麗らかなる春の日は絶好のランニング日和である。
新生活も落ち着き始めた4月の下旬。早くGWよ来いと願う学生たちも新年度に慣れて来た頃、部活動の仮入部期間も終了して放課後が本格化して来た頃に、暦野北高校の生徒の多くが校舎外周を走っていた。
「っ、ぜーはー……ぜーはー」
「読人、飛ばしすぎだろ。そりゃすぐバテるって……お前、ただでさえずっと文系なんだから」
「は、はい……!」
「何があったんだ? 外周ランニングに混ぜてくれって」
「ちょ、ちょっと体力、付けようかと思って」
中学生時代に全国優勝を果たしても、高校へ入学すれば栄光は全てリセットされる。どんな日本一も1年生となったからには最初は体力作りのランニングから始まる。正美が所属する柔道部も、乱取り稽古の前には外周ランニングと柔軟から始まるのだ。
そのランニングに読人も参加させてもらったのだが、インドアはすぐにバテた。
一周約3km、しかも途中には軽く登り坂もあるし、柔道部独自の足腰強化対策のために横断歩道もルートに入れているので、インドアには相当キツい。今、体重が読人の1.5倍の新入部員に追い越された。寄り添ってくれる正美だって、一周先行している。
「ま、ほどほどにな」
「はーい」
息が苦しい、喉がカラカラで痛い。けれど、脚は止めたくない。
アルファルトの地面を普段使いのスニーカーで踏み込んで、思いっ切り叫んだ。
「っ、っちくしょぉぉぉーー!!」
もやもやしていた。
先週、今代の『赤ずきん』の【読み手】――トマス・オーキッドと出会って、彼の口から【戦い】の影に潜む“集団”の存在を聞いてから。
あの日、焼き肉屋でハインリヒと共に聞いた、オーキッドと家族の身に起きた悲劇。誰かが、【本】を集めている。誰かが、【読み手】を集めている……手段を選ばずに。
【戦い】の中に、明確な悪意を持った“組織”がある。
「生き残れ」
オーキッドは読人にそう言った。生き残らなければならない、生き残るためには肉体的にも強くならなければならないのだ。守れるために。
ちなみに、あの日の焼肉はオーキッドが日本で使用できるクレジットカードを持っていたことにより支払いができた。良かった。
ハインリヒはすぐにでも“組織”の存在をイーリスへと伝えただろう。だけど、読人はまだ紫乃へ報告できていない。覚悟を決めよう。今日、紫乃へと報告する。
「桐乃、読人。悪いけど、今日の夕方は臨時休業するよ」
と思ったら、出鼻を挫かれた。
前もこんなことあったぞ。
「え、ええ? やっぱり休みですか?」
「また何かありました?」
「推しの演歌歌手・
「まさかのオフ会!」
演歌ファンたちの心の孫として可愛がられている若き演歌歌手。まさかの紫乃もファンだった。
どうやらSNSで他のファンと繋がっているらしい。紫乃といい龍生といい、最近のご老人は若者以上にSNSを使いこなしている。
ということで、『若紫堂』は5時で閉店します。個人の自営業だからできるこの不規則営業。
推しのトレードマークである紫の着物に合わせて、紫乃は淡い藤色の着物でタクシーに乗り込み、ディナーショーへと出かけて行った。“組織”のこと、報告できていない。
「……俺、帰ります」
『小腹が空いたから寄り道して行こうぜ』
「駄目」
『ちぇっ』
「読人君、時間ある? 良かったら、ドライブに付き合ってくれない」
ぽんっ、と。愛車に跨った桐乃から予備のヘルメットが放り投げられた。何か食う気満々の火衣の提案を却下して、真っ直ぐ帰ろうと思っていたが……たまには、良いかもしれない。このもやもやを晴らすためにも。
ヘルメットを被り、桐乃の後ろに乗り込んだ。
暖かい春の日々でも、バイクで感じる風は少し冷たい。何気ない会話を交わしながらのドライブは、こよみ野市の郊外にある小高い峠の展望台を到着地とした。
展望台と言っても、峠の頂上に数台のベンチが並んでいるだけ。そこからは市内やもっと先に見える区内のネオンを一望できて、夜になればちょっとした夜景のスポットの穴場として知られている。
まだ空は黄昏時にも早い。読人と桐乃以外に人はいなかった。
「風が気持ち良いですね」
「ここ、遠乗りで時々来るんだ。もやもやしている時とか、サッパリしたい時とか」
「桐乃さん……」
「読人君、組織って何だ?」
お茶漬け並みにサラっと問いかけて来た桐乃に、冷や汗だらだらで振り向いた。
「……え、ええ、え。組織って……?」
「バイト中、ぶつぶつ言っていたのに気付いていなかった? 口に出ていたよ。先週、神田に行って直帰してからかな。何があった」
「えー、俺そんなこと言っていました?」
「吐け」
「はい」
洗い浚い全部吐いた。
顔に出やすい読人では、隠し通そうとしても最初から無理な話だったのだ。
「【本】と【読み手】を集めている“組織”か……櫻庭に続き、不穏な空気が出始めたね」
『奴らの目的は、不老不死か?』
「その可能性が高いよ。どの時代でも、時の権力者は不老不死を求めて多くの財力と人材を費やしたと言われている。ビルネちゃんの家、アーベンシュタイン家だって元を辿れば不老不死を求める組織の一員だ」
「けれど、21世紀の今に暗躍している組織は……」
「世界を又にかける犯罪結社って、感じかな」
どこぞのショッカーだ。否、ショッカーならまだ正体が分かっているから良い。
正体も何も、目的さえも明確には分からない、存在だけが臭わされた“組織”の方が不気味だ。すぐ隣にいるかもしれないのだ。小さな女の子たちを畜生の餌にするのを躊躇しない、犯罪結社とやらは。
「師匠には、早く相談した方が良いよ。あの人、隠し事は嫌いだから」
「明日、必ず相談します」
桐乃へ綺麗サッパリ吐き終われば、抱えていたもやもやが少しスッキリした。頬を撫でる風が、つい数分前に感じたものよりもずっと爽やかで心地よい。
ドライブに誘ってくれた桐乃へ感謝し、また明日のために今日を終える。さあ、帰ろうかと再びヘルメットを手にしたところで、峠の向こうから一台の黒いメルセデスベンツがやって来た。
こっちは正真正銘、デートとしてやって来たのだろうか。端の駐車場にピッタリと停まったメルセデスの運転席からは、チェスターコートを着た壮年の白人男性が降りて来る。素早く助手席に移動すれば、甲斐甲斐しくドアを開けて乗っていた女性の手を取った。
スキニータイプのパンツがよく似合う長い脚、ストレートな黒髪のロングヘア。助手席の女性は背の高くスタイルの良い美しい女性だった。しかし、どこか威圧感のあるようなメイクで、男性が伸ばした手をさも当然と言わんばかりに取って髪をかき上げる。
カップル……にしては、少々歳の差があるように感じた。
「お邪魔虫かな、私たち」
「帰りますか」
『……待て、何か揉めてるぞ』
「火衣!」
出歯亀ならぬ、出歯ハリネズミと化しそうな火衣を必死に押し込もうとする読人だったが……確かに、男女は何やら揉めていた。聞き耳を立てる気はないが、こっちにもしっかり聞こえてしまっているならば不可抗力だ。
「何故ですか! 私の気持ちを、受け入れてくれないのですか」
「前から言っているでしょう。貴方とはお店だけの関係よ……それとも何? 私は自分のものとでも言いたいの? 汚らしい豚の分際で。ああ、豚に失礼だったわね。種馬にもならないような駄馬が」
うん?
「ありがとうございます! 貴女様を運ぶことしかできない駄馬をお許し下さい……! しかし、貴方様が他の奴隷に慈しみの眼差しを向けるのに我慢ならないのです! 私だけの女王様でいて下さい! 貴女様の奴隷は私1人だけにして下さい、ナオ女王様!」
今の季節にしては暑そうなチェスターコートの前を開けると、その下には仕立ての良いスーツとそのスーツに食い込む縄。所謂亀甲縛り。エロ本のみならず、様々なサブカル近辺で目撃することも増えた緊縛縄にしっかり縛られていた。
男性はセルフ緊縛状態で目の前の女性へと首を垂れ、懇願する。ナオ女王様と。
「やっべ、不審者×2だった」
「春だね」
『春はどうしても不審者が増えるもんな』
カップルじゃなかった、女王様と奴隷だった。
「帰ろう」
「はい」
2人のプレイを邪魔しちゃいけないので、さっさととっと帰ろう。それぞれのヘルメットを手にバイクに乗ろうとした読人と桐乃だったが、風が吹き込む峠に一瞬の沈黙が走った。場の空気に反して、春風が爽やかすぎた。
女王様のヒールの爪先を舐める勢いで這い蹲っていた奴隷がゆらりと立ち上がる。緊縛を隠すためだけのチェスターコートを脱ぎ捨て、ポケットの中から白い【本】を取り出せば……。
うん?
タイトルは『茨姫』。手にした【本】から創造されたのは、峠を埋め尽くさんばかりの巨大な糸車。しかし、紡ぐのは糸ではなく、無数の棘が生える茨の蔦。
高速で回る糸車によって紡がれる茨は、女王様の周囲だけを安全地帯とし、奴隷をしっかり拘束した。
創造能力・
その他の状況なんてガン無視で発動されたため、読人たちもしっかり巻き込まれた。
『何じゃこりゃーー?!』
「【読み手】だった!」
「っ、俺たちも【読み手】だって気付いた……?」
「ああ、やはりナオ女王様の縄ではないと満足できません! ナオ女王様の鞭ではないと、私の汚らしい性根は裁かれません」
「じゃない! 変態だ!!」
『オレたちのことなんか眼中にねぇ!』
公共の場でのSMプレイは控えましょう。周囲の人間を巻き込んでトラブルに発展する可能性があります……って、そんな注意書きなんぞ役に立たない。回り続ける糸車によって生産される茨の海に呑み込まれる読人たちなんて完全に蚊帳の外、ギャラリーにこれっぽっちも気付いていない。
これっぽっちも気付いていないので、彼らの目的は読人の持つ『竹取物語』ではない。ただ、【本】の能力でセルフSMをやっているだけ。やっているけれど、やっぱり女王様の手ずからでないと満足できないと言う必死の訴えなのだ。
はっきり言う。超迷惑。
生き物の内臓のようにうねる茨の棘が刺さって痛い。置かれていたベンチも、茨に運ばれて峠の柵を乗り越え、落下した。
そして、ただ唯一の安全地帯にいるナオ女王様はと言うと。奴隷を見下す視線のままであった。
『正直迷惑』
内心は、こんなことを感じながら。
***
ナオは源氏名。本名は、
都内某所で営業するSM Bar『Witches Kiss』で女王様をやっている。得意なプレイは、緊縛と鞭。時々ヒール。
切っ掛けはスカウトだったが、前向きにSMの世界へと飛び込んだ。
尽くす女ではいたくなかったから。
奈緒花の母は、尽くす女だった。耐え忍ぶ、と言う言葉を体現したかのようの母は、傍若無人に振舞う父に献身的に尽くす人だった。
その様子は、まるで奴隷であった。
暴言に口答えをせず、手を出されても泣きもせず。経済的に逼迫しても父を攻めることはなく……一体どうして、何が母をそうさせるのか、奈緒花には理解できない母だった。
奈緒花が高校に上がる頃、父は帰って来なくなった。奈緒花は清々したが、母は泣いた。泣く母に、何も言えなかったし、どうして泣いているのかも理解できなかった。
そして高校卒業後、しばらくは定職についていたが女王様の職が肌に合っていたらしく、今では店の人気№2の地位に納まっている。
勿論、奴隷の数もまずまずいる。その中の1人が、本日の同伴相手であるフリッツ・メッセである。ドイツ系アメリカ人だ。
「あ、お構いなく」
来店して席に着いた第一声がこれだった。この時は。
都内大学で経済学を教えている学問一筋の男。独身、恋人もない。初めて来店した時は、職場の上司に連れられて来た、真面目だけが取り柄だけを全身で表現しているような男であった。
だが、その日以来、奴は目覚めた。
ナオ女王様によって緊縛体験を受け、ついでに鞭で軽くビシバシ叩いたその日から、どっぷりとSMの沼に沈んだのである。真面目な人間ほど欲望を解放されれば暴走するとはよく言ったものだ。好きなプレイは勿論緊縛と鞭。犬や豚よりは、駄馬と罵られたいタイプです。
週末にやって来てはナオ女王様をご指名し、貢ぎ、縛られシバかれ、時は踏まれて許しを請う。今まで感じたことのない解放感、充実感。地位も対面も、服さえも全てを脱ぎ捨てて裸になった種馬以下の駄馬を、閉店間際のスーパーで半額の価格でも売れ残っている馬刺し以下の恥ずべき存在を受け入れ、それでも許しを与えてくれるSMプレイはメッセの血肉となったのだ。
すっかり常連奴隷となったメッセだが、最近は暴走気味だった。ナオ女王様――奈緒花へ、自分だけの女王様になって欲しいと頭を下げたのだ。下げた頭に、ブーツのヒールが刺さった。
多頭飼いの女王様に向かって、ただの奴隷風情がなんたる傲慢……!
勿論、しっかり鞭撃って(言葉通り)しっかり罵ったが、今日も今日とて同伴の最中はその話。気付いたら、茨の海の中心にいる……白い【本】、『茨姫』。ああ、不思議な能力って惹かれ合うんだなって、ぼんやりとそう感じた奈緒花は次の瞬間に、ナオ女王様モードにスイッチを入れたのだ。
「その汚らしい性根をどうされたいの? 欲しいのは鞭なの、縄なの? このエゴマゾが」
「下さい。ナオ女王様の鞭を私に下さい!」
「鞭をあげたらどうなるの? その口で、はっきり言いなさい……駄馬を調教するように、お尻を打って欲しいの? それとも、もっと別なところ?」
「打って下さい! 私はどうしようもない駄馬です……! 尻を打って躾て下さい。お願いします」
「よく言えました。ご褒美よ」
濁りがない乾いた音と共に、メッセの尻がナオ女王様の鞭――三つ編み状にうねる黒髪の鞭によって打たれた。
ちなみに、エゴマゾとはエゴイスティック・マゾの略で、自分勝手で女王様に失礼なマゾのことを言う。
伸びる黒髪は魔法の髪。奴隷を打つ鞭にも縛る縄にもなる髪は、ラプンツェルの魔法の髪。
ナオ女王様の手にあるのもまた、白い【本】であった。
え、氾濫しすぎだって?
細かいことは気にするな!
勿草ここな(23)
演歌ファンたちの心の孫として推される女性演歌歌手。
15歳で民謡歌手デビューしたが18歳の時に演歌に転向。大御所が絶賛する歌唱力を武器に、歌上手系バラエティーでも活躍中。
先日発売された新曲『藤棚の別れ』は自身の過去最高売り上げ&DL数を記録した。