「釣れてるのか?」
もう埃かぶっていた道具を引っ張り出してくることになっても指は無意識に動いてくれたから、意外と早く糸を垂らすことができた。失われた思い出をなぞる無為な儀式とは分かっているが。
「釣れるわけないでしょ」
後ろから唐突に声をかけられてもそっけなく返せたのは浮きに意識を向ける意味がないと悟っていたから。まあ、そうじゃなくても聞きなれてしまったプロペラ音で気づいていただろうが。
「釣りをたしなむ艦娘は案外いないな。仕事で海の上にいるからだろうか」
「知らないわよ」
仕事でも趣味でも水上機を飛ばす艦娘が唱える説ではないでしょうに。訓練にも参加しないでこんなところで時間をつぶしている私を咎めに来たのかと思いきや、なにも言わずに防波堤に腰を掛けた。
「落ちても助けないから」
堤防の上で折りたたみいすに座る私は一応警告をしておいた。もちろん日向は頷くだけで、左腕を前に伸ばした。ゆっくりと飛んできた水上機が手の甲から肘まで滑走して停まる。地面を滑る設計でもないのに、器用なことだ。
「海は広いな。私たちとて艤装をつけなくてはこうして脚を投げ出すことすら命がけだというのに」
何を言いたいのか、日向は案外分かりやすい。
「あんたはなんでこんなことやってるの」
まさか世界を救えるとは思っていないだろう、と私も言外に伝える。ふむ、と思案するようなしぐさをするが特に間を開けずに答えが返ってくる。
「私と伊勢は剣道をやっていた。といっても、伊勢とは全国大会で戦ったこともあったものの、その程度の認識だったが。艦娘になったときにもう竹刀を握ることもないと思っていたところに伊勢がいた」
「あんたたちの思い出話はいいわよ」
「まあ、そういうな。結局あいつのおかげで剣道を続けることはできたが、なにぶん2人だけだ。どうしても限界がある。そんな行き詰まりの中、君たちが来てくれた」
日向は少しだけ振り返った。片目だけが合う。
「私の願いはもう叶っている。あとは守るだけだ。しいて言うなら、私と同等程度には強くなって欲しいものだが」
「悪かったわね」
反射的に返してしまったが、日向は軽く笑って流した。
「君は十分に強い。ただ――」
「なによ」
「いや、やめておこう。元帥が言わないのであれば私が口出すことではないからな」
驚きが思わせぶりに対する不快を上回った。
「なんで知ってるのよ?」
「分かるさ。君も元帥も分かりやすい」
日向は答えになっていない答えを告げ、水上機を指先から飛ばす。水上機の揺れが安定したのを見て立ち上がった。
「君がどう思っているのかは知らないが、私たちが刀を振るなんて無理を通せているのは君の航行技術のおかげだ」
「そんなこと――」
「分析が進み、艦娘が容易に沈まなくなって1年程度。だが、その間にも死線を超える技術は失われてしまった。君には信じられないかもしれないが、戦場であるという実感はもうない。私自身を含めてな」
天龍たちの戦い方はそれとはまた違うのだろうが、と小さく付け足し、相変わらず浮きを見つめている私とすれ違う。
「生き残る条件など私には分からないが、君は生き残ったから強い。その強さを学ばなくては刀で戦闘など出来はしないさ。私たちは皆、君がこの部隊にいてくれて良かったと思っているよ」
遠ざかっていく気配を聞きながら、当然その足音とは関係なく揺れる浮きを見つめる。でも、日向の言葉を素直に受け取る心境は私にはなかった。
連続的な風を切る音が途切れた。夜の湿った空気を通して、肩越しに振り返った彼女は私を見た。
「なんだ、もう寝てなくていいのか?」
「別に風邪をひいてたわけじゃないわよ」
「気分が乗らないときってのはあるもんだろ」
そんな経験などなさそうな天龍は再び素振りを始めた。鋭い音とともに散った汗が月明かりを反射する。今日だって訓練があったはずなのに、単調な動作を上気するほど繰り返す。ただそれだけなのに、それだけで伝わる。
「あんた、本気なのね」
「なんだよ、急に」
現実を知らないわけじゃない。でも、虚勢でもない。それでも世界を救いたいと願い、信じている。その方法がこうしてただ剣を振ることしか思いつかなかったとしても、叶えられると。
「それだけは謝るわ」
たった一言告げるだけなのに前置きが必要で、深呼吸が必要だった。
「ごめん」
「なんだ、そんなことか」
私の心臓の鼓動など聞こえるはずもなく、天龍は振り返るどころか手を止めることもせずにあっさりと返す。
「お前に否定されたとき、少し嬉しかったんだぜ」
「…なによ、それ?」
「誰も相手にしてくれなかったからな。笑われてたときはムカついてたもんだが、いつの間にか何も言われなくなっちまった」
剣を担いだ天龍は憤慨を表したかったのか鼻で大きく息を吐く。
「お前はちゃんと見てくれたからな。あとはお前が文句言えねえくらい強くなるだけだ」
「そんなんじゃ…ないわよ」
私だって笑いたかった。ただ笑えなかっただけ。私が信じきれない願いを口にする天龍を。
振り下ろされる剣を眺める。誰にも理解されず、あるいは馬鹿にされても振り続けた剣筋は私が持つ槍よりもずっとはっきり見えた。ずっと龍田と2人で鍛錬を続け、いまは必要とされ6人になった。
…それでいいじゃない。
でも、駄目なのだろう。諦められないだけの私と、諦めないで剣を振る天龍。あまりにも違うから
「お前はなにやりたいんだ?」
「言っても分からないわよ」
誰もが同じようにできると疑うことを知らないその問いを拒否する。
「…あんたに理解できるとは思えない」
「そうか」
天龍は肩をすくめた。
「ま、全部龍田のおかげってのもしゃくだしな」
「…なんで知ってるのよ?」
「なんでってか、分かるだろ」
まただ。どいつもこいつも簡単に口にする。私はなんにも分からないのに。
「あいつの言うこと真に受けるんじゃねえぞ。オレが勝手にやってるだけだ。…まあ、お前らにも迷惑かけてるかもしれねえけど」
少しばつの悪そうにはするが、変わるつもりはないのだろう。
「龍田と約束したんだ。やってやるしかないだろ」
あっさりと吐く決意に、私はようやく思い出す。
私も誓ったことを。暖かさと優しさに包まれながら、この海を取り戻すことを。
誓った、はずなのに…
――彼女が諦めたときに私も諦められるのだろうか?
なんて惨めなんだろう。しがみついている望みを手放すことすら、誰かにすがっている。
そんな日が来るのは、ずっと先だったらいいのに――
半端な私は半端な願いを、それでも切実に願った。