お昼代契約ランチちゃん   作:昼飯用

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あ、読めない台詞はコピペして貼り付ければ読めます。
ぎりぎりネタバレになるので自己責任でお願いします。


13.月に笑む少女

「それじゃ、俺達は戻るから」

 

スプリンターの走りを見ながら、ランの回復を待つ事暫く。

漸く魔力を全快させたランが起き上がったので、スプリンターに一声掛けて退散する事にした。

 

「あ、お疲れ様です! ラン先輩、よろしかったらまた走りましょう! 深花先輩もまたご指導お願いします!」

「は、はい。お疲れ様です」

 

ランは丁寧に頭を下げて、スプリンターに挨拶をする。俺も軽く手を上げて、別れの挨拶とした。

結局、スプリンターに対する苦手意識は、俺とランも抜けないままだったらしい。二人して昇降口に戻ると、知らずに大きな溜息を吐いてしまった。

それが気になったのだろうか。自分だって溜息を吐いた癖に、ランは心配した様子でこちらを見た。

 

「マスター、大丈夫ですか? さっきの事で心配させてしまいましたか?」

 

さっきの事と言うのは、明日のお昼代を渡し忘れてランの魔力が切れ掛かった事だろうか。

あれは俺のミスだ。ランのマスターは俺なのだから、俺が管理をしないといけなかった。

 

「あれは俺の責任だ。もうあんな目には合わせないから安心しろ」

「はい。信じますね」

 

ランの即答に感謝する。普通だったら、相手の機嫌次第では契約破棄されてもおかしくなかった。

素直に感謝の言葉を言う事が出来なくて、皮肉の一つでも言おうとする自分を何とか抑え込む。ランの気持ちを無駄にしてはいけない。

 

「それで、まだ時間はありますけれど……これからどうするんですか? もう空き教室に戻るわけじゃないんですよね?」

「あぁ。まだ七不思議が残ってるだろ。それを調べに行く」

「残ってる七不思議……それって」

 

ランの言葉に頷く。

家庭科室の“林檎を剥くジャックナイフ”、図書室の“童話に還るアリス”、グラウンドの“走り続けるスプリンター”。……そして、屋上の“月に笑む少女”。

俺達がこの亡者の学園で確認した三つの七不思議とは違い、“月に笑む少女”は秋月さんが教えてくれた七不思議だ。

俺達はこの七不思議の事を秋月さんから聞いただけだ。本当にこの七不思議があるのか、それとも他の七不思議に便乗しただけの唯の噂話なのか。それすらはっきりしていない。

危険かどうかも分からない、唯存在している事しか分からないカード。それが“月に笑む少女”だった。

 

「場所は屋上ですよね」

「多分な。この学園の屋上は教室棟の三階の上だ」

「あー……三階まで昇った時にまだ階段があるなー、って思ってたんですけれど、あれは屋上に続く階段だったんですね」

 

穂叉(ほさ)学園の校舎の最上階は、教室棟が三階で特別棟が四階と高低に差がある。

教室棟と特別棟の一階分の差は屋上を作る事で埋められたらしい。特別棟の四階には上に上がる為の階段が無く、特別棟の屋上は屋根としての役割しかない。

教室棟の屋上の様子は特別棟からは殆ど見る事は出来ない。廊下の左右両方に教室が配置されている関係で、態々教室に入らなければ窓越しに外の様子を見る事が出来ないからだ。

 

「……唯、もう三階から上に上がったって屋上には行けないぞ。鍵が掛かってるからな」

「鍵? 立ち入り禁止なんですか?」

「あぁ。今じゃそんなに珍しくないぜ、屋上が立ち入り禁止なんて」

「そうなんですか……」

 

ランの中のイメージでは、屋上は中庭と同じくらい学生の憩い場なのだろう。

勿論前はそうだった。とある出来事が起きてから、誰も知らない間に立ち入り禁止になっただけだ。

 

「ま、鍵が掛かってるだけだ。ランなら無理なく開けられる」

「あたしの出番って事ですね。全快したのでばりばりやりますよ!」

 

ふんす、と気合を入れるランを見て、俺は苦笑いを返しておく。

……それにしても、屋上か。

屋上にいいイメージはない。あそこは桜が咲いて、桜が舞って、桜が散った場所だ。

二度と行く事はないと思っていた。……二度と行きたくは無かった。

太陽。夕日。月。全てをあそこで見た。ずっとあそこで見続けていた。

 

芳乃君はまーた空を見てるんですね。世捨て人ですか?

 

――――そしていつも、傍らにはあいつが居た。

 

「マスター?」

「……何だよ」

「いえ、何かぼーっとしてたので」

 

ランが俺の視界に急に顔を入れてくる。そんな事をされるぐらい、俺はぼーっとしていただろうか。

 

「……昔を思い出していただけだ。もう過ぎた事だよ」

 

気を引き締めなければならない。次に行く場所に居るかもしれない相手は、危険性の有無さえ分かっていない。

本格的な戦闘になったら俺がやるしかない。ランにそんな危険な事はさせられない。

ランは相変わらず、俺の事を根掘り葉掘り訊いてきたりはしない。優しい表情のまま、俺が何時か話してくれる事だけを待っていた。

……分かっている。お互いがお互いを、ぶれた時に必要な存在だと自覚している。何時までもこうして黙っているには、俺とランは近過ぎるのだろう。

何時かきっと、話さなければならない時が来る。

俺が残酷な魔術師のままでいられたなら、こんな事で悩む必要なんてなかったのに。本当にあいつは、俺にどうしようもない贈り物をしてくれた。

 

「それにしても、“月に笑む少女”ですか。どうして月に向かって笑っているんでしょうね?」

 

ランが話題を変えてきた。確かに、それを妙だと思うのは普通だ。

月見がしたければ別に学園でなくてもいい。家庭科部でもなければ図書委員でもない。ましてや陸上部ですらない一般生徒が、学園の屋上で月を見ているなんて事自体がおかしい。

 

「よっぽど月が好きだったんだろ……なんてな。他の三人みたいに生者の魂ならそれぐらいしか思い付かないが、相手が違う存在なら別の可能性も考えられる」

 

秋月さんの話によると浮いてもいるらしい。それならば尚更だ。

 

「別の可能性……の前に、違う存在ってどういう事ですか?」

「それはそのままさ。他の七不思議とは違う、完全な霊。所謂幽霊と呼ばれる奴等だよ」

「幽霊なら、今だってその辺りに闊歩してますよ?」

「それは百四十年前経ったら摩耗して輪郭さえ保てない幽霊だろ。俺が言ってるのは、摩耗をせずに輪郭を保てている幽霊の話だ。元々かなり強力な魂だったか、将又日にちが経っていないおかげで摩耗をせずに済んでいるのか。本当に肉体を持たない幽霊が輪郭を保っているのは、大概そのどちらかだ」

 

ランは「また長い話が始まりました」と呆れ気味に話を聞いている。

それでも少しだけ楽しそうなのは何故だろうか。

 

「幽霊は摩耗するだけの存在でしかない。魂という精神体はエネルギーを自身で補給をする事が出来ない。ランが明日のお昼代を必要としているように、基本的には他所から貰うしかないってわけだ。その他所っていうのは何だっていい。人だったり、場所だったり。誰彼構わず襲うような悪霊は、恨みがあるわけじゃなくて存在を維持しようと躍起になっている可能性だってある」

「場所からエネルギーを得るにはどうするんですか?」

「そっちの方が簡単だな。周囲に漂うエネルギーを吸収すればいい。居心地が良過ぎて地縛霊になるパターンも珍しくない」

 

要するに食事と光合成だ。人からエネルギーを貰えば食事、場所からエネルギーを貰えば光合成。

エネルギーという存在自体は方々で様々な解釈がある。俺が一番馴染みがある魔術論で言えば、エネルギーは魔力だ。

 

「……それで幽霊が月を見ている理由がよく分かりません。月の光にエネルギーがあるんでしょうか?」

「正解。月の光にはエネルギーが宿っているのは当然だ。あれは元々太陽の光を反射して輝いているんだぞ。つまり月は鏡なのさ。この地球という惑星を、太陽の光で二十四時間照らす為の、大きな大きな反射板」

「マスターの思春期は何時治るんでしょうか……」

「治るって言うんじゃねえ! ……魔術師続けてる限り治らないかもな」

 

締まらない終わりになったが、これが俺とランらしくもあった。

……屋上に向かうという現実に対しての緊張も、どこか軽くなっていた。

丁度三階までの階段を上りきった俺達は、そのまま屋上への階段を上る。

途中ロープで階段が封鎖されているが、それだけだ。俺とランは無視してそのまま上がっていく。

上りきると、屋上に繋がる扉の前に出た。

 

「頑丈そうですね」

「そりゃそうだ。雨風凌がなきゃいけないからな」

 

屋外に繋がる関係上、教室のドアとは頑丈さの度合いが違う。

風程度じゃびくともしない分厚い金属の板は、蝶番が錆びている事もあり女子の力で開けるのは苦労していた。

ランが鍵穴を撫でながら確認してくる。

 

「開けてしまっていいんですよね?」

「あぁ。……俺が先に入るから。ランは絶対に俺より前に出るなよ、何があるか分からない」

「はい。話が通じそうだったら、お話してもいいですか?」

「人見知りのくせに。まぁ、被害者だったら助ける必要がある。好きにしろ」

 

ランは頷いて、そのまま解錠した。

もう半年以上も開けられていない鍵は金属が擦れる不快な音を立てる。

ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。

腕力だけでは開かない程に錆び付いていた。肩を押し当てて力を籠める事で漸く開く程だ。

外からの風が流れ込んでくるのを感じる。その感覚が、俺の何かをざわつかせた。

それを無理矢理呑み込んで、俺は屋上へ出る。

何も変わっていない。高い金網のフェンスに囲まれた、昼間であれば何の変哲もない屋上。

どこか懐かしい感覚。それがどうしようも無いぐらい俺の奥底を掻き毟ってきて、思わず自分の胸を押さえ付けていた。

 

「マスター……?」

「大丈夫だ。それより……ほら、居たぜ」

 

心配してくるランの視線を誘導する。ランは誘導され――――絶句していた。

月という大きな鏡を背にして、女がゆらりゆらりと揺れている。髪は背中まである桜色。――――ノイズが一気に襲ってきたが、何とかそれを無視する。

あぁ、そうだ。視界がぶれる。それどころじゃない。記憶が染み入る。直感が告げている。笑みと共に髪が躍る。こいつは真面じゃない。最後の言葉。一体何をするかも分からない。『ありがとう』。

ノイズに蝕まれた光景を無理矢理切り離して、俺は半分も働いていない頭で状況を認識する。

女の貌は潰れていた。鼻から上は赤い何かで塗り潰され、赤が滴る前髪に隠されて目元すら確認出来ない。いや、確認する必要すらないのだろう。唯口元だけが笑みを形作り、固定されている。この学園の女生徒であるかどうかの判断材料は、身に纏っている制服しかなかった。

固定された笑みは赤く彩られている。そのまま首を通って、赤は全身へ。

滴る。髪も、服も、制服から延びる手足も。血管の様に赤を運び、先端に辿り着けば行き場を失って地面に波紋を拡げていく。

赤は乾く事は無い。濡れた髪が張り付いて遮られた視界と潰れた貌で、彼女は唯ずっと月を見上げていた。

“月に笑む少女”――――悍ましい光景の筈なのに。どうしてだか、見惚れてしまう。

手を伸ばそうとして、“月に笑む少女”がこちらに振り向いた。

 

芳乃君?

 

“月に笑む少女”が何かを言った。世界に出力する力が足りないような、ノイズ混じりの声だった。そんな音に俺は頭を殴られたようなぐらつきを覚え、何とか踏み止まった。

目が合う。何も見えない筈の貌の無い顔が、しっかりと俺を捉えている。

――――固定されていた筈の口角が、大きく上げられた。

 

こんばんは、まーた会っちゃいましたねぇ

「――――!」

 

“月に笑む少女”はこちらに突撃してきた。

身体が動いたのは、殆ど奇跡に近い。

背後に居たランを突き飛ばして、俺達は左右に弾ける。

 

「マスター!」

 

ランの叫びが聞こえてくる。

俺とランの間を通り抜けた“月に笑む少女”は校舎に吸い込まれていくように消えていき、校舎をすり抜けて外へ出ていた。

 

「こいつ、完全な霊体か……!」

「嘘、ここは亡者の学園なのに……!?」

 

ランの言葉の通りだった。亡者の学園では霊体の性質が反転する。七不思議の連中は実体を持っているのと同義の存在になる筈だ。

こいつが七不思議の一人であるのなら――――いや、容姿を維持出来る程摩耗していない霊体であるのなら、登校をすれば実体化をしている筈なのに。

 

「マスター、来ます!」

何で避けるんですか! まったく、女の子の扱い方は相変わらずですね!

 

考える時間を“月に笑む少女”は与えてはくれない。

旋回をして角度を合わせ、再び俺に突撃してくる。――――こいつ、俺を狙っているのか?

だが、“月に笑む少女”は急にぴたりと動きを止める。

目なんてない筈なのに、ぎょろりと目線を動かしたような気がした。それに釣られるように、俺も同じ方向を見てしまう。

 

「ぐ、ぬぬ……!」

 

ランが両手を前に突き出し、空気を掴むように必死に何かを抑え込んでいた。

相手を拘束する念を送っているのか。長くは持たなそうだが、時間は出来た。

あれは敵だ。俺なら勝てる――――ここで消す。

意識を切り替え、ポケットから出したのは何の変哲もないカッターナイフ。

特別な物なんか要らない。刃を出す必要だってない。魔力を通す媒体であれば十分だ。

 

「お前が何者だろうと――――俺には干渉出来ない」

 

“無干渉”。それが俺の“属性”だ。

普段は相手からの干渉を受けないぐらいにしか役に立たないが、特別な性質を持つ相手なら話は別だ。

たとえどんな性質だろうと、俺には干渉出来ない。実体をすり抜けようと関係ない。唯その場にあるものとして、同じ土俵に立ってもらう。

魔力を通したカッターが右手に馴染む。視線を絞り、“月に笑む少女”を捉える。

さっきの突進速度から考えれば、“身体能力強化”を使えば捕捉するのは容易い筈だ。

 

いいですか、今度こそどーんと行きますからね!

「わっ!」

 

ランの拘束を破り、“月に笑む少女”は俺への突撃を再開した。

いいタイミングだ。反射ではなく、脳でしっかりと処理出来る。これならしっかりと貫ける。

“月に笑む少女”に相対するように、地面を踏み締めて刺突の構えを取る。

何の警戒も無く俺へ近寄る“月に笑む少女”へ、お望みの通り貫こうと右腕を振り抜こうとして――――。

 

「――――、」

 

突然の本能の警告に、思わず腕が止まった。

あいつを刺してはいけない。刺せば一生後悔する。そんな当てにもならない直感が、俺を襲う。

誰かに肩を掴まれている感覚がした。そんな事ある筈がないと分かっていても、俺はその感覚を振り払う事が出来なかった。

幽霊の突進は止まらない。俺との距離を零にしようと、速度を変えず迷いなく突き進む。

 

「マスター!」

「や、ば……!」

 

ランの声に現実に引き戻されても、もう間に合わない。もう眼前にまで赤く塗れた顔が迫っている。

俺は右腕を伸ばしきる事が出来ず、“月に笑む少女”の突撃を真面に受ける――――筈だった。

 

……あぁ、そういう事なんですね

「え――――?」

 

右腕の感触に、俺はゆっくりと視線を動かす。

重さは無い。だが、貫いた感触があった。手にはぬるりとした液体が付着しているような気がした。何より、俺の視界に映る桜色。それが何であるか見間違える筈がない。

――――貫かれていた。“月に笑む少女”は自ら俺の右腕に飛び込んで、“無干渉”の属性が込められたカッターナイフに貫かれ、自殺をしていた。

 

「何、で……」

 

手を引いて身体からカッターを抜き、後退る。現実から目を背けるように足が下がる度に、身体の底から何かが湧き上がってきた。

自分の意思とは別に動く身体を、気にしている暇なんて無かった。

理解が出来ない。何故俺の腕に飛び込んだ。何故お前は自殺をする。

何故――――お前は、笑っているんだ。

 

ありがとう

 

ふわり、と。風に誘われるように“月に笑む少女”の身体が霧散していく。

霧散する霊体が、屋上から消えていく。

俺は見ていた。“月に笑む少女”は消える最後まで視線を向けていた。――――枝垂れ桜に囲まれた、慰霊塔へ。

慰霊塔に拘る理由が、彼女には何かあるのか。――――残念ながら、俺にそれ以上を考える余裕は無かった。

 

「う、ぷ――――」

 

ぐらり。自らの身体が揺れた。

倒れそうになる程の虚脱感が襲う。まるで自分の身体じゃないみたいだ。

俺には干渉する形の魔術や呪いは効かない。原因はきっと、俺自身の中にある。

自分の内側をひっくり返される感覚。思い出したくない現実を突きつけられるような焦燥感。

身体の底から湧き上がってきていた何かに、今更気付く。――――俺は知っている。これは、良くない感覚だ。二度と経験しない筈の、二度と経験したくない感覚。

お前が干渉した。お前が背中を押した。お前が見届けた。お前が――――穢した。

何故この感覚に襲われる。もうあれは過ぎた話の筈なのに。

 

「く――――ぁああああああああ!!」

 

思い出さないようにして、忘れないようにしていたノイズ塗れの記憶が流れていく。

二人だけの夜。慣れ親しんだ屋上。彼女を照らす月。振り向いた笑顔。咲いた桜。最後の瞬間。最後の言葉。『ありがとう』。

全部あいつが始めて、全部あいつが終わらせた。

 

「……さく、ら」

「マスター!」

 

誰かの声が聞こえて、膝から崩れ落ちた俺を支えた。

誰だろう。分からない。苦しい。穢してしまった。俺が、干渉をした。

結論を言えば。お前が干渉しなければ、彼女はあんなにも幸せだった。

 

「しっかりしてください、マスター! マスター!」

「……ラ、ン」

 

熱を感じた。誰かの熱だ。分からない。違う。誰かじゃない。俺は今、確かに名前を呼んだんだ。

眼前には、薄青の瞳があった。いつものお気楽そうな瞳とは違う、俺を気遣うようなその瞳。

名前はランチ。俺と明日の昼飯代で契約した精霊。

お前だけは違う。ノイズに削られた過去じゃない。今俺が生きている現実の、隣に居てくれる存在だった。

 

「あたしはここに居ますから! 絶対に傍を離れませんから! だから壊れないで!」

 

思いきり抱き着いて、俺を押し倒した。

頭を抱えられていたおかげで後頭部を打つ心配はなかったが、代わりにランの手が痛かっただろう。

まだまだぐらついているけれど。そんな風に思えるぐらいには、俺の心は安定している事に気付いた。

力の限り抱き着いてくるランの熱と重みを感じながら、俺は静かにランの背中を撫でる。

 

「……一先ずは大丈夫だ。心配し過ぎだって」

「……嘘です。信じません」

 

ランの力が弱まる気配はない。信用無いな、俺は。

……確かに。信用されるような人間性は持ち合わせていない。

だって、俺は魔術師で。壊れるような神経なんて――――とっくに壊してしまっているんだから。

 

 

          ◇

 

 

あれから、あたし達は何とか空き教室に戻って退散した。

マスターのお家はアパートの一室で。本当に起きてご飯と入浴を済ませたら眠るだけの場所だった。

マスターはもう眠る為に布団に入っていた。普段から活発な方じゃないけれど、それでも元気が無いのは傍から見ても明らかだった。

 

「……、」

 

声を掛けようとして、何て声を掛けていいか分からなくて黙ってしまう。

 

「て、定時報告って、大丈夫なんですか?」

「……もう必要最低限は送った。心配ない」

 

短く返ってきた言葉に、あたしはまた不安になった。

マスターが、遠い。あなたの優しさを知っているのに、あなたの心はこんなにも遠くて。

 

「……マスター。そっちに行っても、いいですか?」

 

せめて距離だけは近くに居たくて、そんな事を言ってしまった。

マスターは何も答えない。眠ってしまったわけじゃない。……答えないなら、いいのかな。

霊体のまま漂うあたしは、そっとマスターに近付いて。マスターの背中に抱き着いて、体温を感じた。

たったそれだけで安心してしまうあたしは、何て単純なんだろう。

 

「え……と、マスター。苦しくないですか?」

「……問題ない。お前、体温高くて眠くなるな」

 

振り解く事はしなかった。マスターはあたしがマスターを心配している事を理解している筈だ。

意地悪なだけで優しい男の子。あたしの中でマスターのイメージは変わらない。

あたしが倒れたら本気で心配してくれて。あたしの身を案じてくれて。それがどうしてこんなに嬉しいのか。

自分の記憶が無いあたしにはまだ分からないけれど。あなたから貰ったこの気持ちが温かいって事ぐらいは、分かる。空っぽのあたしにあなたが注いでくれた優しい気持ち。あたしの体温が高いのはきっとそのせいです。

 

「それじゃあ、毎晩こうしてあげましょうか?」

「勘弁してくれ」

 

釣れない言葉にえへへ、と笑うと、マスターは身を捩った。くすぐったかったかな。

頻繁に抱きかかえられたり、抱き寄せられたりもしているけれど、嫌じゃない。マスターもそうあってくれたら、あたしは嬉しいな。

 

「マスター」

「今度は何だ」

「……あたし、マスターの事知りたいです」

 

冷たい瞳で事件を見て。意地悪にあたしへ優しくしてくれる。

そんなあなたの事を、あたしは知りたい。あなたの支えになりたかった。

 

「あたしを召喚する前の二週間何をしていたのか、とか。上桐先生と何があったのか、とか。どうして屋上であれだけ取り乱したのか、とか。そういう事じゃなくていいんです。マスターがあたしに教えてもいいって思う取り留めのない事を、少しずつ。あたしは知りたいんです」

 

そう告げると、マスターは黙ってしまった。

怒らせてしまったのだろうか。あたしと違って過去の記憶があるマスターには踏み込まれたくない領域がある。

それを無神経に荒らしてしまったのなら、謝らなければならない。

言葉を探して、口にしようとして。あたしの息は声にならなかった。

 

「……きっと、これからも一緒に居たら分かる。だから、もう寝ろ」

 

マスターの背中に抱き着いて、今はマスターの胸に置いてあるあたしの手。

そこに重ねられた温もりが、答えだった。

 

「……お休みなさい、マスター」

「……お休み、ラン」

 

今日はいい夢が見れるといいですね。そう祈りながら。

あなたの熱に融かされるように、あたしは夜に落ちていった。




人物メモ

深花(しんか)芳乃(よしの)
魔術師。
“属性”は“無干渉”。効果は相手の耐性無視&対象への他者からの干渉に対する耐性付与。
“月に笑む少女”撃破後に精神が不安定になった。現在は多少回復。きっと気の迷い。

ランチ
お昼代で契約した精霊。
俺の事を知りたいと言っていた。……本当に、変なや――――変でも何でも。あたしはマスターの事が知りたいです。

“月に笑む少女”
何個か足りない七不思議の一つ。容姿を保てる程の霊体でありながら、反転した性質を持たない謎の存在。
桜色の背中まである髪が特徴。顔は口元から上は血塗れで確認出来なかった。前髪や服にまで血が滴り、地面に落としていた。
俺の右腕に貫かれ自殺した後に、慰霊塔の方を見て霧散していった。
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