「叢雲ちゃん、もう帰ろう」
私は素直に頷き立ち上がる。いつかぶりに顔が合う。さっきまで黙っていたくせに急に沈黙が恥ずかしくなる。
「ねえ、どうしてここが分かったの?」
探しに来てくれたにしてもすぐにここへ向かったくらい、すぐに来てくれた。不思議そうな私を見て、彼女はおそらく今までも向けてくれていたであろう微笑みを見せる。
「私も昔はよくここに来たからねえ。あの人と喧嘩して独りになりたかったときにこの景色を見てたの」
「けんか?」
全く想像できない単語が出てきてつい聞き返す。
「だって、軍人のエリートと結婚したんだもの、都会できらびやかな生活が待ってると思うじゃない。なのにあの人、生まれたこの島がいいって譲らないものだから、仕方なく。でも仕事で帰ってこない日も多かったから不満もいろいろとねえ」
でも、笑いながら付いた溜息はかつての自分に向けてのように見えた。何も知らずにあこがれていた過去に向けて。
「まあ、私も社交界なんてがらじゃなかったみたいだけどね」
「迎えにきてくれたの?」
今の私のように、と続けようとしたがその前に首を振って否定された。
「ぜんぜん。あの人、ここを知らないんじゃないかと思うの。あんなにこの島がいいって言ってたのに」
当時を知らない私もその様子を勝手に想像して、女同士でしかかわせない笑みをかわす。
急によぎった想いについ視線を下げる。顔が熱くなるのを感じながらも勇気を振り絞る。今を逃すともっと勇気がいるのは分かっているから。
「ねえ、おばあちゃんって呼んでいい?」
「どうぞ、叢雲ちゃん」
答えは分かっていたはずなのに安堵し、つい口元が緩んだのは多分名前を呼んでくれたからだ。
すっかり暗くなってしまった登山道を、手を握り合って下りる。
叢雲
かつての私とも、艦娘としての名前とも違う私の名前。ようやく始まる、この何もない島で過ごす新しい私だけの名前だ。
家に着くと誰もいなかった。おばあちゃんは何を気にした様子もなく夕食の準備をする。何をしたらいいかも分からないし、そもそも何も手伝えない私はお箸を並べていると雨が降ってきた。にわか雨だろうが、屋根を叩く音がするほどに激しくなる。
できることがなく座っていると、玄関が空く音がした。小走りで向かうと有賀が玄関を濡らしていた。私から出ていったくせに目が合うと動けなくなって、必死に目をそらして言葉を探す。
「もうご飯ですよ。こんなに濡れて、まずはお風呂にしますか?」
後からきたおばあちゃんがいつものように振る舞うが、有賀は私をみて姿勢を正す。上体が傾きかける前に、有賀が何をしようとしているのか分かってしまう。
ずぶぬれになった原因は私なのに。
「ごめんなさい!」
有賀にさせないために先んじて頭を下げる。謝罪なんて言わせない。もうボロボロになってしまったけれど、それが私に残されたプライドだ。でも言うべきことも言いたいこともごちゃまぜになって言葉が止まる。固まる私の頭を大きい、少し冷たいぬくもりが包む。
「無事ならそれでいい」
それだけ言って有賀は廊下に上がる。ゆっくり滲む涙を拭いて有賀を追い越す。ようやくできることを見つけた。
「おばあちゃん、私がお風呂沸かすから」
誰でもできることを誇らしげに言う、そんな情けない私を私は少しだけ好きになる。
「ん?」
「な、なによ」
有賀の反応を見てさっそく恥ずかしくなってしまう。
「あの人も呼んでほしいのよ」
笑うおばあちゃんを見て察するが、まだそこまで素直にはなれない。
「気が向いたらね!」
私にしては前向きな約束をして逃げるようにお風呂に走った。
人の動く気配で目が覚める。最近は習慣化してしまって、薄く目を開けるだけで朝が来たことを知る。
「叢雲ちゃん、起きる?」
問いかけに小さく首を振って体を丸める。次に起こしに来るまで寝ようか悩んだが、薄い意識を少し味わってから体を上げた。
顔を洗ってから居間に行くとおじいちゃんは朝からパソコンを開いていた。流暢にキーボードをたたいて入力している姿はなんとも違和感があるが、そもそもこの島でネットが使えることのほうがしっくりこない。
「なにしてるのよ?」
私は隣に座って画面をのぞき込む。よくわからない言葉が連なっていて、資料もその数字が多いのか少ないのか分からない。
「定期連絡と指令の返答だ」
「指令って、なにかするの?」
その場合、必然的に私に回ってくる。久しぶりに作戦を意識して身構える。それも一瞬だったが。
「燃料供給のめどがつかないから出撃を控えるように、だ」
「なによそれ…」
いつものことだがあきれる。本土から突出した場所だから補給も苦労するのは分かるし、そこまでして守るような要所でないのも分かる。だったらなんで機能させる気のない泊地なんて作ったのだろう。
なんとなく画面に目を滑らせていると差出人に見覚えのある名前が見えた。顔も知らないが名前は聞いたことがあった。
「これ、海軍の元帥からじゃない」
「ん?知ってるのか?」
「当たり前じゃない。軍のトップを知らないなんて――」
…わりとありえそうね
ぱっと浮かんだ顔の主はそんなこと気にしたこともなさそうだ。
「あいつとは同期だからな」
直接連絡が来るどころかあいつ呼ばわりだ。軍の同期とやらがどんなものか知らないが、口調からして親しそうな感じがした。おじいちゃんもけっこう偉かったのだろうか。
「もしかして天下り?」
なんとなく口に出してしまったが、言葉にするとこの泊地の説明として一番納得できる気がする。
「どこでそんな言葉を…俺は引退したつもりだったんだがな」
否定しているようなしていないような、歯切れの悪い返事だ。おじいちゃんもよくわかっていないのだろうか。
「あいつ直々の指名だが、そういったことはしない奴だ。昔から何を考えてるか分からんから何とも言えんが」
私にはなおさらよく分からないが、そういうならそうなのだろう。別に私が気にすることでもないし。
「あ、おばあちゃん。今日私の出撃なくなったから」
朝ごはんができた台所に向かう。
今日は何をしようか――
出撃がなくなっても私は潮風を浴びていた。いつもと違って揺れない足元から眺める海は少しだけ新鮮だ。だけど私は不機嫌だった。
「ぜんっぜん釣れないじゃない!」
しびれ切らして釣り竿を上げるが当然だけど魚はいない。ふてくされる私を見ておじいちゃんは笑う。足元のバケツから魚の立てる水音が聞こえてくるのが腹立たしい。
「じっと待ってるのは趣味じゃないのよ」
ついてきたのは私なのについ文句を言ってしまう。魚との我慢比べができる人が釣りの上手い人なら私は不向きに決まってる。そうふてくされるとさらに笑われる。
「待つだけでなく仕掛けや釣り場を変えるのも釣りの楽しみ方だ」
「…そう」
生返事で糸を再び垂らす。おじいちゃんは意外そうだ。
「やらないのか?」
「へんな虫に触りたくないの!」
餌をつけることができない私の釣り人への道のりは長そうだ。
「ただいま!」
つい勢いよく玄関を開けてしまった。重いクーラーボックスをもって台所に向かう。見慣れた背中に駆け寄る。
「これ私が釣ったの!」
片手で掲げられるくらいだが、おばあちゃんは褒めてくれる。
「ねえ、魚ってどうやってさばくの?」
包丁さばきのつたない私はそれ以前に学ばないといけないことが多いのだが。
案の定、無残に切り裂かれた魚が食卓に並ぶ。
「なによ?」
不思議そうに眺めるおじいちゃんをにらむと黙って座った。合わせて座るとおつまみが目についた。いつかの枝豆。そんなきっかけで思い出す。
もう思い出になりかけている過去といつの間にか馴染んでしまった私。気づけば二人を家族のように呼んでいた。それでもしょっぱい記憶はこうして些細なきっかけでよみがえり、忘れることはないのだろう。
なんとなくためらわれたが枝豆に罪はない。つまんで口に運ぶ。
「魚を扱えるようになっとかないといけないでしょ。これからはおばあちゃんだけじゃ大変なくらい釣ってくるようになるんだから」
しっかり噛んで飲み込みながら、また1つ前向きな約束を重ねる。