしています」
「蔵人さん。その話、聞いてはいけないような話のような気が……」
「日本におけるみかじめ料の支払先は……まあ、ヤの付く自由業ですが、この場合はどこだと思います?」
「イギリス……じゃなくて、香港の同じ職種の人?」
はい。龍生君、正解です。と、蔵人が告げようとしたそのタイミングで、彼らの目の前にある怪しい店が爆発した。
耳を劈く轟音を立てて、爆風に舞い上げられて吹っ飛ぶぐらいの衝撃が彼ら3人を襲う……はずの大爆発だったのに、近距離で起きた爆発は、各々が被っていた帽子を静寂な霧空に飛ばして足元に転がす程度のそよ風で済んだのだ。
まるで、爆発と彼らの間に見えない壁があるようだった。
計算し尽くされた爆発が華麗に、民間人を巻き込まず、気付かれもせず。迅速な動きで爆発を遂行し、丁寧に後始末をしていたのは……7人の小人たちだった。