ギリ…
と、奥歯が軋む音が聞こえた。あるいはため息だったのかもしれない。自分とは遠いところから届いた音は、足を止めるには十分だった。
…これでいいの?
足が止まっても振り返りはしなかった。そんな勇気なんてなかった。
撤退すると聞いてどこかほっとした。戦うことになる深海棲艦を思うだけで足がすくむ。
なにがちがうんだろう…
改二なんてできないから、艦娘としての経験が足りないから――
違う
ずっと一緒にいて知っていた。吹雪も叢雲も、特別なものなんてないただの女の子だ。
ずっと一緒にいて教えてくれた。艦娘としての戦い方を、生き残る方法を。
…なのに、こんなにも違う。
怖がってばかりでなにもできない。
「夕立、行こう」
抱えるように大きく腕を引かれた。その力に任せて一歩を踏み出す。仕方がない。だって、怖いのは当たり前だって――
――2人とも、怖くないなんて言わなかった。ずっと戦ってきた2人は戦う怖さを一番知っているのだから。でも今、彼女達は深海棲艦の前に立っている。何も変わらないはずの友達が。
何も変わらない。だから、戦えないのはただ夕立の気持ちが弱かった、それだけ――
振り返った。近くにいるはずなのに、ずっと遠く見える2人の背中。だけど、やっと見れた。
ただそれだけ――
気持ちだけなら、
心だけなら――
「お久しぶりですね」
会うたびに同じ挨拶で始まることに気づいたのか、亜庭は口角を上げる。船の上で再会してから、その言葉を聞く感覚も短くなってきている。
「どうしました?わざわざこんなところにまで来ていただくなんて」
お忙しいでしょう?と、インスタントのコーヒーを亜庭自ら机に置く。
「いざ作戦が始まってしまえば元帥など案外やることがないものでな」
老人の暇つぶしに付き合ってもらって悪いが、とうそぶきながらコーヒーを口に運ぶ。来客なんてめったにないものでこんなものしかないですが、と亜庭はいうが、コーヒーの味に詳しくないので気に止まらない。
「作戦に参加したのか」
「はい」
このことを言うためだけにわざわざここに来た自分にあきれる。今更気の利いた言葉をかけられるわけでもないだろうに。
「大したことをするわけでもないですけど」
作戦域から遠い鎮守府の果たす役割は小さい。大陸からの輸送の継続と、守りが薄くなる日本近海の防衛がせいぜいだ。だが、亜庭はそれすら参加を拒否してきた。
「なにかあったのか?」
過去を糾弾するつもりもない。心境の変化を問いただすつもりも。ただ心配だった。この変化が彼女にとって良いものなのかが。
「…ちょっと怒られちゃいました」
亜庭は頬に手を当てて小さく笑う。
「私はもう艦娘じゃないんですね」
頬を掻くように手を握る。柔らかく閉じられたこぶしを目の前でゆっくりと開く。
「艦娘だったころの私は沈まないように精一杯でした。死ぬのが怖かった。何をしても生きていたかったんです」
「…それが当然だ」
「提督になっても私はその恐怖をあの子たちに押し付けていたんです。私は私の恐怖を消そうと必死になってた。怖かったのは…怖くて立ち止まっていたのは私だけだった」
開いた手が今度は固く握られるのを見つめる。
「私はもう…提督なんですね」
ただ祈ることが、信じることが、提督なのだろうか。託すといえば聞こえは良いが、苦痛を、責任を押し付ける責務をまだ若い彼女に背負わせたのは、これもまた背負うべき罪なのだ。
「我々はいつも若い世代につけを払わせているな」
嘆息を漏らしただけのつもりだったが、組んだ手は軋んだ。そもそもの発端も――
「大戦の、残留思念…ですか…」
言及したものの、亜庭は否定も肯定もしなかった。ただの与太話と言えばそれまでのことだ。
深海棲艦の根源。それはかつての大戦で沈んでいったモノの残滓、残穢だと思っている。発生海域も行動もそう考えれば合点はいく。ただ海軍は当然ながら否定している。讃えるべき英霊の否定であるからだ。だが、国のために戦った兵士に恐怖や恨みがなかったと断ずるのもまた不誠実なことだろう。
もう昔話になったはずの大戦の罪が今更人類に降りかかった。…あるいは昔話になったから、なのか。その贖罪を放棄した軍は無垢な少女に背負わせた。人ならざるものとなる罰を。
そのあり方は、艦娘と深海棲艦で変わらないのだろう。
「だから、深海棲艦化が起きると?」
亜庭は自分だけコーヒーを入れなおすと雑に口に運んだ。平然と振る舞う彼女は先を促していると解釈して先を続ける。
きっかけは単純。目の前に迫る死という恐怖。深海棲艦とは恐怖を消す力であり、死をもたらすもの。その誘惑に抗えなくなった時、深海棲艦と同一になる。
「ならば改二との差異も単純だ」
艦娘は、叢雲たちは死者とは違う。傷ついても傷つけても、立ち上がって支えあって明日を望む彼女たちなら――
「知っているかどうかだ」
言葉にすることを一瞬でもためらった己を胸中で叱責する。目の前の彼女もまた、新たな道を進むと決めたのだから。
「恐怖とは消すものではなく乗り越えるものだと――」
逃げたかった。沈むかもしれないと思ったときから、自分の中に何かが潜んでいると知ったときから。
逃げてよかった。それで失うものなんてない。今までの日々が続いていくだけ。それで不満なんてないくらい幸せだ。
遠い背中のさらに先を見る。深海棲艦の向こうに何があるのか知らない。そこまでして手に入れたいものなのか分からない。
でも、
みんなが、友達が――叢雲が笑ってくれたなら、もっと幸せだろうな
胸の奥にある暗い光が溶けていく。消えるんじゃなく、ゆっくりと全身に広がって。
戦いたいと、初めて願った気がする。もう一人の自分の、苛烈な破壊衝動の熱がめぐるのを受け入れる。
そう。邪魔されないために、願いを叶えるために強くなったんだ。
まだ足りない。この荒れる海を越えるには。でも――
うん、大丈夫。
だって、この先にはもっと楽しいことが待っているから――
「夕立、どんどん強くなれるっぽい!」
巻きあがる炎がその一瞬で体も艤装も描き換えた。
「夕立…」
「叢雲ちゃん、もう大丈夫っぽい!」
「大丈夫って…」
改二とは艤装が変わるものだと思っていた。だけど夕立は
「大きくなったわね…」
私も吹雪も確かに身体能力の向上はあったけど、夕立はもはや成長と言える。小さくてちょっとお嬢様みたいな感じがあったのに、今の目線は私より少し高い。
「早くあいつらぶっ飛ばしたいっぽい!」
…こんな子だったっけ?
まあ根本は変わってない気はするけど。だけど、だからといって――
「むーらくも」
深雪が肩に腕をかけてきた。こんなところは天龍の悪影響を受けてて困る。
「行こうぜ、せっかくここまで来たんだしな」
「やっぱ私たちが1番じゃないとね」
「僕たちのことは心配しなくていいからね」
口では気を使ったようで、私の話を聞くつもりなんてなさそう。
「ばかね…」
こんな時でも変わらないみんなにあきれる。
「あんたたちを心配するほどうぬぼれちゃいないわよ」
でも私だって、こんなにも変わらない。いつもみたいに、今までみたいに勝手な優しさに背中を押されてる。それが今この瞬間じゃないといけない理由だ。行けって言うなら行ってやる。やれって言われたのなら――
「やってやるしかないじゃない」
「叢雲ちゃん!」
吹雪から伸ばされた目のまえの手のひらをはたく。この海に響かせるには小さな小さな号砲が消える前にはもう機関が鬨の声を上げていた。
「吹雪!深雪と一緒に対空は任せたわよ!夕立!好きに暴れていいけど、調子乗らないで!白露と時雨と一緒にいなさい!」
雑な航行のまま、槍を両手で構える。ようやくここまで来た。なんて嬉しいのだろう。大切な友達が後ろにいるのは。葬り去る敵が目の前にいるのは。
さっさと起きなさい――
内に沈む衝動を引きずり出す。せっかくなんだから使ってあげる。この私はすべてを奪われたあの日に生まれたのだから。全部奪い返す、この日のために。