夢の景色だと思っていた。
成功者という、一握りの幸運者たちだけが辿り着くことができる摩天楼。天に近い位置から、豆粒ほどの人と蟻の行列のような自動車の群れを見下ろすことができる、成功者の象徴。
映りの悪いテレビで観たその景色。ビジネスで成功した富豪が腹の立つ笑顔で見下ろしていたドラマのシーンを、カッサンドラはよく覚えている。
身体に最高にフィットしたオーダーメイドのスーツ。ピカピカの床を歩く度に音を鳴らす新品のパンプス。ガラス張りのビルを音もなく昇っていく高速エレベーター。最上階から見ることのできる雲一つない空。
ここに自分がいる実感がなかった。アメリカ、シリコンバレーのビル群の中でも一層高く、洗練されたデザインの建物の最上階にある、最高に座り心地の良いソファーに居心地が悪そうに座っているなんて……つい1か月前のカッサンドラは、想像すらしていなかったのである。
「……」
「……」
「……ねぇ」
「……ハイ」
「喉、乾くでしょ。乾くよね。お喋りしていなくても、ただ空気を吸っていたら乾くもんね。何か飲もう。どうせタダなんだから、飲まなきゃ損だよ」
「ハイ」
まったく、自分の上司とやらは本当に何を考えているのだろうか。会議が終わるまでここで待機してくれと指示を出し、この状態を1時間以上も創造してしまった上司は。
4月の終わりに、カッサンドラ・オリーブはメキシコからアメリカに移住した。彼女が住んでいた孤児院ごと。更に、カッサンドラの協力者であった動物たちまでもアメリカに連れて来られていた。みんな元気に暮らしている。
【戦い】によって『ドリトル先生物語』の紋章を奪われて脱落したカッサンドラに対し、奪った張本人である上司ことレザンは、彼女を部下にしたいとスカウトしてきた。否、スカウトする前に既に部下にされていた。カッサンドラが目を覚ました時には、移住も後片付けも、このスーツの手配すらも全て終了していたのだ。
レザンは強引どころか、気付いた時には本人の意志関係なく好き勝手に全部完結してしまったのである。そんな上司は本日、彼女を始めとした3人の部下を連れてこのビルにやって来た。自身の会社だから好きに出入りしてくれと、いとも軽く社員証を渡したのだ。
部下の立場なのに、本日のカッサンドラはただ待機しているだけだ。同じく、待機の指示が出された彼……ソファーの端と端の距離を保ちつつ、会話なく音楽すらもなく、かと言ってスマートフォンも手にせずに大人しくソファーに座る少年・アイと一緒に。
「何にする? コーラ、それともスプライト?」
「炭酸は、飲めないから」
「じゃあ、オレンジジュースにするよ。あ、グアバジュースあるじゃん。私これにしよう」
彼女たちが待機している一室には自動販売機が備え付けられていたが、これがなんと無料なのだ。社員も来客も、雇いの清掃員すらも好きなように使ってくれとレザンが設置しているらしい。大らかなのか馬鹿なのか。
オレンジのパックジュースを渡すと、アイは小さく「ありがとう」と呟いた。
褐色の肌に癖のあるブルネット。琥珀色の大きな双眸を持つ中々に可愛らしい少年だが、無口なのかあまり喋らない。英語やスペイン語が離せないのではない、言葉は通じている。
「……あのさ。沈黙にも飽きたから、話しかけてもいい? 折角、【本】のお陰で国が違っても言葉が通じるんだから」
「ハイ。どうぞ」
「じゃあ、質問するよ。アンタも【読み手】だったんでしょ、やっぱり私と同じでアイツ……レザンさん、にやられたの?」
「ハイ。ボクの【本】の紋章は、レザン様が持っています」
「どの【本】? 学がないから、タイトルを言われても分らないかもしれないけど」
「『蟻とキリギリス』です。ボクの、大切な【本】です」
「蟻、キリギリス……ああ、あの」
カッサンドラでも知っている物語だった。
働き者の蟻と怠け者のキリギリス。勤勉に働かなければいけないという戒めのような、愚直な勤労を美徳とするようなあらすじだったと思い出す。
「昔、施設の先生が読んでくれたな」
「ボクは、ボランティアの人が読んでくれました。その人から、もらった」
「そういえば訊いてなかったけど、アイってどこの出身? 元からアメリカじゃないでしょう」
「エルデバ」
「エルデバ……って、紛争地域でしょ! 年の初めに大きなニュースをやっていた」
「うん。ボクの村はエルデバの端で、国境に近い場所だった」
エルデバは西アジアにある小国だ。周囲の二国の間に取り零したかのように、ポツンと存在しているそこの取り合いは、南米でもしばしば報道されていた。一時は米軍も介入し、昨年までは比較的落ち着きを見せていたが、紛争の弊害で国全土が貧困に陥っていた。
国際情勢にあまり興味のないカッサンドラでも聞いたことのある名前だ。確か、正月早々に騒いでいたと記憶している。
エルデバの国境に最も近い隣国軍基地の軍人たちが、束の間の平穏を破って突如侵攻して来たのだ。新年のお祝いをしていた彼らはしこたま酒を飲んでおり、実行犯たちは酒の勢いの悪ふざけと言ったような感覚だった。
悪ふざけで侵攻されるなんてふざけた話。そんな馬鹿げた話があって堪るかと笑い飛ばせればよかったのだが……そんな馬鹿げた話の犠牲になったのが、アイの村だったのだ。
「ボクたちは、新年のお祝いをしていた。今年は、ボランティアの人たちがくれたお菓子を食べることができた。チョコレートビスケットを食べていたら、隣の家が撃たれた音がした」
「……いいよ。話さなくても」
「ヒロが、撃たれて死んだ。ボクに【本】をくれた人。日本人のボランティアの人」
彼は、同じ名前だと爽やかに笑っていた。
彼らは道を造るだけではなく、アイたち子供にはノートと鉛筆の学習道具を。姉や母たちには洋服を。そして、村全体には絵本や音楽のCDを与えてくれた。
『蟻とキリギリス』は、そんな中でもたらされた一冊だった。藍野や仲間たちが毎日のように本を読み聞かせてくれた日々の中で、アイと藍野が仲良くなるには時間がかからなかった。父が出稼ぎ先の事故で亡くなり、母と姉たちと暮らしていたアイにとっては、父のような兄のような人になりつつあったのだ。そうだったのに……細やかな幸せをぶち壊した弾丸は、大切になりかけていた人の生命までをも奪った。
藍野が倒木の如く地に横になったその瞬間だった、『蟻とキリギリス』の白い【本】の背表紙に紋章が出現したのは。
列を成す蟻が円を描き、その中心には草に乗ってバイオリンを弾くキリギリス。【戦い】の幕が開けたその日にアイという【読み手】を見付けた【本】は、この危機を打破すべき能力を創造したのだ。
「ボクの【本】は能力が暴走した。使い方も止め方も分らなかったのに、ボクが
「……」
「それを止めてくれたのが、レザン様だった。レザン様がボクの【本】を閉じてくれて、助けてくれた」
無意識の創造。アイの深層心理にあったモノが、『蟻とキリギリス』の物語の皮を被って現実に創造されたのだ。
翅の羽ばたきでスニックブームを起こすキリギリスに、ブルドーザーの馬力で突進してくる蟻。それが、車よりも一軒家よりも大きなサイズで、しかも団体様で創造されたのだ。
キリギリスは1匹しか登場しなかったのに。と、突っ込みたくなるほどの数だった。
アイの中にあったのは、藍野を撃った者たちへの憎悪と憤怒だった。否、それだけではない。彼の、家族の、村のみんなの貧困と、この国の疲弊の原因は元はと言えばこいつら敵国の連中なのだ。今までの、二桁になったばかりの幼い子供でさえ抱いていた負の感情は、全てを踏み潰して壊滅させる“災害”として創造されてしまったのである。
物語の登場人物としての、擬人化された蟻とキリギリスではない。アイの中の破壊衝動が昆虫の姿を借りただけの現象は、敵を蹂躙して壊滅させたが、アイの家を倒壊させた。半分以上の整備を終えていた道を、修理したばかりの橋を、村に一台しかない古びた車を破壊した。
やめてと叫んでも、想像力の暴走は……アイの中に溜まりに溜まっていたストレスと爆発した衝撃は、止まることはなかったのだ。
それを止めたのが、レザンだった。
見たこともない美しく、白い色の人。静かな水面に差し込む太陽の光のような髪の毛を、アイは人生の中で初めて見た。冬の闇夜に金と銀の雨が降る光景も、初めて見た美しい空であった。
「全部、レザン様が止めてくれた。蟻とキリギリスを消してくれて、敵国の奴らをやっつけてくれて、ヒロを家に帰してくれて……村はなくなっちゃった。ボクのせいで。お母さんと姉さんたちは……」
「思い詰めないでよ。事故みたいなモンだったんだから。家族だって村のみんなだって、あんたを怨んじゃないって……」
「学校に通っている」
「……うん?」
「村のみんなは無事だった。怪我はしたけど、誰も死んでいない。でも村は駄目になったから、みんなで首都の町に移住したんだ。レザン様がアパートを建ててくれて、村のみんなが働く工場を造ってくれた。学校にも行かせてくれて、お母さんと一番上の姉さんは職業訓練の学校に通いながらその工場で働いている。姉さん、美容師になりたいって」
しかも、カッサンドラの施設の子たちと同じく、無利子無期限の奨学金を貸し付けたらしい。手に技術と職を付けてから返してくれと。
ちなみに、幼い子供たちの学費は無料である。最低限の教育に金など取ると思うかね?と、酷く驚いた表情で件の上司はそう言っていたのを、カッサンドラは思い出した。
カッサンドラの時といい、アイの時といい、レザンは随分とスケールがデカい。村がなくなったとはいえ、村人全員を首都に移住させてアパートを一から建てるか普通?
金か、金があるからか。
「で、アンタだけアメリカにいるってことは、やっぱりレザンさんに強引に部下にされたってこと? 家族と離れて、たった1人で異国に」
「うん。レザン様は、家族もみんなでアメリカにって言ってくれたけど、故郷のエルデバから離れたくないって。ボクも本当は離れたくなかった。でも、レザン様の役に立ちたかったから。ボクは、ボクにやれることを精一杯やりたい」
「細く、小さく、幼きその身で涙を落としながら叫ぶか。死と【本】を抱き締め、瓦礫と破壊の中心で己の想像力に立ち向かうか……その姿、気に入った! 存分に涙を流せ、頬を潤せ。なに、子供は泣く者だ。泣いてまた、立ち上がればそれで良い」
そう言って、レザンは閉じた【本】をアイへと手渡した。そして、藍野の遺体を抱き締めたままのアイを、自身の部下へと勧誘したのである。
カッサンドラが年齢を訪ねると、両手の掌を見せて10歳と答えた。細いせいかもっと幼く見えたが、10歳の少年が(一部以外は)言葉も文化も異なる地に単身でやって来るなんて随分な度胸だ。部下にされた当初、一瞬でもギャーギャー騒いでレザンに噛み付いた自分が馬鹿みたいではないか。と、カッサンドラは居心地の悪そうにグアバジュースを啜った。
レザンという男は、カッサンドラが部下になったから彼女の大切な存在を庇護した。下へ対する誠心誠意十分なフォローと報酬であると、実に清々しいドヤ顔でそう語っていた。だから、アイの家族や元村人たちへの対応も同じなのだろう。アイという下へ対する誠心誠意十分なフォローと報酬……そう、少年への報酬でアパートやら工場を用意して生活を与えたのだ。強引だけど。
喜べばいいのか不気味に思えばいいのか分からない。
部下同士の会話がひと段落ついたところで、待機が終了した。会議とやらを終えたレザンが、もう1人の部下を連れて部屋に帰って来たからだ。秘書のように、常にレザンの傍に佇むもう1人――スキンヘッドにトライバル柄のタトゥーを入れた大柄な髭の男は、アトラスと呼ばれている。
「レザン様、お疲れ様です。お荷物、持ちます」
「ありがとうアイ。だが、君の仕事は荷物持ちではないよ。自分の荷物は。自分で持ってこそ自分の物だからね。どうだい、カッサンドラとは仲良くなれたかい?」
「ハイ。話しかけてくれました」
「それは良い! そうだ、今日のランチはSUSHIにしようと思っていたんだ。アイ、君はまだSUSHIを食べたことがなかっただろう。生魚はイケるかい? 駄目だったら、肉を使ったSUSHIもあるんだ。アトラス、4人分の予約をとってくれ」
「畏まりました」
「あ、の……レザン、さん!」
「どうしたんだい、カッサンドラ?」
形の良いエメラルドの瞳が真っ直ぐにカッサンドラを捉えた。本当に、この男は外見が美しいのである。
「どうして、部下の私たちにそこまで? 私の家族を移住させて学校まで通わせてくれて、アイの身内に仕事を与えて……何で、そこまでできるの……ですか?」
「不慣れなら、無理に敬語を使わなくても良い。言っただろう、部下へ対する誠心誠意十分なフォローと報酬さ。福利厚生の一部だ。それに、君の家族は君と同じだった。諦めなかった。新天地へ旅立ち、未来を手にする意志があった」
「え……」
「カッサンドラ。君の施設の責任者や弟妹たちにも問いかけたのさ。アメリカに来る気はあるか、大学で勉学に励む気はあるか。君が掴んだ
「着工を1年以上も早めたのは随分無茶ぶりしましたけどね」
「アトラス、シっ!」
「申し訳ございません」
何も考えぬお人好しが花を蜜をばら撒くのではない。歩みを止めない者がいるから、できる限りの力で応援しているだけのことだ。
レザンは自らを、神に憧れる人間だと言った。だが、神のように傲慢な存在にはならない。
人間然として人間を愛そう。人間の可能性を、強い意志を、愛のために流す涙を。
「私は乗り越えられる試練しか与えない。乗り越えようとする意志があるならば、進歩のための道の整備ぐらい片手間で足りるのさ。それが、君たちの家族ならなおさら丁寧に整備をしてやらないと。君たちは私が選んだ部下であり臣下であり、この1年間を共に走り抜く戦友だ。
嫌味も傲慢さも、それどころか謙虚ささえも感じさせぬほど眩しく、毅然としてそう言い放ったのである。
己の懐に入れた人間を、問答無用で愛して友とする。疑心暗鬼のこちらが馬鹿みたいではないか……こんなにも美しい男に信頼されているのが、無性にくすぐったいのだ。
「では、親愛なる諸君。今日のランチと行こう!」
「カッサンドラ、行こう」
「……りょーかいです」
こうなりゃ、徹底的にレザンの信頼に応えてやろう。彼が瞠目するほどの働きを見せて、良い意味で裏切ってやるのだ。飲み干したグアバジュースのパックをダストボックスへと放り込み、レザンの後に付いて歩き出せば、パンプスのヒールがさきほどよりも軽やかな音を立てた。
アトラスが呼んだエレベーターを待っていると、不意にレザンのスマートフォンが鳴った。自社製のそれを手に取れば、彼はエメラルドの瞳を一瞬だけ細めたのだ。
『決行は6月の最終土曜日に』
「カッサンドラ。もうすぐ、君の能力に必要になる」
「……分かりました」
『
有能な人間とスカウト大好きレザン様。
なお、レザン様が望む働きをすれば超絶ホワイトな職場である。
タイトル『???』
アトラス、カッサンドラ、アイの3人が物語に組み込まれている。