最後の人魚を殺した男の物語

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海鈴や 共に果てなむ あわひ恋 幾年月も 響き渡りかし


海の鈴はもう鳴らない

【永遠の美】

 

 

 女守村(めもりむら)という名のその村の人口は約800人。

 日本に180以上ある村の中でもかなり小規模ながらも小中合同校舎や簡素な店などもあり生活に困難はない。

 名産は絹と魚介類。海に面しているため、村中どこにいても潮の匂いがする典型的な漁村だ。

 

 

 

 俺の生まれた村では神様を食べている

 

 

 

 先日数年ぶりに再会した大学の同期から聞いた話に興味が抑えられずここまで来てしまった。

 その同期本人はかなり長い間この村には帰ってきていないと言っていた。

 ××県の南部に位置し、無人駅のK駅から更に奥にある為に確かに都会から来るには不便だろう。

 だが、それを差し引いてもなんとも雰囲気のよい村だ。目にする全てが新鮮で、バスから降りて数分も経たずにメモ帳が1ページ埋まった。

 

「変わった名前の村だな」

 てっきりその神さまとやらの名がつけられているのかと思ったがそういう訳でもない。

 後々にこの村の名の由来とやらも調べる必要がありそうだ。

 

「おーい、あんちゃん、どっから来た人かねー?」

 漁船のそばで投網の手入れをしている漁師に声をかけられた。

 今は2時だが、もう漁は終わったのだろうか、船の周りに他の人の姿はない。

 

「東京からです」

 

「ああっ、奥田さんとこのか! あっこに見える家だ」

 もう既に自分の事が知られていることに驚いた。

 その同期――――奥田に詳しい話を聞こうとしたら自分の目で確かめた方がいいと言われたのだ。

 土産を持っていく代わりに彼の実家に泊めてもらうことになっていたのだが、よそ者と言うことが一目で見抜かれ素性も一言で知られてしまった。

 

「ケン坊は元気なんか? 前に来た時はまだ学生だったんだがね」

 

「元気でやってますよ。仕事忙しそうで私も全然会えないんですけどね」

 

「やー、ケンは元気の塊やったからな。今も変わらんならそれでええ」

 奥田家まで僅か300mしかなかったが、すれ違う人全てに声をかけられた。

 どうもよそ者は相当珍しいらしく、当の奥田家でも初対面のはずの自分にあれやこれや根掘り葉掘り質問され、10時前には疲れ切って床に入ってしまった。

 

 

****************************

 

 

 神様を食べさせてあげる、と言われて出されたのはただのタコの刺身だった。

 ただの、と形容するには確かに美味すぎたがそれでも神の味だとか天上の食事かと言われればそこまでではないと思う。

 

「寒いですね」

 

「我慢しな、もうすぐだ」

 ぐっすりと寝ていたというのに叩き起こされて今は海の上の漁船の先頭に突っ立っている。

 神様を見に来たんだろ、と夜中の2時に布団を引っぺがされて目も開かぬうちに漁船に乗せられたのだ。

 タコを神と呼んでいるあたりからなんとなくそんな予感はしていたが、まさか夜も明けないうちに漁船に乗ることになろうとは。

 夏なのに海の上は寒い。漁師から貸してもらったベストに対して大げさだなと思っていた2時間前の自分が馬鹿だった。

 

「この辺だ、もうすぐだから待っていな先生」

 自分の職業を奥田家の人々に話したのが昨日なのに、目が覚めてから会った人間全員から先生と呼ばれている。余程外の人間が珍しいのだろう。

 波の音は一定のリズムで鳴り、ほんのり雲がかかった月の周りに白い円が出来上がっている。

 漁船の人間は誰も口を開かずにその時を待つ。遠くにぽつぽつと浮かぶ漁火を眺めながらていると異世界に入り込んでしまいそうだ。

 

「来たっ、先生、来たよっ」

 船に乗る前はいかにも漁師らしい豪快なしゃがれ声で叫ぶように話していた船長が急に耳元で囁くと同時に、船の周囲を照らす光が一段弱くなった。

 夜明け――――太陽が海の向こうからこちらを覗き、全てを照らし始めている。

 海を見ろ、というジェスチャーに従い目をおろすと――――

 

「これは……!!」

 静かだった海がさざめく波に彩られている。

 光の反射などではなく、本当に色とりどりの色彩が海に浮かんでいるのだ。

 自分の見ている『それ』が全体の中の一部だと気が付いたのはすぐだった。

 

「…………」

 船員が海に跪き祈りを捧げている。

 まるで海に浮かぶ『それ』を真似るように。

 漁船よりも大きな姿の『それ』――――女守村の神は、女の姿をしていた。

 とうに命が尽きていることを示すかのように、表情に既に生気はないが、静かに目を閉じ手を合わせて何かに祈っている。

 古めかしい冠、着せられた正装から察するにおよそ600年程前の装いだろう。

 着せられた、と表現したのには色々と理由があるが、一番の理由はその神は本来なら服など着ていないはずだからだ。

 

(人魚……!)

 エメラルドの鱗に覆われた艶めかしい下半身は、海の中の生き物であることを黙って示すかのようで、生気のない表情と対照的に今でも輝いている。

 神様を食べる村、神様だと言われて出された夕食のタコ――――全てが脳の中で繋がった時、脚が震えて立っていることも出来ず他の船員と同様に跪きその奇跡に手を合わせるしかなかった。

 

 

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 分類上は哺乳類となっているその種族の名前は他でもない、人魚。

 上半身は人間の女性の身体、下半身は魚類という摩訶不思議な身体の構造をしている。

 一定の社会性があり、高い知能も有していたとされるその種族は世界中に生息していたが、200年前にはほぼ絶滅しており最後の目撃・捕獲例は1973年だ。

 今はもう物語の中でしか登場しない。

 

 例えば、ライオンは人間も襲うが、人間だけを襲う訳では無い。

 例えば、蚊はマラリアを媒介するが、それは意図しているわけでは無い。

 この世にいる害虫害獣その他諸々人間に害を為すとされている生物全ては、その性質や食性が結果として人間に害を与えているだけだ。

 

 だが人魚は違った。

 それが殺す事になると分かっていながら人間だけを明確な意図を持って襲っていたのだ。

 そしてもう一つ。人魚は『海の鈴』と呼ばれる宝を持っていた。

 だから滅びた。いや、滅ぼされた。

 仕方なく滅ぼした、滅ぼすしかなかったと知っていてもなお人類はその美しさに惚れこんでおり、世界中に人魚伝説は残っている。

 

 

『なるほど……水葬された人魚が数百年の間、なんらかの理由でほとんど腐敗もせず海の底に残っていたと』

 

「そしてあの地域特有のミミックオクトパスが天敵の姿……彼らの思う人間の姿を群れで真似たのが神の正体だ」

 奥田家の庭で星空を眺め早朝の奇跡を思い出しながら興奮気味に友人に通話する。

 自然界の中には擬態する生物は珍しくなく、背景と同化する生物もいくつかおり、タコにも同様の性質を有する種がいる。

 この村の海にだけ生息しているミミックオクトパスの一種はこの海のどこかに眠る神と崇められた人魚の遺体を群れで真似し危険な生物から身を守っているということらしい。

 

『面白い生物だ。生きていなくても構わないから一匹冷凍して送ってもらえないか』

 

「そう言うと思って、二匹送ったよ。一匹は食べてみな」

 もう10年来の付き合いとなる大学の同期、鳴海 響(ひびき)は大学でそのままポストドクターをしている。

 遺伝子工学の博士なのは知ってはいるものの、タコを送ってどんなことをするかまでは文系のうえ学部卒の自分には分からない。

 おまけに立派に大学で働いているこの友人と違って30近いのにほぼ無職に近いバガボンド生活をしている自分には想像もつかない使い道があるのかもしれない。

 

『で、神の正体を見て君はどう思った?』

 

「どう……まぁ、奇跡だなって思ったよ」

 

『物語にするには足りないだろう? 君のしたことと言えばど田舎に行ってタコを食って漁船に乗って神を見たというだけじゃないか。あまりにも短い』

 

「まぁ……そうだな。起承転結がないな。小話としては面白いが……」

 西 揺蕩(たゆた)の職業は一言で表せば冒険家だった。面白いことがあればどこだろうと、どの国だろうと飛んでいく。

 そしてそこで出会った人々からの話を聞き、写真を撮り、本にして出版する。固定の読者がついてくれていることや親の遺産もあり(というか遺産が大半の理由)、贅沢をしなければ意外にもそれで食べていけている。

 今まで神だの仏だのがいるという村や地方に100は行ったし、国だけでも30は巡った。

 だが大抵はそんなものはおらず、棺桶に両脚突っ込んでいる老人から同じような話を聞かされるばかり。

 それなどまだいい方で、アメリカのアリゾナに行ったときは新興宗教に捕まって人肉を食わされそうになったりと大変だった。

 それに比べれば実際にその神を目にすることが出来たのだから大当たりの方なのだ。

 しかし、国立の大学まで出ているのにこんな根なし草生活を送っているのは少なくとも知っている同期の中では自分くらいだ。

 響もよくこんな訳の分からない男と友人を続けてくれているものだ。

 

『起承転結にならないなら、これを起にするといい。最後に人魚が発見されたのは日本なのは知っているかい?』

 

「ああ、50年くらい前だろ」

 

『なら、その発見者が押上教授だというのは知っているか?』

 

「……あの厳つい教授が?」

 文系の自分でも生物だかなんだかの教授だった押上をよく覚えているのは生徒間でもあまりにも有名なほどに怖かったからだ。

 厳しい・怒鳴るという話では無く見た目が非常に威圧的だった。190cm近い身長、明らかにかつてやんちゃしていたであろう拳ダコの痕、頬から唇を乗り越えてななめ一文字に残る刃傷。

 何回か大学構内で見かけたことがあるが、話したことは当然一度もない。

 

『そう、その厳つい押上教授、いや……元教授か』

 

「やめたの? そういえば結構な歳に見えたな」

 

『今は海洋生物研究所の所長をしている』

 ぶるっ、と携帯が震えた。鳴海が写真を送ってきたのだ。

 開くとそこにはネットで検索するとすぐに出てくる最後の人魚が捕らえられた瞬間の写真が画面に出てきた。

 

『よく見てみな』

 尾ひれをロープに縛られてクレーンに逆さ吊りにされた第一級の危険生物である幼い人魚は既に息絶えている。

 物見高い人々が初めて見る人魚の周囲を囲んで見ている中で――――少年が泣き崩れていた。

 

「……確かに……押上教授だ。どうしてこんなこと知っているんだ?」

 50年前の荒い白黒写真でも分かる、顔の大きな傷と身体の大きさ。

 これならば押上教授を知る人物が改めて言われれば気が付くことが出来るだろう。

 押上教授の詳しい年齢は知らないが、写真を見るにこの時は高校生だろうか。

 よくよく拡大してみると地面に手をついて泣く少年は何故か女物の櫛を手にしている。

 

『風の便りだが……海洋生物研究所には人魚の剥製がある』

 

「その人魚は」

 

『その写真の人魚だ』

 鼻がひくひくと震える。こんな生活を続けているとある種の感が育ってくる。一年に二度あればいい方の、飛び切りのネタを見つけた時に働く第六感がびりびりと震えている時の反応だ。

 最後の人魚の発見者となった少年は何故か泣いており、その数十年後に彼はその人魚を手にした。

 何か物語が隠されていることは間違いなかった。

 

『あとは君がなんとかしろ。残念ながら伝手はない』

 

「……ありがとう。きっとこの話を書いてみせるよ」

 この村の話も気になるが、それはまた今度奥田にまた会えた時にでも聴けばいい。

 もう数日はいるつもりだった西は明日には発つことを奥田の両親に伝えようと早足で屋内に戻った。

 

 

 

 

 

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 江東区の海洋生物研究所は水族館として一般開放されている。それもお一人様300円という良心的値段だ。

 ただ、イルカのショーがあるわけでもなければ愛らしいペンギンがいるわけでもなく、単純に学術的価値がある個体を展示している静かな場所なのでうるさいカップルなどは滅多に訪れない。

 盛り上がるのは普段は非公開のシーラカンスの剥製がときたま展示されるときくらいだ。

 

 そう。この海洋生物研究所には非公開の資料や生物の剥製が多数あるのだ。

 まさか、自分のような無職手前の根なし草がその中に入れるなんて身に余る光栄ではないか。

 似合わず背筋を伸ばしてから、彼――――押上孝大(こうだい)の手を握った。

 

「遠路遥々ようこそ」

 

「とんでもないです。こちらこそお忙しいなか時間を割いていただきありがとうございます」

 かつて大学で見かけた強面の印象が薄れているのは分厚い老眼鏡と木製の杖が原因だろう。大学を卒業してからもう6年ほど経つがその間にこんなに老け込んでしまったのか。

 よく見ると目が白く濁っており、白内障を患っているように見える。かつては筋骨隆々だった身体は枯れ木のようになってしまっており、老木の根のような手に指輪はない。そこからしか判断できないが、どうも独身らしい。

 

「早速ですが……西くんは人魚を見に来たのでしょう? どうぞこちらへ」

 

「…………」

 人魚の各部位は非合法に高値で取引されていることもあり、厳重に管理されているのに、いきなり見せてもらえるとは予想外だった。

 大学の卒業生なんです、という細い糸からここに至るまで様々な想像をしていたが、自分の頭の中で出来上がったチープな物語では、まさしく彼こそがその人魚に恋をしていたのだと考えていたのに――――案内された部屋の照明が付けられた。

 

「…………なんて美しい……」

 その瞬間、俗な感性や世間の煩わしさを一瞬にして忘れてしまうほどに見とれてしまった。

 ホルマリンに満たされた水槽の中に浮かぶ人魚は人間で言えば13,4歳くらいだろうか。

 水中に舞う黄金の髪、見る角度によって輝きを変える鱗、死してなお光る瞳。完成された美しさがそこにあった。性別関係なく、全ての人間が目と目が合った瞬間に恋に落ちるだろう。

 どこの国にも残っている記録だ。『人魚は生きる宝石そのものだった』と。

 あの後調べた女守村に眠る人魚も実際に何か村のためになることをしていた訳ではないどころか、数年に一度村の若い男が生贄に捧げられていたくらいだ。

 それでも神と崇められていたのはただ一点、一瞬の思い出が永遠に思えるほどのその美しさ。

 

「本物の人魚は美しいでしょう?」

 

「想像以上です。これは言葉ではとても……言い表せない」

 

「……珠姫といいます」

 

「タマキ……名前を付けていたんですか」

 

「名付けたのは……弟です」

 彼がやや俯きながら告げた事実にまたも勘が告げる。

 ここだ、この部分に面白い物語があると。

 

「そうなのですか。では弟さんはいまどちらに?」

 

「弟はもうおりません」

 

「申し訳ありません」

 頭を下げながら考える。この写真が響から送られてきてから色々と調べてきた。

 人魚の性質や生態、そして何故この生き物は滅びなければならなかったのかを――――何か、誰にも語られなかった物語がここにあるに違いない。

 

「構いません。それを聴きに来たのでしょう」

 

「…………」

 様々な経験を積んできた目が雄弁に語っている。

 60を越えて、人生の先も見えて、ふいにその物語を誰かに覚えておいてほしくなった、と。

 そんな折に偶然アポイントを取ってきたのが自分だった、それだけの話なのだろう。

 薄ぼんやりと開かれた珠姫の視線の先にあるソファーに腰をおろした考大は、西にも座るように促してから口ひげに包まれた口を開いた。

 ふいに珠姫の水槽が揺らめいたような気がした。

 

 

 

 

【海鈴村の子供たち】

 

 

 

 

 1973年9月。神武景気の最中にあった日本はまさしく転換期にあり、都会からぽつぽつとカラーテレビが普及し始めていた。

 そのころの日本国民の三大娯楽と言えば野球、相撲、将棋であり、誰もがテレビにかじり付いて見ていた。

 中でもカラーであるなしに関わらず面白さの伝わる将棋の人気は戦争前から非常に高く、坂田三吉が名人相手に初手に端歩を突いただけで歌が一つ出来上がるほどだった。

 18歳でA級八段となった加藤一二三は再度挑戦した名人戦で棋界の太陽こと中原誠に敗北を喫していた。

 日本中の人間がおんぼろの白黒テレビの前で溜息を吐いたのだ。

 またか、と。押上孝大少年もその一人であった。

 

(いつか勝てる日は来るのだろうか?)

 名人戦をダイジェストで見ていた孝大はなんとなく思う。

 中原誠の強さは圧倒的と言ってもいい。

 加藤は自分の強さ、優秀さを信じて疑っていないはずだ。

 だがそこに、絶望的なまでの壁が現れたとき、何を思うのだろうか――――

 

「あ……? 陽太?」

 白黒テレビをぶつっ、と切ってようやく気が付く。

 一時間前まで隣で一緒に将棋を見ていたはずの弟の姿が無いのだ。

 あれだけ一人で出歩くなと言っているのに――――こめかみに汗を伝わせて孝大は畳の目に爪を引っかけた。

 まだその『万が一の日』は来ていない。だが、それが来年来るのか、あるいは今日来るのか全く分からないから万が一と言うんじゃないか。

 襖を苛立ちながら乱暴に開いた孝大はサンダルを履いて外に飛び出した。

 

 

 この海鈴村に12歳の少年が、ましてやあんな病気を持った子供が行ける場所などそうない。

 野菜一つ買いに行くのにも自転車で20分はかかるし、公園の一つもない。

 電車に乗りたいのならば前日に荷造りが必要なほどだ。

 この村にはうんざりするほどの――――あるいは見惚れるほどの自然しかない。

 身体の悪い陽太が行く場所となったら必然的に一つに絞られた。

 

「陽太!! 一人で出歩くなって言ってんだろ!!」

 白い波の寄せるだだっ広い海の前で途方に暮れているように座っている少年――――弟の陽太を強めに怒鳴りつける。釣り竿を置いてしまっているあたり、今日は全く釣れなかったようだ。

 よかった。これで予想外の大物なんかかかっていた日には陽太の身体に大きな負担がかかってしまっていた。

 

「兄ちゃん」 

 陽太は悪びれる様子もなくこちらを振り返った。

 幼い頃に患い蝕み続ける病によりむくんだ身体、まんまるのほっぺた。

 床屋に行くことさえも苦労するから、ぼさぼさと伸びっぱなしの髪。

 社会に馴染めない変な子そのものの風貌なのに、くりくりとした目には病弱な身体に似合わない熱く純粋な情熱と好奇心が飛び出さんばかりに輝いていた。

 

 孝大の趣味である将棋観戦。その将棋の世界に陽太と同じ病を抱えた少年が入ってくるのがこの十数年後のことである。

 孝大がその少年の存在を知って彼の棋譜を追い続けるのはまた別の話である。

 

「釣りに行きたいなら俺に言え! ボートも動かせないのに……」

 

「これ」

 

「……ん?」

 陽太が渡してきたのは梅雨の合間に覗く太陽の光に輝く瓶だった。

 中に木の破片のようなものが入っている。

 世界のどこにでも電話がかけられるこんな時代にまさか――――そのまさかのボトルメールだった。

 

「あいたい、って」

 木の破片を取り出した陽太が読み上げる。

 本当にただただそれだけしか書いていなかった。

 少なくとも自分は見たことのない種類の木に、鉛筆でもなければクレヨンでもない孝大の知らないナニカを用いて汚いひらがなで書いてある。

 

「なんだろうな……これ」

 たとえば遭難して海の上を漂流することになった漁師が最後の力を振り絞って書いたとか、あるいはもうこの世界のどこにもいない恋人に届くようにと海に投げられたか。

 ただのいたずらではないと思ったのは、その汚い四文字にどうしてか魂が込められている気がしたからだ。

 だが残念ながら拾ったのは田舎も田舎、ド田舎に住む貧乏兄弟二人だ。

 

「……僕に届いた」

 

「そう思うのか」

 

「……兄ちゃん、話してなかったんだけどね。僕たちずっと昔にここに来た事あるよね」

 

「……よく覚えてるな。何年……もう7,8年くらい前の話じゃないか?」

 押上家は元々東京に住んでいた。父の生まれ故郷でもあるこの村に引っ越してきたのはつい一年ほど前の事だ。

 それよりもずっと前に、まだ祖母も母も生きていた時に家族で海鈴村に来た事があるのだ。

 あの時はここで暮らすことになるなんて想像もしていなかった。

 

「その時にここで小さい女の子に会ったんだ。その子からだよ、きっと」

 

「……。ああ」

 海の光を瞳に輝かせ、瓶を抱きしめた陽太は自分を納得させるように強く頷いた。

 そんなはずはない。常識で考えれば誰かの暇つぶしだ。

 なんて否定はしない。病弱が過ぎてほとんど学校も行けず、病院と家、ときどき海を往復する毎日の陽太はほとんど世界を知らない。

 ましてや、父のリストラをきっかけに少しでも陽太の身体によい環境に、と父と自分でこの村に引っ越すことを陽太にも話さずに決めてしまったものだから、陽太には一人の友達もいない。

 テレビと本が世界の全てだからこそ、この世界は必然に満ちた綺麗な宝物だと思っている。

 ならばそれでいいではないか。淡い希望とて、そんな小さな希望すらも弟から奪っても何一ついいことなどないのだから。

 

「今日の夜は親父が帰ってくる。親父が飯を作ってくれるから。もう帰ろう」

 

「……」

 名残惜しそうに海の遙か彼方を見る陽太の手を引っ張る。

 寂れた村に、病弱な弟と稼ぎの悪い父と暮らしている。

 それでいい。この閉じた世界でも『どんなときでもいい兄貴でいてやろう』と心に思えるだけで生きる意味は十二分にあるのだから。

 

 

**********************************************************

 

 まだ日本には勢いがあって、限界集落とか人口減少とかそういう言葉は新聞でもテレビでもとんと目にすることはなかった。

 だが、いまになって思えばあの村は確実に終わりを迎えつつある村だった。頭のいい子も悪い子も、全ての子供はほとんど同じ小中高に進むがそれでも一つの部活に野球チームを作れるくらいの子供すら集まらない。学校全体で100人も生徒はいなかった。

 サボっていた学校に数日ぶりに午後から顔を出すと前の高校では一人もいなかった不良どもが授業中だというのに麻雀をしていた。

 娯楽がほとんどない村の子供たちは、親の漁の手伝いをするか、あるいは分かりやすいほどに不良になる。どうせ行きつく先は同じだというのに。

 

「…………」

 何も言わずに自分の席に向かうかたわら手の止まった不良たちを一瞬だけ睨むと、不良たちは慌てて麻雀牌を片づけ始め、頼りない物理教師は安堵の溜息を小さく吐いた。

 

(ゴミめ)

 その教師に対して思ったのか、不良達に対して思ったのか自分でも定かでは無い。

 陽太には友達がいないが、自分にもいない。

 典型的排他的田舎者が集まるこの学校に転校してきた自分は一限からイジメのターゲットになり、昼休みのうちに全員半殺しにした。

 その結果、その日のうちに自分は腫れ物、触れてはいけない人物になってしまった。 

 とっくの昔に習った内容を話す教師の面目を立てるために教科書とノートを取り出すと慌てて長ランを着た馬鹿どもも机からノートを取り出した。

 

 生まれながらの強者。

 考大は一言で表せばそんな子供だった。

 身体が大きく骨は太く、何もせずとも筋肉質で喧嘩で負けたことが無かった。

 おまけに勉強も、自分でも嫌味だと思う程に得意で、東京では一番賢い公立高校に通っていた。

 それだけなら自分はただ恵まれただけの人間ということで終わりなのだが、考大はそのことについて自分が陽太や母の分の生命の元までも胎内で奪い取ってしまったからだと半ば以上真剣に考えている。

 だからこそ陽太は治療法のない病気と戦い続けているし、母は若くして亡くなってしまった。

 ならばそうして生まれた自分の義務は家族を、陽太を守ることなのだと自分を納得させている。……そうでなければ、今の生活を受け入れることなんて到底出来なかった。

 

 話しかけるどころか、誰も目を合わせることすらしない。

 不良たちのパシリにされるよりはずっとマシなのだとは思うが、授業を聞く意味もなければ友人もいないこの学校に来る意味が本気で分からない。

 

(帰るか)

 ホームルームが終わってもまだ太陽は沈んでいないあたり、夏の残滓を感じる。

 最近陽太の行動が分からなくなってきたから、家に一人にしているのは心配だしさっさと帰ろう、と下駄箱まで歩いていくと誰かが追いかけてくる足音がした。

 

「こうちゃん待って、一緒に帰ろうよ」

 その声はどこか暗かった気持ちを不思議と明るくさせた。

 ああ、だから自分は学校に来たんだっけ。

 

 

*************************************

 

 詩子との出会いは当然学年に1つしかクラスがないこの高校に転校してきた時だが、

 話しかけてくれるようになったのは結構後になってからのことだった。

 

 その日も自分は教師の話すことを右から左へと聞き流すだけの時間を終えた。

 ただ、職員室に呼ばれていたことを帰り道の途中で思い出し学校へと引き返した時にそれを見つけたのだ。

 

「それ何に使うんだ?」

 

「あの……後で何かに使おうかと思いました」

 気まずそうな表情で地面に正座していた不良が回答になっていない答えを口にした。

 その視線は地面に置いた金ではなく、考大のパンチ一発で意識を失って倒れている仲間の不良と血が垂れる考大の右手を交互にせわしなく見ている。

 

「この辺でカツアゲしても使い道なんかないだろ」

 

「は、はい。おい……持ってけ」

 早く終わってほしい、と身体中から示しているかのように不良はカツアゲしていた中等部少年の足元に金を掴んで投げた。

 

「違うだろ、今まで何回もしてきたんだろ。有り金全部渡せ」

 

「すいません、ないです。持っていないです」

 

「…………。何に使うんだ? こんなところで。もういいから消えろよお前ら」

 飼い主の言う事だけはしっかり聞く犬のように去った不良たちとは逆方向に、カツアゲされていた少年も走って逃げてしまった。

 一応助けたはずなのにお礼も言わずに結局あの少年も自分から逃げられているのが笑いどころだ。哀れにも置いていかれた気絶している不良の顔を見ると顎が外れており歯が分かるだけで3本は折れてしまっている。

 

「あるじゃねえか」

 ポケットを漁ると普通に財布が入っており、どうせ使い道もないだろうに避妊具が入っていた。

 馬鹿馬鹿しい。ついでにポケットに入っていたタバコに火をつけると職員室に呼ばれたこともどうでもよくなってきた。

 

「いて……」

 手の甲についた血を乱暴に拭いても血が止まらない。どうもぶん殴った時に歯か何かに当たって怪我したらしい。

 本当に馬鹿馬鹿しい。今更人助けなんかしたところで村一番の乱暴者という印象が変わるはずもないというのに。

 きっとさっきの少年も親から関わるなとでも言われていたのだろう。

 転校初日、一番最初にナメられてはいけないと手加減しなかったのがいけなかった。

 一人がそのまま入院してしまい、医師も看護師も村の人間なものだから、あっという間に東京から来た乱暴者の噂は伝搬してしまった。

 気が付いた時には買い物をする時に店主にすらほぼ無視されるようになってしまった。きっとそのまま商品を持ち逃げしても何も言わないだろう。

 だいたい助けたのだって正義感からではない。金の使い道すらもよく分かっていないド田舎者が都会のヤンキーを背伸びして真似ているのが気に入らなかっただけだ。

 

「ねぇ」

 

「?」

 手から血を流したまま校門を抜けると今まで聞いたことのない優しい声が耳に届いた。

 

「押上くん、さっきあの子を助けてあげたんだよね」

 おかっぱ頭にやや赤みがかった頬が可愛らしい、優しそうな女の子が校門のそばに立っていた。

 スカートの色味から察するにきっとこれは親のお下がりだろうし、全体的に洒落っ気と言える部分が一つもない。

 もっと言うと特徴らしい部分はほとんどないが、それでもクラスにこんな子がいた気がする。

 ど田舎村にしては美人な方だとは思うが、悲しいかな、都会で垢抜けきった女の子を何人も見た考大の脳は彼女をほとんど認識していなかった。

 

「あ……同じクラスの……」

 そこまで言いかけて名前が思い出せなかったことでようやくわかった。

 自分はクラスメートに興味が無いのだ。というよりも村の人々に興味が無い。全員等しく馬鹿だと思っていたから。

 友達なんか一人も出来なくて当然ではないか。

 

「同じクラスって、1つしかクラスないのに」

 名前も分からない少女が考大の怪我した手を取ってそっとハンカチで血を拭ってくれた。

 この村に来て初めて受け取った人からの優しさだった。

 

「……ありがとう」

 お礼を言ったのはいつぶりだろう。たかが五文字は常に暗澹としていた考大の心を驚くほどに晴らしてくれた。

 

「押上くんって優しいんだね。みんなが言う程怖い人じゃない」

 くしゃりと笑った少女は夕暮れの帰り路に日陰で涼んでいる猫にも似ており、人懐っこさが身体中からにじみ出ているようだ。

 まるで自分と真逆の人間である猫目の少女に手当てされ、血は既に止まっていた。

 

「東京ってどんなところ? ずっとね、色々聞いてみたかったんだ」

 詩子は海鈴村に来て初めての、そして唯一出来た考大の友達だった。

 

 

*****************************************

 

 

「ねぇねぇ」

 

「ん?」

 自転車を漕いでいるときに脇腹を突くのをやめろともう何十回も言っているのにその癖は直らない。目の前の交差点を軽トラがぱすぱすと音を立てて通り過ぎていくついでに止まって耳を傾ける。

 何かずっと話していたが、彼女との出会いを思い出していたら聞き逃してしまった。

 

「ハンバーガーって食べたことある?」

 

「無いな」

 

「銀座とか、ヨヨギ? にあるんだって。食べてみたいねぇ」

 

(なんだそんなことか)

 多分二年前に東京に出来たマクドナルドの話だろう。

 以前なら行こうと思えば行ける距離だったのだが、常に混んでいるという話だったのでついに行くことは出来なかった。

 

「行きたいと思ったことは?」

 

「……」

 まるで孝大の頭の中にある考えを見抜いているかのように詩子は後ろからそんな質問を投げかけた。

 軽トラが渡っていった橋に陽炎が幻のように揺らめいているのを目を細めて見る。

 あの橋を渡って駅に向かい、ずっとずっと西に行けば東京だ。こっちに来て暫くはのんびりとした空気もいいと思い込もうとしていたが、村社会というものの排他的性質と悲しいほどにモノがないという現実を知った今は都会の喧騒すらも懐かしい。

 東京と言わずとも、この村に住む若者でここにずっと留まりたいと考えているヤツはきっといないだろう。

 だが――――

 

「……俺はここにいて……戦争も辛い事件も無く過ごしていけるなら、それでいいさ」

 

「…………」

 

「いててっ、いたいって!」

 理屈で反論できないと知っている詩子が孝大の上っ面の嘘をこねくり回すように脇腹を抓ってくる。

 降ろしちまうぞ、と体中から発しながら振り向いても目を合わせてもくれなかった。

 詩子の伏せた睫毛に反射する光に、うなじに浮かぶ汗にまだまだ夏の空気を感じる。

 人懐っこそうだな、という第一印象に狂いはなく詩子と自分の距離はどこまでも近く、考大はそんな関係をほんのりと受け入れていた。

 

「……ようちゃん?」

 

「え?」

 これでいて詩子はなかなか人をからかうことが好きな無邪気な子で、小さな嘘を吐くことも多々ある。

 だが陽太に関することだけは嘘を言わない。詩子の視線の先を見ると、確かに海岸に陽太がいた。

 

「一人で出歩いていいの?」

 

「いいわけがない!」

 自転車を降り、橋の下まで降りてごつごつとした岩を乗り越えて陽太の元まで向かう。

 詩子も黙って着いてきていた。

 

「陽太!! 一人で――――」

 

「家でじっとしているの嫌だよね。お父さんもこの時間いないんだもんね」

 何度も言っていることを守らない陽太を叱りつける前に詩子が陽太の視線まで頭を下げて諭すように語りかける。

 喉元まで上がっていた怒りを引っ込めて詩子にすべてを任せる。

 

「せめて私達が夏休みの間は一緒にいれたんだけど……」

 

「……家から近いし、ここくらいなら平気だよ」

 どうして子供というのは大人や年上の言葉に逆らいたがるのだろう。

 自分だって近所を歩きまわるくらいなら平気だとは思う。

 だが、まだ身体になんの異常もなかったころの陽太が今日と同じように近所を一人で歩いているときに突然物凄い熱を出して倒れたのだ。

 倒れている陽太を発見したのは自分だったが、あと少し遅れていたらと思うと――――簡単に言うとトラウマなのだ。

 

「じゃあさ、一人で外に行く前にお兄ちゃんかお父さんにせめて一言伝えようよ」

 

「兄ちゃん一人でどっか行くなって怒るもん。ヤダ」

 

「怒らないよ。ね?」

 

「…………まぁ……近所を……少しくらいなら……」

 さっきまで幼子のようなワガママで自分を困らせていた詩子に説得されてなんとも言えない気分になる。

 初めて会った頃よりもずっと伸びた詩子の黒い艶髪は大人そのもので、結局言いくるめられてしまった。

 

「でもなんでこんなところに?」

 

「『あいたい』って。書いてあったから……」

 

「?」

 

「……なんかこの前、ボトルメールが流れついてて、陽太がそれを見つけて……」

 

「僕にあいたいって言っていたんだ!」

 いつも可哀想に思うが、陽太はこんなにも脆い身体なのに非常に感受性の鋭い子供で、時に手が付けられないほどに感情表現が豊かなのだ。

 理屈でそんな訳無いだろと言う前に思い切り遮られてしまい何も言えなくなる。

 

「……会いに来てくれるといいね」

 

「うん。来るよ」

 

(せめて……友達の一人でもいれば……)

 これなら走り回るわけでもないし――――とやや陽太の味方をする詩子の言葉をぼんやり聞きながら思いに耽る。

 まともに学校に行けないから同い年の友達もいない。遊びに行くにしても歳の離れた自分か詩子に連れられなければ遠くにも行けないし、鬼ごっこの一つも出来やしない。

 そんな弟が希望を繋いだのがあの汚いボトルメールなのだと思うと不憫に思えて仕方がなかった。

 今日も静かな遠洋に沈む太陽は何を意味していたのだろう。

 

 

**********************************************************

 

 

 まだ仕事から帰ってこない父の分の夕飯をまとめている作業中にぼんやりと考えていた。

 ただでさえ貧乏なのに、陽太が病気になった年は大変だった。

 なにせ、母は心臓病でばったりと死んでしまったし、同時期に陽太が発症して金は出ていくばかりで陽太は今までどおりに動かない幼い体に困惑して泣くばかりだった。

 ふっくらとした体型だったはずの父はリストラされ15kgも痩せてガリガリになり、おまけに円形脱毛症になってしまった。

 亭主関白とはいかないまでも、全く家事の出来なかった父と二人で必死に料理洗濯掃除を覚えたものだ。

 みんな金を取っていくばかりなのに誰も助けちゃくれないから、すっかり料理上手になってしまった。

 

(あんなもん見て面白いか?)

 陽太をちらりと見ると退屈なのか、考大の教科書を興味深そうに読んでいる。

 やはり自分の弟だな、と思ってしまう。自分は控えめに言って今まで出会ったどんな人間よりも賢い。

 陽太も自分によく似て、漫画やテレビなんかよりもは自分の知らない知識を習得することのほうが楽しいようでよく図書館で本を借りてきてくれ、と自分に頼んでくる。

 これで健康だったら、なんて考えても仕方のないことだ。

 

「陽太、なんか欲しいものはないか?」

 小遣いは貰っているものの自分は全く無駄遣いをしない。

 だったら日がな一日家に籠もりきりの陽太に何か玩具でも買ってやろうと思ったのだ。

 一人で将棋盤に向かうのも飽きただろうし、それで大人しくしててくれるなら儲けものだ。

 

「……知りたいことならある」

 

「ん?」

 ああ、綺麗な目をしている。未来への希望と純粋な知識欲に満ちた少年の熱い眼差し。

 まだまだ知りたいことがあるんだろう。知っていることなら、なんだって教えてやるつもりだった。

 

「恋が知りたい」

 

「…………」

 果たして、それは考大には叶えようのない、然し12歳という陽太の年齢を考えれば当たり前の願いだった。

 どうしようもないだろ。当たり前だよな。2つの相反する言葉が頭の中で反響し一瞬思考が全て止まってしまう。

 意識が戻ったときは手にしていた箸が筑前煮の蒟蒻に深く突き刺さっていた。

 

「好きって、どんな感じなの?」

 

「…………」

 

「ねぇ、教えて」

 

「俺は好きな人がいないから分からない。出来たことも無い」

 

「ウタ姉ちゃんは兄ちゃんのことが好きなのに」

 

「なんでお前にそんなことが分かるんだよ」

 言ってからすぐに言わなければよかったと後悔した。

 気が付いていないようだが、少し考えればこの言葉の頭には友達もいないのに、と付くのがあからさますぎる。

 

「きっと……まずその人の見えるところににずっといたくなるんだ。そして、特に意味のないことでも話したくなって、もっと一緒に……一緒にいたくなって……」

 

(…………)

 物語でしか知らない恋の感覚を兄よりも余程正確に理解している。

 恋を知りたいと言っておきながら実際には教えられてしまっている。

 

「それがウタ姉ちゃんなんだって」

 もう一言二言で大声でうるさいぞ、と怒鳴ってしまうというところで助け舟が来た。

 

「ただいま」

 

「ああ、おかえり」

 父が帰ってきて、陽太が今までの事を忘れてわっと声をあげながら父に駆け寄った。父のことが大好きだからという訳ではない。

 その手にぶら下げている物が気になったのだろう。

 

「シュークリーム買ってきたんだ。二人で食べなさい」

 

「洗い物をしたら食うよ。飯はそこにあるから」

 既に陽太は箱を開いているが、中には2つしか入っていない。

 つまり父の分はない。父はよくやっている。全く払いの良くない遠くの郵便局で男手一つで息子二人を養うためにこんな時間まで働き、更に週四で何でも屋の仕事をして病院代まで稼いでいるのだから。

 ご飯をよそう父の背中は40代とは思えないほどに老けている。腰痛肩こりリウマチと様々な問題を抱えた身体だ。

 こんな家族を放って自分だけ好き勝手に生きていけるはずがない。

 幸いにして、考大には漁師の才能があった。船酔いも全くしないし、魚の臭いにやられてしまうこともなく、平気で3分以上素潜りして魚を手で捕まえられる。

 おまけに、竿をしゃくるタイミングが魚のリズムと一致しているのか、釣り竿を垂らすだけでその日の夕飯には困らないくらいに魚が釣れてしまうのだ。

 このド田舎村は好きでは無いが、海は自分の事が好きなようだ。

 30年漁師をやっている三件隣の変人の源三爺さんからも太鼓判を押された。海の男の才能がある、と。 

 

(もう少しで高校も終わりなんだ。そうしたら漁師になればいい……それでいいんだ)

 まるで自分に言い聞かせるように今までも何度も同じ言葉を頭の中で繰り返してきた。

 陽太にもあるように、自分にも夢や手に入れたいものはある。自分の中にある才能を全て活かすことが出来たのならどこまで飛べるのだろう。どれほどこの国に貢献できるのだろう。

 野放図に何も気にせずに生きていけたらどれだけ幸せなことだろう。

 やめろ、そんなことを考えるな、頭を使うのはよせ――――無心で洗い物を終えて居間に戻る。

 

「陽太、お前……」

 

「…………」

 もう自分の分は食べてしまったのだろう。

 考大の分のシュークリームをくりくりの目を大きく開いて見ている。

 魚ばっかり食べているけど俺だって甘いものが――――兄なんだ。自分が先に健康に生まれたのは家族を、兄弟を守るためなんだ。

 自縛の思考もまた繰り返されるばかりだった。

 

「食べな」

 

「やった!」

 

「…………」

 これでいいんだ。甘いものなんか学校帰りの自販機で50円でラムネが飲めるだろう。

 陽太にはそれすらも出来ないのだから。

 考大は無駄遣いをしないとはいえ欲しいものなんていくらでもあった。

 例えばそれは未来であったり、それこそ目の前の甘いシュークリームであったり。

 

 思えばこのとき、少しでも陽太に対して不公平だと思っている気持ちに気がついていたらまた結果も違ったかもしれないのに。

 

 

 

【墓守の末裔】

 

 

 真面目にやっているというわけではないが、どうも自分は規律を強制させるような空気を生み出してしまうらしい。

 珍しく1限からホームルームまでいた考大は週2で行われる放課後の掃除にもなんとなく参加していた。

 

(俺別にさっさと終わらせたいんだけどな)

 考大がじっと見ているものだから不良どもは揃って必死に床を磨いている。

 決められた時間には終わるのだから、ぼんやりしていればそれでいいのだが、こうさせてしまっている自分がサボる訳にもいかないだろう。

 そんなことを考えていると 職員室に戻っていたはずの担任が何故か戻ってきた。

 教科書を忘れたのかと思ったが、今日は彼の受け持つ物理も化学もなかったはずだ。

 

「押上、おるか?」

 

「?」

 

「掃除はいいから来てくれないか?」

 

(なんだっけ)

 転校してきてしばらくは暴力沙汰もいくつかはあったが、最近は大人しくしていたはずだ――――何かを注意するためにではなく、時外れの三者面談に呼び出されたのだった。

 考大の通っている高校の三者面談はほとんど形式的なものだった。学校をさぼりがちだった考大の三者面談はこの日になってしまったというわけだ。

 大学に行きたいという生徒なんてまずいないから、大体はこれからどんな仕事に就くかを聞いて終わり。

 そんな話は生徒も普段は親としているだろうから、保護者が来ないで結局二者面談なんてことも多々あった。

 なのに。

 

「見ろ! ずっとこの村にいるなんてほんにもったいないことなんやぞ」

 

(…………)

 学ランのポケットに手を突っ込み足を組んで座る自分はとてもではないが担任の前に座る態度ではない。

 そんなことも気にせず担任が読み上げているのはこの間担任が自分の金を出して受けさせてくれた予備校の模試の結果だった。

 数年前から始まった大手予備校の東大模試とやらを少し前にバスと電車を乗り継いで受けてきたのだ。

 いや、無理やり受けさせられたというのが正しいか。

 

「ほとんど灘や日比谷や……そんなかにお前がおるんや」

 模試の結果は当然のようにA評価で全国順位は二桁台に入っており、県の中なら一番賢い高校生が考大ということを無言で示している。

 だがあまり感慨はなかった。ここに転校してくる前はその灘やら日比谷やらの生徒と競い合ってきていた訳だし、時間のほとんどを勉強に使っていた。

 有り余る才能を全て継ぎこんでいたのだからこんなものは当然の結果だ。むしろ一桁から弾かれていたのが少しショックだった。

 才能がないなりに親の金で頑張ってるボンボン共も結果を出し始めたらしい。

 いいよな、クソバカでなんの才能もなくても生まれに恵まれただけで成功のレールに乗せてもらえて――――考えた瞬間に心の中に湧き上がってきたどす黒い炎を外に出さないように鎮火させる。

 

「卒業したら源三爺さんの船に乗ります」

 担任はそれ以上何も言わず、丸眼鏡を外して模試の結果を畳んだ。

 目頭を押えて小さく唸った還暦前のこの担任は本当に考大の将来を案じているようだった。

 村に来てから優しくしてくれた数少ない人の一人だ。詩子がいなければ、あるいは担任がこの人でなければとっくにこんな高校など来なくなっていたかもしれない。

 

「……30年ぶりくらいになるか……お前みたいなん見るのは」

 

「?」

 この担任は、というかこの年代の人間はみんな時間が出来るとすぐに若者に戦争の話を始める。

 実際彼も一兵士として参加していたようで、爆弾をくらって腸の一部と胃の大半がないという話は自分が転校してからだけでも3回は聞いた。

 だがこんな出だしは初めてだ。

 

「他の部隊にもいたと噂されてたし、ワシの部隊にもいた。特に極限状態だと数万人に一人は生まれるらしい。偉い先生の話によると、種族としての防衛本能がそういうヤツを作るらしいな」

 

「なんの話ですか」

 

「鬼子とか人修羅とか呼ばれてたんや。冷静沈着で頭の回転が速く、どれだけ追い込まれていても心揺らがず勝利の為に動く。例え弾丸を喰らって傷口に蛆が湧いても、特攻としか言わない上官の代わりに生き残る案を出す。近くで見ていて思うたもんや、これがほんまにワシと同じ人間なんかいなってな」

 一部噂では知っている。戦後にGHQが戦犯として連れていった、勝利していたならば英雄と呼ばれていたであろう働きをしていた人間たち。

 彼らが市井に紛れたのならばいずれまた必ず軍国主義を復活させてしまうから連れて行かれた、と。

 戦争には英雄がつきもの、というよりも戦争という極限状態がほんの一握りの人間に眠る鬼の才覚を目覚めさせるらしい。

 

「……。俺がそれだって言いたいんですか?」

 

「……いいや……あいつらはぶっ壊れててな、もう人間味っちゅうもんがなかったんや。でもお前は違う。弟のためにこの村に残るんだもんな」

 

(……アバヨ、か)

 何もかも見抜かれていることに何も言えず、視線逸らした先の机には卒業した上級生が彫刻刀で彫ったメッセージが残っている。

 これを彫った人物は何を考えていたのかなんて思いを馳せてしまう。この退屈な村を脱出してきらきら光る都会に行ってしまったのだろうか。

 

 それ以上は何も言わなくなった担任を置いて考大は下校した。

 人間味が少ないのは自分でも分かっている。生まれた時から他の数百万の愚鈍な人間と違うことも。

 だが捨てきれないたった一欠片の人間性が、ずっと自分を縛りつけるのだ。

 いつまでも、いつまでも――――海沿いの帰り路に陽太の姿が見えた。

 

(……あいつの頑固さにはほとほと呆れるな)

 もう何週間こんなことをしているんだろう。来るはずもない誰かを待ってずーっと静かな海を眺めている。

 自分には未来の希望はないが、そんな夢幻に縋り続ける陽太も同じくらい悲しい存在だ。

 

「陽太」

 

「……」

 近づいて声をかけると何も悪いことはしていない、とでも言いたげな目で見られた。

 確かに悪いことはしていない。暴れもせず、海に足もつけずにじっとしているだけだ。

 

「……暇だろ。釣り竿とボート取ってくるから待ってな」

 

「うん」

 ちょくちょく付き添いには行くが何せ暇なので、考大はいつの間にか陽太のそばにいるときは船を出して釣りをするのが日常になっていた。

 そうだ、今度は詩子も連れてきてやろう。なかなかどうして獲物が釣れた瞬間は楽しいものだ。

 

 

 

 

 そんなことを考えながら自然と海に行く回数が増え、晩飯にかかる金がだいぶ浮かぶようになり、

 そして危ないことをしない陽太の付き添いにも飽きて各々勝手に海に向かうようになった10月後半のある晴れた日のことだった。 

 

 

 

 

(……? 足りない……?)

 釣り竿を修繕する道具を買いに行こうと貯金箱を開いて気が付く。

 どうも3000円ほど足りない。少ない金しか入っていなかったが、だからこそ出納帳を必ずつけていたので分かる。

 間違ってなどいない。

 

「盗まれ……。まさか」

 こんなボロ屋に泥棒が入るかということはさておき、盗むなら全部持っていくだろうに。たかが3000円ぽっちを遠慮がちに持っていくとは。

 そこまで考えて犯人にたどり着くと同時に考大は外に飛び出していた。

 

 陽太は今日も海に行っている。あそこにいる間に何か飲み物でも飲みたくなったのだろうか。

 だったら言ってくれればよかったのに。たかがそれすらも言うのが憚られてしまったことも、その結論が兄の貯金箱から盗むことだったという事実も。どちらもどうしようもなく情けなくて怒りよりも悲しみの方が大きかった。

 

 普通に近づいては逃げられるかもしれない。

 いや、それは別にいい。どうせ夜は家に帰ってくるしかないのだから。それよりも怒られるのを恐れて走り回って逃げるほうが問題だった。

 そっと近づいて捕まえるしかない――――いつも陽太が佇んでいる砂浜に岩に隠れながら近づいていくとふいに耳に笑い声が届いた。

 

(えっ?)

 陽太が笑っている。誰かといる。それはまだいい。

 肥沃な土地で太陽の寵愛を受けて育った麦のような金髪の少女の髪を、陽太が櫛で梳いている。

 あの櫛を盗んだ金で買ったのか。それもまだいい。後でげんこつ一発で済む話だ。

 何よりも問題なのは、服を着ているように見えないその少女に脚がなく、代わりに嬉しそうにぱたつく大きな尾ひれがあったことだった。

 

「人魚……」

 

「!!」

 思わず口から出てしまった言葉に二人は機敏に反応した。

 声の主が兄だと気が付かなかった陽太は人魚を庇うように背に隠し、まだ幼い人魚はこちらに視線を向けた。

 

「……!」

 その瞬間、全身に鳥肌が浮かびあがった。

 海を凝縮したかのように深い青の瞳に、太陽の光を受けて七色に光る鱗。艶めく白磁器の肌は乾いた地上で暮らす人間を悩ます肌荒れなど一切なく、

 僅かに膨らんでいる乳房はみずみずしい一方で少女という存在の脆さを静かに表現しており、妖しく輝く桃色の唇はごく近いうちに完成され人間種の全ての雄を誘惑するようになるだろう。

 そこに息づいているという圧倒的な生命力と絶滅したはずの生物だという儚さの同居は、どこか遠い夢の国の砂漠にあるオアシスに生きるひとりぼっちの王女のようだ。

 これほどまでに美しい生き物がこの世に存在していていいのだろうか。

 きっと、この生き物を見た者は誰もがその美しさを閉じ込めて永遠にしてしまいたかったのだろう。だから絶滅したのだ。

 この美を永遠の物にしたいのなら殺すしかないから。

 

「落ち着け、何もしないから」

 普段優しい兄の言葉を幸いにも陽太は信じてくれた。

 陽太の緊張が無くなるのと同時に陽太の背に隠れ小さくなっていた人魚の緊張も消え、唇から覗いていた牙が見えなくなった。

 

「兄ちゃん、この子なんだ。僕といつか会う約束をした子なんだ。お願い、誰にも言わないで」

 幼少期に会ったという子供の話を全く信じなかったわけでは無い。だがそれが絶滅したはずの人魚だなんて誰が想像するだろうか。

 病弱で世界の事を何も分かっていない子供だったはずなのに、長い間恋い焦がれた女の子を抱いた陽太の目はこの世のありとあらゆる残酷さから彼女を守ると決めた騎士のようだ。

 もしも誰かに知られたなら、それが噂になったのならどうなるか。数百年前に地球から消えたはずの生物なのだからすぐに学者がすっ飛んできて連れて行ってしまうだろう――――ということを陽太も理解しているらしい。

 

 どこから来たのだろう。

 子供の人魚がどうやって生き延びたのだろう。

 短い間に色々考えてみたが、最終的に論理的でない結論に落ち着いた。

 彼女はただ、陽太に会いに来たのだ。

 

「そうか……お前は見つけたんだな」

 やや乱暴に砂浜に腰を下ろす。隣に座る人魚と陽太のなんと小さいことか。

 金を盗んだことはどうでもよくなった。後で叱らなければならないが、今はただこの景色をそのままにしておきたい。

 種族は違えど思い通じ合った子供たちの遊び場のこの砂浜はこの世界のどんなことよりも尊い。

 太陽に透かして乱暴者の拳を見ると随分傷だらけだ。自分のワガママを通すためだけにずいぶんと暴力を振るってきた。

 だがきっとこの力は長い人生の中でただこの瞬間を守るためにあったのだ。

 

「安心しろ。俺がお前らを守ってやる」

 海の鈴が鳴る村、海鈴村。

 そこはかつて、日本で一番人魚が生息していると言われていた場所だった。

 

 

*******************************************

 

 

 人魚を見つけたことを陽太が自分から話さなかったのは、彼女を守ること以上にその逢瀬を邪魔されたくなかったからだろう。

 気持ちは分かるが一人でずっと砂浜にいさせる訳にもいかず、また陽太も兄の協力が必要なことは理解できていたのか少し離れたところで釣りをしながら見守る兄に何かを言う事は無かった。

 今日もまた、晩飯になりそうな魚が釣れるのを待ちながら絵本を人魚に読み聞かせている陽太を見ていた。

 

(……人間の言葉は分かるのか。いや、この地方の生まれだから日本語が元から分かるのかな)

 少なくとも人魚の表情を見る限りは、陽太の言葉を全て理解できているように見える。

 まだ子供の彼女がここにいるということは少なくとも数年前までは親が生きていたはずだ。

 その親から日本語を学んだのだろうか。だとするならば――――

 

(真っ先に人間に近寄るなって教わるはずだが……)

 釣り竿に何の反応もないのを確認してから、手元にあった本を開く。

 絶滅した生物について詳しく書いてあった本をとりあえず図書館で借りてきたのだ。

 今は普通に陸にいるが、例えば数時間に一度水の中に戻る必要があるとか、そういった事があるならば先に知っておく必要があったからだ。

 

 残念ながらこの本には人魚の生態はほとんど書かれておらず、詳しく書いてあったのは絶滅した理由だった。

 人魚が絶滅した理由は人間による乱獲だった。

 人魚の爪や尾ひれは薬になり、人魚の牙や鱗には宝飾品として、髪には筆の材料としてそれぞれに高い価値があった。

 特に人魚の喉にある海の鈴と呼ばれる発声器官は滋養強壮の薬として大変な価値があり、一度口にすれば1カ月不眠不休で動くことも出来たため、戦国時代には各地の将軍がこぞって口にしたという。

 現存する海の鈴は少なく、またその美しさから同じ大きさのダイヤモンドよりも高値で取引されている。

 

「……まだ話せないのか」

 海の鈴とその部位が呼ばれる理由は、成熟した人魚がそこから鈴を転がすような美しい音を奏でる為だと書いてある。

 あの人魚は見た感じまだ12~13歳くらいだし、今まで口から何の音も発していない。

 次のページには絶頂期の人魚の個体数について書いてあった。

 大航海時代に一番数が多かったらしく、確認されている数の合計から最低1万体はいたとされているらしい。

 世界中の海で見ることが出来た一方でその部位の全てが宝としての価値を持ち始めたため徐々に人間に狩られ出したらしい。

 日本でも漁に出た漁師が魚を一匹も獲ることが出来なくとも、人魚を獲ってくることが出来れば5年は遊んで暮らせたとか。

 

(しかしなんで滅びた? 賢いなら人間を避けて生きのびることも出来たはずだが)

 人間の次に賢い動物だったと書かれているのになぜ、と思いながら陽太とジェスチャーでやり取りする彼女を見てなんとなく察しがついた。

 コミュニケーション手段の少なさから文化文明を築くことが出来なかったのだろう。コミュニケーション能力の差異による絶滅はネアンデルタール人の絶滅理由にもなっているくらい種の存続に必須の能力なのだ。

 

(それでも天敵の人間に近づくかな、普通)

 どうも腑に落ちない点の多い不思議な生物だ。

 魚が釣れる様子もないし、もう少し観察してみたくなった。

 丁度陽太も一冊物語を読み終えたようなので驚かさないようにゆっくりと近づくと人魚は不思議そうな顔で考大を見てきた。

 その顔には既に警戒心はない。今すぐに攫おうと思えば出来てしまいそうなほどだ。

 

「少し触っていいか?」

 下半身が魚の動物が自分の質問に首肯で応えたのに不思議な気分になりながらも、許可を得たので肌に触れてみる。

 手触りは濡れた少女の肌そのものだが、ほんの少しだけぬるついている。髪も同様の液体に覆われており、先ほどまで海にいたことを考えるとこれは撥水性の油らしい。

 手についた油をなめてみるとやや塩気のある味だが基本的に無臭で、何もしなければ数秒で蒸発してしまった。人間の肌と同じように見えるが、この油を蒸発させない条件が人魚の肌には整っているらしい。

 この液体はおそらく生体由来の成分で、人間の汗とそこまで成分的には変わらないだろう。体温は恐らく人間より低いが30度以上はあるように感じる。

 この油で水分を弾いて最低限の体温を確保しているのではないだろうか。

 

「口を開けて」

 やはり完璧に人間の言葉を理解している人魚はあどけない表情で口を大きく開けた。

 喉の奥にうっすらとエラの切れ目が見えるが、今は開いていない。胸の膨らみがゆっくりと上下しているのを見るに、肺呼吸・鰓呼吸どちらの機能も備わっているようだ。

 脚が無いという、どうしたって陸では生きていけない体なのに、なんと言うか――――陸上に上がり人間と交流するのを前提とした進化をしているように感じる。

 

「普段なに食ってんだ? ああ、悪い……」

 はい・いいえで答えられる質問以外をするのはよくなかった。

 だが上質なナイフのように発達した犬歯を見るに、普段は魚を食べていると見て間違いないだろう。

 口に鼻を近づけるとほんのりと潮の臭いがして呼吸音が薄く聞こえた。

 腕を手に取ると魚介類のパーツそのもののヒレがあり、指と指の間には水かきのように薄い膜がある。

 全体的に流線型のフォルムをしており、人間と変わらない動きをする手があるならば海中で魚を捕るのに苦労はしてなさそうだ。

 

(しかし……美しい……!)

 この世の汚れを何も知らない無垢な瞳。

 見ているうちに魔法にかかってしまいなんでもしてあげたくなってしまいそうだ。

 非科学的な言葉はあまり好きでは無いが、魔性とはこういうことを言うのだろう――――人魚を調べていた腕が陽太に強めに引っ張られた。

 

「タマキにあんまり触らないで」

 幼いながらはっきりと嫉妬の感情の混じった声。

 兄とはいえ、べたべた触られるのはそれは嫌だろう。

 

「タマキ?? 名前か?」

 

「うん。つけてあげたんだ」

 

「どう書くんだ?」

 砂浜に陽太が書いた漢字、『珠姫』は小学生が書くにはやや難しい漢字だった。

 こんな言葉を普通の小学生が覚えているはずがない。こめかみに指を当てて記憶を探る。

 

(前田利常の幼な妻か)

 読み方は違うが漢字は確かこれだったはず。勝手に兄の教科書を読んでいるのだ。

 恐らくは日本史登場人物事典に載っていたのを覚えたのだろう。

 

「珠姫なのか、お前は」

 

「…………」

 相変わらず一言も発さないが、人魚――――珠姫ははにかみながら頷いた。

 人魚同士で個体を識別する名前のようなものがあったのかどうかは知らないが、世界に一人ぼっちだったから名前なんか必要無かっただろう。

 だが今、珠姫は一人ぼっちじゃない。陽太ももう一人ぼっちじゃない。

 最後の人魚と不治の病におかされた少年の淡い想いはガラス細工のように脆く、きっと想像力の欠如した大人一人の侵略で徹底的に壊されてしまうだろう。

 

(そうか……)

 こんな関係がいつまでも続くわけがない、いつか別れが来るとしても今だけは、もう少しだけは。

 この空間を守るために自分は強く生まれてきたのだ。近づいてくる大人がいたら殴り飛ばそう。陽太をいじめる近所のガキどもが来たら裸にしてつるし上げて二度とここに来ないようにしてやろう。

 この風景を守るためなら、自分は村一番の乱暴者でも気狂いでも構わない。心の底からそう思えたのだった。

 

 

 

【小さな世界】

 

 

 

 

 病気という身体の状況に対して与える精神の影響は多大なようで、ここ最近の陽太の体調はすこぶる良い。

 たかが友達が一人できただけでこんなに元気になるものか、と思ったがここに来てから初めての友達なのだ。

 これなら学校に普通に行っても問題なさそうだと判断して学校に来た――――のに。

 

(風邪か?)

 詩子がここ数日学校に来ていない。理由を誰かに訊ければいいのだが、他に友達のいない自分にはその相手がいないし、知らない可能性の方が高い。

 ほとんどそれだけが学校に来た理由なのに。

 

「…………」

 正直自分にこういう、誰かを心配する感性があったことに驚いた。

 そういえば前に陽太の質問に答えるのに詰まった時に思ったことだが、自分はこの年まで異性にとんと縁がなかった。

 小さい時から勉強ばかりしていて、しかも度を越した乱暴者だった。何を考えているのか分からない、というのが周囲からの評価でそれを自分でも正しいと思っていた。

 授業を全く聞いていないことに、以前に三者面談をした担任は気付いている様子だったが特に何も言ってこなかった。教えることなどないと知っているし、すでに考大が自分よりもずっと賢いことを薄々察しているのだろう。

 

(あいつ自分の話をしたことあったっけ)

 全部理解してあることしか書いていない教科書をぼんやり眺めながら記憶を掘り返す。

 詩子はかなりおしゃべりで無遠慮なまでにこちらのことを聞いてくる(だから陽太の病気のことも知っている)のに、自分のことや自分の家庭の話をしたことは一切ない。 

 彼女は学食を利用しないで自分で作った弁当を食べている。

 

(母親が作ったって言ったことないな)

 考大も弁当を前日に父の分と合わせて作っているが、自分が一人で弁当を外で食べているから合わせているというわけではなさそうだった。

 

(そうか、家庭に問題があるのか)

 疑問が氷解し、思い切り背中を反らすとサイズの合っていない椅子が悲鳴をあげた。

 なんとなくの予感だが、おそらく間違ってはいないだろう。子供は周りの世話が必要だから子供なのだ。

 そんな子供が自分の食事を自分で用意しているとなるならば、確実に家庭環境のどこかに歪みが生じている。

 

「…………」

 まぁ、それが分かったとしてよそ様の家に首を突っ込むほど常識を忘れてはいないが。

 

 

****************************************

 

 

 常識を忘れていなくとも、こちらで唯一の友達のことが気がかりなことには違いなく、

 考大はたったいま沈んだ浮きすらも見逃してしまっていた。

 

(今のは大物だったな)

 逃した魚はでかいと言うが、海面に見える影は大きい。

 これだったら飛び込んで取りに行くか、と銛を持って長シャツを脱ぐとかなり寒い。

 もう十一月も中盤で、ここは東北なのだから寒くて当然か。

 

「…………」

 陽太は寒くないのかな、と服を着ながらそちらを見ると、相も変わらず珠姫と一緒で、二人でいれば多少の寒さも気にならないようだった。

 初めのころは真隣で見守っていたが、邪魔者になりたくないし、今は遠くにいるが何やら面白そうなことをしている。

 陽太がついぞ一度も学校で使えなかった絵具セットで珠姫に何かを描かせているのだ。

 ずっと海の底で暮らしていた人魚が一体何を描くというのだろう。

 

「見せてくれないか?」

 と言う前から覗き見た珠姫の絵は、12歳程度の子供が描いたであろう絵と同じくらいの画力があるとわかる。

 普通に感じてしまうが、ずっと海底で暮らしてきた人間ではない生物がこれだけの手先の器用さを見せるのは凄いことなのかもしれない。

 

「というか海底の絵が描けるのか? 目を見せてもらえるか?」

 海の底なんて光がほとんど届いてないはずなのにどういうことだろう。

 こちらに顔を向けた珠姫の瞼をそっと指で開くと瞳孔の形状は人間のそれと違い、猫の物に近い。

 海の中で物体を正確に捉える角膜を持っており、僅かな光でも世界を見れるように瞳孔の収縮拡大が人間よりも優れているらしい。

 陸にいる時は基本的に縦長になっているようだ。海中で呼吸可能なことや機能性の高い目といい、ここだけ見ると人間よりも上位の生物と思えなくもない。

 気になることだらけだが、それ以上に珠姫の描いた絵が気になった。

 

「これは……?」

 

「珠姫の暮らしているところが見たいって言ったんだ……」

 青に塗られていることからそこが海中なのは分かる。どうやら人間と色覚の認識は同じようだ。

 不思議なのは住処を描いたはずのその絵が、いくつもの死体らしきもので埋め尽くされていることだった。

 眠るような人魚の死骸がいくつも描かれており、何匹かは頭蓋骨を抱えている。

 どうも人魚は海中で腐る速度が異様に遅いらしい。

 

(船……?)

 海に生きる生物が沈没した船を住処にするのは頷けるが、これはいつの船だろう。

 形状から見るに日本の船のようだが、軽く100年以上前の大型船に見える。

 だとすると、この死体のうちのいくつかは人間の死体だろうか。

 象が墓場を形成するように、人魚も死に場所を選ぶようで、さしずめ人魚の墓場と言ったところか。

 なぜこんなところを住処に選んで――――

 

(母親か……)

 真っ二つに折れた沈没船の船主で頭蓋骨を抱えて眠る人魚の死体。

 なんとなくの勘でしかないが、これは珠姫の母だ。そこがまさしく絵の中心になっている。

 母親の死体がここにあるからここから離れないのだろう。

 珠姫にしてみれば毎日見ている光景かもしれないが、たとえ幼稚な絵だとしてもこれは全人類が知らない貴重な情報の塊だ。案外竜宮城とはここを指しているのかもしれない。

 ふと、自分が『親』ではなく『母親』と想像した理由が分かった。この絵に描かれているのは全て女性の姿だ。

 そういえば世界各地にある人魚伝説に男の人魚は登場しない。図鑑に載っていた人魚の絵も女性の姿をしていた。

 

「……お前、父親は?」

 

「…………?」

 珠姫は答えられないというよりは、意味が分からないという顔をしている。

 言葉が伝わっていないのではなく、父という概念が理解できないような顔だ。

 

「人魚って雄がいないのか? その、胸がぺたんこな種類だよ」

 性器の有無を話そうとしたが人魚の性器なんて分かるはずもなく断念した。

 珠姫はようやく質問の内容を理解したのか、新しい紙に筆を使いへたくそな文字で答えを書いた。『いない』、と。

 

(……なにそれ)

 カタツムリやミミズみたいに雌雄同体ということだろうか。

 でも見た目どうしたって雌だしな――――初めて出会った時よりも珠姫の胸が膨らんできた気がして、陽太の手前なんとなく気まずくなり目を逸らす。

 

「兄ちゃん学校楽しくないの?」

 

「あ?」

 

「昨日も一昨日も今日も楽しそうじゃなかった」

 

「ウタ姉ちゃん学校来てないの?」

 

「……。よく分かるな」

 自分は無感動な質だが、陽太は感性が豊かだ。

 陽太の立場に立って考えてみると、珠姫がいるからこそ日々の些細なことでも楽しい自分があるがために兄の感じている退屈を察することができたと言ったところか。

 

「風邪? お見舞い行ってあげなよ」

 

「あのなぁ」

 

「ちゃんと家に帰っておくから」

 詩子の家は知っている。何度も自転車で後ろに乗せて送ったことがあるし、自分の家から遠くはない。

 そういえば今までも詩子の家から家族の気配を感じたことはない。

 風邪を引いて寝込んでいるとして、一人寂しく寝ているのだろうか。

 高校が男子校だったこともあり、これまでの人生で異性の家に上がったことなどない。

 

「……親父が帰ってきたらこれ渡しといてくれ。何かあったら電話くれ」

 暇なときにかけてほしいと言われて教えられた詩子の家の電話番号を紙に書いて陽太に渡す。

 何を話せばいいか分からなかったからついに一度も電話をしたことがなかった。

 

(いきなり家に行ったら驚くだろうな)

 でも絶対に嫌がりはしないだろうな、と思いながら2人を置いて砂浜を後にする。

 言ってしまえば化け物に身体の弱い弟を任せるなんて、と考えると少し妙な気分だった。

 

 

**********************************

 

 

 それから10分もしないうちに詩子の家に到着したが、扉を叩いても反応がない。

 相変わらず人の気配がほとんどない家だ。試しにドアノブを回してみたが当然のように鍵がかかっていた。

 

(……裏行ってみるか)

 割と大きい家で洗濯物を干してもあまりあるくらいの庭がある。

 というか、洗濯物が干しっぱなしだ。触れてみるととっくに乾いているがいつからここにあるのだろう。

 ガラス戸の向こうはカーテンで仕切られて見えないが、僅かに隙間がある。

 これ、誰かに見られたら乱暴者から変態覗き魔にランクダウンだなと自嘲しながらそっと覗くと布団で寝込んでいる詩子が目に入った。

 やはり風邪か何かのようで顔が熱で真っ赤だ。

 

「詩子」

 ガラス戸を叩くとぼんやりとしていた詩子がこちらを見て即座に飛び起きた。

 寝ていたわけではなく、ノックが聞こえても玄関に行く元気すらなかったようだ。

 

「……こうちゃん? なん――――わっ」

 幼いころから陽太にそうしてきたように、詩子の額に触れるとかなり熱い。

 恐らくは38度近くの熱がある。

 

「あがるぞ」

 家から人の気配がしない。父母がいないのはまぁいいとして、詩子の家の家族構成はこの村には珍しく核家族のようだ。

 靴を揃えて上がると詩子がふらつきながら部屋から出ようとした。

 

「いいから寝てろ」

 部屋から出かけた詩子を優しく引っ張り布団に寝かせる。

 もてなそうとしたであろう詩子の視線の先は台所のはずだが、食事のにおいが全くしない。

 親がいるなら病気の娘に温かいものの一つでも作るだろう。やはり両親は少なくとも朝からいないようだ。

 

「材料はあるか? 何か作ってやるから待ってな」

 

「……。お見舞いに来てくれたの?」

 

「ああ」

 

「う……嬉しいな……」

 掛け布団を口元まで上げた詩子が小さく『冷蔵庫にある』と呟いた。

 汗で額にはりついた髪が何日か風呂に入れていないことを示している。

 

「寝てろよ」

 古い作りの家だが台所は最近作り替えたのか、勝手を知らない自分でも簡単な料理くらいなら問題なく作れそうに見える。

 洗い物が溜まっているから後でこの辺は全部片づけてしまおう。

 

(卵がゆだな)

 炊飯器の中の米の様子を見るに、炊いたのは昨日の晩だ。

 誰が炊いたのかは分からないが、洗い物の様子から察するに今日の詩子はご飯を茶碗によそう元気すらなかったらしい。

 

(両親が仕事でいない……にしてもおかしな話だ)

 家があるなら普通夜は帰ってくるだろう。せめて娘の為に作り置きくらいはしないだろうか。

 と、慣れた手つきで料理の工程を進めながら周囲を見渡すとまたおかしな点に気が付く。

 

(……親が帰ってきていないのか?)

 台所から見える玄関の郵便受けに新聞がたまっている。

 手紙なりなんなりが溜まることはあっても新聞は普通毎日持っていくものだろう。

 

「妙な家……」

 後は鍋の中で5分ほど蒸らせば完成、というところまで来たが、病人だしあまり熱々よりももう少し長めに冷ました方がいいだろう。

 その間にお湯を溜めた風呂場の桶とそばにあったタオルを持って詩子の部屋に戻ると。

 

「……寝てろって言ったろ」 

 何を考えているのか、詩子は寝間着を脱ぎ捨てて箪笥を漁っている最中だった。

 本当に初めて見た、普段は服で隠されている異性の肌に考大の心臓は少年らしく反応したが幸いなことに普段通りの無表情を保てた。

 

「汗かいちゃったから……」

 悲鳴を上げられたら言い逃れ出来ないなと思ったが、そんなことはせずに適当に取り出した服で胸元を隠しながらそんなことを呟いた。

 どれだけ近しいと言っても、いや、近しいからこそ病気で寝込んでいる姿など見せたくなかったのだろう。開けられた箪笥からいくつもはみ出た服から、どの服が一番よいかと迷っていた詩子の感情が見て取れる。

 

「そう思うならそこに座りな。背中の汗拭いてやるから」

 

「やっぱり汗臭かったの?」

 

「慣れているだけだ」

 クラスメートに一番見られたくないところを見られてしまった上に更に恥を重ねてしまった、と既に赤い顔を更に赤くしていった詩子は考大のたった一言で全てを察して大人しく布団の上に座った。

 何日も陽太の熱が引かず、汗が溜まった体を拭いてやったことは今までも何回もあった。不潔なのもあるが何よりも、病気の時にかいた汗が蒸発するときに身体の熱を奪って更に悪化してしまうのが問題なのだ。

 

「うつっちゃうよ」

 

「俺は今まで病気したことない」

 観念したかのようにやや丸まった背中を少々熱い濡れタオルで拭いていく。 

 同い年のはずなのに女の子の身体とはなんて小さいのだろうか。ふと手を止めるとやわらかな身体を通して少し早い呼吸と鼓動が伝わってくる。

 

(言われなくたって知っている……)

 学校にすら行けてない弟に世界の真実みたいに言われなくたって、詩子の好意は筒抜けだ。

 表情は見えないが赤く染まっている耳が嬉しさと恥ずかしさをあけっぴろげにしてしまっているし、詩子も喜んでいると伝わることを望んでいるようにも見える。

 自分はどうしたいのだろう、という欲求は心の奥の小さな箱にしまう。

 陽太に対してそうであるように、病気で弱っている人に対してあるのはどうするべきかだけだ。

 

「……なにも聞かないんだね」

 

「!」

 背中を拭き終わり、乾いたタオルで残った肌の水分も丁寧に拭き取り終わったとき、詩子に手を掴まれた。

 何もって、なんのこと。そんなこと考えるまでもなく家族のことだ。

 考大の傷だらけの手を弱弱しく掴む詩子の手を払うこともせず、ただ黙っていると病人特有の温かい手が考大の手を優しく包んだ。

 

「ありがとう……」

 熱い雫が一滴、また一滴手の甲に落ちてくる。

 不用意に踏み込む勇気もない自分なりの不器用な優しさは、それでも泣いてしまうくらいには嬉しかったらしい。

 小さな手から、涙から、考大の人生に全く縁がなかったものが流れ込んでくる。

 向けられる好意に対して戸惑いもあるが、喜びはと問えば当然ある。

 せっかく作ったのに冷めきってしまう、さっさと済ませて陽太のもとに帰らなければ――――そんな考えがとけてきえてなくなってしまうくらいに。

 流れ込んでくる混じりっけなしのまごころがあまりにも心地よくて、自分からその手を離すことができない。

 

「……ずっと裸じゃ悪化するから。ほら」

 分かっているだろうに離してくれない手と逆の手で乾いたタオルを詩子の膝の上に置き、桶を詩子の目の前にやる。

 

「5分したら戻ってくる。ちゃんと前も拭いておけよ。汗拭いたら乾いている方で拭け。それで新しい寝間着に着替えておけ」

 

「……。うん」

 そうしている間に身体が冷えるから早くしろ――――今の今まで考大の手を握っていた自分の手を見つめて空返事する詩子を横目に、もうとっくに冷めてしまった卵がゆのもとへ向かう。

 鍋に火をかけながら思う。せめてもう少し隠してくれれば無視できるのに。義務的な恩を押し付けてさっさと帰れるのに。

 火に透かして己の手を間抜けに眺めていた自分の口元がへの字口になっていることを情けなく思い、強めに口を叩くと女の子の匂いがした。

 

「ほら、おかわりもあるから食べな」

 鍋ごと持ってきた卵がゆをよそって渡すと、詩子は少なめに口に運んでほほ笑んだ。

 どうやら口に合わないということはなかったらしい。

 今着ている寝間着はなんだか先ほどまでのそれよりも気持ち新しくカラフルだ。所詮部屋の中でしか着ないものだとしても最大限可愛らしい姿を見せたいという乙女心なのだろう、と思うとどう反応していいか分からない。

 部屋の隅に目立たないように置かれていた寝間着を拾い、桶を持って立つ。

 

「ま、待って。そこまでしてくれなくてもいいよ」

 遠慮するのも当然だと思う反面、あれほどまでに他人の家の事情に首を突っ込む少女が遠慮するなんて、と思った時には言葉が先に出ていた。

 

「……陽太に優しくしてくれた」

 唇を噛んで言葉も感情も堪えているその姿、学校で横目に見ていた明朗快活な少女との差。

 もしかしたら自分は強い人間にはどこまでも強くても、弱い人間にはとことん弱いのかもしれない。

 もし詩子が既に肌の下から飛び出しかけている言葉を抑えられなくなったら、自分自身どうなるか予想も付かなかったので何も言わずに部屋を出た。

 

 

******************************

 

 洗い物を終えて戻ってくると鍋の中にはまだ一食分ほど残っていた。

 明日の分を考えて作ったし、だからこそ洗い物をしたのだ。

 

「明日の夜までなら食えると思うから」

 もうそろそろ冬なのを感じさせる乾燥が唇をかさつかせる。

 これ以上病気が悪化させないように、濡れタオルをハンガーにかけておく。

 少なくともこれで寝ている時の喉の痛みは和らぐだろう。

 

「もう大丈夫そうか?」

 ここに来てからそろそろ2時間近く経ったが本当に親が帰ってこない。

 病気の状態でこの静かで広い家に一人きりで寝ているなんて感受性の低い自分でも寂しくなる。

 陽太に送り出される形になったが、来てよかった。

 

「一緒にドリフ見ようよ」

 温かい食事のおかげで元気が出たようで、声も明るい。

 いや、明るい声を出している。なんとか理由を付けて引き留めようとしている。

 

「ドリフは明日だ。……陽太の飯作んなきゃ」

 

「そうだよね……、そうだよね、ごめんね」

 隠しようもない懸想。

 自分の弱みを盾にして考大に付け込もうとしたのがそんなに良心を傷つけたのか、あるいはまた一人ぼっちになってしまうのが寂しいのか。

 猫背になって座る腹の目の前にある空洞を覆い隠すように詩子は毛布にくるまり、猫のように大きな双眸に今にも零れそうなほど涙が溜まっていた。

 

「早く治せよ」

 学校に来てほしい、と最低限のみ伝わる言葉。

 違うだろう――――確かにそれでも詩子の病気はすぐに治り学校に来るだろう。

 だが、何かしらの理由で帰ってこない親に冷めた心を隠して詩子は今日も一人で眠る。うすら寒くなっていく東北の風に軋む家で。

 今まで寂しいと思ったことは一度もなかった。東京にいる時も、この村に来てからも。

 弱い陽太の心の拠り所であるという事実があったから。

 詩子はちゃんと泣きながらでも言葉にしてくれたのだから、自分だってそうするべきだ。

 

「あ……よ……よそ者の俺に……ずっと、優しくしてくれてありがとう」

 ずっと思っていた言葉を言えて思い出したのは彼女と初めて話した時も同じ言葉を口にしたということだった。

 それと同時に生まれて初めて自分を卑怯者だと思った。ただでさえどうしたって自分より弱いのに、更に弱っている相手にだけにしか本音を打ち明けられないのだから。

 もう少し心が強ければ、普通の状況でそれこそ帰り道にでも言えただろうに――――部屋から出かけていた考大の腕が掴まれた。

 

「好き……」

 せめて口にしなければ。

 どんな思いを抱えていたって、それがどれだけ相手に感づかれていたって、自分の中にだけ閉じ込めておけば確定はしないのに。世界は変わらないのに。

 弱っている相手にしか言えない本音。弱っているからこそ漏れる本音。

 詩子はとうとう口にしてしまった。下手くそな優しさが余計に詩子の弱った心を揺さぶってしまい出してしまったのだ。

 帰らないでと言っていることは今までほとんど女性と関わらなかった考大にもすぐに分かった。

 

「分かるだろ」

 分かっているはずだ。

 陽太の面倒を見なければならないということ以上に、優しい詩子が優しいと自分の事を思ってくれるなら、優しい考大はここで病気の弟を置いて女を優先なんてしないはずだから。

 だから、だけど。

 

「また来る」

 その言葉一つで今日の夜の寂しさなんてなくなって、明日が来ることが、元気に登校することが楽しみになる。

 ほっぺたをりんごのように赤くして頷いた詩子のことを、自分はこの村に来た頃はなんとも思っていなかったはずなのに。

 人好きな猫のような目が、寝込んでいたせいでくしゃっとなっている髪が、ほんのり紅色の唇が、すべて視界の中心になってしまう。

 小さくて可愛らしいこの子をぎゅっと出来たらきっとずっと幸せなんだと主張し続ける脳を無視して考大は曇天の空の下に出て行った。

 

 

 

*********************************************

 

 

 からんからーん、からんからーん、と。

 部屋でまどろむ冬の夜に雪にかき消されながらもか細く聞こえる不思議な音色。

 夢か現実かもわからないその音を更に美しく心に響くものにした音が耳に届いた。

 

(海から……?)

 のっぺりとした曇り空との境目の分からない不機嫌そうな海には不似合いな音。

 視覚嗅覚聴覚全てが普通の人間よりも優れている自信があるが、さすがに今のは幻聴か。

 

「こうちゃん? どうしたの?」

 

「なんでもない」

 マフラーに顔を埋めるのと同時に詩子も考大の背中に回した腕を強くした。

 海沿いの道を自転車で女の子と二人乗りで下校というのは夢があるが、今にも落ちてきそうな程の曇り空は減点だ。

 既に吐く息も白い。

 

「今日はお父さん帰ってくるんだよね。何時くらいに?」

 

「……もうすぐ。陽太には家にいておけって言ってある」

 寒くなってこようが珠姫に会いに行くことをやめない陽太だが、さすがにそこは父を優先するだろう。

 なによりも、賢い陽太なら家にいないと父が知ったら自分を探して珠姫が見つかってしまうことも分かっていると思う。

 

「そっか……。いいなぁ。私のお父さん、まだまだ帰ってこないから」

 普通の少年少女ならなんてことない会話だが、詩子のそれは重みが違う。

 彼女の家の奇妙なおかしさを知ってしまった考大に、想いを伝えてもなお一緒にいる考大に話そうと決心したのだろう。

 

「……。何をしている人?」

 

「遠くの海に行ってカツオ獲っているの。ここらで一番大きい船に乗っている」

 

「ああ。見たことあるな……」

 漁村故に小さな漁港があるが、そこに不似合いなほどに大きな漁船が源三爺さんのボロボロ船の隣にあった記憶がある。

 まさか詩子の父のものだとは思わなかったし、そもそもその頃は詩子のことなんて視界に入っていなかった。

 しかし、どおりで彼女の家はぼろっちいものの中はリフォームされて綺麗なわけだ。

 

「お母さんは……。お母さんはね……」

 

(…………)

 予想はしていた。

 

「村田先生と不倫している。最近はほとんど帰ってこない……」

 遠出して稼ぐ男たちの妻が不貞を働くなんてどこにでもある話。

 それが数カ月間家を空ける漁師の妻となればなおさらだろう。

 先生と呼ばれる村田は恐らく診療所の医者だろう。妻子はいなかったはずだが、源三爺さんがやたらと村田を嫌っていたことを思い出す。変人だが人を見抜く爺さんが彼を嫌っていたのはこういう理由だったのか。

 

「でも私がそうしてって言ったの。連れてくるくらいなら帰ってこないでって」

 

「……。着いた」

 家の前で自転車を止めても一向に降りる気配がない。

 まだ降りたくないといわんばかりに小さな手で考大のコートを掴んでいる。

 

「よ、ようちゃん最近元気だよね」

 

「友達できたからな」

 

「……あ……こうちゃんの、おかゆ以外のお料理も食べてみたい……」

 

(こりゃもうだめだ)

 考大の父親はもうすぐ帰ってくるし、父が帰ってくる日は必ず父が料理を作ってくれることを詩子は知っている。

 極めて勉強は出来ても優等生ではない自分は遅く帰ることが多々あったことも知っている。

 もうどんな理由を付けても離してくれないだろう。

 

「材料……見してもらおうかな……」

 

「うん、うん! 入って、入って!」

 あ、と気が付いた時には遅かった。気が付かない方が間抜けだ。

 今の時間はまだ午後の四時で、バスに乗ることになるが30分もすれば喫茶店やビリヤードのできる店のあるくらいには人のいる街に行けるのに詩子は家に誘ったのだ。

 街の方へ行こうぜと口を開く前に詩子は靴を雑に脱いで家に入ってしまっており、覚悟を決めるしかなかった。

 男女の関係とはこうも鮮やかに変わってしまうものなのか。

 

「カバン、いつもぱんぱんだよね」

 そう言いながら考大の手を引く詩子は3分前の建前もすべて忘れ、台所をスルーして自分の部屋に考大を引っ張り込んだ。

 やろうやろうと頭に思っている行動が口をついて出てきてしまっていたのか、カバンを取り上げられる。

 

「中見ていい?」

 

「いいよ」

 

「ひゃー、むつかっしい。ぜんぜん分かんないや」

 今は無用の長物となってしまった、こちらに来る前に使っていた教科書や参考書類をぱらぱらと見てはため息を漏らす。

 難しいのはその通りだが、仮に彼女に内容を理解できる学力があっても今は分からないと思う。まともに内容なんて見てはいないから。

 

「すごいなぁ。すごいなぁ、こうちゃんは」

 

「…………」

 

「…………」

 こういう時に気の利いた言葉の一つも言えずに、もろい建前を演じる詩子を見つめていたら、意図せずして目が合ってしまった。

 無表情な方だし、自分でも鏡を見て何を考えているか分からない面白みのない顔だと思う。

 そんな考大の顔を、詩子は限界間近の顔で見つめ続け――――

 

(驚いたかな)

 そうなる前に先に考大から抱きしめていた。

 好きだと言ってくれたのも、家に誘ってくれたのも、勇気を出したのは全部全部詩子が先だった。

 自転車の後ろに乗っているからとか、そんな薄い理由がなくてもよいと分かった詩子もきつく抱擁を返してくる。

 せめて陽太にも、自分にすらもどこまでも優しいこの子で良かった、と心から思えた。

 

 

 好意をはっきりと伝えられて一週間も経っていないが、こうなるだろうとは思っていた。

 詩子の心は口下手で感情の起伏のない自分の言葉などでは到底埋まらないし、普通の子供は親を見て育つのだから。

 寂しさを紛らわせる方法はそうするものなのだと詩子の中ではなってしまっていたのだ。

 

 

「こうちゃん、前に先生に呼ばれたときなんて言われたの?」

 

「前?」

 もう何時間くらい経っただろうか。耳元で囁く詩子の質問が頭に入ってこないくらいには眠い。

 電気どころかストーブもつけ忘れていたし、このままではまた詩子が風邪をひいてしまいそうだ。

 カーテンの隙間から入ってくるほんの少しの明かりだけが現実のよすがだ。

 

「ほら、掃除の時間に呼ばれた」

 

「ああ……。人間味が薄いって言われた」

 その場で言われたことをそのまま詩子に言えば、返ってくる言葉は同じだと思うから、大事な部分は全部抜いてしまった。

 詩子は田舎の少女らしく、都会に幻想を抱いていて、いつか東京へ行くための理由を探している。

 だがそんなものは何の才能もなければあちらに親族もいない詩子には縁遠い話だからこそ、考大の飛びぬけた優秀さと帰りたいと思っている気持ちを頼ろうとしている。

 そんなことは無理だと詩子だって分かっているだろうが、それでも今彼女に押されてしまったらNoと言える自信がない。

 

「そんなことないよ。嬉しかった……」

 言葉の足りていない詩子の喜びは何に対してなのだろうか――――きっと自分の与えたすべてがだろう。

 

「人間味少ないと思うよ、俺も。他人に知ってほしいこととかないし、知りたくもないし」

 

「……ようちゃんのお友達、なんて名前?」

 そんなことないと言い続けるのも限界がある。感情が薄いのは詩子じゃなくても知っていることだし、他人への興味が少ない理由だってわかっているから。

 繋いでいた手をきゅっと強めに握り、詩子は話題を変えた。

 

「珠姫」

 

「たまき……女の子?」

 

「女の子っていうか……うん」

 

「どこで会ったの? あっ」

 

「……そう。その子」

 以前に陽太がボトルメールの事を話していたことを思い出したのだろう。

 暗闇の中でも詩子の顔が輝くのが分かった。確かに、自分でも奇跡だと思うし、女の子ならそういう話は男の自分よりもずっと好きだろう。

 

「どんな子? どこに住んでいる子? あっ、やっぱり近くに流れ着いちゃったんだね」

 

(…………)

 興奮気味に質問を投げつけてくる詩子は自分にとってどんな存在だろうか。

 自分の知る限り一番優しく、どこまでも善の存在。

 そして、家族以外では自分のことを一番理解してくれている人。

 詩子なら。きっとあの二人の仲を引き裂くようなことはしないのではないだろうか。

 案外、一緒に陽太と珠姫の作るあの美しい風景を守ってくれるようになるかもしれない――――と

 詩子が好意を口にしたように、何が内側にあっても口にしなければ世界は変わらなかったのに。

 

「人魚なんだ」

 

「…………人魚が出たの……?」

 なんだその『バケモノが出た』みたいな言い方は。

 世界中の童話に出てくる人魚姫がなぜそんな言い方になる。

 

「信じるの?」

 

「信じるもなにも……なんでここが海鈴村っていうか知っているの?」

 海鈴村。今少し考えてみればあからさまだ。

 海の鈴がそのまま村の名前になるくらいなのだ、きっとここの村には人魚の『何か』が根付いている。

 

「待てよ、人魚の何かいけなかったのか?」

 

「今すぐ! その子をどこかに追い払って!」

 

「な――――」

 

「ようちゃんが殺される前に!!」

 口にしなければ、何も知らなければ世界はその時まで変わらないままだったのに。

 

 

 

【大人になってしまった】

 

 

 

 人魚に雄はいない。

 不思議な生物というのならば、何よりもそこが不思議だと人魚が一番繁殖していた大航海時代の人々は思った。

 とりあえず捕まえれば金になるから捕まえるが、いつかは誰かが思いつく。

 

 養殖すればいいじゃないか、と。

 

 今は滅びた生物なので、ほとんどの図鑑に人魚の繁殖方法は載っていない。

 少なくとも多種多様の生物を取り上げる図鑑なんかには載っていないし、滅びた生物故に人魚に対する研究もほとんど進んでいない。

 たとえば数百年前に滅びた毒蛇の毒の種類や解毒方法について知っている人間が何人いるだろうか。それについて調べようと思う人間と、カブト虫を自由研究の課題にしようと思う子供のどちらが多いだろうか。

 いなくなった生物のことを詳しく知る人間は減っていくものだし、それが一般人なら滅びて三世代もすればそのほとんどを忘れてしまうだろう。

 唯一人々の記憶に残ったのは人魚たちのこの世のものとは思えない美しさだけ。

 

 だがそれでも、300年ほど前にイギリスの海賊、ウィリアム・キッドが人魚の養殖を試みた航海日誌が大英博物館に残されている。

 

 珍しく数匹の人魚を同時に捕まえた海賊たちは大喜びしながらいつものように部位ごとに解体してしまおうとしたが、キッドは船員に繁殖を命じた。

 もしもこの広い海で人魚の繁殖法を自分だけが知ることが出来たら、わざわざ海に出て商船を襲わなくても楽に金儲けが出来ると考えたからだ。

 だが巨大な生け簀に人魚を何匹か放り込んでも一向に増える様子は見せずに怯えるばかり。

 解剖してみると子宮らしきものはあるし、生理もある。となるとやはり雄がいるはずなのにやはりどれだけ海を荒らしまわっても見つからない。

 夜中に様子を見に行った飼育員は引きずり込まれずたずたにされて殺されてしまった。

 やはりこの生き物は捕まえたなら即座に殺して売ってしまうべきなのだ――――キッドがそう決断を下した時。

 一匹の人魚の妊娠が分かった。

 

 人魚は人間を殺すと妊娠する。

 キッドはそう書き記していたが少しだけ違う。

 人魚は繁殖するために人間の雄の睾丸が必要になり、結果として海に引きずり込んで殺すことになってしまうのだ。

 恨んでいなくとも。あるいは、愛していようとも。

 

 だからこそ人魚は大航海時代に個体数が最大値を迎えた。

 人魚はその歌で男たちを海に誘い殺し、そして人魚は存在そのものに人間にとって大きな価値がある。

 そのことに気が付いた為政者たちは人魚狩りを命じたのだ。

 

 殺さざるを得なかったし、滅びるべくして滅んだ。

 一心不乱に人魚を殺しに来る人間たちの姿は人魚の記憶に深く刻まれ、繁殖にどうしても必要なのにある時期から人魚は人間の姿を見ただけで一目散に逃げるようになってしまった。

 滅びゆく人魚たちの行きつく場所が、海鈴村だった。

 

 ある程度荒れている海の魚の方が静かな海の魚よりも栄養がついていて美味だと言われる。

 太平洋よりも日本海の方が濁っているが、濁っているのは海そのものに栄養が豊富な証拠で、魚が美味しいのは一般的に日本海側の魚とも言われている。

 しかしこの村は太平洋側にもかかわらず海流がぶつかりあい、珍しく海がかなり荒れている地方だ。

 昔から栄養満点の魚を獲りに来た男たちの漁船がよく難破したという。

 獲物も――――既に死んでいるとはいえ繁殖相手も豊富なこの村の海は気が付けば日本一人魚のいる村になっていたという。

 さればこそ、『海鈴村』。人魚を世界で一番殺して富を築き上げた者たちが住む村であり、大人も子供も人魚という生物の危険性も、その命が生み出す価値もよくわかっていた。

 共存不可能、ただ終わりを待つことしか出来ない人魚たちの嘆きの歌が鳴りやまなかったこの土地は、人魚たちの死骸が積み重なり残酷な人間たちの住まう村となっていた。

 

 

「見つけた……」

 信じられないなら慰霊碑があるから見に行けばいい。

 詩子の言葉通り、陽太と珠姫の遊ぶ海岸のすぐそばにある小高い丘に、慰霊碑はあった。

 こんなところ用事もないから来たことがなかったが――――

 

「名前……?」

 もはや誰も手入れもしていない慰霊碑に名前が刻まれている。

 人魚に名前をつけるなんて陽太以外にいたのか、と思ったが指先で土を払うと全て男の名前だった。

 

「あの難破船は……」

 ただ狩られ続けるだけではなかったのだろう――――というよりは彼女たちのテリトリーにのこのこやってきてくれた獲物たちなのだ。

 狩りつくすまでに何人もの男たちが死に、あるいは人魚に惹かれ自ら海に身を投げたのだ。

 珠姫のあの絵にあった船は、人魚たちが沈めたものだったのだろう。

 

「俺にどうしろってんだ……」

 陽太と珠姫が、何も知らない子供たちが無垢な笑顔で遊んでいる。

 今日も陽太は珠姫の美しい髪を梳いてやっている。

 守ると言った自分にこの全てを引き裂けというのか。

 珠姫は自分のことを陽太の兄で、守ってくれる存在だと認識し全く警戒していない。

 自分なら陽太のいないうちに殺すことも出来るだろう。陸にいる子供の人魚なんて、素手でも殴り殺せる。

 しかもあの体はまるで宝石箱、生きたままなら数十億の価値があるかもしれない。こんな田舎村で緩やかに死を待つのではなく、陽太に必要なだけ金をかけて治療してやれる。

 

「出来るか……! そんなこと……!」

 膝をついて慰霊碑を思い切り叩くと表面に大きくヒビが入った。

 海から運ばれてくる風が運命に振り回される考大の頬を撫で、景色が滲んだ。

 どれだけ強く生まれたとして、自分にはたかが子供二人の儚い夢を守ることさえできない。

 このまま無視し続ければ本能に目覚めた珠姫は陽太を海に引きずり込む。もしかしたら全てを察した陽太が海に身を投げてしまうかもしれない。

 既に珠姫は大人になりかけていることは身体的特徴からも明らかだ。明日にでもそれは起こるかもしれないのに。

 

(神様……)

 生まれながらにしておよそ身体的な強さの全てを手にしていた考大は、初めて神という存在に祈った。

 神というものがいるのなら、純粋無垢なあの子供たちをどうか守ってほしい――――砂浜で倒れている陽太が目に入った。

 

「陽太!!」

 丘の崖になっている部分から海へと飛び込む。

 回り道をしながら丘を下るよりはずっと早い、と考えている間に陸に上がる。 

 狼狽している珠姫が陽太の身体を揺すっているのを見るに、まだ今日はその日ではないようだがそれはそれで問題だ。

 

「にいちゃん……あんなとこから飛ぶなんて……やっぱにいちゃんすごいよ……」

 

「静かにしてろ……ああくそ、病院行くぞ」

 海に飛び込んだばかりではっきりとは分からないが、額に手を触れる限りでは脳が溶けるほどの熱さだ。

 急にこうなるはずはないから、きっとさっきまでも倒れそうなほどの熱の中で無理をして珠姫の前で笑っていたのだろう。

 陽太のそばに置いておいたコートで小さな身体をくるみ持ち上げると、珠姫が考大の袖を掴んでいた。

 これだ、と思った。無理に引き裂かなくても元々陽太は海辺の逢瀬など無理な身体をしていたのだから。

 

「珠姫、陽太はな」

 

「にいちゃん、にいちゃんやめて」

 

「病気なんだ。分かるか。行かなきゃいけない。ここは……陽太には寒すぎたんだ……」

 

「…………」

 水晶のように輝くとがった爪の生えた珠姫の手が考大の袖を離すのと対照的に、陽太が肉を引きちぎらんほどに力いっぱい考大の腕を掴んでいた。

 うなだれる珠姫の顔からこぼれた雫は海水だと思い込むことで考大は自分を納得させるしかなかった。

 

 

 

************************************

 

 

 陽太が高熱を出して倒れてしまうことは今までも何回かあった。

 だからこそ珠姫に出会うまで自分は陽太が一人で出歩くことに過剰なまでに目くじら立てていた。

 得てしてこういう事態は油断したときに起こるものなのだ。

 

「陽太、食べられるか?」

 

「…………」

 38度以上の熱がもう一週間も続いて陽太はもう言葉を口にする元気もない。

 医者の所に行っても今まで通り根本的な解決方法は出てこなかった。

 暖かい家でなるべく安静にして、食べられるときに食べるくらいしかできない。

 酷いときはこの状態が一カ月続くこともあった。

 

「こうちゃん、眠くないの? 私見ているから少し寝てもいいよ」

 

「俺は寝なくても平気だ」

 嘘はやめて、と詩子に頬を軽めに叩かれた。

 人にしたことは善いことも悪いことも巡り巡って返ってくる。最近は朝から毎日学校に来ていたのに一転して全く来なくなったことを不思議に思ったのか詩子が来てくれたのだ。

 仕事で帰ってこれない父の代わりに一昨日からほとんど泊まり込みで陽太の面倒を見てくれている。

 

「陽太、ほしいものあるか。買いに行ってくる」

 既に日は落ちているし、何やら雨がしとしとと降ってはいるがバスに乗って街に行けばまだスーパーくらいならやっているだろう。

 温かいものばかり作ってはほとんど食べてくれないが、もしかしたらアイスや甘いものなら食べてくれるかもしれない。

 

「珠姫に会いたい……」

 蚊の鳴くような声で陽太が呟き考大は息を呑んだ。

 そのすぐ隣で詩子が鳥肌を立てながら瞳孔を小さくする。

 詩子に有無を言わさぬ力で廊下へと引っ張り出されることにどうして抵抗など出来ようか。

 

「なんで……」

 

「……たった一人の友達だから」

 陽太の世界はこの狭い家の中だけ。珠姫の存在が、広大な海と虚弱な陽太を繋げていた。

 言葉を交わせないながらも珠姫から聞いた美しい海の世界の話が、珠姫に教えた人間たちの夢物語がもはや陽太の生きる希望なのだ。

 

「ようちゃんがああなったのって、その珠姫って子に会うために無理したからなんじゃないの……?」

 友達が出来たから精神的に安定したなんて言ったって、寒くなっていく海岸に不治の病を持ちながらずっといればこうなるのは当然だ。普通の人間だって風邪くらいひくだろう。

 

「珠姫には……陽太が病気だって伝えた」

 そういうことじゃない、あなたは何も分かっていないと詩子が泣きそうな顔で首を振る。

 

「もう……もう……ようちゃんは、人魚に魅入られた。病気が治っても、大人になれても……」

 

「魅入られたって……そんな、妖怪みたいに言うな……子供だぞ、珠姫も陽太も」

 

「子供だから! 簡単に本気だって思うからだめなの!」

 人魚はあまりにも美しすぎる。傍目から見ていても時々この生き物を連れて誰の手も届かない場所に閉じ込めておけたならと思うことがあった。

 そういった俗物的な欲求の薄い自分ですらも思ったし、確信に程近く『あれ以上美しい生物にはこの先出会えない』と思っている。

 そんな生き物に、魔性と呼べる美しさを持った存在に『全て』なのだと思われることはこの世のどんな宝石も陳腐になるほどの価値がある。

 だから人魚に魅入られた男は海に身を投げると、この村の生まれである詩子は知っているのだ。その恐ろしさを。己の人生のその先にそれ以上がないと思えてしまうことの破滅を。

 仮にこの先珠姫と陽太が会うことはないとしても、全ては思い出の中にしかないという絶望はたとえ身体が全快したとしても陽太の心を蝕み壊すだろう。

 

「……誰か来た」

 雨音に混じり扉が乱暴に叩かれる音が聞こえた。

 この雑さ加減から推測するに、新聞屋などの商売関係の人ではなく近所の酔っぱらいか何かだとは思うが出ないわけにはいかない。

 

「ようちゃんのそばにいる……」

 ほとんどこぼれかけていた涙を袖でごしごしと拭った詩子が他人の家とは思えないほどに足音を立てながら陽太の寝ている居間に戻っていった。

 詩子は0から100までいい子だと思う。だからこそどうすればいいか分からないし、自分でもどうしたいか分からなくなってきた。

 答えの出ない問答を頭の中で繰り返しながら玄関の扉を開くと――――

 

「珠姫……!」

 

「…………」

 光の雨に打たれながらすがすがしいほど無垢な顔でこちらを見上げる珠姫がいた。

 慌てながらも不自然さがないように扉を閉める。

 なぜ、どうして、どうやって。家の場所なんか知らないはずだ。海岸から近いとはいえ口で言って一回で理解できるほど簡単な道のりではない。

 

「は……這いずって来たのか……?」

 たった一本しかない街灯の光を七色の鱗が乱反射し、しだれるような雨をこんぺいとうのように輝かせている。

 地面に削られて剥がれた鱗が、遠くにぼんやりと見える黒い海まで続く光の道を作っていた。

 近いと言っても直線距離の話。それを迷いながらも這いずってくるなんてまともじゃない。

 もうこの子は、珠姫はそれほどまでに――――

 

「…………」

 

「なんだ……?」

 人間ではないが、人間と同じだけ感情のある珠姫の表情は痛みによるものか、悲しみによるものか。

 何かを決めた顔で考大にそれを差し出した。

 

「これは……。これは……!!」

 考大が濡れた地面に膝をつくと珠姫が小さな手の中に握っていた深い青色の宝石を手渡してきた。

 実物を見たことはないがサファイアかなにかだと一瞬思ってしまったが、言ってしまえばただの石ころが何の加工もなしにこんな完全な球形になるはずがない。

 市販の飴玉よりも小さく、食事の中に入っていたら気付かずに飲み込んでしまいそうな大きさなのに鉄のように重い。

 常に手の中で音を立てていることに気が付き、耳元で振るとからんからんとそれだけで疲れを癒すような音色を立てた。

 

「海の鈴……! お前、これは一体誰の――――」

 

「…………」

 珠姫が泣いている。土砂降りになってしまった雨の中で、上を向いても誤魔化しきれないほどの大粒の涙が遠い異国にある海の色をした瞳から溢れてくる。

 見つかれば二度と生きて帰れない敵だらけの場所を這い進み、身を切るような葛藤をして形見である海の鈴を差し出したのだ。全ては陽太を想うがゆえに。

 

「……待ってろ。陽太に飲ませてくる」

 いつまでも珠姫をここにいさせる訳にもいかないが、せめて陽太がどうなったかを聞かなければ帰りはしないだろう。

 雨に濡れた体を拭くこともせずに部屋に戻る。

 

「陽太、目ぇ見えてるか」

 

「…………にいちゃん?」

 既に一週間も寝たきりで意識も視界も虚ろになっている。

 意識が完全に失った状態で飲ませるわけにはいかなかったがこれなら大丈夫そうだ。

 

「こうちゃん……? それって――――」

 

「薬もらってきた。飲めるか?」

 上体を少しだけ起こし、恐らくは数億という価値のある海の鈴をやや強引に陽太の口に押し込む。

 コップに注いでいた白湯を口に流し込むと驚くほどあっさりと陽太は飲み込んだ。

 

「う……おぉ……!」

 七つの海をどれだけ探してももう二度と見つかることのない海の至宝。

 その効能たるや凄まじく、病気により膨れ上がり真っ赤になっていた陽太の頬から見る見るうちに熱が引いていき健康的な赤みへと戻っていく。

 一週間うなされていた疲れが健康に戻った体にのしかかったのか、2分もしないうちに陽太は考大の腕の中で眠ってしまった。

 

「陽太……良かったな」

 乾いたタオルで陽太の額を拭い、布団をそっとかけて立ち上がる。

 珠姫を海に送ってあげなければ。

 

「こうちゃん、来ているんだね」

 

「ああ」

 

「私も――――」

 

「陽太のそばにいてやってくれ、頼む。もう珠姫はぎりぎりなんだ」

 上辺だけで知っている人魚の話よりも、今実際に目の前で見てしまった献身は詩子をその場に留まらせるには十分だった。

 外に出ると果たして珠姫はその場から少しも動かずに祈るようにして待っていた。

 

「珠姫……ありがとう。今は寝ちゃったけど、きっとすぐに元気になると思う」

 

「…………!」

 この笑顔を世界中の人が知ることが出来たのなら!

 きっと戦争も飢餓もなくなって、誰もが幸せな夢の中で生きていくことが出来るだろうに!

 金も名誉もなければ仲間も親もいない。ただただ愛だけが生きる目的の彼女の笑顔を――――壊さなくてはならない。

 純粋すぎるが故に致命的なまでに有毒な愛。親の形見を握りしめて這ってでも陽太のもとに来たその姿を見てしまったがために、考大はこの人魚を追い払うことを心に決めた。

 生まれて初めて悲しみの涙を流した。

 

「珠姫。二度と陽太に会わないでくれ」

 

「……? ……?」

 言葉は通じている。自分が誰で陽太の何で、どんな人物かも分かっている。

 だからこそ考大の言っていることが理解できていない顔だ。

 

「痛いだろう、そうしているだけでも。俺は痛くない。怖いか? 勇気を出して来たんだろうが、俺も陽太もこの世界に住んでいる」

 どうせびしょ濡れの服なのだからと構わずその場に座ると砂利がやや服越しに尻に刺さるがそれがなんだというのだ。

 だが、珠姫は身体を傷つけなければその場から動くことすらもできない。

 

「……陽太を海に誘おうとしなかったのは……分かっているからだろ。俺たちも海では生きていけない。お前たちにひょっとしたら明日はあるかもしれないが、未来はない」

 

「…………」

 なんて賢い生き物なのだろう。ここで化け物の本性を表してその牙と爪で襲い掛かってくるのならせめて無慈悲に殺してやれるというのに。

 まだ子供であろう珠姫はそれでも世界の理を突き付けられてうなだれた。

 鰐は獲物を川に引きずり込むし、鳥は飛んで逃げる。生きる世界が違うと本能で理解しているから。

 話せないなりに抵抗の一つも見せないのは本当は最初から分かっていたからなのかもしれない。

 所詮種族の違う珠姫と陽太の交流などあってはいけなかったのだ。

 それでもボトルメールを海に流したのは、世界最後の人魚が愛に生き愛に死ぬことを種族の本能で決めたからなのかもしれないと考えると、自分事ではないのに悲しくてどうにかなってしまいそうだった。

 

「だから、もう。誰にも見つからないようにどこか……俺でも知らないような遠い海に行くんだ。……待っていろ。送ってやるから」

 からんからん、と。すすり泣く珠姫の喉からかすかに音が漏れている。海の鈴が珠姫の喉に出来上がりつつある、大人になろうとしている。

 こうするしかなかった。陽太は自分を一生恨むだろうし、古今東西どこの物語を見ても愛し合う二人の仲を引き裂こうとする悪役はそうなって当然の悲劇的な最期を迎える。

 それでいい。自分みたいな生まれ持った力しか取り柄のない乱暴者にはそれがお似合いだ――――と半ばやけくその力で家の裏手にあった錆びた荷車を引っ張ってくる。

 

「珠姫……」

 ガラクタに埋もれた荷車を引っ張ってくるまで1分もかからなかったと思うが、その間に珠姫は消えていた。

 まだ剥がれ落ちたばかりの鱗を、まるで辿ってほしいという思いが透けて見えるように残しながら。

 腹いせにボロの荷車を叩き壊し、鱗の道を念入りに踏みつぶし消していく。

 鬼子、人修羅、物語に登場する悪役そのものだ。 

 自分はきっと幸せになんかなれない。

 

 

 

【永遠の呪い】

 

 

 陽太の症状は劇的なまでに改善され医者からも奇跡だと言われた。

 どんな薬も大して効果がなかったことを考えれば医者の驚きもよく分かる。

 海の鈴を陽太に飲ませたことは自分と詩子だけの永遠の秘密だ。陽太はなぜ自分が回復したのかも分からずに凍りそうな海岸で今日も珠姫を探している。

 

(雪が降る……)

 掃除の時間を完全にサボって人のいない旧校舎の窓にもたれかかると今にも壊れそうな音を立てながら軋んだ。

 落下しているかのような曇天と千切れそうなほどの寒風は東北の厳しい冬の訪れを嫌でも実感させる。

 陽太は元気だ。毎日泣きそうな顔で晩飯を食べ、また次の日は珠姫を探しに行く。こんなことをしていたらまた体調を崩してしまうだろう。

 海の鈴によって回復したとはいえ根本の病気が治ったわけではないのだから。

 だがそれでも、海の鈴がずっとあれば陽太は苦しみや思い通りに動かない体の煩わしさから解放されるのだと考えると――――考大は陽太の為に鬼になることを心に決めた。

 

「掃除サボるの珍しいね」

 

「……。探しに来たのか」

 取り壊しが決まり基本的にいない旧校舎に偶然来たなんてことはないだろう。

 詩子は隠そうともせずに頷いた。

 

「一人になりたかった? ごめんね。でもずっと怖い顔をしていたから心配で」

 

「陽太は元気だよ」

 

「そうじゃないよね」

 ただ弟が元気なだけならそんな顔をしないだろう、と指摘される。

 考大をどかして窓を閉めた詩子を見るに、ちゃんと話すまでは一人にしてくれないだろう。

 

「珠姫はもう来ない。二度と来るなって言ったから」

 

「…………人間って残酷だね」

 詩子は珠姫を直接見たわけではないが、それは伝承で聞いた人魚の話も同じこと。

 実際に病気の陽太の為に身体を引きずりながら親の形見を持ってきたことを知っている詩子は複雑そうな顔をしていた。

 様々な思惑が交差する人間なんかと違い、種族違えど純粋な子供の想いを遮断したという事実は善人である詩子の心に食い込み続けているようだ。

 

「残酷でいい。俺は陽太に生きてもらいたいから」

 遅かれ早かれ人魚は人間の手により絶滅する運命だったのだ――――珠姫を殺すことを決めた考大はそう思い込むことにした。

 あの人魚を捕まえて喉を切り裂き海の鈴を奪う。時間はかかるだろうがそれを量産できるようになれば陽太はこの先も生きていける。

 それだけじゃない。世界中の病気に苦しむ人々に光をもたらすことが出来るのだ。

 人間の支配するこの世界と滅ぶしかない種族。天秤にかけるまでもなかった。

 

「こうちゃん……頭がいいから、喧嘩が強いからじゃないよ」

 

「………」

 

「優しいから好き」

 返事はしなかった。

 心に決めたことが折れてしまわないように。

 詩子の好きな弟に優しい兄であるために、あの人魚を殺す。

 

 

 

***************************************

 

 陽太ほどに感受性の豊かな子供が感づかないはずがなかったのだと、そう思う。

 急に症状が軽くなり急に珠姫はいなくなり、兄はずっと塞ぎ込んでいる。

 食事にほとんど手も付けずに箸を置いた陽太はとうとうその疑問を口にした。

 

「兄ちゃんが何かした?」

 

「飯食え」

 

「兄ちゃんが珠姫に何かしたんだ」

 

「引っ叩かれてえか。飯食え」

 普段はくりくりとしていたガラス玉のような目が燃えるような意志を湛えている。

 こうなっては絶対に言うことを聞かないのが常だった。

 

「どうし――――」

 

「人魚は危険な生き物だ。まだ子供だからそうは見えなかったけどな……テレビでも見ただろ。人間と一緒に育てた獣でも大人になれば人間を襲うようになっちまうんだ」

 あえて人魚の生態や繁殖方法に触れずとも理由としては十分なはずだ。

 人魚はその辺の犬ころとは違うのだし、野良犬ですら一歩間違えば人を殺すということは陽太だって分かっているだろう。

 

「……兄ちゃん、東京に戻りたいんだよね。大学に行きたいんだよね」

 

「…………!」

 

「僕がいるからできないんだよね」

 

「次喋ったらぶん殴るぞ」

 陽太は既に理解しているのだ。兄が極めて優秀な才を持って生まれた人間で、それを真っ当に活かして生きてみたいという願望を抱えていること。

 己の病気が重荷となり家族の足を引っ張り続けていることを。

 子供は自分のことだけを考えていればいいのに。

 ただ、『子供は自分のことだけを考えていればいい』という言葉が、それでもまだ子供の自分にも当てはまるなんてことは考えないようにしていた。

 

「珠姫のためなら死んでも構わない」

 周囲の人間の思いを全て無に帰す言葉を陽太が口にした瞬間、考大は食卓を夕飯ごと蹴り飛ばして陽太の胸ぐらを掴んでいた。

 

「死ぬって分かってんのか!? 好きだろうがなんだろうがその気持ちも消えてなくなるんだよ!! 好きでどうしたいんだ? え? 好きってだけでなんでも出来ると思ってんのか!? ガキが!!」

 種族が違う、住む場所が違う、世界が違う。

 同じ食事をすることも話すこともセックスもできない。

 どれだけ心通じていても必ず残酷な別れが待ち受けているというのに。

 

「知らないよ! ただ、ただ好きなんだ! どうしたいとか考えていない!!」

 

(痛ッ!!)

 考大の剛腕で締め上げられれば大の大人でも小便を漏らすというのに、少し前までの陽太なら考えられないほどの力で考大の腕を掴んでくる。

 海の鈴の効果なのか、あるいは珠姫を想うがためか。

 それとも。人魚の生み出した海の秘宝が最後の人魚の為に人知を超えた力を出しているとでもいうのか。

 

「好きで、好きで、好きで……ひと目でいいから見たいと思って……それが叶えばいつまでも一緒にいたくなるのに……兄ちゃんは迎えに来る」

 

「お前っ」

 

「僕は死ぬ。誰でもいつか死ぬなら……僕は珠姫と死にたい」

 

「陽太……」

 世界で最後の一人であることは分かっていたはず。

 だとするならば、最初から陽太は人魚の生態やら住処やらと小難しいことなど関係なく、覚悟の上だったのか。

 添い遂げることを最初から心に決めていたというのだろうか。

 

「兄ちゃん……。珠姫に……あいたい……」

 

「…………」

 子供は命の価値を分かっていないと大人は誰もが訳知り顔で言う。

 命の価値とはなんなのだろう。大事に取っておいた命を社会のために使い尽くして死ぬのが正しい命の使い方なのだろうか。

 つい数十年前は着陸装置もない飛行機に乗せて特攻させた大人がそう言っているのだとしたら、それを正しいと盲信することほど馬鹿らしいことはない。

 命の価値は、本当は大人になるに連れて忘れていくのではないのだろうか。

 地位も名誉もない、子供だけが持っている掛け値なしの愛。考大には、その世界一尊い物を否定することなど出来なかった。

 

「……夜の海を見たことないだろう。連れて行ってやる」

 もう確信していた。陽太がこうなってしまっているなら珠姫もこの近くにいる。

 それしか縋るもののない子供が、それが全ての子供が、大人に何を言われても捨てられるはずがない。

 このまま行けば明日にでも陽太は誰にも言わずに海に行ってしまうだろう。

 

 愛の否定などしない。悪役は自分だけでいい。

 

 陽太がいれば珠姫は来る。

 たとえ目の前で珠姫を殺し陽太に死ぬまで恨まれることになったとしても、愛しい存在の消滅の悲しみを自分への恨みに変えて生き続けてくれるならそれでいい。

 

***************************************

 

 

 大半の人間の海のイメージは何故か太陽とともにあり青い。

 本当はそのほとんどが光が届かないほどに暗く冷たいというのに。 

 母なる海、生命の海、とよく分からず歌う歌手は本当に海を知っているのだろうか。

 そこが決して人間の生きていけない世界だということを。

 

「怖いか。何も分からないくらい寒いだろう。死ぬってどういうことか分かってきたか?」

 結晶の形すらも見える大粒の雪の中、灯台の光は朧で、月の光すらもなく陽太の表情は見えない。これほど海岸から遠い場所に来るのは初めてだ。

 重くのしかかるような雪がボートをゆるやかに壊そうとしている。波から顔に跳ねる海水は氷のように冷たく、もしもボートが転覆などしてしまえば下手すれば陽太は心臓麻痺を起こしてしまうかもしれない。

 それほど濃厚な死の気配がするのにこの船の下にはあんな寂びた村など比べ物にならないほどに生命が溢れている。生きる世界が違うとはそういうことなのだ。

 

「…………」

 何も答えない陽太はボートから黒い海に手を伸ばし、少し触れただけで大げさに引っ込めた。

 海面に顔も映らないほどに暗い夜、砕けてしまいそうな寒さだけがただそこにある。

 今にも心が折れてしまいそうなことが分かるような溜息の音を聞きながら、考大は懐に入れておいた刃物に触れた。

 

「暗いだろう、何も見えないだろう」

 ボートを更に進めていくと灯台の光はもうほとんど見えなくなってしまった。視力2.0の自分でそうなのだから陽太は最早方角すら分かっていないはずだ。

 

「この中にいるのは感情もない魚だけなんだ。俺たちはどうしたってこの中に飛び込めない。こんな世界に住んでいるやつとどうやったって友達にも恋人にもなれない」

 一定のリズムの波の音しか聞こえない。こちらを向いた陽太の顔は輪郭しか見えず、真っ暗な表情は普段感情豊かな陽太を知る分恐怖すら感じる。

 珠姫が来るなら来るでいいし、来ないならそれでいい。陽太に海の怖さと現実を教えられればそれでいい――――と思った瞬間。

 

(…………!)

 からんからんと微かな音が聞こえた。まるで何かに反響しているかのように方角が分からない。

 周囲に音を反射する物体などないのに。

 

「うおっ!」

 ボートが大きく揺れ、闇の中でどこかへと急速に進んでいく感覚がする。

 海鈴村を取り巻く荒れた海流の一つに乗ってしまったのだ。

 

(まずい!!)

 気が付けばもう灯台の光が見えない。何も分からない。

 あちらから来たはずと思っていても海流に乗ってしまった以上その方角が正しいとも限らない。

 海の鈴の響きが近づいてくる。

 

「珠姫――――!」

 

「やめろ……やめろ陽太……」

 当事者でない自分ですら分かる、胸を切り裂く慟哭のようなこの音色。

 野生の勘、第六感。どちらでもよいが考大の中のその類のものが最大音量の警鐘を鳴らしている。

 今すぐに逃げろと。これは自分一人で捕まえられるような代物では絶対にない。

 珠姫は檻の中の獣でもペットでもなく、野生の動物なのだ。

 広い草原にいる獅子のように、暗い森にいる熊のように。自分たちはその狩場のど真ん中にいる。

 

「ここにいるよ――――!」

 

「やめろ!! わからないのか!!」

 既存のどの生物とも違う鳴き声なのに、犬や猫の鳴き声で感情が伝わってくるように珠姫の悲しみが伝わってくる。

 より音の伝わりやすい海水を通してボートを囲むように響いてくる。

 この鳴き声は、二度と会えない男に捧げる哀歌そのものではないか。死に絶えた同族を悼む挽歌と混ざり合い、感情がくしゃくしゃにされる。

 もうはっきりと分かる。珠姫はすぐそばにいる。この完成されてしまった音色は珠姫が大人になってしまったことをこれ以上ないほどにわかりやすく伝えてくる。

 どこにも行かないように、あるいは暗闇の中という心細さから陽太の手を掴むが突き飛ばされてしまった。

 

「あいにきたよ――――!」

 からんからーん、と鈴の音が。呼応するように震えた瞬間だった。

 

「……!?」

 雪の降る冬の荒れた夜の海にいたはずなのに。

 なんなら今吐いた白い息が目の前にあるのに。

 そう、それすらも見えることが問題だった。

 

 わぁっ、と陽太が大好きな物語に入り込んだかのような声をあげる。

 生まれたばかりのような太陽が頭上にあり、鮮やかな緑色の海底まで見えるような真夏の凪いだ海が視界一面に広がっている。

 どこからか黄金の鐘のような音色が響き、海の中には白い鯨をお供にして人魚の群れが泳いでいる。一片の疑う隙も無く、ここは天国だった。

 

「うぅ……!」

 この海で一番賢い生き物の神秘の歌が、鼓膜を貫通し三半規管を揺らし、脳を支配する。

 冷たさすらも感じないのか、海に手首まで突っ込んでいた陽太の腕を前後不覚のまま力の限り引っ張る。

 

 ずっと不思議だった。

 どれだけ彼女たちが美しかろうと、どれだけ彼らが恋い焦がれていようと。

 人間は海の中ではただ死にゆくのみという圧倒的な現実があるのに、何故彼らは海に飛び込むのか。

 海の鈴の響きが、人魚の歌が全ての苦しみを夢に変えてくれる幻を見せるのだ。

 例え息が止まり命果てたとしても、愛した彼女と本当の天国に行けるのならばと――――男たちは海に身を投げたのだろう。

 

「消え、るんだ!!」

 現実の証であった刃物を取り出し己の太ももに突き刺す。

 痛みに視界が真っ赤になったのも一瞬、ボートの真下から響く歌が視床下部を撫でて痛みすらも消し飛ばし辺り一面を七色の花畑に変えてしまった。

 

「うぉおおおあああああ!!」

 先のことも、更にその先のことも考えず陽太の手を力いっぱい握りしめたまま、自分の顔を思いきり切りつける。

 

「あっ……?」

 刃傷の痛みは確かな熱をもち、現実に戻ってこれた。

 先ほどまでと違うのは、海に手を伸ばす陽太の姿が見えること。

 分厚い雲の切れ間からまん丸い月が顔を覗かせ、ボートの周辺を優しく照らしていた。

 幻想を鵜呑みにした陽太が手を伸ばす青い天鵞絨の海面には今にも何かが飛び出す寸前のようなあぶくが浮かんでおり――――水面に巨大な魚影が見えた。

 

「行くな!!」

 小学生とは思えない力で陽太が海へ飛び込もうとする一方で、強烈な幻覚が考大の脳を揺さぶる。

 そこに見えたのはいつだかに父が土産で買ってきて、ついに食べることの出来なかったシュークリームだった。

 

 甘いお菓子も

 将来の夢も希望も

 全てが自分のものになる

 もう我慢しなくていいんだ

 

『優しいから好き』

 詩子の声が聞こえ、ほんの少しの気の緩み。

 考大の手から抜けた陽太は珠姫を抱きしめていた。

 全てが報われたかのような珠姫の儚い笑顔ばかりが――――悲しい種族だと。

 

「返せ――――!!」

 音を立てることもなく海へと抱かれ落ちた陽太を追い海に飛び込んだ。

 はずなのに。

 

「……!?」

 陽太を抱きしめた珠姫が満開の花が咲き乱れる地面を離れて空へ浮かんでいく。

 手を伸ばしがむしゃらに空を蹴るが翼のない人間が飛べるはずもなく、花々が咲き乱れる大地へと落下していく。

 風に吹かれて舞う花びらが視界を遮り、何かが考大の身体を掴んで離さない。

 

「消えろ、亡霊ども……!」

 数えることもかなわないほどの人魚の群れがどこからともなく現れ、二人の仲を引き裂こうとする考大の腕に、脚に、身体に絡みつき地へ引きずり降ろそうとしていた。

 全て幻覚だ。人魚は滅びた。花びらではなく泡だ。地面ではなく海面だ。人魚の群れではなくただの浮力だ。陽太が行ってしまおうとしている場所は海の底だ。

 だが――――だが身体から力が抜けるのは幻覚ではない。

 苦しみはほとんどないが海の中で呼吸をしてしまったせいで溺れかけているのだ。

 

「戻ってきてくれ…………」

 もはやどうあがいても届かない場所まで昇ってしまった二人に手を伸ばす。

 世界で最後の人魚姫は愛する人を抱き、天女のように空中を舞う。より長く妖しく伸びた金色の髪は黄金の上衣となり空中を漂いながら二人を包む。空へと落ちていく二人の周囲を魂だけとなった人魚が祝福するかのように泳いでいる。

 二人だけの世界を守ろうとする幻想が溺れる考大を取り囲み邪魔者に死の夢を見せつけてくる。

 

(……死…………)

 蟷螂の死骸に群がる蟻、飢えに斃れる狼、鯨の亡骸を住処にする海蛇――――見たこともないものが霞行く視界に映る。

 白波が朱鷺となり水流の流れに乗って飛び、どこからともなくやってきた人食い鮫が感情のない目でこちらを品定めしてくる。

 行きつく先は兄弟どちらも死だというのに受け入れられていないという、ただそれだけで天国と地獄の差。

 海の中で紺碧に光る珠姫の鱗と対照的に、深紅の鱗を持つ髑髏の人魚が呼吸が出来ずに藻掻く考大の顔を掴んでいた。

 心臓が止まる。自分ですらそうなっているなら陽太はもう――――絵画のように美しい世界の中心にいる陽太が最後にこちらを見て、確かに笑っていた。

 

「――――」

 ありがとう。

 その声が本物か幻かすらも、考大には分からなかった。

 

「がはっ!! ああっ!?」

 夢の終わり。心臓まで凍らせるような海水が口や鼻から入り込んでくる中でなんとか転覆したボートにしがみ付く。

 太ももや頬に感じる焼けるような痛みも、胃液と一緒に口から出てくる海水も、全てが現実への帰還を示しており、雪は止み空に浮かぶ満月が眠るように落ち着いた海を照らしている。

 空へ――――海の底へと伸ばしたはずの右手が何かを掴んでいた。

 

「ああ……あぁ……うぁあああああ゙ああぁああ……」

 陽太が珠姫にあげた高価な木製の櫛。

 たったそれだけしか取り戻せなかった。

 どれだけ泣いても叫んでも、すべてが海の底。

 新しい生命をもたらす海流が、転覆した船にしがみ付き一人泣く考大を優しく砂浜へと導いていく。

 

 真っ白な月の下で全てを投げ捨てて泣いて眠った考大が目を覚ました時には陸にいた。

 

 

 

*************************************************************

 

 

 死んだのは陽太だけではなかった。

 浜辺に打ち上げられた考大の耳に響き続ける海鈴の音色――――もう人間を辞めろ。

 

「もしもし、警察ですか」

 

「人魚が出ました。弟が、殺された」

 死の海は考大の中にあった一欠片の優しさをも丸ごとさらってしまっていた。

 何もかもを壊す肥大した己だけが残っていた。

 

 

*************************************************************

 

 

 

 偉業。

 生物海洋学の研究を続ける傍ら、門外漢でありながら数十年の時間をかけて海の鈴の成分や分子構造までも解析し、人工量産技術を確立させ、病で立つこともままならない世界中の人々に希望を与えた。

 誰がどこからどう見たって一分の隙もない偉人、1000年先にも名を残すことは間違いないだろう。

 だがその栄光の根底にあったのは、最後の人魚を殺した男の鬼の執念だった。

 

 金も名誉もいらなかった。

 彼の願いはただ、透き通るように純粋なあの風景がいつまでも続くことだったのに。

 

 

 押上元教授は全てを語る代わりに西にあることを依頼してきた。

 きっと自分はその依頼がなくてもそうしたように思う。

 

 ××県○○市

 

 かつて海鈴村があった場所に西はいた。

 30年前に合併されて巨大な市となったこの地は話に聞いていた姿とはかけ離れた姿をしていた。

 

「……リゾート地じゃないか」

 焼けつくような真夏の太陽の下には20階建てのホテルが建ち、土産屋の並ぶ市内を沢山の軽装をした男女が騒ぎながら歩いている。

 乱開発されたこの地は日本でも有数のサーフィンの名所として春先から秋の入り口まで常に若者で溢れている。

 バスに乗り継がなければならなかったのも昔のこと。今は電車が通っており、来ようと思えば東京から3時間ほどで来れてしまう。

 海鈴村は確かに滅んだが新たに生まれ変わったのだ。この地に唯一あった高校も廃校となってしまったが、交通の便は悪くなく学校のある区域まですぐに行けてしまうため環境を見れば総じて子育てに向いた土地だとも言える。

 からんからーん、と響く音に驚いたのも一瞬、その正体を見て西はうつむいた。

 ホテルのすぐそばに教会がある。きっと自分とは縁遠いような若い男女が結婚式を挙げているのだろう。

 

「どこか……これじゃ分からない……」

 もはや田舎町など欠片も残っていないように見えるが、よく見れば古い民家も多少はある。

 頭の色が茶色や金髪の若者たちをかき分けて、『古い店』はないか探す。そこの店主あるいは従業員なら知っているはずだと、海に向かいながら探していると。

 

「あった……。すいませーん!」

 土産屋と旅館に挟まれた雑貨屋に入り、奥に向かって声をかける。

 これで商売が成り立つのだろうかとは思うが、周辺にコンビニがないことを考えると割と売り上げは悪くないのかもしれない。

 そんなことを考えるとやや腰が曲がりつつも元気そうな老婆がサンダルを履きながらこちらに小走りで来た。

 

「はいはい」

 

「これと……これください」

 ペットボトルの水と適当に手に取ったパンを置くと手慣れた様子でレジに通し袋に入れてくれた。

 驚いたことにこの店は電子決済に対応しているが、あえて現金を出す。

 

「あの……ここは最後の人魚が捕まった場所、ですよね。慰霊碑ってどこにありますか?」

 いつも通りのいつもの客、そんなことを聞かれるとは夢にも思ってなかったのか。

 眠たげだった老婆の目が驚いた猫のようにまん丸く開いた。

 

「珠姫の……。そこの道を真っすぐいくと海岸がありますから。左に見える丘の上にありますよ」

 

「どうも」

 受け取ったペットボトルを開けながら店を出る。

 溶けるような真夏の熱波の中で冷たい水は身体の隅々まで染み渡り、僅かな違和感が顔を出した。

 

「珠姫……なぜ?」

 店内を振り返るが既に老婆は奥に引っ込んでいた。

 目を細めながらパンの袋を開けて一口齧る。

 

 

 捕らえられた珠姫の中には小さな命が宿っていたという。

 再び繁殖するかもしれなかった人魚は、警察の要請を受けて総動員された地元の漁師により捕らえられた。

 だが人魚の恐ろしさを知る漁師の仕業か、偶然なのかは誰にも分からないが捕まった時には既に絶命していた。

 あるいは最早これまでと悟った珠姫が己で命を絶ったのかもしれない。

 

 

「あった……」

 丘の上なんて簡単に言ってくれる。

 整備されていない道の草をかき分けながら来る間に様々な虫に刺され鋭い草で肌を切ってしまった。

 その奥に、長い間誰も手入れをしていないであろう慰霊碑があった。

 話に聞いた通り、砂ぼこりにまみれた慰霊碑は誰かが殴ったかのような跡がありそこを中心にヒビが全体にいきわたっている。

 放っておけば明日にでも崩れてしまいそうだ。

 

「…………」

 その隣に話にはなかった石碑がある。苔むしておりちゃんと読めないが何か言葉が彫られている。

 爪でなぞるようにして苔や汚れを取っていくと、時代も詠み人も分からない短歌が浮かんできた。

 

『海鈴や 共に果てなむ あわひ恋 幾年月も 響き渡りかし』

 

 あまり上等とはいえない短歌だが、人魚を想う誰かがこの丘に作ったことは明らかだった。

 

 押上元教授に渡された古い櫛を取り出す。

 思うに押上少年は感情の起伏があまりなかっただけで少年らしい利己的な欲求はちゃんと持っていたのだ。

 それを一瞬表に出してしまったが故に、鬼子として生きざるを得なくなってしまったのだろう。

 

 陽太の遺体は見つかっておらず、人魚たちの眠る墓場もまた同様に見つかっていない。

 沖に向かって思い切り櫛を投げると音もたてずに着水し、木製のはずなのに櫛はそのまま沈んでいった。

 

 ここで何があったのか、ここが何なのかを知る由もない若者たちが騒ぎ、その奥で重機が開発の為に海を埋め立てている。

 いつかきっとここで眠る人魚たちの魂そのものも人の業の下に埋もれてしまうだろう。

 

 耳をすましても聞こえるのは馬鹿騒ぎする人間の声、重機のエンジン音、教会のベル。

 爽やかな風の音が全てを優しく包む。

 

 幾年月も響き渡ることは叶わなかった。

 

 永遠に。

 

 海の鈴はもう鳴らない。

 




揺蕩う魂
第1弾



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