「ただいまー」
玄関を開けて野菜の入ったかごを置く。扉を閉めてから再びかごを持ち上げて台所に向かう。
「さっき野菜もらった」
「あら、だれから?」
そう珍しくない出来事をいつものやり取りで流す。
「出撃の帰りによくくれるのよ」
「叢雲ちゃんがかわいいからね」
「なによ、それ」
このてのかわいいほど信じられないものもない。…悪い気はしないけれど。
綺麗出来の野菜の土を落とす。十分売り物になるだろうが、ゆっくりと余生を過ごす人たちにはその必要がないのだろう。深海棲艦が現れる前はこの島ももう少しは人がいたし、辺鄙ながらも船の休息地として港も一定の需要があったらしい。人類の行動圏の端、まだ無事なのが奇跡のような島は経済から外れ、それでもここにいたい人たちだけが残っている。
あらかた野菜を綺麗にした私は居間に戻り、おばあちゃんの隣に座る。動かないでいると眠くなってきて、頭が下がってくる。
「叢雲ちゃん、おやすみする?」
子供をあやすような言い方が恥ずかしかったが、大人しく膝に頭を預ける。
波を高くし疲れさせた風も家の中にいれば涼しさになる。広がっていく厚い雲も湿った空気も眠気を誘う。
「おばあちゃん、私ね…」
ぼんやりとしたまどろみのなか、ゆっくりと呟く。
「知ってほしいの。私の、ほんとうの名前…」
私は叢雲、それでいい。でも、伝えたかった。今なら、艦娘になる前の私も私だと言えるから。そう言える私になったから。でも許されないから
「私、がんばるね。この海をぜんぶ取り返して、戦わなくてもいいようになるまで…」
ずっと一緒にいたい。いろいろなものがなくなっていくこの島で、艦娘としてではなく自分で選んだ結果として。
目が覚めれば恥ずかしくなるような約束を、それでも覚えておこう。
頭をなでる柔らかな感触に包まれながら、巡る思考は落ちていった。
曇りの日は魚がよく釣れるというけれど、しょせんは迷信だったみたいだ。初日に釣れたビギナーズラックというには小さな魚で幸運は役目を果たしたつもりのようで、あれ以来全く釣れていない。なぜか腕は上がっているという手ごたえがあって、だから懲りずに隙を見つけては通っているのだが。
「ただいま…」
出かけたときよりむしろ身軽になってしまっている私はおじいちゃんより先に家に入る。いつもより静かな気配に疑問を持ったが何をするわけでなくふすまを開ける。
「おばあちゃん…?」
いつもは見えるはずの背中を探しながら、疑問はようやく違和感になる。浮かんだ違和感が形になる前に、小さな背中が床に倒れているのが見えた。
「おばあちゃん、どうしたの!」
駆け寄ってゆすってみても苦しそうな息遣いが返ってくるだけで、私は訳も分からず呼びかける。何もできない動悸に苛まれながら、おじいちゃんが駆け寄ってくるのは理解できた。その後の記憶があるのはやたらとゆっくり進む船の中で、感情が伴うのは病院の狭い廊下からだった。
ただ泣くだけの私の背中をおじいちゃんがゆっくりと撫でる。いつまでも続くかのような時間は唐突に終わりが来た。医者に呼ばれるがまま部屋に入る。
「おばあちゃん!」
誰よりも早く駆け寄り、手を握ってしまう。
「いやよ!私まだ教えてもらってない!料理も、編み物も…」
なにも知らない私でも、分かってしまった。今話せているすら奇跡的なことに。だから頑張って否定する。でも、呼吸器が曇ることで伝わる息とドラマで聞きなれた機械音が規則的なリズムから外れていく。
「…ごめんね」
必死に首を振る。おばあちゃんの手が頬をかすかに撫でる。
「なにもいらない!なんにも教えてくれなくていいから――」
ただ1つ、果たしたかった約束。たった1つなのに
「まだ、知ってもらってないじゃない!私の名前――だから…」
想像も許されないほど遠くなる。
弱々しく握り返される手にすがり相槌を待つ私のほうが慰められているみたいだ。
「――だから、ずっと一緒にいてよ…」
声が途絶え、いつの間にか微笑んでくれていた表情も消えた。慰められることのなくなった私の声も嗚咽しか出なくなる。規則的なリズムを刻まなくなった機械音の中で、私はたぶん初めて、深海棲艦などいなくとも人は死んでしまうことを知った。