ベッドでうずくまりながら何を言ったのかなんて覚えていない。泊地が壊されたあと、友人が皆いなくなったあとだから、たぶん想像の範囲内の泣き言だ。
自身でも聞き取れなかった声は届いてしまった。頭をなでられて見上げると、左目に包帯を巻いた姉が見えた。
「泣くな。なんとかなるって」
病室のやけに白い背景の中、滲む視界の中でも見て取れるほどはっきりと笑った。深く考えないいつもの姉らしい言葉を、なぜ否定してしまったのだろう。どれだけ戦ってもまた奪われる、失うことしかない世界への呪詛とあきらめ。そんなありふれた悲鳴をわめいてしまった。
「じゃあ――」
たぶん分かっていたのだろうその意味に一瞬、ほんの一瞬だけ、間が空いた気がした。
「オレが世界を救ってやるよ」
「叢雲は…いないか」
日向がいつもは形すらとらない点呼のなかで呟き隣の伊勢へ向く。
「どうする?」
「まあ、ねえ…」
歯切れの悪い返事をしながら思案し出した答えは先延ばしだった。それは優しさなのか、信じているのか。どちらにせよ、それは伊勢たちだからできる判断。自ら立ち直る強さなんて持てなかった身では彼女を信じることなど出来ず、気長に待つ優しさも忍耐強さもなかった。
訓練が終わるまで。その間で何か変わるとも期待していないから、準備もそこそこに槍を持つ。
「早く始めましょ、天龍ちゃん」
西日が閉じたカーテンを照らしだしたのを見て私は一日が終わろうとしていることに気づいた。透けて淡く差し込む光が小さな部屋の温度を上げたせいで気分が悪くなる。私は起こしたからだを再びベッドにあずけた。横を見ると目の前に投げ出された手があった。なんとなく握ろうとしてみても、半端に開いた指は従う意思をみせない。脚から始まった無気力は一日かけてようやく全身に広がった。
…いいか、別に
戦いたくなかった。その願いが叶うんだから。
これでいい。救われないのならせめて幸せな記憶の中にいればいい。暖かい日々があったあの思い出に。
「…なんでよ」
目を閉じてしまえばいいはずなのに、宙を見る視線が熱くにじんでも、どこかを見つめようとしていた。口に出そうとした諦念は軋む歯に止められる。そんなあがきももう幾分も持たないだろうけれど。
あるいは、と目を閉じて内側に心を向ける。戦いの間、ずっと揺れ動く暗い感覚。すべてを壊して消えようとするもう一人の私が確かにそこにいた。受け入れるなら、澱んだ恐怖も諦観も消えるのだろうか――
コン、と硬いものがぶつかる音がした。宙に浮く焦点がドアに合わさる。
「叢雲、いるんでしょう?」
耳に入って少し間があってその声が誰のものか思い出す。その間にノックの音は止みドアノブが回される。だが、記憶になくてもカギはかけてあったようで、がたつく音が耳についただけで、景色が変わることはなかった。ただ、ため息がはっきりと聞こえ、控えめにノブが揺れる気配は感じた。
「入るわよー」
宣言通り、光が差し込んだ。
「あ、あんた…なにしたのよ!?」
跳ね起きて凝視すると龍田が見慣れない工具を持ってるのが見えた。
「大したことじゃないわー」
だから何したんだ。結局なんなのか見る間もなくポケットにしまわれ、龍田はことわることなく横に腰かけた。
「なに…しにきたの」
「生意気な子が柄にもなく塞ぎ込んでるって聞いたもんだから、カビの生える前に見ておこうかと思って」
返す言葉がなく、というよりは言葉を交わしたくなくて俯こうとする私の体が引き戻される。
「なんて冗談言ってる場合でもなさそうね」
胸倉をつかまれて無理やり目を合わせされた私がどんな表情をしているのかは知らない。でも、揺れる視界からして情けない顔だっただろう。
「寝ぼけてないでとっとと目を覚ましなさい」
「あんた…」
硬直からなんとか顔を背けられてようやく声が出た。
「私のこと嫌いじゃなかったの…?」
「嫌いよ」
間髪空けずに返ってくる。
「不幸を人に押し付けているのもこうして不貞腐れているのもあなたのわがまま。そんな子をどうやって好きになれっていうの?…でも」
うつむく私の胸元はまた上げられて、目を合わせられてしまった。
「あなたが必要なのよ」
たぶん理解できないでいたその言葉に私の視線は縫い留められる。
「別にあなたがどうしようがあなたの勝手よ。だから、天龍ちゃんの邪魔はしないで」
「…あんたも本気なの?」
だれも救ってくれないこんな世界で、それでも世界を救いたいなんて。それが馬鹿げてることだって、龍田はきっと分かってる。
「信じるしかないじゃない。だって…」
私を掴んでいた腕の力が抜け、龍田は前を向く。壁を眺める横顔はため息をこぼしながらも小さく笑っていた。
「私は救われたんだから」
それは懺悔だったのかもしれない。
「私が泣いてばかりだったから天龍ちゃんはそう言うしかなかったの。誰にも理解されなくっても刀を振るしかなかったの。…私が弱かったから」
重い十字架を背負わせた罪を告げる。そんなに遠くなくて、でももう届かない昔話。それは確かに懺悔で、でも龍田はやっぱり笑っていた。
「でも、もうそんなこと忘れてるのかもしれないわね、天龍ちゃん」
「そんなわけ…」
「ありえるわよ。天龍ちゃん、勢いがいいのはいいことだけど、よく目的忘れるから。ばかみたいでしょう?」
困ったように微笑む龍田の横顔で理解してしまう。もう天龍の本当の願いはとっくに叶っていて、でもそんなこと気づかないままで、だからこそ龍田は救われたのだと。
「…やっぱり、分かんないわよ」
戦う理由、頑張る理由。私には――
「でも、あなたにもいるでしょう?」
誰が、なんて疑問はなかった。
「なんでそんなこと…」
「分かるわよ。だからあなたはこうして苦しんでいるんでしょう?」
諦めてしまえれば簡単に終わる話なのに、誰にも理解されない願いにしがみつく理由。本当は理解してくれる人がいるから、なのだろうか。
「話してみなさい。どうせあなたのことだから会えてもいないんでしょうから」
「おじいちゃん…」
私の小さなつぶやきを聞き終わる前に龍田は立ち上がった。
「だったら早くしなさい。あなたは私と同じ、だから嫌いなのよ」
開かれたドアの前で立ち止まった。わずかばかりの横顔から、最後の視線が合う。
「これ以上嫌わせないでね」
龍田が出て行ったあと、鍵が開けられたままのドアをゆっくりと開いた。
初めて来た家の呼び鈴を押そうとする手がボタンに触れただけで止まる。ためらうのはもちろん家の間違いを心配してではない。むしろ間違いであることを望んでたかもしれないけど。
「…あ」
ためらいも甲斐なく、力が入った指は勝手に前に進んだ。明るい音が扉越しに聞こえ、人が動く影と扉が引かれる音が上書きした。
「来たか」
もうずっと会ってないような気がしていたのに、変わらない姿に本当の時間を教えられた。下がった姿を追って重い一歩を進む。高い廊下もどこかあの家と似ていて、だからためらいが強くなり、それでも足は勝手に動いた。
「いつ振りだったかな」
畳に座る私の目の前にお茶がおかれ、机の反対に座るおじいちゃんは何でもない話を告げた。でも
「なんで…?」
私は
「なんでなにも言ってくれなかったの?」
涙を抑えるのに精いっぱいだった。おじいちゃんは姿勢を正した、と揺れる水面を見て理解した。
「俺がいると知ればお前は無理してでも戦うことを選んだだろう。お前がどうするか、お前の意思で選んで欲しかった」
おじいちゃんの頭がゆっくりと下がる、気配がした。
「だが、いつも言葉が足らなくて、すまない」
私は私で選んだんだろうか…
違う。私が戦うことを選んだ理由は――
「私は…あの島を取り戻したい。おじいちゃんと一緒にいたい」
それは本当だ。でも
「怖いの…」
眼前の深海棲艦が脳裏によみがえった。刻まれた恐怖が、守れなかった現実が体を蝕む。
ずっと平気だった。どんなに辛くても苦しくても戦っていられた。でもそれは、私に何もなかったから。なにかを手に入れそのなにかを失った私は、もう私ではいられない。
いつの間にか、抑えることを忘れたしずくが手の甲を濡らした。
「戦いたく…ないよ…」
うずくまり、隔てられたからだの代わりに私の細く震える腕をつかむ。だから必要だった。私が勝手に生み出した幻ではなく本当の声が。
「戦えって、言って…」
私が叢雲ではなく艦娘になるための言葉を。
「そうしたら戦えるから…戦うから――」
たった一言。それだけで良かったのに
「すまない」
私の願いは叶わない。
「…うん」
分かってた。だから強がりではなく笑顔を作る。私に家族を与えてくれた、そんなおじいちゃんだから私は一緒にいたい。
戦えとは言わない。取り戻すことなど出来はしないと、私は恐怖が刻まれた本能で、おじいちゃんは積み重ねた理性で理解しているから、艦娘ではない私は戦うことも戦わされることもできない。
でも、戦うなとも言えないおじいちゃんも私と一緒なのかもしれない。諦めたくなくてあがいているから、私はまだ槍を振っている。
「ねえ」
確かめたいことは終わってしまった。おじいちゃんは変わってなくて、私は叢雲のままだった。だから、かつてを思い返しながら愚痴ってみる。
「私、みんなに全然勝てないの。木曾とも引き分けが多くなってるし。やっぱり1年やったぐらいじゃダメなのかしら」
「ふむ…」
おじいちゃんは髭をなぞるいつもの癖で思案する。
「俺が教えられることはもうないんだが…」
「なによ、それ」
「俺は槍に詳しくないからな。だが、お前は十分に強いぞ」
「勝てないって言ってるんだけど」
納得いかないことを断言されても。だけどおじいちゃんは少し間を開けてから私に視線を向ける。
「弱くては勝てないが強いから勝てるとは限らない。だから勝利には価値がある」
「じゃあどうやったら勝てるのよ」
その問いは予想していたとばかりに軽くはぐらかされた。いつも大事なことを教えてくれない。
「もういい」
ふくれっ面で横を向く。何度も繰り返したやり取りがなぜかおかしくて息が小さく噴き出た。おじいちゃんと目が合う。交わす笑顔が懐かしかった。笑いながら下げた視線の端が気になった。いまさら気づくのもなんだが、広い家をある意味有効に使っている。
「相変わらず片付けはできないのね…」
「まあ、それは、な…」
私とおばあちゃんがいくら文句を言っても改善できなかったのだから期待もしていなかったけれど、こればっかりは懐かしいとは言えない。
他愛ない話をしながら散らかったものを片付ける。買ったままで放置されている冷蔵庫の野菜を寄せ集めた料理を作ってみる。時間が流れることすら遅らせそうなほど無為で穏やかな夜は、あの島にいれたとしても同じように過ごしていたのかもしれない。
だからこそ知る。あの島で望んでいた幸福を受け止めるにはこの家は小さすぎるのだと。
名前も忘れられた、何もない島。なぜ望むのか、諦められないのかなんて、私は誰にも伝えられない。この世界でたった2人にしか分からない、孤独な夢。
別れの言葉はなかった。ただわずかに目を合わせて、この狭い家から出て行った。