『黒塚』のタイトルで物語の内容をパっと思い付く者は少ないだろう。一般的な、児童向け絵本では主に『安達ヶ原の鬼婆』等のタイトルが付けられている。『黒塚』は能の演目だ。
読人は知っていた。中学生の頃、夏休みの自由研究で能の演目をレポートにまとめたことがあったからだ。
一般人でも一度は聞いたことがある演目から、少しマイナーなものまで。『黒塚』もレポートにまとめる候補に入れてあらすじから鬼婆の過去までを書き出していたら、横から宿題を覗き込んでいた蔵人にこう言われたのを思い出す。
「読人……悪いことは言わないから、その演目は外しましょう。教師に変な目で見られますよ」
納涼ホラー枠で良いかと思ったが、確かに今考えると視線が痛い演目かもしれない。
後の世に鬼女と成る女は、乳母を務める姫の病気回復のために胎児の肝を欲しがった。幾数年の年月をかけて待ち伏せをしていた小屋に妊婦を泊めると、妊婦の腹を裂き、胎児を取り出して母子ともに殺害した。イメージイラストでは、50年前のこの蔵人の状況のように逆さ吊りにして犯行に手を染めていた。
が、この妊婦というのが女の生き別れの娘だったから、胎児は孫だったから……それを理解してしまった女は狂い、異常者として人間の血肉を啜る鬼と成った。そう言い伝えられている。
悲劇を通り越して血腥い。涙が零れるよりもドン引きされる……おじいちゃん、忠告ありがとう。
話はズレたが、まあとにかく、血の臭いがするホラー風味の物語と紫乃の【戦い】が、かつてのロンドンで行われたのだ。
紫乃が手にする『夕顔の白扇』。扇に巻き付いた薄紫色の夕顔の蔓が鋭く硬化して夕顔へと伸びる。射抜くなり拘束するなりのアクションであったが、対して彼女が行ったのは右手の撥で三味線を打つことだった。
てぃん――
猫が跳ねるような身軽な音がした。
夕顔によって奏でられた三味線の音に反応して、周囲の骸骨がザワザワと動き出す。鬼女の食事の残骸であるしゃれこうべが不気味な音を立てて壁を作り、蔓の攻撃を防いだのだ。
まあ、あちらが先に展開能力を使用して物語の世界を展開させていたのだから、最初の一手は何かしら防がれると予想していたのだろう。紫乃は追撃の手を止めない。パチンと白扇を閉じて【本】を手にすると、創造されたのはお馴染み、青海波人形だ。
「青海波! 骸骨を一掃なさい!」
「あら、雅なこと。品の良いスカートと帽子にと、良いところのお嬢さんなのね」
口ではそう言っているが、夕顔の手は全く穏やかではない。撥が弦を打ち・弾き、音が飛ぶ度に骸骨が操られて立ち塞がり青海波の相手をする。
ちなみに、その骸骨に引きずられた他の客らは助けを求めて叫び、恐怖で気絶している。店主は蔵人の近くで泡を吹いて倒れていた。
おじいちゃん、この後もこの店に通えたのだろうか?
展開能力・奥州安達ヶ原ひとつ家
塗り替えられたこの世界は、鬼女と成る老媼が退治の生き胆を求めて流れ着いた峠の小屋。迷い込んだ旅人を罠に嵌めるための峠の小屋。別室を除くと、油の灯りの傍で鬼女が出刃包丁を研いでいるあのシーンの現場である。
絵本だと随分と印象に残るシーンであるが、『黒塚』では寝室で包丁を研いでいない。覗くなと言われた部屋を覗いたら、現在の光景のように無数の骸骨が積み上がっていたため逃げたのだ。
鬼女の胃に収まった人間たちの成れの果ては、夕顔の三味線の音に合わせて彼女の思い描く通りに動き回る。高く積み上げられたしゃれこうべは二体の青海波人形の前に頭突きを食らわし、攻撃されて崩れても直ぐにまたガチャガチャと音を立てて群れる。
「折角品が良い能力なのに、猪みたいに突進してくれば台無しじゃあありません?」
「品を弁えた振る舞いは、それ相応の方にしかしませんの。【本】と『黒塚』の能力を使って盗みを働くような不埒な無礼者には、これで十分です」
「あらあら、最初からあたし目当てだったのですか。嬉しいわね、こんな可愛いお嬢さんとお近付きになれて」
「ふざけないで!」
「その姿でパブを荒らし回ってもらうと、
「初めてまともなことを言いましたね、黒文字蔵人」
「え、初めて認定なんですか?」
酷いなぁ、紫乃さん。と、蔵人は困ったように笑った。本来ならば首に左手が添えられているだろうが、逆さ吊りのまま両手も縛られているので動かない。
あ、結構余裕ある。
紫乃も放置しておいて何ら問題ないと認定したのだろう。蔵人を助ける気配を見せなかった。
「目的は、楽な手段でお金を手にしたいだけでしょうか? ミス日暮」
「だって……異国だと、お金がかかっちゃうんですもの。永遠の生命の前に、野垂れ死にしたら元も子もありませんわ。折角、道中に三つも紋章を頂きましたのに」
「あらあら。四つも紋章を得られるなんて、とっても好都合ですこと!」
戦線布告。夕顔が他の【読み手】から勝ち取った紋章のみならず、『黒塚』の紋章もいただくという意味だ。
あえて口調を真似してそう言い放った紫乃に対し、夕顔の眦が不快感を表してひくりと動いた。
角の立つ口調は夕顔を挑発するためか、それとも紫乃が強盗犯の彼女に対して不快感を抱いているからなのか。はたまた、逆さ吊りになっている蔵人がいる手前なのか。
女性2人の間で火花が散った。ように見えた。バチバチっと、闇も切り裂く激しい火花を散らして女同士の【戦い】が始まった。
「若いお嬢さんの慢心は可愛いわね。今だけよ、そんな大口開けてキャンキャン吠えられるのは」
「齢を重ねても吠え癖が治らない女もいますわよね。貴女こそ、名前が表す花のように楚々と儚い振る舞いをなさったら? 弱々しく淡い花だから、白い扇の支えが必要なのよ」
「学はなさそうね。夕顔の花言葉は「夜」と「罪」。フィクションに引っ張られて、可憐な薄命の姫様を想像するのは大間違いよ」
「だったら、常夏の季節に登場しなさいな!」
「……パワフルですねぇ」
逆さ吊りの蔵人の口から出た言葉は、彼なりに精一杯オブラートに包んだ発言だった。
鬼女のあばら家の中心で、青海波人形と骸骨が頭突きとチャンバラを繰り返し、夕顔の蔓と三味線の音が飛び交い乱れる。だが、激しい物理のぶつかり合いよりも、女性2人の間で繰り広げられる口撃が激闘していた。
紫乃が大きく扇を振る音も夕顔が三味線を打つ音も、彼女たちの声のボリュームに合わせてどんどん大きくなり、蔵人は完全に蚊帳の外である。
「そもそも! 夕顔って名前に黒の源氏車の着物なんて! 被っているじゃない! 何なのよ貴女!」
「知らないわよ。あたしのお気に入りなのよ! そっちこそ、流行りに乗っかってパーマなんてかけてチャラチャラしちゃって! 良いわねぇ、若い子は軽々しくて」
「あら失礼、おば様だったのね」
「言っておきますが、まだ二十代ですからね。貴女もあと数年でそのおば様になるのよ!」
「あー……両者とも、取り繕うのを辞めましたね」
極端に言えば、化けの皮が剥がれたとも。
ヒートアップすれば上品な振る舞いも語彙力も彼方に消えてしまうのである。紫乃はアルコールも入っていたし、興奮気味なのかもしれない。2人とも凛としてよく通る声なので、暗闇と雑音の中でよく響いた。
が、口撃がヒートアップしているからと言って、【戦い】が猪突猛進の雑なものになる訳ではなかった。骸骨を操る夕顔の三味線の音が、撥を持つ手が止まる。闇に紛れて目視し辛くなっていたが、彼女の目の前や骸骨があと一歩踏み出すその先に糸が張り巡らされていたのだ。
青海波人形から伸びる糸は、獲物を絡み取るなりスパリと切ってしまうなり、様々な用途で相手の邪魔をできる罠である。
「こんな小細工、無駄ですわ。もうお終いにしましょう。貴女に時間を裂いている暇なんて……ないの」
弦を抑える指は上下に動き、撥が軽快に打たれて旋律が奏でられる。
骸骨を動かす音とは明らかに違う、おどろおどろしい音楽。それと共に夕顔の足元から伸び出てきたのは、細く長く、不健康そうな色をした腕。握られているのは刃渡り30cm以上もある出刃包丁だった。
「召喚能力・安達ヶ原の鬼女――」
骨の如き腕からは考えられないほどの勢いで振り下ろされた出刃包丁は、張り巡らされた糸を断ち切った。勢いのまま出刃包丁をガリガリと床に突き刺し、全身が這い出て来る。
先ず登場したのは、振り乱したボサボサの白髪。身に纏うのは、染みもほつれも目立つボロボロの一枚の小袖。骨の浮き出る痩せこけた身体は、不健康を通り越して人間を捨て去った異形のモノだった。耳まで裂けた歪んだ口元からは黄ばんだ犬歯が覗き、眼窩から零れ落ちそうなほど飛び出た両目は狂気に濁っている。
その姿は正に鬼婆――否、夕顔の言う通りの鬼女だ。狂気に染まった安達ヶ原の鬼女が、【本】と物語を通じて
「鬼女?! 物語の主人公を創造する、召喚能力!」
「厳密に言えば違いますよ、紫乃さん。召喚能力は、物語の主人公そのものを呼び出す能力。我々の想像力など、微かなスパイスを付与するのみ……本来ならば、紋章を集めて【本】にエネルギーを満たし、【読み手】自身が主人公をより深く理解することが必要ですが。彼らに何か特別な思い入れがあったり、日頃からより深く共感しているならば、【本】を開いた瞬間に能力を行使できると言われ伝えられています」
召喚能力
【本】が持つ四つの能力の中で、【読み手】の想像力だけでは創造できない、物語の主人公そのものを召喚する能力だ。
読人が見たのも二度だけ。長靴を履いた猫と、雪の女王。
蔵人の言う通り、本来は序盤でそう簡単に使える能力ではない。だが、例外はある。
夕顔はきっと、安達ヶ原の鬼女に何か特別な思い入れがあるのだ。深く共感しているのだ。
そして、鬼女で恐怖を抱かせて何件もの強盗事件を起こしているぐらいには、2人の間に共感が生まれている。
『オ、オンナ……! 柔らかい、オンナのニク!』
「落ち着いて、岩手。ここはあたしたちの家、あたしたちの領域よ。食べるのは、簡単」
『ニク、ニク! ニクニクニクニクニクニクニクニク! 久しぶりのご馳走じゃぁ!!』
「青海波!」
召喚された主人公には明確な自我がある。鬼女は自我を持って出刃包丁を握り、犬歯をむき出しにして紫乃に襲い掛かる。人間の血肉を啜る鬼女にとって、年頃の若い女の柔らかい肉は最高のご馳走だった。大好物だったのだ。
紫乃の扇の動きに合わせて青海波人形が前に出るが、大好物にとってまっしぐらに突き進む鬼女は早かった。とっくに人間を辞めているせいか、駆ける速さが尋常じゃないぐらい速いのだ。
猛烈な速度で迫る鬼女の前に立った青海波人形は、よく研がれた出刃包丁によって腰から一刀両断された。下げた太刀を抜く暇もない、それだけ鬼女は速い。
よく研がれた出刃包丁の切っ先が紫乃に迫る。あばら家の暗闇に不気味な白い光の軌道を描いて振り下ろされた。
『ニク、ニク! 食べてアゲルからねぇ!!』
「っ! お断りします!」
紫乃が『夕顔の白扇』を薙ぐと、扇で支えられていた白い夕顔の花がいくつも風に乗って鬼女の顔に降りかかる。
目晦ましの白い花を切り裂いた鬼女の目の前から紫乃が消えていた。一時的に視界を遮り、一時的にあばら家の別の部屋に身を隠したのだ。
油の灯で中の様子が透けるほど薄い襖の隙間に滑り込み、闇に紛れて息を殺して体勢を立て直す。
この場が未だに鬼女の本拠地である限り、夕顔によって物語の世界が展開されている限り、紫乃にとっては圧倒的に不利だ。蔵人も逆さ吊りのままだし。
声も出さず、吐息も感じさせずに己の気配を停止させた紫乃は、戒めとして口元に扇を添えたまま、『源氏物語』の【本】を開く。何か突破できる能力があるのだろうか、それとも、一撃必殺ともいえるあの凶悪な悪霊を創造するのか。
次の一手は、どちらが動く?
その答えは、夕顔と鬼女だった。
紫乃の足元から、姿と気配を消していた紫乃のすぐ近くから出刃包丁を握った鬼女の腕が突き出てきた。菫色のロングスカートから白粉の乗った頬までを、一直線に切りつけたのだ。
「っ! 気付かれた?」
「隠れたつもり? 鬼女の胎の中だと言うのに。ああ、でも……知らないと隠れようも防ぎようもないわね。世間知らずのお嬢さんに教えてあげましょう。召喚能力で呼び出された主人公たちが持つ……」
「固有の特性でしょう。私たちの想像力や創造力に関わらず、主人公を象徴するが如き“特性”を持つのが召喚能力……でしょう!」
「ええ、そうよ。安達ヶ原の鬼女が持つ特性は『闇の狂気』。彼女は闇の奥から現れる、闇がある限りどこにでも現れて、闇の果てまでも駆けて行ける。闇がある限り、鬼女は無敵よ!」
夕顔が打つ三味線の音を背負いながら、紫乃の影……否、闇の中から再び、鬼女が姿を現した。
日暮夕顔(28)
元は東京神楽坂の芸者。芸名は「宵はな」
まだ十代の頃、身寄りも行く宛てもない中で名も知れぬ男との子供を妊娠・出産したが、育てる自信がなく息子を寺に預けた。
それから芸者になり数年、ある座敷で大企業幹部のたくらみを聞いてしまう。ある社員に全ての責任を押し付けて首を切る厄介払いの話を耳にしたが、自分には関係ない、お客様の事情に口を挟まないと気にも留めていなかった。
それからしばらく、件の社員が一家心中したと新聞で読む。社員とその妻、そして息子の写真を目にして声を失った……亡くなった息子に、自身が産んだ子供の面影を見たのだ。
調べてみると、社員夫婦は子供が出来ずに養子を迎えていたとのこと。養子がいた施設が、夕顔が子供を預けた寺であり、生年月日も一致していた。亡くなった子供は夕顔の息子だったのだ。
知っていたのに、何もしなかった。結果、子供を死なせてしまった……自分が我が子を殺したようなものだ、と、夕顔の中で歯車が狂い始めていた。
イギリスでの非日常から50年……老齢になった彼女の手には、『黒塚』がある。
展開能力・奥州安達ヶ原ひとつ家
人気のない険しい峠に建つ、妙に親切な老婆が住むあばら家の場面を展開する。鬼女に住処であり、鬼女の食事のゴミが散らばる恐怖の家。
あちこちに散らばる骸骨を自在に操り、邪魔者は『奥州安達ヶ原ひとつ家の図』の如く逆さ吊りにされる。怖い……怖い……!(怖い)
旅先のあばら家は闇ばかり。
召喚能力・安達ヶ原の鬼女
特製:闇の狂気
『黒塚』の主人公たる鬼女その物。名前は岩手。
闇に紛れて数多の旅人を襲い・喰ってきたことから、闇や影がある限りどこからでも出現することができる。
人間としての思考は既に闇の彼方へと葬られ、人から鬼に成った鬼女として人を喰う。弱点は光。
お互いに我が子を殺した繋がりにより、夕顔とは同一の存在と言わんばかりに通じ合っている。夕顔もまた、自身の最大の理解者として岩手に依存気味。