眠りについた頭の奥で、ピアノの旋律が聞こえてきた。
深夜の時間帯に妖しく優美に震える旋律は、聴いたことはあるけれども曲名は分からない。蔵人はクラシックやジャズを好み、家にはCDもレコードもあったはずだが、読人自身はてんでクラシック音楽には興味をそそられない。
どちらかと言えば、和太鼓や三味線の音が好きかもしれない。好きなアーティストは和楽器バンドの『迅雷疾風』だ。
夢の中で、視覚よりも先に聴覚が過去に飛ばされた。
50年前のロンドンの夢は、橙色の灯りに染まった空間から始まる。
質の良いスーツやドレスを身に纏った紳士淑女は、橙色の灯りの中で琥珀色に満たされたグラスを傾ける。漆黒色のグラスは喉を鳴らして飲み干し、緩やかな音楽をBGMにして談笑を楽しんでいた。
綺麗なワイングラスが吊るされたカウンター席に、蔵人がいた。いつものジントニックを中折れ帽の隣に沿え、ピアノの演奏に耳を傾けている。
読人の意識がはっきりと周囲を捉えると、ピアノを演奏しているのは『金の斧・銀の斧』の【読み手】だったナルキッソスではないか。そうだ、彼はロンドンの滞在中は、ホテルのバーでピアノを弾いていると言っていた。
イギリス風に言えばパブ。お酒を楽しむ、大人の空間。
音符の余韻を残したナルキッソスの長い指が鍵盤から離れ、ギャラリーに一礼すればパラパラと控え目な拍手が降ってくる。演奏を終えて蔵人の隣の椅子に腰を下ろすと、バーテンダーにスコッチを一杯注文した。
「Bravo. ショパンのセレナーデですね。お好きなんですか?」
「特別好き、と言う訳ではないですね。このような雰囲気の場には相応しい音楽を共にしなければなりませんので。どちらかと言うと、私はオペラの方が好きなんですよ」
「ほう。どのような演目が?」
「『ダナオスの娘たち』。ショパンの盟友、リストが師事したアントニオ・サリエーリの書いた一作です。タルタロスで永久の苦役を受け続ける49人の娘たちの悲劇です」
「……そのお話、私はあまり好きではありませんね。父親の計略に従って夫を殺したのに、実行させた父親は何も罰を受けていないじゃないですか。腑に落ちません」
「こんばんは、紫乃さん」
お馴染みのボーラーハットを被った紫乃がパブにやって来た。相変わらず、美人なのに険しい表情をしている。
今夜は、やっぱり蔵人がいるからの不快感と、嫌いな物語を耳にしてしまった不快感が同居していた。
ナルキッソスが紫乃の手を取り、淑女へ挨拶をすませれば甲斐甲斐しく椅子を引いて彼女をエスコートする。どうやら、紫乃も蔵人も彼に呼ばれたようだ。
「貴方が私と、この黒文字蔵人を呼ぶということは、また不埒な【読み手】絡みでしょうか」
「おや、また派手においたをしている方がいるのですか。レッド・キャップの次はケット・シーでも出ましたか?」
「どうも酒場を出入りしていると、妙な話ばかりが耳に入って来るものでね。自分がヘルメスにでもなった気分だ。ならば、私は【読み手】の伝令役に徹しよう……現れた【読み手】は、楽器を手にしたJapaneseだ」
「日本人」
紫乃が注文した薄桃色のカクテルがやって来たと同時に、ナルキッソスは要件を話し始める。
最近、夜な夜なロンドンのパブに出没する日本人。片言の英語で「一曲どうですか」と、イギリスでは見慣れぬ楽器を手に女性が現れる。所謂、“流し”だ。令和の世には現存しているのだろうか。
女性はどのような容姿だったかと尋ねれば、「ゲイシャ」「マイコ」としか証言されない。つまり、着物姿で楽器を手にした女性が相次いで目撃されている。それも、目撃されているのは「ゲイシャ」1人だけではなかった。
「“ゲイシャ”の日本人は、鬼女を連れていたらしい」
「鬼女、ですか」
「そう。恐ろしい形相をした、年老いた女の化け物だと。しかと目撃した者がスラヴ系だったんだが、あれはバーバ・ヤーガだと呟いていたよ」
「バーバ・ヤーガ……人間を襲う妖婆。つまり、日本で言う鬼婆や山姥の類ですね。主にソ連周辺の地域で昔話に登場する、昔話の敵役と言ったところですか」
「山姥を連れた芸者、ですか。それで、彼女は何をしたのですか?」
「バーバ・ヤーガで客と店主を震え上がらせて、気付いた時には金庫は空っぽだったという話ですよ」
「呆れた。ただのコソ泥ですか」
より一層表情が強張った紫乃がグラスに口を付ける。酒には強いのだろうか、カクテルグラスの中身を一口で飲み干してしまった。長居をする気は、蔵人と共に飲む気はないようである。
バーバ・ヤーガ――鬼女を引き連れた「ゲイシャ」という、怪奇小説にでも登場しそうな非日常的・非常識な存在はきっと、十中八九九分九厘【読み手】だ。能力を悪用してコソ泥を働くような相手ならば、【本】を閉じさせて紋章を頂戴する相手として好都合なのだろう。
丁寧に切り揃えられた前髪から覗く紫乃の瞳は、強く凛々しい印象が濃い。彼女バーバ・ヤーガの【読み手】を次の標的に決めたように見えた。
そのまま、紫乃は一杯だけで帰ると思われた。しかし、紫乃はそのまま蔵人に詰め寄った。問い詰めるような口調で、先日のこと故現場で聞いた呟きを口にしたのだ。
「『調停者』……とは、何ですか?」
「おや、ご存知ありませんか?」
「茶化さないで! あの時、『桃太郎』の紋章が空に消えた時に、貴方はそう呟いていたでしょう」
そうか、紫乃はこの場面で『調停者』の存在を知ったのだ。
調停者――【戦い】を仕切る
白い【本】に選ばれた【読み手】が、【戦い】から脱落する前に紋章を持ったまま死亡した場合、残された紋章は調停者の下へと還る。50年に一度の非日常な1年間の開催を告げ、非日常に翻弄される【読み手】たちの数をも管理する者。
読人は、現代の紫乃からその存在を教えてもらった。紫乃は、50年前に蔵人から教えてもらったのだ。
だが、50年前のこの場面で蔵人が語ったのは、調停者に割り振られた管理の役割だけだった。ゲームマスターの存在と、紋章の行方だけが語られた。
「調停者……私も、初めて聞きました」
「私の家、琴原の家はアーベンシュタイン家ほどではないですが、一族郎党は代々【戦い】に参加してきました。幾年月もの記録の中で、『調停者』という単語は一度も登場したことはありません。檜垣君が尋ねてもいないのに教えてくれましたが、貴方は【戦い】にも【本】にも関わりのない家系の出身だそうですね。黒文字蔵人……何故、貴方は誰も知らない
「……」
「答えて」
夢の中で、読人は息を詰まらせた……気がした。
紫乃と龍生の家は、代々【戦い】と【本】に関わりを持っている家系だ。イーリスだってそうだ。
家に代々伝わるおとぎ話の戦争の話と、不老不死の哀しい怪物の話を聞いて、1970年代のロンドンへとやって来た。パっと出の一般人よりも、情報等のアドバンテージは有利なはずだ。
だが、彼女たちは『調停者』の「ち」の字も知らなかった。蔵人は知っていた。誰も知らない、裏設定と言ってもいいゲームマスターの存在を知っていた。
代々【本】や伝承を継承する訳でもない、「面白そう」というけしからん理由で乗り込んで来た蔵人は知っていたのだ。
蔵人は何も答えなかった。静かにジントニックを飲み干すと、バーテンダーを呼んで一杯のカクテルを注文した。
「申し訳ありません。今夜はお暇させていただきます。紫乃さん、ご馳走させてください。今は、コレで」
中折れ帽を頭に乗せ、バーテンダーに注文した一杯のカクテルをそっと紫乃へ差し出すと、蔵人はパブを出て行ってしまった。ナルキッソスの残念そうな声も聞かず、紫乃の険しい眼力にもめげず。スマートに会計を終えて、小さく会釈をしながら帰ってしまった。
残されたのは、紫乃の目の前にある一杯のカクテル。
フルート型のシャンパングラスに入ったそれは、綺麗な紫色をしている。
「……キザに決めているつもりかしら。お酒で返答するなんて」
「シノ、クロードは何かアンサーを出したのですか?」
「最近、アメリカではカクテル言葉なるものが流行っています。花言葉や宝石言葉のように、カクテルに意味があるそうですわ。アメリカの流行が日本にも……このカクテル、ブルームーンのカクテル言葉は」
できない相談。
そう、“今は”。
いつか、その内、この1年の間に、あの薄い唇から紫乃の望む答えが紡ぎ出されたのだろうか。
真っ赤なルージュの唇が、ブルームーンに口付ける。
誰が、いつ、どんな目的で作ったのか分からない「月」の名前のカクテルは、『竹取物語』に少し似ているかもしれない。
パブの場面は、そこで終わった。
次の頁が開かれると、そこには紫乃がいた。蔵人も。
「蔵人。貴方、何故ここに?」
「? このお店、私の行き付けなんですよ。使用しているトニックウォーターが癖になる味でしてね」
左手を首に添えた蔵人は、ちょっと困ったように微笑んだ。
先ほどの店とは違う。町の片隅にひっそりと建つ小さな店舗の煮詰まった飴色の大きな扉には、『OPEN』の看板がかけられている。看板には白いデイジーの花が飾られているのがちょっと小洒落た印象だ。なるほど、蔵人が好きそうである。
「紫乃さんは、何故ここに?」
「……ナルキッソスから聞いた、芸者が出没した店。それらを地図上にピンで刺して、東西の最も外側のピンを両端に円を描いたら、一定の範囲に被害が集中していることが分かりました。恐らく、その範囲内に芸者の本拠地があるのでしょう。最後の犯行から移動していないのならば。その円の中の店を毎夜訪ねた四軒目が、この店です」
「お見事。FBIでも採用している地理的プロファイリングですね。紫乃さんが刑事になったら、優秀な捜査官になるでしょうね」
「まさか。女刑事などフィクションの世界の存在ですよ。男社会が女を出世させてくれると思って?」
「確かに。あと50年以上経っても、封建的体質は些末な変動しか見せないでしょうね。折角ですから、一杯いかがですか? カクテルのメニューはあまりありませんが」
少なくとも、あの眼力ならば取り調べで犯人を落とせると思う。
蔵人が仰々しく飴色の扉を開けて紫乃をエスコートする。年季の入った手提げランプが温かい色の火を灯すカウンター席に着くと、蔵人はやはりジントニックを注文して、紫乃はエールビールを注文し一気にグラスを空にした。やっぱり、お酒は強いようである。
店内は特に変わった様子がない。2人を始めとした常連と思われる客たちが数名、思い思いに酒を楽しみながら、店主はしきりにエールビールを勧めて来る。
どれぐらいの時間が経っただろう。そろそろ日付も変わりそうな時間に、今日も外れかと紫乃が財布を出そうとした瞬間に、飴色の扉はゆっくりと音を立てて、来店を告げた。
「一曲、いかがですか?」
黒い着物に濃い紫の帯を締めた女性が来店した。闇夜に紛れそうな着物の文様は源氏車だ。
前髪だけを結い上げた黒髪を流し、色白のほっそりとした面長の輪郭と調和が取れた切れ長の両目と小さな唇には、真っ赤な紅が乗せられている。
その唇が紡いだ言葉は流しの芸者の台詞だ。手に持つ布からは、三味線が覗いている。
三味線を抱いた流しの芸者。この時代の日本になら、まだ飲み屋に顔を出すこともあったかもしれない……しかし、ここはイギリスがロンドンだ。
非日常的な出来事に口笛が飛んだ。だが、彼女を手招きして一曲を所望しようと誘ったのは、ほろ酔いの客ではない。財布ではなく『源氏物語』の【本】を手にした紫乃であった。
「一曲、奏でて下さりますか? 不埒な盗人に引導を渡す、【戦い】の旋律を!」
「……あらやだぁ。【読み手】もいましたのね」
芸者の紅い唇が、半月の形に弧を描く。
三味線を包んでいた布がはらりと
「『夫を追い出した岩手は、出刃包丁を取り出して女に襲い掛かりました。愛する姫様のために女の腹を切り裂き、胎児の肝を抜き取ったのです』……展開能力・奥州安達ヶ原ひとつ家」
白い【本】の裏表紙には、積み上げた骸骨と髪を振り乱しながら包丁を握る老婆の紋章。
少し低いが、よく通るハスキーな声が物語の一節を朗読すれば、辺りは闇に包まれた。闇から這い出て来た骸骨たちは、困惑する店主や他の客たちの脚に群がり、店内は恐怖の悲鳴が木霊する。
ロンドンの片隅のパブは、一瞬にして日本のあばら家へと姿を変えた。昔話によく出てくるような、人気のない険しい峠にぽつりと建っていそうな、いやに親切に宿泊を勧める老婆が1人で住んでいそうな家の中に立つのは【読み手】の女性2人。
と、梁に引っ掛けられた縄で逆さに吊るされた蔵人だった。定位置にあるはずの帽子が落ちてしまっている。
「蔵人! 貴方、何故吊るされて?」
「抵抗できず、あっと言う間でした」
「親しそうにしていたので、人質に取りましたけれど」
「親しくありません、仲良くありません。彼を人質にするメリットはありません」
「酷いなぁ、紫乃さん。ああ、この体勢、錦絵ですね。『奥州安達ヶ原ひとつ家の図』、風紀を乱すとかなんとかで政府から発禁処分になった」
「余裕ですわね、蔵人!」
逆さまな蔵人の顔に焦りが見えなかった。
本当、余裕あるな!のんきとも言う。
「【読み手】と出会えるなんて、嬉しい限りですわ。貴女の紋章、いただきます」
「それは、こちらの台詞です。私は琴原紫乃。【本】は『源氏物語』!」
「あら、ご丁寧にどうもありがとうさん。あたしは
「あら、奇遇ですわね!」
紫乃の手に創造された『夕顔の白扇』の蔓が、奇遇にも同じ名前を持つ夕顔へと伸ばされた。
福島県の「安達ヶ原」と、埼玉県の「足立ヶ原」で、どちらが鬼婆の本家かで争った時、「自分とこを未開の蛮地と宣伝しているようなモンだから譲ったほうが得だべ」で埼玉が引いたって何かのギャグですか。